落語「長崎の赤飯」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「長崎の赤飯」(ながさきのこわめし)によると。
 

 日本橋金吹町金田屋(かねだや)金左衛門宅では親父が、勘当した息子・金治郎はその後、家を出てそれっきりになってしまった、と愚痴をこぼしていた。母親は、私は勘当した覚えがないので、この様に手紙が来ております。見ると親子の情が溢れていた。
 勘当となったので、母親は息子を伊勢の伯父・弥左衛門の所に預けた。その弥左衛門は九州長崎に商用に出掛けるのに金治郎を共に付けた。長崎では一番という回船問屋「長者屋」に世話になったが、そこの一人娘・お園に”恋患い”されてしまった。勘当の身であったので伯父が親代わりになって祝言を挙げ、今では子供も出来るまでになった。

 番頭・久兵衛を呼び、京屋島屋の赤紙付きで、長崎に手紙を出した。金治郎は手紙を開けると、「父親が大病で、取り急ぎ帰って欲しい」という文面。女房に話せば2〜3日は延びる、それでは死に目に会えないかも知れないと、手文庫にこの手紙と書き置き2通を残し、江戸に旅立った。
 江戸に着いてみると、親父は元気、商売繁盛している。安心してみると長崎の事が心配になって、帰りたいと懇願した。
 親父は番頭と相談すると、親子の情は深いもの、一度帰ってしまえば戻ってくる気はないでしょう。留めておくにはお嫁さんを世話をして、所帯をこちらで作ってしまいなさい。特に逃げないように美人の嫁さんを探しましょう。と言う事で探すと、背負い小間物屋重兵衛の話で、八丁堀岡崎町・町方取締り与力渡辺喜平次様の娘でお市様が良いと思います。町家でも良いというので、父親は挨拶に出掛け会うと歳は十七、絶世の美女。
 息子に話をすると長崎のお園がいると納得しない、しかし反対すると長崎には行けない。早急に一緒にさせたいと回りは動き始めた。

 長崎のお園さんは、亭主が居ないので方々探し、部屋の手文庫を開けると手紙が出てきた。「親父が重病で江戸に帰るが、落ち着いたら戻ってくるので、その間身体には気をつけるように」としたためられていた。その話を婆やに相談すると「もう、お帰りにはなりません。故郷はいいもの恋しいもの。貴女が迎えに行けばいい事で、親に相談すれば反対するが道理。女房は殿御に付くのが幸せです、私もお供しますから、直ぐに旅支度をして出掛けましょう」と相談が決まった。
 江戸に向かったが、当時の女の旅はそんな簡単な事ではなかった。途中バカンにされて、モジモジしながら、悪さをする男達に騙され婆やと離ればなれになってしまった。
 これでは旅が続けられないと、お園さん美人では男が寄ってくるのは当たり前と、乞食に頼んで衣装一式を買い求め着替え、着ているものはコモに巻き込んで、背中に背負った。顔には梅干しのタネを抜いたのを貼り付け腫れ物のようにし、黒い膏薬状のものを貼った。どこから見ても天刑病で顔が崩れ乞食をしているように見え、近づくのもはばかれた。

 しばらくして江戸に入って来た。日本橋金吹町はと道案内を請うとここだという。質両替商金田屋はと言うと、その前に立って尋ねていた。400里もの距離を来たので嬉しさのあまり前後を忘れてしまった。お園さん、今では八月の身重、どう見ても良い格好ではない。ここで着替えて店に入れば良かったのだが、会いたさ一心で前後を忘れ飛び込んでしまった。飛び込まれた方は驚いた。
 丁稚はけんもほろろ。番頭が堀ノ内で遊んだ女だと丁稚に言われて会ったら、園だと挨拶を受け、驚く番頭。五十位のスゴい女だと主人に御注進。大坂格子から店先を覗くと、化け物のような女乞食が居た。親戚には御披露目が出来るような容姿ではないので、金治郎は出掛けているのを幸いに、死んだ事にしようと話が決まった。菩提寺の霊巌寺に葬ったとの嘘に、お園さんビックリするやら落胆するやらしている所に、本人の金治郎が帰って来た。
 嬉しさよりも悔しさが先に立って、胸元にかじりついた。「誰が死んだ? 何だお前、長崎のお園じゃないか、まァどうしたんだそのなりは、まァまァとにかくまァ、・・・大丈夫だよ、あたしは逃げやしません離しておくれ。苦しいから離しておくれ」、
(オチ)、「離(話)したいけれども、あんまり長うなるによって、今度の会でまたゆっくり話します」。
<前半ここまでが円生通常の切れ場>
 上図「東海道五十三次之内 原」広重画部分 ホコリ除けに着物の上から揃いの浴衣をはおり赤いしごきで結んでいる。

