落語「水たたき」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、山本周五郎作「水たたき(みずたたき)」によると。
 

 辰造は仕事が出来て、評判の料理屋「よし村」を経営していた。料理の為には板場には女中を入れないしきたりになっていたし、化粧も禁じていた。
 裏に住む武家の二十八になる角田(ツノダ)与十郎の子供が遊びに来ていた。母親は病身だったので時々料理を持たせた。そのお返しと言うほどではないが、掛け軸を持ってきた。貧乏していたが品性豊かで友達付き合いがしたくなるような性格をしていた。夜ごと妻子に差し入れをするようになっていた。2年も経つ内には気心も知れ飲み友達になっていた。気立ても良いので帳場の仕事を依頼し請けてもらった。
 辰造は若い者にはキツく仕事を教え込んでいた。仕事には武士の真剣勝負のそれと同じ気迫があった。しかし、婚礼の後、1年後には、女房は魔が差したのか男と逃げてしまった、との噂があった。

 店が開く前に若い者に小言を言っていたが、最後には店も所帯も持たせるが、意中の恋いこがれた女を女房に迎えるのではなく、別のごく普通の女を貰えと言った。

 飲み友達角田に、辰造のハジというものを聞いてもらった。
 2年前、”おうら”と言う女に惚れてしまった。おうらに会ったのは、下谷の同業者の店の女中で、たまたま聞くと「水すまし」を「水回し」と言って、女中達に笑われていた。十七の女で器量よしと言うより子供臭さが残っていた。申し込んだら、33歳になって女も囲っている道楽者だから先方も相手にしなかった。今までの女は利口でスキもなかったが、おうらは逆で、いつも転んだり失敗や言い違いばかりしていた。
 結婚すると、女中と同じように裏方の仕事は良くやるし、若い者の洗濯もやっていたが言い違いも多く、女中達にも笑われて、そんなときには「あ〜あ、やんなっちゃうわ」と言うのが口癖であった。客にも店の者にも、とても好かれていた。
 亀戸の天神さんに行った時でも、鯉に麩をやりながら、水回しと言っていた、「あ!ちがった。水たたきだわ」、「水がデコボコだったんだな」。
 私は道楽者でしたから、おうらに、「浮気の一つや二つしてみろと言いました」。それほど好きだったんです。何回も言い続けていたが、その内「私、徳さんなら浮気しても良いわ。でも、ホントにしたらアンタ怒ってしまうわ」と言った。「その代わり私には内緒でしろよ」と言っていたが、四万六千日の晩、淺草並木の独立して間もない徳の所に一人で出かけて行った。看板上げて浮気しに行ったようなものであったが、言い出したのは私だから我慢した。おうらは帰ってこなかった。予約を断って5日間店を閉めて飲みあかした。お金で買えない楽しみと思って、浮気を勧めたが、私がバカだったことがよく分かった。「人間で一番大切なものをオモチャにしたようなものだ」。
 あれほど可愛い女房でなかったら、あんな事は言わなかったでしょう。おうらはそれいらい帰らなかった。その後、徳には出入りを差し止めさせ、店の者にはおうらの話はしないように言いつけてきたという。

 それから半月ほど後、渡り料理人久七が来て、「徳さんは、淺草の店を畳んで、八丁堀松屋町で繁盛しています。二階建ての角店で部屋数も倍の店であった。『親方と交際が出来れば』と、言っていた。」と、言い残していった。

 それを夕刻、角田は二人に会ってやれば・・・と勧め、翌朝辰造は出かけて行った。

 料理屋・大吉(だいよし)に入ると、徳は飛んで出てきて、顔をくしゃくしゃにし侘びやらお礼を言った。おうらを一緒にさせてやると言うが、徳は既に別の女と結婚していた。「おうらはどうした!」、「帰ったでしょ」。
 子細を聞くと、「『親方が浮気をしろというの。だから今夜来たが、それは出来なかった。ウチの人が大好きだから、ウチの人の言うことは何でもいつもしていたが、これだけは出来なかった。ウチの人のせいにしているが本当は私がしたかったのかも知れない。そんな悪い女だと私は分かったの。』と言って、付き人を断って一人で帰っていった。だから、そのまま帰ったと思っていた。」と徳は言う。

