落語「花見小僧」の舞台を歩く
   

 

  春風亭正朝の噺、「花見小僧(おせつ徳三郎・上)」によると。
 

 ある大店の一人娘の”おせつ”が何回見合いをしてもいい返事をしない。それは”おせつ”と”徳三郎”という店の若い者と深い仲になっているらしいと御注進があった。本人や婆やさんに聞いても話はしないだろうから。主人は花見の時期に娘と徳三郎にお供をした小僧から二人の様子を聞き出そうとした。が、小僧も利口者で簡単には口を開かない。「子供の物忘れはお灸が一番」と足を出させ、宿りを年2回から毎月やるし、小遣いを増やしてやるからと、少しずつ口を開かせた。

 去年の春のことで忘れたと言いながら、白状するには、「婆やさんと四人で柳橋の船宿に行きました。お嬢さんと徳どんは二階に上がり、徳どんは見違えるような良い着物を着ていました。船に乗って隅田川を上り、向島・三囲(みめぐり)の土手に上がりました。その先は忘れました」。「そんなこと言うとお灸だ」。 
 「それじゃ〜・・・、 花見をしながら植半で食事をしました。会席料理で同じお膳が四つでました。みんなからクワイをもらってお腹がイッパイになったところに、『散歩しておいで』と婆やさんに言われましたが、お腹が苦しくて動けませんと言った。そしたら、お嬢さんにも怒られ、おとつぁんのお土産に『長命寺の前の山本で桜餅を買っておいで!』と言われた。帰ってくると酔った婆やさんだけで二人は居ません。『お嬢さんは”しゃく”が起きたので奥の座敷でお休みになっている』と言うので、行こうとすると『お前は行かなくても良い。お嬢さんのしゃくは徳どんに限るんだよ。本当に気が利かないんだから』と言われ、『はは〜ぁ、そうかと』と、ピーンときた。それから外に出て庭にいると、二人が離れから出てきました。お嬢さんは『徳や、いつもはお嬢様、お嬢様と言っているが、今日からは”おせつ”と言っておくれ』そうすると徳どんは『そんなこと言われても、お嬢様はお嬢様、そのように言わせてもらいます』、『おせつですよ』、『お嬢様ですよ』。なんて、じゃれあっていました。」と、顛末を全てしゃべってしまった。

 ご主人はカンカンに怒って、おしゃべり小僧には約束の休みも小遣いも与えず、徳三郎には暇が出て、叔父さんの所に預けられた。

 


 落語ですがオチはありません、だって上(序)が終わっただけですから。「おせつ徳三郎・上」はここまでですが、後半は「刀屋」として話が続いていきます。
 

1.向島の花見(隅田川東岸) 第62話刀屋」より

柳橋(やなぎばし);第22話「船徳」に出てくる柳橋がここです。 徳さんが浅草に向けて船をこぎ出す船宿がやはりここにありました。おせつさんや徳三郎御一行様が乗った船は隅田川で三ベン回ってから上っていった、なんて事はないでしょうね。

向島・三囲第32話「野ざらし」に出てくる、三囲(みめぐり)神社(墨田区向島2−5) がここです。その前の隅田川土手が三囲の土手。同じく、桜餅の山本(墨田区向島5−1)もここで詳しく解説しています。(2.に再録)

白鬚神社(しらひげじんじゃ、墨田区東向島3−5)白鬚橋はここから名前が出ています。また、隅田川七福神の寿老人を祀った、白鬚橋の南にある古い神社です。
 天歴5年(951)慈恵大師が近江の白鬚大明神の分霊を祀ったのが始まり。主神の猿田彦大神が天孫降臨のとき道案内をしたというので、後世お客様を我が店に案内してくれる神として 、また、正しい道を示す神として信仰が篤かった。
 社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎と吉原の松葉屋半左衛門が文化12年に奉納したものです。写真は八百善の奉納したもの。