 

 (前段オチを飛ばして)若旦那はお園さんを抱きかかえるようにして裏の湯殿に案内し、旅の汚れと膏薬を洗い流し、髪も結い直し持参した着物に着替えて御菩提所から帰った母親と父親の前に出た。がらりと様子が変わったお園さんにみんなビックリ、大喜び。

 そこに重兵衛さんが婚礼の日取りを相談にやってきた。二重の嫁に金左衛門も困って「釣り合わざるは不縁の始まり。武家と商家では釣り合いませんでしょうし、将来にもめ事が起こるでしょうから、この話は無い事に・・・。もし、怒ったって付き合いをしなければいい」と番頭に言いつけた。不実な応対に怒った重兵衛さん、番頭の頭を殴り付けておいて渡辺喜平次に取り次いだ。
 渡辺喜平次、金田屋に出向き、お園さんを召し捕ると言って駕籠に乗せて連れて行ってしまった。

 驚いたのは金田屋、200両の金を持って、丁重に詫びを言って返して貰うように使いに出した。
 渡辺喜平次は、長崎から来るには関所を通らなくてはならない。今回江戸に来ているのは関所破りの疑いがあるので大罪、取り調べる。また、今日は日柄も良い、よって今宵にお市を輿入れさせる。その様に申し伝えよ。
 金左衛門、邪が非でもと言うのでは仕方がない。お市さんが来るので、それなり以下の婚礼料理を用意し、待つより仕方がないであろう。金治郎にはお市さんを迎えてから、釣り合わないからと言って追い出せばいい、それまでの我慢だと納得させた。

 その晩、松屋橋まで出迎えると、駕籠の脇に渡辺喜平次が付き添っていた。部屋に入り着座すると、渡辺喜平次は丁重な挨拶をして、「ここでお引き合わせをいたします」と言って、娘の綿帽子を取るとお市さんではなくお園さんであった。驚くみんなであった。料理を変えるように指示する親父であった。
 渡辺喜平次言うには「話を聞いた時は怒りがこみ上げてきたが、お園殿の話を聞くと『夫恋しさのあまり、艱難(かんなん)辛苦やって来た』と、・・・まるで貞女。わしも娘を持つ身、その心は分かる。しかし、関所破りの件があるので、お園殿を我が家の養女とし、市の名で嫁入りさせた。娘は剃髪して尼になると言う、これも天命と思う。長崎の長者屋は跡取りが無いというので、最初の子を長者屋に出して跡を取らせよ。また、当家は金治郎と市で跡を取ればよい。これを渡辺喜平次の寸志として受け取って欲しい」。誠に目出度いと舞いを舞った。家内の者涙にくれるのであった。

 月が満ちて、最初の子は男の子が産まれ金太郎と名を付た。乳母と屈強な男3人を付けて長崎に送った。初節句に十間店の武者人形を贈った。そのお返しに長崎から赤飯が届いたであろう。

 


 
1.長崎の赤飯
 この噺は元来上方ネタで、圓生以外では聞いた事が有りません。その圓生自身も本来のサゲまで演じる事はなく、例外的にきちんとサゲまで演じているのは「圓生百席」(CBS-SONY)の録音しか残っていず、今回の概略はそこから採っています。他のライブはお園さんとの再会でみんな切れてしまっています。 円生もしっかりと全編を演じ、60分を超える熱演であった。

