落語「鈴振り」の舞台を歩く
古今亭志ん生、とっておきの艶笑噺、「鈴振り」によると。
禁欲の世界にいる出家たちは、十八檀林(だんりん)で修行をするが、その厳しいことは大変なことであった。 その十八檀林はまず、下谷 幡随院を振り出しに、・・・(下記1.関東十八檀林参照)・・・そして増上寺に着いて、大僧正の位を与えられたが、修行もそこまで行くのが大変であった。
そのころ、藤沢にあった易行寺(いぎょうじ)で、若者たち1千人程が、同じように修行をしているので、大僧正の位のある住職が跡取りを誰にするかが分からず、悩んでいた。そこで一計をはかると・・・。
旧の5月18日知らせを出して、「跡目を出す相談をしたいので28日にお集まり願いたい」と、修行僧を集める。
客殿に集まった若い修行僧に一人ずつ脇に呼んで、「あなたかもしれないので、”せがれ”にこれを・・」といって、金の小さな鈴を着け、同じように千人全員に付けてしま
った。 「今日は特別な日なので、酒、肴を許す」と。そのうえ、酌人に十七八の美人揃いの綺麗どこが、揃いの紺の透綾(すきや)で現れた。白い肌が透き通る短めの紺透綾を素裸の上に着ているだけなので悩ましい上に、立て膝をついて「いかがですか?」とお酌をされると、「なんたることだ、これも修行の内か」と思いながら、下を手で押さえていたが、お酌をされるので手を離したとたん、『チリ〜ン』。
あちらでも『チリ〜ン』。こちらでも『チリ〜ン』。それが千人『チリ〜ン、チリ〜ン』と、鳴り響いた。それを聞いた大僧正が嘆いていると、一人の若者が目を半眼に開いて座禅をしている。
その彼だけが鈴の音がしない。彼こそが跡継ぎであるというので、別室に案内して「鈴を見せてくれ」といい、見ると鈴が無い。彼曰く「鈴はと〜に、振り切りました」。
志ん生は高座で、「このような噺は、しっとりとした雰囲気の中、自分もそのような気分の時だけしか演らない」と、言っていた。
私、吟醸はこのような噺は大好きです。もっと早く取り上げればよかったかも・・・。
本題と違って以下、堅い話が続きます。
1.関東十八檀林(だんりん)
浄土宗(鎮西派)の学問寺のことで、関東に18ヶ所有ったので、関東十八檀林といった。志ん生が言い立てている順に並べてみると、次のようになります。しかし、志ん生も人の子、相前後したり寺名を間違っているところがあります。正しくは以下の通り。
1.下谷 幡随院(ばんずういん) 小金井市前原町3-37-1 昭和5年に移転
2.鴻巣 勝願寺
3.川越 蓮馨寺(れんけいじ)
4.岩槻(柏崎) 浄国寺
5.下総小金 東漸寺(とうぜんじ)
6.生実(おゆみ、蘇我) 大巌寺(だいがんじ)
7.八王子(滝山) 大善寺
8.常陸江戸崎 大念寺
9.上州館林 善導寺
10.本所 霊山寺(りょうぜんじ、現在;れいざんじ) 墨田区横川1-3-22
11.結城 弘経寺(ぐきょうじ、志ん生は「ぐぎょうじ」と発音している)
12.下総飯沼 弘経寺(ぐきょうじ、志ん生は「ぐぎょうじ」と発音している)
13.深川 霊巌寺 江東区白河1-3
14.上州新田(太田) 大光院
15.常陸国瓜連(うりつら) 常福寺
16.小石川 伝通院(でんづういん) 文京区小石川3-14-6
17.鎌倉 光明寺
18.芝 大本山増上寺 港区芝公園4-7-35
僧侶が大僧正になるためには、通らなくてはならない修行(学問)で、ここを抜けて行かねばならなかった。
後期には檀林に紫衣檀林と香衣檀林ができた。紫衣檀林は増上寺、光明寺、伝通院、大光院、飯沼弘経寺の五寺で、紫衣を賜った。
2.十八檀林(だんりん)
檀林というのは栴檀(せんだん)林を詰めた言い方です。「栴檀は双葉より芳し」の栴檀です。学問をする寺のことで、寺の若者を集めて学事に従わせた。中国からきた考え方ですが、嵯峨天皇の皇后が禅の教えを尊重し、檀林寺を創建したのが始まり。鎌倉時代以降、禅寺では「栴檀林」「般若林」という扁額を掲げて学問を奨励した。その風習がしだいに発展して、浄土宗、天台宗、日蓮宗でも採用し若者の育成に力を入れる寺院を檀林と呼んだ。中でも浄土宗の十八檀林、日蓮宗の二十檀林は有名です。檀林では常に経論を講義し、法門を談論したので「談林」と書いたこともある。
この制度は江戸開府の時家康と増上寺十二世存応(ぞんのう)が相談して完成したと伝えられるが、最後の霊巌寺が加わってこの形になった。浄土宗における関東十八檀林の「檀林」は『観仏三昧経』の「十里四方の林の悪毒も栴檀の芽や根によって改められ、栴檀の清香を放つ」というところから来ている。また、十八という数字は、浄土宗の中で最も重要な阿弥陀如来の第十八願になどらえたもの