 親戚の家にいるかも知れないと言うので、たった一人の叔母”いせ”の家に行くと本所中之郷から深川六間堀の裏長屋に転宅していた。行くと、いせが言うには「あのこは、大川に身投げをして、その時に何か悪いものを飲んだと医者は言った。その後遺症で寝たきりの病人になっていた。『辰造に言ったら本当に死んじゃう』、と言われたので連絡出来なかった。」と言われた。
病人のおうらが奥から出てきて、
 「貴方だったの。ドジなことしちゃったの。大川でみずたたき飲んでしまったの。貴方、”みずたたき”でいいんだわよね」、
 「そうだ、そうだ”みずたたき”でいいんだ。おうら、勘弁してくれ」。
 


1.水たたき
 山本周五郎作 六代目三遊亭円生脚色の1時間におよぶ人情噺と言うより朗読です。
  「水たたき」とは「水すまし」のことです。といっても水溜りの上をすいすいと渡っていく「水すまし」という虫をご覧になった方も少なくなっていることでしょう。都会では滅多に見られなくなってしまった昆虫です。
  この噺は男女の愛し合いすぎた人情のもつれが生んだ悲劇というもので、上方落語には無い。いわば暗いイメージの江戸落語特有の人情噺ということになります。笑いもオチもありません。
  円生は東芝EMIスタジオで録音という形で演じています。
  BGMに小唄や義太夫などが流れますが、これは円生自身が演じています。
 

ミズスマシ(水澄まし)ミズスマシ科の甲虫の総称。体長約5〜10mm。紡錘形で、背面は隆起し、黒色で光沢がある。複眼は腹背の2対に分れ空中と水中を別々に見る。水上を旋回する習性があり、小昆虫を捕食。ミズスマシ・オオミズスマシなど。ウズムシ。マイマイムシ。鼓豆虫。アメンボの俗称。
やはり、水たたきとは言わないようです。

アメンボ(水黽)カメムシ目アメンボ科の昆虫の総称。体は細長く棒状で、5〜30mm。脚は長く、先には毛が生えていて水上に浮んで滑走し、小昆虫を捕食する。飴のような臭いを出す。ミズスマシとは別種。アメンボウ。カワグモ。水馬とも書く。
食べると毒性があると言われます。その匂いが甘い飴の匂いなので、アメンボです。
足に毛が生えていて、表面張力で浮いています。下水に含まれる界面活性剤(石鹸等)によって、表面張力が弱まって、浮いていることが出来ず、おぼれて死んでしまいます。その為、絶滅の危機に瀕しています。

 写真付きで広辞苑は、この様に言ってますが、私のイメージでは下図のアメンボだと思っていたのです。恥ずかしながら、ミズスマシは水面に落ちた甲虫類がもがき廻っていると思っていました。トホホ、おバカさんですね。

 ミズスマシの成虫は淡水の水面を旋回しながらすばやく泳ぐ。同様に水面で生活する昆虫にアメンボがいるが、アメンボは6本の脚の先で立ち上がるように浮くのに対し、ミズスマシは水面に腹ばいに浮く。また、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活する。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2.亀戸の天神さん
 江東区亀戸3丁目6、亀戸天神社。菅原道真を祀り、学問の神様として親しまれている。通称 亀戸天神、亀戸天満宮、東宰府天満宮等とも言われる。 http://www.kameidotenjin.or.jp/

八丁堀松屋町;二階建ての角店で、徳さんの料理店があった所。中央区八丁堀3丁目1〜10

淺草並木;徳さんが最初に店を持った所で、おうらさんが泊まりに行った所。台東区雷門2丁目、駒形堂(駒形橋)から浅草寺雷門に至る200m程の”並木通り”(江戸時代は”雷神門前広小路”と呼ばれた)の両側の街。
 落語「江戸の夢」で、奈良屋宗味の葉茶を商う店があったのもここです。