長崎から赤飯(こわめし)が来る≪「長崎」を非常に遠方の地として、「長い」に掛けて洒落て言う詞≫長い物事のたとえ。面白味のないことが、だらだらと長く続くことなどにいう。「長崎より貰った赤飯」、「天竺から褌」も同意。「故事・俗信 ことわざ大辞典」小学館
 突拍子もないことを言うと≪そんなことが出来るなら長崎から赤飯がきて、天竺から古褌が来る≫と言われた。

 長崎

長崎港の図」江戸末期、江戸東京博物館蔵  左側中央に出島が見えます。

江戸の敵(かたき)を長崎で討つ意外な場所で、または筋違いな事で、昔の恨みの仕返しをする事。
別説では、関係のない者を討って気を晴らす意とも、また、執念深くつきまとう意ともいう。
 本来の意味は「江戸の敵を長崎が討つ」で、江戸、文政年間(1817〜30)に大坂の見世物師が江戸で大成功を収め、江戸の見世物を圧倒したが、間もなく長崎の細工師の見世物が大坂のそれをしのぐ人気を博した事から出た語という。
「故事・俗信 ことわざ大辞典」小学館

 
2.日本橋金吹町
 質両替商金田屋金左衛門が住んでいた地。日本橋北にある金吹町(かねふきちょう)が正しい。現中央区日本橋本石町二丁目の日本銀行北側と、日本橋室町三丁目に挟まる道路両側の町。江戸時代三越の越後屋や大店が集まっていた、商業地区の中心地。200両(現在の価値1両8万円として、千六百万円)をポンと出せる大店がここに有った。
上図;「明治の頃の日本橋」江戸東京博物館蔵 右側の魚市場、その先に日本橋が見える。右奥に金吹町

八丁堀岡崎町;(はっちょうぼり_おかざきちょう)与力・渡辺喜平次が住んでいた地。中央区八丁堀一〜三丁目に掛けて新大橋通り一本西側に入った鈴らん通りとその奥の平成通りに挟まれた所に与力、同心が住んでいた屋敷町。地下鉄日比谷線八丁堀駅西側奥。この岡崎町の西側に下記の松屋町があります。
八丁堀; 享保4年(1719)以降、南北両組の与力・同心の組屋敷は、八丁堀を中心とした地域及び北隣日本橋茅場町二〜三丁目東側にあった。そのため両組の与力・同心は俗に「八丁堀の旦那」とか、「八丁堀御役人衆」などと呼ばれていた。その数、与力50名、同心は240名前後であった。また、屋敷地の約2割は医師、学者、儒者、兵法家、絵師、歌人、検校等に貸し出され家賃収入を得ていた。

松屋橋;(まつやばし)婚礼の新婦を迎えに行った所。現・中央区八丁堀三丁目1〜10に有った町名を松屋町と言います。その西側を流れる川が楓(かえで)川、川向こうの京橋二丁目17&18に渡る橋が松幡橋と言います。この橋を指して円生は松屋橋と言っています。そう、旧名で松幡橋を松屋橋と言いました。八丁堀からこの橋を渡り、北に向かへば日本橋で、その先が金吹町。
 松屋町は落語「水たたき」で、徳さんの繁盛している二階建ての角店を、見に行った所です。

堀ノ内;(ほりのうち)落語「堀ノ内」で歩いた所です。日圓山妙法寺(杉並区堀ノ内3−48−8)が正式名称、俗に堀之内のお祖師様と言われた。日蓮宗のお寺に集まる乞食にはライ病者が多かった。霊験があらたかと言われ集まったのでしょう。堀ノ内もその一つです。節句飾りまるで番頭はここの女乞食と遊んだように言われてしまいました。

深川・霊巌寺;(れいがんじ)金田屋の菩提寺。落語「宮戸川」、「鈴振り」で歩いた所です。江東区白河1-3に有り、銅製の大きな座像で都の文化財に指定されている江戸六地蔵で有名です。また、松平定信公の霊廟が有ります。霊岸島の元になったお寺さんです。