植半;明治時代の代表的な料理屋。隅田川白鬚橋上流の木母寺(もくぼじ、堤通2−16)の近くに、植木屋から高級有名料亭になった植半が有ったが今は無い。 植半が寄進した石塔「奉納 永代大念佛 植半」(明治十一年四月)が,今でも木母寺の梅若堂の後ろに立っています。情人(いろ)でもこさえて出会いをするには、向島水神の八百松か植半、三囲の柏屋等とも言われていた。
 お嬢さんの言い付け通り桜餅を買いに行ったが、片道約2km有り、桜の季節買うのにも時間が掛かったでしょうから、2時間近くは掛かった事になります。本当はもっと遠くの品川や川崎まで行かせたかった (帰ってこれない!)でしょうが、小利口な小僧なんか連れて来るんじゃなかったと思っていた事でしょう。
 「本当に気が利かないんだから」と言われれば「はは〜ぁ、そうか」と、直ぐに頭が回る小僧です。未だ何でだか分からない私とは雲泥の相違です。やっぱり”しゃく”は苦しーんでしょうね(違うって?どこが?)。

 

 東白鬚公園の中にある木母寺から見た白鬚橋方向の路。 
この近所の植半から歩いて小僧さんは嫌々長命寺の桜餅を買いに行かされます。


 
2.長命寺桜餅(墨田区向島5-1-14) 第32話「野ざらし」より
桜餅縁起・・・ 下総銚子の山本新六という人が、元禄4年(1691)より向島長命寺の寺男として住み込みました。そして時は江戸時代、享保2年(1717)のこと、 当時江戸向島の長命寺の門番をしていた山本新六さん、毎日毎日向島堤の桜の落葉の掃除に手を焼いておりました。そこで、この桜の葉を何かに使えないものかと考え、まず作ってみたのが桜の葉のしょうゆ漬け。しかしこれはあまり売れませんでした。そこで、薄い小麦粉の皮に餡を包み、桜の葉を塩漬けにしたものにこれを巻いた桜餅が誕生しました。これは大変はやったようで、1日700個以上出ていたようです。それから二百八十年余、隅田堤の桜と共に名物となった。その後、今に至るまで江戸の名物として長く花見客に愛されてきました。当時一年間に25万個仕込んだというのですから、いかに評判になったのかがわかります。

 さてこの桜餅を関東風とし、発祥の寺の名をとり「長命寺」と呼んだりします。それに対し関西風の「道明寺」と言う桜餅もあります。どちらも桜の葉に挟まっているのは変らないのですが、皮が違います。「長命寺」は小麦粉の皮で、餡をまるめこんだりはさんだりします。そのため見た目は筒形や半円形のものが多いのです。一方「道明寺」は道明寺粉というツブツブの粉で作ったお餅に餡を包み丸めてあるので、見た目はタワラ型のものが多いのです。

■明治の俳聖正岡子規が当店の二階を月光楼と称して一夏を過ごした折、
 「花の香を若葉にこめて かぐはしき桜の餅家づとにせよ
  葉桜や昔の人と立咄 葉隠れに小さし夏の桜餅」
などの歌を残しています。

   通常見る桜餅は餅1個に対して桜の葉1枚であるが当店のは、2、3枚を使用している。

ホームページより)

 

桜餅の葉っぱは何か
 オオシマザクラという種類で、伊豆半島や伊豆大島に自生しており、ソメイヨシノの起源とされている。
 桜餅用の葉っぱの最大の生産地は、西伊豆の松崎町。 ここで、全国の70〜80パーセントを生産。
 葉っぱの摘み方は、
 冬の間にオオシマザクラの木を短く切る。そうすると、そこから枝が伸びてきて出てきた若い葉を5月下旬から8月にかけて摘み取り、半年間樽で塩漬けして出荷している。年間900万束(1束=50枚だから、4億5千万枚!)を生産 。ちなみに、葉っぱは1回摘み取った後、肥料を与えるとあとからどんどん出てくる。摘み取る→施肥を繰り返し、シーズンが終わると、冬まで休ませる。この桜の葉、桜餅にしか使えないように思えますが、松崎町では沢山の桜の葉のお土産があるようです。

