落語「百川」の舞台を歩く
六代目三遊亭円生の「百川(ももかわ)」では
田舎出の百兵衛さん、葭町(よしちょう)の桂庵(けいあん=口入屋=私設職業紹介所)千束屋(ちづかや)から浮世小路の百川楼に就職に来る。ここで河岸の若い者と、すれ違いのやりとりの後、長谷川町・三光新道に常磐津の師匠歌女文字(かめもじ)を迎えに行くが、外科医の鴨池玄林(かもじげんりん)を連れてくる。
浮世小路は日本橋三越本店の前を渡り、表通りの一歩裏道の稲荷の側に有ったと言っていますが、一方通行出口の道に面して、今は面影も情緒も何もありません。
1.葭町の桂庵千束屋
明治11年版東京全図によると、今の中央区日本橋人形町1丁目に当たる。後に日本橋芳町(人形町1・3丁目の内)となり、今の人形町となる。日本橋北詰めを東に6〜700メートル右側に桂庵千束屋があった。
2.浮世小路百川楼
明治の初め頃まで現存していた懐石料理屋で天明時代には向島の葛西太郎、それから大黒屋孫四郎、真崎の甲子(きのえね)屋、深川の二軒茶屋とここ百川楼が五指に入る第一流の名店だった。また、黒船来航の折には乗組員全員に本膳を出して、その値なんと一千両だったと言われ、他店の手伝いを借りず自分の所だけで賄い、食器なども全て自前でそろえたぐらいの力があった。
浮世小路は今の中央通り日本橋から歩いて、左手に三越本店を見ながら右手東レビル(日本橋室町2−2)の先、地下鉄三越前駅A6出口を出て右に入る。この道が日本橋小舟町に抜ける道で安政6年の古地図を見るとはっきり浮世小路の名前が見られる。その先左に福徳稲荷(室町2−4−14)が有り、その界隈に有ったと思われる。日本橋から約300メートル。色気のある建物は付近に皆無で、当時浮世ゴザを商う店が有ったからとか、浮世風呂があり湯女のサービスが良くて人気を博していたから浮世小路と言われるようになったとか、言われているが今はその面影無し。
浮世小路の別名を円生は”たべ物新道”といってやはり食い物屋がどっさり有ったという。
3.長谷川町・三光新道(しんみち、ここではじんみちと読む)は今の日本橋掘留町2丁目。百川楼から700メートル位。
三光稲荷神社の派手なアーケド看板があり、3〜40メートルで抜けてしまうような小径で、細い参道、新道の奥左にこぢんまりとした社が有る。そこが三光稲荷(掘留2−1−13)で昭和39年9月に改修が施され小ぎれいなたたずまいを呈している。参道には10件ほどの民家と商家が有り、この中に、またはその近隣に常磐津の師匠歌女文字と外科医の鴨池玄林が住んでいた。
鴨池玄林は実在の人物だと言われているが、私はここからすぐの所(歩いて1分程)に住んでいた高名な幕府の御用医者”岡本玄冶”(1587−1645)またはその子孫がそのモデルではないかと思われる。中央区教育委員会の説明では、彼は人形町3−8付近に屋敷を構え明治初期まで9代継いだ医者の一家であった。歌舞伎、”お富と切られ与三郎”の舞台となった、玄冶店(げんやだな)とはここの事である。
ここ長谷川町・三光新道から葭町の桂庵千束屋までは2〜3分の所である。
「天災」の主人公、八っつあんが心学の紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)先生の所で教えを講釈して貰った所でもある。
4.魚河岸
関東大震災まで日本橋から江戸橋までの間200メートル位の距離に日本橋川.北岸に有った。 地下鉄三越前駅B6を出ると目の前に「日本橋魚市場発祥の地」の石碑が日本橋北詰め東側に有る。
六代目円生の江戸散歩によると、「日本橋を渡った橋の右側ですね・・・・、これがずうーっと魚河岸だったんです。だから、河岸のある間はあの中へは入れなかったわけです。自動車(くるま)やなにかは。電車(路面電車=都電)からこう見てますとね、通行止めになっている。中はもう、ごった返している。魚を商っているその有様が見えましたんです・・・・。午後河岸がすむと通しましたんです。」
ここの若い衆が百川楼に昼間から集まり、次の祭りの下話をしていたのであろう。
5.円生の芸の虚と実
回生の得意な《百川》で、たいへん、いい芸談がある。
百兵衛が、客の座敷へ、御用を聞いてこいといわれて、はじめて、出るところで、
「ええ、ちょっくらごめんなすッとくンなせえやして」
という、百兵衛の挨拶を、圓生は、田舎からぽッと出の、なにしろ、客の前にはじめて出る男なんだから、おずおず、こわごわ、たいへん、遠慮して、調子を、下から出してやっていた。
そうしたら、おやじの先代・円生が、
「おい、どうしてお前は、そう険気なんだ」
そうじゃァなくって、逆に、上(うえ)の調子で入れ、そうすれば、あとからの調子も、それにつれて、おのずから《百川》という、話ぜんたいか、陽気になる、と批評をした。
ところか、いまの回生が、まだ、若いころのことで、落語はたくさん知っているし、事実また、芸風に、たしかに、生意気、あるいはどうだ、俺ァ巧(うめ)えだろう、というところのあった男だから、さア、おやじのいうことが、どうも合点が出来ない、なアに、おやじのいうのは、間違っている。理屈からいったって、おずおず、こわごわ、客ンところへ入ってくる人間の声が、上の調子で、あるわけがない。
しかし、不服だが、相手はおやじだし、芸の上でも、たいへん、尊敬している人のいうことである。仕様かないから、おやじのいう通りに、やった。そうやってきて、いつの間にか、歳月が経った。
そして、おやじが死に、圓生も、だんだん、年を取ってきたら、なるほど、おやじのいったことの方が、ほんとうだ、と、わかった。
いくら、実際には、そうだからといって、芸が、陰気になってしまって、客が、聞いてくれないでは、身も、蓋もない。
芸には、実際とは違う嘘があっていい、なくツちやならないということが、歳をとってみて、気かついたという話なのである。
そして、そのうそが、ほんとうに閑こえて、はじめて、一人前の芸だ、と、わかったという。と、同時に、へたなのが、いくら本当の事を言ったり、したりしたって、へただと、嘘になる、ということでもある。芸の、花と、実の、おもしろい話である。
河出文庫「寄席はるあき」安藤鶴夫著《百川》 より
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