十間店;(じゅっけんだな)ひな人形を買った所。中央区日本橋室町三丁目2&3を挟む中央通りに面してあった。西隣に金吹町が有ります。十間店には江戸でも有名な雛、節句人形、羽子板の市が立った。

右図;「幟枠・鍾馗(しょうき)図」明治42年(1909)、江戸東京博物館蔵
のぼりや幡、飾り槍など、大名行列の道具類をひとつの枠に立てるもの。狩野雅信が描いた鍾馗の掛軸と共に飾られた。この様な飾りを長崎に贈ったのでしょうか。やはり武者人形でしょうね。写真をクリックすると大きくなります。

十間店

 熈代照覧(きだいしょうらん)より「十間店」部分 江戸東京博物館蔵 十軒の人形屋が出たので、そう呼ばれた。この上奥に金吹町があった。

 

3.言葉
質両替屋質(しち)物は、約束を履行する保証として預けおくもの。また、借金の担保として預けおくもの。
質屋とは、質物を担保として質入主に金銭を貸し付けることを業とする者。また、その店。この時代の重要な庶民金融機関。
両替商、手数料をとって貨幣の両替を行う店。当時通貨は金貨(小判等)、銀貨、銭が独立して流通していたので、それらの両替をしていた。金銭売買・貸付・手形振出・預金なども扱った。
金田屋では両方商っていた。

廻船問屋(かいせんどいや);海鮮問屋ではありません。 近世、廻船と荷送人との間に立って貨物運送の取次を業とした問屋。回漕店。回船問屋。

京屋島屋の赤紙付き;江戸時代は郵便制度がまだ無い時代、当時有名な飛脚問屋で、「赤紙付き」は現在の速達に当たり、早くは着いたが料金もかさんだ。
 京屋は江戸室町二丁目で営業した定飛脚問屋「京屋弥兵衛」のこと。島屋は日本橋室町一丁目に開店していた、島屋半兵衛の飛脚屋。この2軒は、明治4年(1872)に合併し、翌5年には陸運会社、8年には内国通運会社となった。

バカンにされて、モジモジしながら;地名に掛けたシャレ詞。モジは門司で北九州市門司区。バカンは馬関と書き、山口県下関市の旧名。明治・大正時代には通じた地名。

天刑病(てんけいびょう);明治時代の言い方でハンセン氏病(ライ病)。当時は大変嫌がられた病で、天の罰から天刑病と呼ばれ、「すじ」とも言われた。”そのすじ”と言えば、この病を指し、はばかって言う時に使った。決してヤクザだけを指して言う詞ではありません。

御菩提所;(ごぼだいしょ)母親が行っていた所。菩提寺。この話では霊巌寺の事。

小間物屋;小間物を扱う商店。落語「小間物屋政談」で出てくる、小四郎の生業。そこで説明しています。

町方取締り与力;一番有名なのが町奉行所の与力であり、町与力、あるいは町方与力と呼ばれた。与力の知行の多くは200石。配下に同心30俵を従えていた。
 町奉行所与力の職分は、奉行側近の内役として宰領する年番役与力(年番方)、吟味方与力(取調)、市中取締諸色掛与力(判例である旧記例格の調査)、赦帳・撰要方与力(人別調)、市中取締諸色掛与力(問屋筋取締)等々がありますが、町方取締役という役はありません。

 「江戸町奉行」 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/edojob3.html に詳報があります。
町奉行支配の各職、町奉行所与力、町奉行所同心、牢屋奉行について、実に詳しく調べています。

大坂格子;千本格子と言う。大阪から流行してきたので大阪格子。下側が格子、上側が格子と紙張りという二重構造になっています。以前はよく商店の店舗部分と住居部分の境に使用されていました。この紙はり部分は取り外しができ、夏になると格子戸になります。これによって風が入って寒暖の調節が出来ます。また、暗い室内は、外からは見にくく、内からは外が見えるという具合の良い障子です。複雑な作りなので、材料も手間も食う障子ですが、便利さから商家では使われました。
写真をクリックすると大きくなります。台東区「旧吉田屋酒店」の資料館に使われている千本格子。