本所中之郷から深川六間堀;おうらの叔母さん、いせが住んでいた所。
本所中之郷;(ほんじょ_なかのごう)隅田川の東、墨田区吾妻橋、東駒形、業平一帯にまたがる広い地域。中之郷○○町と呼ばれていた。
深川六間堀(町);(ふかがわ_ろっけんぼり)隅田川に架かる新大橋東側、江東区森下1丁目、区立八名川小学校の東側。八名川小学校の東側に6間巾(約10.8m)の六間堀があり、その両岸一帯を言った。堀は昭和26年に埋め立てられて宅地になった。八名川公園に古地図と説明板が建っています。

大川;(おおかわ)当時の江戸街中を流れる範囲で言う、現在の隅田川の別称。

下谷;(したや)台東区の西部、上野公園から南一帯の地域。明治から23区が出来る昭和22年までは、下谷區と呼ばれた所。


3.
ことば
■浮気男女間の愛情が、多情なこと、また他の異性に心を移すこと。(広辞苑)
 遊び人であった辰造にしてみれば、いろいろな経験や大人の遊びをさせてあげたかったのでしょうが、おうらさんにしてみれば愛しつくしていた辰造に、なにも不満はなかった。なのに・・・。男と女の情愛の違いが噛み合わなかった悲劇ですが、辰造は高い月謝を払って初めておうらさんの心を理解出来たのでしょう。

■板場;料理屋でまな板を置く所。調理場。転じて、そこで働く者。板前。板元。板さん。板長。

■帳場;商店・宿屋・料理屋などで、帳付けまたは勘定などをする所。勘定場。会計場。料理の請求落ちは大変だが、食べてもいない物を付ける三流店もある。

■渡り料理人;一ヶ所に定住せず職場をあちこち替えて渡り歩く板前。

■四万六千日(しまんろくせんにち)毎年浅草寺で開かれる縁日で、7月9,10日にお詣りすると、四万六千日お詣りしたと同じ御利益があると言われる特別な日。昔は旧暦の7月、今の8月中旬過ぎで、暑い盛りです。この日、境内では「ほおずき市」が開かれ、50万人以上の参拝が有る。四万六千日とは大変良い響きのある言葉ですが、46,000日は年数に直すと126年になります。この日に一回参拝すれば一生参拝しなくてもイイと言うほどの御利益です。二度と浅草寺には行かない? 毎年参拝すると、どうなることか。
 「四万六千日の暑さとはなりにけり」 久保田万太郎
落語「船徳」より引用。

 


  舞台の並木から本所・深川・八丁堀を歩く

 浅草寺前の入り口、雷門は平日でも休日でも、いつも人だかりが絶えない所ですが、その雷門に突き当たる道が並木通りで、淺草並木町と言われた所です。今の交通機関、地下鉄は雷門の東脇に駅がありますし、その東側の松屋百貨店の中には日光・鬼怒川に行く東武電車の始発駅になっています。その先の隅田川には水上バスの発着所があります。反対の西側にはバスの停留所が並んでいますし、その先には最近出来たつくばエクスプレスの浅草駅があります。
 話戻って、今の並木通りは交通の足が絡まらない所なので、歩いている人が雷門と比べて激減しています。江戸時代には淺草御門(浅草橋)から御蔵前通り(江戸通り)を通り、駒形堂の有る所から並木に入り突き当たりの雷門に入っていったのです。ですから、当然この道が一番賑わった所なのです。ここに店を出すと言うことは、大変なことだったのでしょうし、そこで繁盛するというのは、相当の力があったのでしょう。
 そこから八丁堀に店を移して、店構えも大きくなりました。八丁堀はTVや芝居などでご存じ”八丁堀の旦那”と呼ばれる捕り物に関した武家達が住んでいましたし、隣町の新川は霊岸島とも呼ばれていた所です。あの「宮戸川」の早飲み込みの叔父さんが住んでいました。
 話を又戻して、ここは上方や近郊からの物資が到着する江戸の海の表玄関で、今でも酒問屋が多く集まっています。その西側と言えば小網町、江戸橋、日本橋、南に廻って京橋。ここの立地は武士と町人、商人の集まった所で、それも大旦那と呼ばれる人達が多かった所です。
 徳さんの店が、基本がしっかりしていて美味と有れば、繁盛するのは当たり前です。