。
檀林の勉学は学寮で行われた。在籍中に修得しなければならない檀林科目は、九つに分かれていて、各部で3年かかり、全部で27年かかった。15歳から入っても修学が修了するのには42歳になっていたはずである。
この制度は明治に入ってからは次第にすたれていった。今は全く無い。しかし、その名残として、例えば伝通院の創設による女学校「淑徳学園」などがある。
この十八檀林以外に駒込の(曹洞宗)吉祥寺の由来記の中に、栴檀林があって、湯島の昌平黌(こう)と並び江戸期の学林として常時一千人をくだらなかったという。この栴檀林が今の「駒沢大学」に発展します。
3.芝 増上寺 緑起 (東京都港区芝公園4-7-35)
浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称。開山は酉誉聖聡。江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依(きえ)を受け、大伽藍(がらん)が造営された。以後徳川家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆した。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなった。戦災によって徳川家の将軍やその一族の御廟(ごびょう)は焼失した。焼失をのがれた三門(さんもん)・経蔵(きょうぞう)・御成門(おなりもん)などを含む境内(けいだい)は、昭和四十九年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備された。(ホームページより)
4.藤沢 いぎょう(易行?)寺
噺の舞台となった所。易行派の本拠地であったと言っていますので、また千人を越える修学僧を抱えていた、お寺さんだったので、さぞ立派な寺院で有ったことでしょう。
易行 <行いやすいこと。反対語に難行があります。>
神奈川県藤沢には、いぎょう(易行?)寺は現在有りません。有るとすればどこかに移転したのでしょう。移転先不明(どなたかお分かりの方教えてください)。または、噺の中のフィクションなのでしょうか。
易行寺は「遊行寺」(ゆぎょうじ)、ご来館の”MO”さんからいただいた情報より、
「いぎょう寺」は転訛したものでしょうか?通称は「遊行寺」(ゆぎょうじ)で、正式には清浄光寺(しょうじょうこうじ)といいます。一遍を宗祖とする時宗総本山で、今も藤沢市西富にあります。末寺は413寺・3教会です。箱根駅伝ではその脇を通り、胸突き八町の「遊行坂」として知られます。江戸期当時は、『諸宗階級』などでは遊行上人の後継を決めるには、
境内の熊野権現(堂)の前で三候補から籤を引いて選んだということです。今は宗派の中から「法主候補者」選挙をおこなっています。
江戸期の遊行寺には学寮がおかれ、僧侶を養成していました。そのころはこの藤沢山学寮・京都七条学寮(金光寺。いま廃絶)または諸国を遊行回国している遊行上人の会下(えか)のどれかで修行することが出来ました。千人というのはもちろんありえない話しです。多くても数十人でしょうか。現在は藤沢だけがあり、修行して各寺院の住職の資格をとることが出来ます(1年ないし半年。半年の場合は試験あり)。全国の末寺から毎年十人前後がやってきます。なお藤沢市文書館から江戸時代の遊行寺の日記『藤沢山日鑑』が活字化されており、そのころの本山の様子がつぶさにわかります。
と、メールいただきました。
本当に貴重な情報ありがとうございます。(平成14年8月記。MOさんのご厚意により掲載)
江戸っ子のシとヒの区別、イとユも同じように区別が付かない事があります。志ん生はちゃんと発音していると思っていますが、第三者が聞くと逆に発音しています。これは江戸訛りの典型でしょう。百円を”しゃくえん”、表彰状を”しょうしょうじょう”と発音します。死神は”ひにがみ”とは言いません。(^_-) ”拾う”は”ひろう”が正しいのか”しろう”が正しいのか未だ分かりません。
5.すきや【透綾】
(スキアヤの約)
薄地の絹織物。もと、経(タテ)に絹糸、緯(ヨコ)に青苧(アオン)を織り込んだが、今は生糸ばかりを用い、また、配色の必要から半練糸や練糸をも混用。夏の衣服に用いる。文政(1818〜1830)年間、京都西陣の宮本某が越後国十日町で創製。越後透綾。絹上布。(広辞苑)
志ん生は夏の着物で、(絽や紗のような)荒い織り方の生地のため、下地が透けて見える織物、と言ってます。
