落語「甲府ぃ〜」の舞台を歩く
古今亭志ん朝の噺、「甲府ぃ〜」(こうふぃ〜)によると。
私は円窓さんの言っていることは本当だと思う。しかし、この落語についてみると、本文の志ん朝さんのままで良いと思う。それはオチの「コフィ〜、おまいりぃ、がんほどきぃ〜」
は善吉が言っているのだが、落語のジョークであって、落語家のセンスです。落語家がよってたかって、こさえた台詞ですからムキにならない方がイイと思います。また、「コフィ〜、おまいりぃ、がんほどきぃ〜」は、善吉が言っているより、回りのお客さんがその様に聞こえた、ということでしょう。
■身延山(みのぶさん);山梨県南巨摩郡身延町にある山。富士川西岸に沿う身延山地の一峰。標高1153m。富士川の支流・波木井川によって山地が深く刻まれ、山腹に日蓮宗総本山身延山久遠寺がある。また、久遠寺の別称。
■池上本門寺(いけがみほんもんじ);大田区池上一丁目1−1。日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅された霊跡です。
■志ん朝は時代設定を江戸では無く、明治・大正期にしています。それは江戸という言葉は使わず、東京という地名で語っています。そのため、甲府に行くのに数日の暇をくれと言っていますが、江戸時代の交通状態だったら、落語「鰍沢」でも分かるように、片道だけでもこの日数では行けません。
イメージを壊して申し訳ありませんが、中央本線が明治44年全線開通後、または、その前の甲府まで開通した明治36年(1903)後、列車の旅を楽しんだのでしょう。ちなみに、身延線の甲府から身延までは昭和3年(1928)まで待たなくてはなりません。
3.豆腐屋
「豆腐屋」江戸見世屋図聚 三谷一馬画
■豆腐;水につけて柔らかくした大豆を水とともに摩砕し、煮出すことが必要となる。これを搾って得られる液体が豆乳で、豆乳を作る際、あらかじめ加熱して漉す製法を「煮搾り」、生のまま漉す製法を「生搾り」という(この場合には漉した後に煮詰めることになる)。搾った後の滓はおからと呼ばれる。
■おから;豆腐を作るときの豆乳の搾りカス。卯の花。きらず。煮付けて食べたりする。
■豆腐の再加工品
4.言葉
■お祖師様(おそっしさま);(正しくはおそしさま、江戸訛り)一宗一派を開いた人。開祖。ここでは日蓮。
■口入れ屋;桂庵(けいあん)。私設職業紹介所。口入れ宿、人宿とも言い、奉公先が決まるまで、そこで寝起きをした。日本橋葭町(よしちょう=中央区日本橋人形町一と三に挟まれた地)にあった千束屋(ちづかや)は大手で有名だった。落語「百川」の百兵衛さんも、ここから紹介されてきた。
■のれん分け;奉公人が独立して独り立ちするとき、同じ屋号ののれん(信用、顧客、資金)を与えた。
■分(ぶ);売り上げに応じて、売り上げの一部を還元してもらうシステム。歩合制。
■ドンブリ;職人が下着の上に着けた腹掛けに、付いている大きな前ポケット。ドラえもんの何でもポケットはここから出ています。緻密に計算されて出す銭と違って、ザクッと手づかみで出すことから、どんぶり勘定と言われます。
■井戸の水汲み;炊事洗濯するにも共同井戸から水を汲まなければならなかった。女の仕事で重労働であったが、助っ人があったら話は別。
■水垢離(みずごり);神仏に願掛けするときに、身を清めるために水をかぶること。
■無病息災(むびょうそくさい);病気もせず健康であること。
■夏場のぼた餅みたいに:「夏の牡丹餅犬も食わぬ」の略。夏の牡丹餅は腐りやすいから、腹痛など起こさぬように早く食べるのがよいこと。お花さんの方が先に善吉にいかれていた。
■十人並み;容色または才能が、ひとなみであること。親の謙遜で娘を普通だと言っています。
■願解き(がんほどき);神仏にかけた願がかなったとき、そのお礼参りをすること。お願いをするときは願掛けと言います。
■荒神様(こうじんさま);元来はかまどの神様。かげにいてそれぞれの人を保護すると信じられていた神。善吉の行いを見て荒神様に例えた。功人様、好人様かも。
東京には池上本門寺があり、日蓮終焉の地です。江戸周辺の信者は身延まで参拝が出来なければ、ここ池上本門寺に参拝した。私もここ大田区池上の本門寺を訪ねます。
池上本門寺は池上に有って、なんて書き始めたって、「池上って何処よ」と突っ込まれそうです。江戸時代も交通の不便な所でしたので、東海道から多摩川を渡って品川に向かう途中、左に脇道・池上通りに入って、ここまで行きましたが、現在は池上駅や西馬込駅からでも10分以上かかり、なおかつ山の上(高台)にあるので、坂道や階段を利用しなければなりません。車での利便性を考え(?)駐車場が整備されていて、足としてはこの方法が最上のように思われます。
当日は、たまたま、本坊の庭園・松濤園(しょうとうえん)が一般無料公開されていて、見学することが出来ました。さほど大きな庭園ではありませんが、小堀遠州作庭で、池を中心に茶室や勝海舟と西郷隆盛の会見の碑(都史跡)が残っています。江戸城の明け渡しの会見があったと言いますが、それは芝の薩摩屋敷だっただろうと思っていたら、本門寺は新政府軍の本陣が置かれていたので勝海舟が訪ねて来たのでしょう。
大きな本堂(大堂=祖師堂)、その脇にある鐘楼の脇で子供達中心のお囃子の稽古が始まっていました。まもなくある(10月11〜13日)お会式に向かっての練習ですが、もう、様になっています。江戸市中の神社の祭りのお囃子は、座って笛、太鼓などを叩きますが、ここでは歩きながら、文字通り囃しながら曲を演じています。
豆腐屋の善吉夫婦はここに寄らず、甲州街道から甲府に向かったことでしょう。いえ、新宿から中央本線で甲府の伯父さんの所に向かったことでしょう。
浅草にも改めて行ってきました。仲見世は相変わらずの人出です。浅草文化観光センター(入場無料)が雷門の前に改築されて、真新しいビルの上層階から仲見世とその周辺が展望できます。スリには遭わずじまいでした。
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2012年10月記
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