 おうらさんの叔母さん、いせが住んでいた所はがらりと様子が変わって、貧乏だからと言い、二人の祝言の席にも遠慮していた人です。最初の住まい本所中の郷は、本所の北側一帯を指す地名で、ここに貧乏人が多く住んでいたかと言えばそれは間違い。ただ、志ん生が一時住んだ、なめくじ長屋はこの隣町に有りました。
 深川六間堀は現在埋め立てられて、過日の面影はありませんが、この中の裏長屋に住んでいたと言います。近くには松尾芭蕉も住んでいたくらいですから、閑静な所だったのでしょう。徳さんが店を出した盛り場とちがって、なんの特徴もない静かな所だったのでしょう。
 現在は深川七福神の神明様が隣にありますし、地下鉄の森下駅があって、街としては賑やかです。

 

地図

 

 おうらさんが辰造の胸に帰った記念すべき、六間堀町です。現在の地図で見ても、の字状に埋め立てた跡が分かります。猿小橋跡は落語「札所の霊験」で仇討ちがあった橋です。深川神明宮は落語「一目上がり」で訪ねた所です。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

亀戸の天神さん;江東区亀戸3丁目6。通称 亀戸天神)
亀戸天神社。菅原道真を祀り、学問の神様として親しまれている。梅、藤で有名。境内の心字池には鯉や亀がいます。そこに水たたきならぬミズスマシが居たのでしょう。
ですが、私はここの池で泳いでいるのを見たことがありません。

八丁堀松屋町;(中央区八丁堀3丁目1〜10)
二階建ての角店で、徳さんの料理店があった所。
楓(かえで)川で、水が流れていた所は現在、首都高速道路になって車が流れています。たからばし(宝橋)上から南を俯瞰しています。左側の街並みが元・松屋町。

淺草並木;(台東区雷門2丁目並木通り)
徳さんが最初に店を持った所で、おうらさんが泊まりに行った所。
正面に浅草寺の雷門。後ろが駒形橋で駒形堂があり、駒形堂は隅田川に面して、現在の駒形橋西詰めに有ります。

駒形堂;(台東区雷門2−3)
駒形橋西詰め交差点です。写真左に駒形堂、右の緑色の橋が隅田川に架かる駒形橋です。交差点左にYの字に道が枝分かれ、右は本道の江戸通り(御蔵前通り)で、左が話の並木通り。
道からすれば、ここでおうらさんは大川に? 大川の駒形橋を渡った所が中の郷です。(当時は橋は有りませんでした)

本所中之郷;(墨田区吾妻橋、東駒形、業平一帯にまたがる広い地域)
写真は三つ目通り本所から北方向(東駒形)を見ています。 ここら一帯が中の郷と呼ばれた地域。

深川六間堀(町);(江東区森下1丁目)
隅田川に架かる新大橋東側、区立八名川小学校の東側付近。
写真左の樹木があるのが「八名川公園」その先が「八名川小学校」。道路は六間堀の西側堤道路跡、右側の建物群が埋め立てられた六間堀跡で、街の境界線が走っています。狭い幅の向こう側に東側堤道路跡の道路があります。

大川;(おおかわ。隅田川)
当時の江戸市中を流れる範囲で言う、現在の隅田川の別称。
この川にミズスマシが居たのでしょう。今では見つける事も出来ません。
写真は吾妻橋で、大川を渡ると右側に雷門が見えてきます。その反対側が並木通りです。

                                                                  2009年7月記

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