旧の5月28日と言えば、今の6月下旬。
舞台の江戸檀林四寺を歩く
十八檀林で修行と言うのは、今では全く行われていなくて、過去のものとなっています。訪ねたお寺では、「何で今頃・・」と言う顔をされます。
どうしても資料がほしいので、あるお寺さんでお話を伺い、世間話をしていると、「どうして、この十八檀林を調べているのですか?」と、訪ねられたので、「実は、落語の世界でお宅のお寺が出てくるので訪ねてきました」、「それは何ですか?」、「古今亭志ん生の『鈴振り』の中に出てきます。この噺は艶笑落語です」、「艶笑落語?」、「ハイ、そーです。色っぽい噺なのです」、「??」。相手がご出家、ここまでで止めときました。ハイ!
ご住職が不在で、奥様が対応してくれたお寺もありましたが、既に過去の話なので、「住職が居ないと分からない」とのこと。もー、過去のことなのでしょう。
下谷 幡随院は2度の火事で焼失し、昭和5年に小金井市に移転しています。
現在東京に残っているのは、訪ねた本所 霊山寺、小石川 伝通院、深川 霊巌寺、芝 増上寺の四寺です。
地図をクリックすると大きな地図になります。
増上寺江戸地図(安政6年・1859)は右が北です。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
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本所 常在山 霊山寺 墨田区横川1-3-22
慶長6年(1601)開山
もう今では、講義をするような雰囲気と場所はない(失礼)どこにもそのような表示すらなく、檀家さんの中でも知らない人がたくさん居るのではないか。遠い過去の話になってしまった。
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小石川 無量山 伝通院 文京区小石川3-14-6
慶長13年(1608)開山。
都内でも大きな寺院の一つであろう。丁寧に十八檀林の話とコピーまでいただいた。今も若者の教育に力を入れている。隣に女学校「淑徳学園」を運営している。
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深川 道本山 霊巌寺 江東区白河1-3
落語17「宮戸川」にも出てきた、霊巌寺です。
霊岸島の地名になったお寺で、寛永元年(1624)に霊巌寺が出来たので、土地の名前もここから来ている。しかし字画が多いので、霊岸になったと言われている。
今は白河に移って、境内も広い大きなお寺で、江戸六地蔵で有名です。銅製の大きな座像で都の文化財に指定されている。また、松平定信公の墓もある。
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芝 大本山 増上寺 港区芝公園4-7-35
落語04「芝浜」、12「時そば」に出てきた、時の鐘が有名です。裏の小高い丘の上には東京タワーが建っています。
浄土宗の大本山。明徳4年(1393)に創建され、十八檀林の要の寺でもあった。当時学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学していた。
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芝増上寺にあった火焔太鼓
落語「火焔太鼓」の中に出てくる重要な太鼓が、ここにもありました。本堂の中に置いてあった火焔太鼓。雅楽の演奏の時に使われるもの。本体の高さ2m以上、アンテナのような飾りと台座を入れると3mを越す大きさ。太鼓の回りにある火炎の飾りが美しく、裏側も同じレベルで彫られている(裏表がない)。風呂敷に包めるような大きさではないし、絢爛豪華である。
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易行寺は「遊行寺」(ゆぎょうじ、神奈川県藤沢市西富1−8−1) 早速藤沢まで出掛けてきました。総本山だけあって広大な敷地と立派な本堂、沢山の記念碑などが有ります。
大きな鐘突堂があり、歴史がうかがえます。通常開いている”宝物館”がお盆で休館。国宝級の品々が見られず残念。
檀林は今は有りません。当然壱千人もの、若僧を集めた状況はどこにも見あたりません。もらった縁起(寺の説明書)の中にも一言も触れられていません。 2002年8月追記。 |
2001年9月記
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