邪(じゃ)が非でも;「是が非でも」の江戸言葉。円生は諸処で江戸言葉、江戸訛りを使っています。これもその一つです。

 

4.江戸時代の旅
 将軍吉宗の時代になると街道も整備されて、公用、商用以外にも観光(多くは参詣という名目)で多くの人々が旅に出るようになった。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんや、江戸の富本節の芸人・繁太夫が書き残した「筆満可勢(ふでまかせ)」のハチャメチャ道中記や、武家の野田泉光院が残した「日本九峯修行日記」等が残っています。また芭蕉の「奥の細道」もその中に入るでしょう。
 旅行に出るには今のパスポートに匹敵する、通行手形(往来手形)が必要で菩提寺で発行された。もう一つの手形は、関所手形と言って関所ごとに必要で町役人(多くは大家)が発行した。旅芸人、乞食などはフリーパスで関所を通れたという。
 手形等については落語「小間物屋政談」をご覧下さい。
 江戸・大阪間は通常2週間掛かりの旅程でしたが、飛脚が走ると半分の6〜8日で届けた。ちなみに、浅野内匠頭の刃傷事件を赤穂まで知らせた時は、早駕籠でわずか5日間で走り通した。江戸・長崎350里(円生は噺の中で400里と言っている。JRで1235km=314里)を日夜通して9日間で駆け抜ける飛脚も居た。

関所全国に約50ヶ所の関所を幕府は設けていた。有名な所では箱根、今切(浜名湖の海際で切れている所)、福島、横川、浦賀などです。江戸後期、男は手形なしでも通行できたが、しかし、取り調べが面倒なので手形を準備した。女子には厳格で髪型が違っていても追い返された。女改めのお婆さん、人見女(上図)が居てうるさく検分した。しかし、間道越えや関所破りは後を絶たなかった。
関所破りは死罪の内で獄門。斬首後、首を主要街道沿いの刑場に3日2夜さらし、その後棄てられた。公儀に対する重い謀計、主殺し、親殺し、関所破り等の重罪に適用された。関所破りの刑は滅多に適用されなかった。
箱根関所

東海道「箱根の関所」北渓画 「諸国名所・相州箱根関」 神奈川県立歴史博物館蔵

女の一人旅;関所では「入り鉄砲に出女」といって、特に厳重に取り締まられた。フリーパスのお遍路はご詠歌が詠えなければならなかったし、芸人は奉行の前で芸が出来なければならなかった。どちらも一朝一夕で出来るものではなかった。乞食もフリーパスであったが、そこまで変装する根性は普通無いでしょう。
 また、大きな旅籠では断られ、木賃宿のような安宿しか宿泊できなかった。その上、街道に巣食うゴマの灰や雲助などが若い女だといたぶった挙げ句、女郎屋に売り飛ばしたりした。
 士農工商の身分制度がある中、乞食はそれ以下の人間としかみられていなかった。その為街道の悪連中も仲間への見栄があって手出しはしなかったし、伝染し不治の病と恐れられたライ病で出来物があったら誰も近づかなかったでしょう。
 この環境下、女の一人旅はよほどの事がない限り不可能だった。現在の旅行と違って、女の一人旅は男以上に文字通り決死的だったのです。

 


 舞台の八丁堀から日本橋へ歩く

 ”八丁堀の旦那”が住んでいた、八丁堀と言われた地区には、与力・渡辺喜平次が住んでいた岡崎町、その北側に北島町、その東側に亀島町が有り、今の八丁堀の地域とは必ずしも一致しません。お市さんの輿入れ駕籠は南側の岡崎町から楓(かえで)川の松屋橋(現・松幡橋)を渡って中央通りに出ます。
 八丁堀は東京駅にも近く地の利は良い所なのですが、表通りの高層ビル群に比べて一歩街中に入ると住宅地のような感じがする街並みを今に残しています。大きく違うのはこの街を出る為に渡る松屋橋(現・松幡橋)でしょう。橋その物も一方通行にした方がイイくらいの狭さです。ま、その真南に並行して走る大きな弾正橋が有るので、自動車はそちらを利用するようです。言いたいのは、その橋の下に流れていた楓川は首都高速道路に変身して川底を自動車が走り抜けています。

