落語「堀之内」の舞台を歩く
 

  
 一番軽快で明るくテンポの良い、橘屋円蔵の噺「堀之内」(ほりのうち)によると、
 

  めちゃめちゃ粗忽な亭主が神(かみ)信心で”そそっかしい”のを直そうと、朝早く起きてみると、女房の顔も今日行くところも忘れている。顔を洗うのにタンスを開けてみたり、水が汲めないとザルで水をすくっていたり、顔を拭くのに猫で拭こうとして引っかかれたり、弁当を風呂敷に包んで、堀之内のお祖師様に願掛けに出かける。

 電車で行くと効果が薄いから歩いて行くと、自分の行き先を忘れ、道行く人に尋ねるが、右と左の違いで、まるで逆の方向に来ている。もと来た道を戻りもう一度道を尋ねると、なんと自分の家であった 。
 再出発してまたまた道を尋ねると、「この道真っ直ぐ行って鍋屋横丁を左に曲がるとお祖師様に出る」と教えられるが、何回も同じ事を聞きながらやっと着いた。

 お坊さんにお寺と間違え手を合わせたり、お賽銭を上げるつもりが財布ごと投げてしまい、空腹をおぼえ、本堂の脇で首に結わえていた弁当を開くと、風呂敷に弁当ではなく、腰巻きに箱枕。
 怒った亭主が帰ってくるなり文句を言うと、笑って聞いているのは隣の奥方、家に帰り謝ると、女房「隣で怒って、家であやまてもしょうがないでしょ」。腰巻きの件を言うと、「自分で包んで行ったのでしょ、それより着ける物が無くて、スウスウして困った」と逆に言われてしまった。

 それから息子の金坊を風呂に連れて行く事になったが、逆さに入れるからやだという。負ぶってやるからと、お尻を触れば大きなお尻。奥さん「私のだよ」、「間違えるから後ろに回るな」。お湯屋を通り越して、金坊に言われ戻ってきた。ここだ、自分で脱げよ、俺も自分で脱ぐから、「もしもし、そこで裸にならないで下さい。鏡があっても家は床屋です」。
 こんどは湯屋だ、「脱がしてやるから」と今着せたばかりの知らない女の子を裸にしてしまった。湯船に行こうとすれば「お父っつぁん、猿股はいたままだよ」。クルクルって丸めて投げたら湯船の人の頭に被せてしまった。こっちに来いと金坊を引っ張れば、パンダの彫り物をした頭だった。息子の身体を洗おうと洗い始めたら「肩幅が広くなったな。うり二つだ」、「お父っつぁん、鏡磨いてら〜」。


 
金坊と風呂屋のくだり2009年6月追記

 




1.
堀之内のお祖師様
 
やくよけ祖師「おそっさま」と言われ、正確には日圓山妙法寺(杉並区堀ノ内3−48−8)。境内にはいくつかのお堂がありますが、ここでの主役は祖師堂。一番大きく主人然としています。いわれは日蓮が伊豆に流された時、弟子の日朗上人が師の姿を霊木に彫刻し祈り、42才の時、厄が解けて報われ帰り着き、日蓮自ら開眼した仏像を安置。その為この仏像をやくよけ祖師像という。その像が安置されています。
 江戸時代には将軍から庶民に至るまで、参拝に訪れ、高山彦九朗、葛飾北斎、安藤広重、五代目松本幸四郎、五代目岩井半四郎、沢村源之助など、文人墨客の名を見ることが出来ます。また、浮世絵の題材として取り上げられ、数多くの名作が残されています。

 妙法寺 http://www.yakuyoke.or.jp/place/index.html

■祖師堂 (そしどう。東京都文化財)明和6年(1769)の火災で全焼し、同9年再建し文化8年(1811)に完全に再建される。最近では平成10年2月に大改修が施された。日蓮42才の厄年にちなみ、42本の欅(けやき)の丸柱にて建立されている。約200年が経っています。

■山門 (さんもん。東京都文化財)天明7年(1787)の再建。二層造りの為、楼門とも呼ばれた。左右の金剛力士像は万治2年(1659)4代将軍家綱から赤坂日枝神社に寄進されたものを、明治元年此処に移された。

日朝堂 (にっちょうどう)文政11年(1828)20世日憲上人により創立。日憲上人は勉学に精進し眼病を患った。快復後、眼病の人々救済に願を立てられたことから、眼病と勉学、入試の祈願が叶えられる事で有名。

■浄行さま (じょうこうさま)石仏の浄行さまを洗い祈願することで、病気治癒、家内繁栄をよびます。


 東都名所一覧「堀ノ内御会式詣」部分 葛飾北斎画 国立国会図書館蔵


2.道順
 「この道真っ直ぐ行って鍋屋横丁を左に曲がるとお祖師様に出る」と教えられる。この道とは新宿から伸びる青梅街道。鍋屋横丁は中野区中央3.4丁目の境を走る商店街。青梅街道との交差点が鍋屋横丁である。
 彼の歩いた行程からすると、住まいの(神田は広いので仮に)神田淡路町から堀之内・駐車場まで11.5km、車で約30分。 
 今はJR中央線・高円寺駅で降りて、環七通りを南へ、青梅街道を横切りその先右側に有る。または地下鉄「丸の内線」東高円寺で降り、道路に出た所が、青梅街道。環七通りを左折その先右側に有る。この方が近い。