■長命寺(弁財天) (墨田区向島5−4)

  桜餅店の裏と言うか、表にある長命寺は、弁財天を本尊に祀っています。 

 天台宗延暦寺の末寺といわれ、いつ建設されたかは不明ですが、古くは宝寿山・長命寺という名前だったと伝えられています。この名の由来は、三代将軍徳川家光が鷹狩にて急病になり、近くにあったこの寺の井戸の水で薬を服用したらすぐに治癒したことからと伝えられています。

 向島は雪見の名所。ここ長命寺には、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶ所まで」の句碑が有ります。


3.桜の小噺

 
えー、春になって、お花見てえなぁ結構なもので、その時分になるってえと、花のほうでいろいろと相談する。夫婦さくらだの、うば桜・・・・お婆さん桜だの、子供桜の色々な桜がございます。
「ねえ、おまえさん、見物の人がチラホラ来るようになったよ。あたしはもう咲こうと思うんだが、どうだろうねえ」
「そりゃぁ咲いたっていいけど、おめえは一重だろう」
「あたり前だよ、八重なんぞ咲いて浮気なんぞしやしないから安心おしよ」
てんで、夫婦桜が相談をしているってえと、お婆さん桜が、
「咲くんなら、あたしが一番先にさせとくれ」
「おいおい、お婆さん、あわてて咲かなくったっていいよ。えー、そんな皺だらけの花なんか、あとのほうで、ちょっと咲きゃいいんだよ」
「なに、そうでないよ、あたしは先が短いんだから、早く咲くよ」
ってんで、こういうなぁ、春の小噺でございます。

 志ん生江戸ばなし   古今亭志ん生  立風書房


4.宿り
 
(やどり。やど‐さがり【宿下がり】の略)
 奉公人が暇を貰って親元または請人(ウケニン)の家に帰ること。俳諧では特に、正月の藪入(ヤブイリ)をいう。やどおり。新年。 広辞苑
 先代三遊亭金馬「藪入り」に、当時の藪入りの情景が親子の愛情を交えて、ほほえましく描かれています。

 


  舞台の隅田公園を歩く

 小僧さんが植半から嫌々ながら山本の桜もちを買いに行かされた道順に沿って歩くことにします。
 まずは「木母寺」です。この近所に料理屋「植半」が有ったと言います。ここは墨田区の北端に辺り防災上の起点になっている関係上、東白鬚公園の東側には防災スクリーンの役目をする高層住宅が屏風のように並んでいます。その西側に木母寺も移転させられてしまいました。この為、ここら辺に有った建物や歴史上のものは整備 (抹消)されてその場所が判明出来ません。

 川沿いに下ると、隅田川に架かる「白鬚橋」に出ます。この白鬚橋(しらひげばし)が東京に住む私たちは発音が出来ない一つなのです。”しらしげ”と発音しているのが普通ですし、早口言葉で3回など、到底言えません。また、この鬚ですが「鬚」はあごひげ、「髭」くちひげ、「髯」ほおひげ、と意味が違ってきます。
 墨堤通りに出て南下すると、

 「白鬚神社」が左手に見えます。江戸の切り絵図(地図)にある諏訪神社を合祀して、今にいったています。ここが寺島ナスの名産地だったなんて初めて知りました。それもそのはず、寺島ナスなんて何処にもありませんし、見たことも食べたこともありません。小松菜や練馬大根、亀戸大根の様に都内では絶滅寸前どころか、絶滅してしまったのでしょう。ここから左に入っていくと都立の「向島百花園」に行けます。ここら辺りは昔ながらの道で整備されず舗装されてしまったので、細い曲がりくねった道が蜘蛛の巣のように延びています。迷子にならないで下さいね。 白鬚神社に参拝したら元の道、墨堤通りを南下します。