 楓川づたいに日本橋に向かう方法もありますが、その先の昭和通りは当時無かったので、中央通りまで出ましょう。婚礼の道程ですから、吉原に行くような裏道は通らず表通り、それも一番の幹線道を日本橋に向けて歩を進めましょう。
 南伝馬町(現・京橋の町)を通り、中橋広小路(通り三丁目交差点。左東京駅八重洲口)を抜けて、日本橋通南四丁目から三、二、一丁目(現・日本橋。右側コレド日本橋)。ここまで来ると目の前に日本橋が見えます。左側には高札場(現在も模した物があり)、木製の橋を渡り始めますが、日中天気が良ければ左側に江戸城と富士山が望める絶景地でした。現在は川の上を蓋をするように高速道路が走り、眺望どころの話ではありません。橋の北側は右に江戸橋まで魚市場がありました。生きのイイ若者が働いていた事でしょう。現在も当時の市場を彷彿させる、鰹節屋、海苔屋、包丁屋などが残っています。現在の日本橋北東側には魚市場の記念碑が建っています。


江戸の日本橋北詰」江戸東京博物館蔵 正面先に十間店があり金吹町が有った。

 ここから見る当時の街並みは商業地の中心で、大店が集中していた地域です。今でも、正面に三越本店、その先三井ビル、右側は再開発工事が進むビル建設工事ラッシュです。完成のあかつきには日本橋の街の様相も一変するでしょう。その為に当時の細かい小路が無くなって、例えば落語「百川」の料亭百川楼の正確な場所が分からなくなっています。
 当時の街並みで、日本橋を渡った所が室町一丁目、進むと二丁目、三丁目となり、この右に入る道が百川のあった浮き世小路です。本町二、三丁目と町名が変わり、その先が十間店本石町です。ここで人形を買って長崎の孫に贈ったのでしょう。この左奥が金吹町です。現在の日本銀行北東角にあたります。
 やっとお市さんの駕籠が着いたようですから、ご祝儀を置いて帰路につきます。  

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

日本橋・金吹町(中央区日本橋本石町3−3あたり)
 日本銀行東北の角の地。今でも大きな会社が占めています。正面の建物が日本銀行。古い建物が旧館、高層ビルが本館です。左側にはクボタ、三井があります。

十間店(中央区日本橋室町3−2)
 中央通りの左右にあった。この写真の奥が上記金吹町。通りが中央通りで右が神田方向、左が日本橋になります。

松屋橋(中央区八丁堀3−1から京橋2−18に架かる)
 下流の弾正橋から望む現在名・松幡橋。町内同士を結ぶ小さな橋ですが、ご覧のように楓川は自動車が流れる首都高速道路になってしまいました。写真の先は江戸橋、手前は浜崎橋に流れていきます。

松屋町を見る(中央区八丁堀3−1〜10)
 上記の松幡橋から見る松屋町。橋の東側が松屋町と呼ばれた所で、婚礼の駕籠を迎えに行った所です。金田屋のお迎えは写真を撮った位置で待っていたのでしょう。橋の上部を横切るのは支線で有楽町方面に分岐する高速部分です。

八丁堀(中央区八丁堀)
 八丁堀は「八丁堀の旦那」が住んでいたとこですが、今は地下鉄も走り、東京駅の東側にあたり地の利も良く、ビジネス街になっています。
 

霊巌寺(江東区白河1−3)
 金田屋菩提寺。松平定信の霊廟(国の史跡)や六地蔵の銅造地蔵菩薩座像(東京都有形文化財)が有ります。引っ越してくる前の霊岸島の地名はここから出ています。

                                                      2010年7月記

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