落語「長崎の赤飯」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、「長崎の赤飯」(ながさきのこわめし)によると。
■長崎から赤飯(こわめし)が来る;≪「長崎」を非常に遠方の地として、「長い」に掛けて洒落て言う詞≫長い物事のたとえ。面白味のないことが、だらだらと長く続くことなどにいう。「長崎より貰った赤飯」、「天竺から褌」も同意。「故事・俗信 ことわざ大辞典」小学館
「長崎港の図」江戸末期、江戸東京博物館蔵 左側中央に出島が見えます。 ■江戸の敵(かたき)を長崎で討つ;意外な場所で、または筋違いな事で、昔の恨みの仕返しをする事。 ■八丁堀岡崎町;(はっちょうぼり_おかざきちょう)与力・渡辺喜平次が住んでいた地。中央区八丁堀一〜三丁目に掛けて新大橋通り一本西側に入った鈴らん通りとその奥の平成通りに挟まれた所に与力、同心が住んでいた屋敷町。地下鉄日比谷線八丁堀駅西側奥。この岡崎町の西側に下記の松屋町があります。 ■松屋橋;(まつやばし)婚礼の新婦を迎えに行った所。現・中央区八丁堀三丁目1〜10に有った町名を松屋町と言います。その西側を流れる川が楓(かえで)川、川向こうの京橋二丁目17&18に渡る橋が松幡橋と言います。この橋を指して円生は松屋橋と言っています。そう、旧名で松幡橋を松屋橋と言いました。八丁堀からこの橋を渡り、北に向かへば日本橋で、その先が金吹町。 ■堀ノ内;(ほりのうち)落語「堀ノ内」で歩いた所です。日圓山妙法寺(杉並区堀ノ内3−48−8)が正式名称、俗に堀之内のお祖師様と言われた。日蓮宗のお寺に集まる乞食にはライ病者が多かった。霊験があらたかと言われ集まったのでしょう。堀ノ内もその一つです。まるで番頭はここの女乞食と遊んだように言われてしまいました。 ■深川・霊巌寺;(れいがんじ)金田屋の菩提寺。落語「宮戸川」、「鈴振り」で歩いた所です。江東区白河1-3に有り、銅製の大きな座像で都の文化財に指定されている江戸六地蔵で有名です。また、松平定信公の霊廟が有ります。霊岸島の元になったお寺さんです。 ■十間店;(じゅっけんだな)ひな人形を買った所。中央区日本橋室町三丁目2&3を挟む中央通りに面してあった。西隣に金吹町が有ります。十間店には江戸でも有名な雛、節句人形、羽子板の市が立った。 右図;「幟枠・鍾馗(しょうき)図」明治42年(1909)、江戸東京博物館蔵 熈代照覧(きだいしょうらん)より「十間店」部分 江戸東京博物館蔵 十軒の人形屋が出たので、そう呼ばれた。この上奥に金吹町があった。
3.言葉
■廻船問屋(かいせんどいや);海鮮問屋ではありません。
近世、廻船と荷送人との間に立って貨物運送の取次を業とした問屋。回漕店。回船問屋。
■京屋島屋の赤紙付き;江戸時代は郵便制度がまだ無い時代、当時有名な飛脚問屋で、「赤紙付き」は現在の速達に当たり、早くは着いたが料金もかさんだ。
■バカンにされて、モジモジしながら;地名に掛けたシャレ詞。モジは門司で北九州市門司区。バカンは馬関と書き、山口県下関市の旧名。明治・大正時代には通じた地名。
■天刑病(てんけいびょう);明治時代の言い方でハンセン氏病(ライ病)。当時は大変嫌がられた病で、天の罰から天刑病と呼ばれ、「すじ」とも言われた。”そのすじ”と言えば、この病を指し、はばかって言う時に使った。決してヤクザだけを指して言う詞ではありません。
■御菩提所;(ごぼだいしょ)母親が行っていた所。菩提寺。この話では霊巌寺の事。
■小間物屋;小間物を扱う商店。落語「小間物屋政談」で出てくる、小四郎の生業。そこで説明しています。
■町方取締り与力;一番有名なのが町奉行所の与力であり、町与力、あるいは町方与力と呼ばれた。与力の知行の多くは200石。配下に同心30俵を従えていた。
「江戸町奉行」 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/edojob3.html に詳報があります。
■大坂格子;千本格子と言う。大阪から流行してきたので大阪格子。下側が格子、上側が格子と紙張りという二重構造になっています。以前はよく商店の店舗部分と住居部分の境に使用されていました。この紙はり部分は取り外しができ、夏になると格子戸になります。これによって風が入って寒暖の調節が出来ます。また、暗い室内は、外からは見にくく、内からは外が見えるという具合の良い障子です。複雑な作りなので、材料も手間も食う障子ですが、便利さから商家では使われました。
■邪(じゃ)が非でも;「是が非でも」の江戸言葉。円生は諸処で江戸言葉、江戸訛りを使っています。これもその一つです。
4.江戸時代の旅
■関所;全国に約50ヶ所の関所を幕府は設けていた。有名な所では箱根、今切(浜名湖の海際で切れている所)、福島、横川、浦賀などです。江戸後期、男は手形なしでも通行できたが、しかし、取り調べが面倒なので手形を準備した。女子には厳格で髪型が違っていても追い返された。女改めのお婆さん、人見女(上図)が居てうるさく検分した。しかし、間道越えや関所破りは後を絶たなかった。
東海道「箱根の関所」北渓画 「諸国名所・相州箱根関」 神奈川県立歴史博物館蔵
■女の一人旅;関所では「入り鉄砲に出女」といって、特に厳重に取り締まられた。フリーパスのお遍路はご詠歌が詠えなければならなかったし、芸人は奉行の前で芸が出来なければならなかった。どちらも一朝一夕で出来るものではなかった。乞食もフリーパスであったが、そこまで変装する根性は普通無いでしょう。
舞台の八丁堀から日本橋へ歩く
”八丁堀の旦那”が住んでいた、八丁堀と言われた地区には、与力・渡辺喜平次が住んでいた岡崎町、その北側に北島町、その東側に亀島町が有り、今の八丁堀の地域とは必ずしも一致しません。お市さんの輿入れ駕籠は南側の岡崎町から楓(かえで)川の松屋橋(現・松幡橋)を渡って中央通りに出ます。
楓川づたいに日本橋に向かう方法もありますが、その先の昭和通りは当時無かったので、中央通りまで出ましょう。婚礼の道程ですから、吉原に行くような裏道は通らず表通り、それも一番の幹線道を日本橋に向けて歩を進めましょう。
ここから見る当時の街並みは商業地の中心で、大店が集中していた地域です。今でも、正面に三越本店、その先三井ビル、右側は再開発工事が進むビル建設工事ラッシュです。完成のあかつきには日本橋の街の様相も一変するでしょう。その為に当時の細かい小路が無くなって、例えば落語「百川」の料亭百川楼の正確な場所が分からなくなっています。 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2010年7月記 |
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