 道は左と右に大きく分かれますが、左は向島料亭街。今でもパリパリの向島芸妓さん達がおいでおいでしています。今回は目をつむって右の墨堤通りへ。隅田川の土手にぶつかって道なりに左に曲がります。その曲がった左角が、「長命寺桜もち」です。 お疲れさま、到着です。お店の右側奥に「長命寺」の本堂が見えます。ここからは入れませんので裏(表?)に回ると正面の山門があります。桜を見ながらのコースですからそれ程でも無かったでしょう。桜もちを買ってまた木母寺まで帰ることになる小僧を後に、南下します。

 左に見えてきたのが「三囲神社(みめぐり) 」の鳥居です。ここは裏門で花見時以外常時閉まっていますので、表側に回って参拝しましょう。墨堤通りの右側、土手は隅田堤で「三囲の土手」と言われた所です。おせつさん一行はここで船から下りて植半まで桜を見ながら花見と洒落たのでしょう。今は土手と言ってもコンクリートの塀で、刑務所の塀と同じくらい殺風景です。その土手を川側から見ると上の写真になります。

隅田公園花見風景 2005.4.10.撮影

全画像同時表示、重ければ一つずつ開きましょう。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

木母寺(もくぼじ、堤通2−16)
隅田川を背中に木母寺の写真を撮っています。右側に本堂、左側に四角い墨堤霊廟、その奥にガラスケース(?)に入った梅若堂があります。外に出て、突き当たりは高層住宅で防災スクリーンの役目も担っています。
右写真:梅若堂側入口

隅田川神社(堤通2−17)
旧名、水神または水神宮と言い、隅田郷の総鎮守です。木母寺南隣にあります。
ここも、高速道路建設で昭和50年南に移動しました。移動したこの地が、料亭「植半」と並んで有名だった「八百松」が有った所です。今の本殿の前に八百松の庭の池が有りました。
本堂の扉に映る桜の花が見事です。過日の華やかさが覗けたようです。

白鬚橋(しらひげばし)
当時にはまだ架かっていなかった明治通の橋です。隅田川の下流に「桜橋」(人道橋)、「言問(こととい)橋」と続きます。
 都鳥(ゆりかもめ)が舞っています。
 この場所は、もともとは橋場渡しがあった所で、橋場の地名は今でも西岸に残る。大正2年に木橋が作られたのが最初で、対岸の墨田区側の白鬚神社にちなんだ命名である。現在の橋は昭和6年の完成で、全長168メートル、全幅23メートル。

白鬚神社(しらひげじんじゃ 墨田区東向島3−5)
 かって、この近辺は寺島村と呼ばれていた。元禄の頃一帯は水田でしたが、肥沃な土地でナス作りにも適し、「寺島ナス」の名産地として有名であった。「形は小なれども早生ナスと呼び賞味す」(1828 新編武蔵風土記稿)と記されていた。のどかな田園地帯であった。

長命寺墨田区向島5−4
この名の由来は、三代将軍徳川家光が鷹狩にて急病になり、近くにあったこの寺の井戸の水で薬を服用したらすぐに治癒したことからと伝えられています。
 向島は雪見の名所。ここ長命寺には、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶ所まで」の句碑が有ります。

山本の桜もち(墨田区向島5-1-14)
正面入口。すぐ裏(表?)が長命寺

三囲(みめぐり)神社(墨田区向島2−5)
錦絵の題材として桜とともによく描かれている、墨堤沿いの鳥居。
 境内に「雨乞いの碑」が有ります。 これは、元禄6年(1693)は非常な干ばつの年で農民達は困って、境内に集まり鉦や太鼓を打ち鳴らして雨乞いをしていた。ちょうど通りかかった俳人其角は、能因法師などの雨乞いの故事にならい「遊(ゆ)ふた池や田を見めぐりの神ならば」と詠んだ。翌日、雨が降ったと言われています。

                                                       2005年3月記

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