3.主人公自宅住所
 談志は「根津の八重垣町2丁目2番地」と言っている。この住所は今の文京区根津1,2丁目の内、不忍通り寄りの部分で、小さい町なので丁目表示は無い。助六、円遊は神田としている。小遊三、円蔵は特に場所指定はしていないが、前記神田とするのが自然でしょう。で、そこから歩きます。


4.
宿泊がてらの参拝
 
実測11.5km往復23km、1日で往復も可能だがきつかった。そこで1泊と言うことになるのだが、どこで泊まるか? 宿坊で・・・。”ブー”。違います。正解は、そうです、前回歩いた内藤新宿で1泊するのです。善女は別にして、善男(?)は新宿泊まりをセットにして、お祖師様参りをしたのです。その為、お祖師様も内藤新宿も繁盛したのです。時の江戸っ子は喜んで、お祖師様参りをしたのです。
 


 

  舞台の堀之内を歩く


 
落語の中で教えてもらった道順で行きます。青梅街道から鍋屋横丁を左折、最初の信号機を右折、一方通行入り口でほっとしながら進むと、同じ広さの道幅なのに、直ぐ交互通行の道になる。電柱の手前で前方の車を待ちながらゆっくりと進む。寳薬師を過ぎた辺りから和田帝釈天通りという商店街になり自転車や車が駐車していて、車1台が通るのにやっとやっとの狭さです。環七に出て目の前が妙法寺。妙法寺東の交差点を右に曲がって、駐車場へ。やっと着きました。新宿から5.5km。これでは鍋屋横丁を左折しないで環七から来れば良かった。

 大きな山門をくぐる。この山門の中に立派な仁王が左右に立ち、浅草寺・雷門の弟という風情。入ると大きな境内と正面に祖師堂。ごてごての煌びやかさが無く、落ち着いた風格が何とも良い。財布ごととはいかないが、お賽銭を上げると、横で真剣にお詣りをしている信者に圧倒されながら、堂中を覗くと金色に輝く贅沢な内陣が迫ってくる。この中にお祖師様の本尊が安置されています。
 裏に回ると、祖師堂より後から出来た本堂、眼病・勉学の日朝堂、石仏の浄行さま、二十三夜堂、有吉佐和子の碑などがあります。元に戻って、祖師堂右手に和洋折衷の鉄門、見ている背中側に鐘楼があります。どれもこれも、国や都の文化財に指定されている。
 ここで、かの粗忽亭主が腰巻きに箱枕を開いたのであろう。恐れ多くも。

 この境内の中で「堀之内寄席」が毎月23日、円右師匠以下若手中心で会が開かれています。勿論落語「堀之内」も演じられる。

 
 
「三遊亭圓右」以下何人の演者をご存じですか? 半数以上分かれば”オタク”です。「堀之内寄席」 圓右(えんう)、右紋(うもん)、右左喜(うさぎ)、歌若(うたわか)、春馬(はるば)、デットボール、好圓(こうえん)、北陽、すずめ、栄二郎、講史郎、歌蔵、柳乃助、昇輔、昇乃進、恋生、快治、柳太郎、渥馬、ひまわり、錦之輔、薩喜?、鯉枝、(上の寄席文字から書いていますので、間違いはお教えの程m(_ _)m  私は大部分の若手を知りませんし、読めません。(^_^;)ウー。)

 寺前に門前町と言うか、小さな商店街があります。スーパーや門前町特有の飲食店や土産物店が並ぶ。その中に有りました、魚屋「魚勝」。覚えていますか? 落語「芝浜」で気持ちを入れ替え店を持つまでになった勝五郎。此処で店を開いていたのかと思うと顔がほころんできます。店主と目が合ってしまったが、どのようなアクションを取れば良かったのか。一瞬困った。

 ここから直ぐの所にある、杉並区立郷土博物館にて「霊宝開帳と妙法寺の文化財展」(2000年12月10日まで)が開催されていたので覗いて見る。フムフムそうかそうかで出てくる。


 

地図

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写真

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門前街
この様な歴史を感じる建物や現代的なスーパー、マンションなどが並ぶ。この並びに勝五郎(?)の魚屋「魚勝」が有った。
妙法寺山門(東京都文化財)
天明7年(1787)の再建。二層造りの為、楼門とも呼ばれた。左右の金剛力士像は万治2年(1659)4代将軍家綱から赤坂日枝神社に寄進されたものを、明治元年此処に移された。
妙法寺祖師堂(東京都文化財)
明和6年(1769)の火災で全焼し、同9年再建し文化8年(1811)に完全に再建される。最近では平成10年2月に大改修が施された。日蓮42才の厄年にちなみ、42本の欅の丸柱にて建立されている。約200年が経っている。
妙法寺祖師堂
側面の破風及び赤鬼の彫り物。正面から見るお堂は地味で深みのある感じだが、側面は煌びやかで豪華。その下に回廊があり、主人公はそこで弁当(?)を広げた。
石仏の浄行さま
水掛地蔵。清水をかけてタワシ等で洗ってあげる。何人もの信者が入れ替わり、立ち替わり訪ねて来る。洗うだけでなく、花束を供えていく。祖師堂と変わらない、人気と御利益が有るようだ。
有吉佐和子の碑
裏書きを見ると、昭和60年仲秋建立。発起人として、竹本越路太夫、杉村春子、山田五十鈴、吾妻徳穂、の今は亡き名前が見える。

                                                   初版:2000年秋頃記
                                                 改訂版:2009年6月記

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