落語「野ざらし」の舞台を歩く

  
三遊亭円遊の噺、「野ざらし」によると。

  独り者の”八っぁん”が、朝一番で同じ独り者の隣の隠居の家に訪ねてくる。夜中に女の声がするので壁越しに覗くと16〜19のいい娘がいた。そのいい娘はどうしたのだというと、向島三囲(みめぐり)神社の土手下で釣りをしていると、雑魚一つ掛からない。帰ろうとすると、烏が三羽飛び立ったので見ると人骨野ざらし、ドクロが転がっていた。回向を施し酒を掛けると気のせいか赤みをさした。夜中目を覚ますと、向島からお嬢さんが訪ねてきた。聞くとこれで浮かばれますので、今宵一晩お身体をさすりましょうと言うわけで、あれは幽霊がお礼に来たのだ。と聞いて、釣り嫌いの八っぁんは無理矢理竿を 借り出し、向島へ。

 隠居の所に来た娘より年増の方が良いな、とか釣り人を見てどんな女を釣るんだ〜、と怒鳴り、大勢の釣り人をかき分け、餌も付けずに竿を出すので注意をすると、餌なんかいらない、鐘が鳴れば良いので・・、と川面をかき回す。注意をすると、かき回すとはこうするのだ!と、本気でかき回してしまう。釣り人たちはあきれて、ただ見ているだけで、八っぁんの一人舞台。置き忘れた弁当を食べてしまうし、「これで弁当と女が付いて毎日来ても良い」と言う。そこにムクドリが飛び立ち、今晩の色事をああでもないとか、こうでもないとか想像していると、自分のアゴを釣ってしまう。

 

 どの落語家さんも八っぁんの向島での独り相撲を、おもしろ可笑しく楽しんで演じています。ここの部分が聞きどころ。だいたいはここで終わっています。

 この話には続きがあって、アシがガサガサときて、ムクドリが飛び立った後に骨があった。手向けの句と酒を掛け、場所を告げて、今晩待ってるよと言い残す。それを屋形船の中で聞いていた太鼓持ち(幇間)が聞きつけて、女との約束と思い、祝儀をもらいに八っぁん家に訪ねてくる。「何だお前は」「タイコです」「しまった、昼の骨は馬の骨だったか」。

 野暮ですが、オチの説明。三平さん流に言うと、どこがおもしろいかと言えば・・・、(身を乗り出し)太鼓に張る皮は馬皮ですョ〜。(扇子の要を高座にポンポン)ですから・・・、女でなくタイコ(幇間)が来てしまったので、あの骨は馬の骨であったのであろう。と・・。(ドーモすいません)
 



1.
舞台の場所
 
円遊は向島三囲(みめぐり)神社の土手下で釣りをしている事になっているが、明治の初め頃には既に開けていて、上流の言問団子、高速6号向島入り口辺りではないかと思われる。今もこの辺りは土手下に石を入れて昔の風情が少しだけ残っている。しかし、野ざらしが有るような場所ではなくなった。
 

季節 
 
円遊独特の美文調の名調子につられて、聞き流してしまうが良く聞くとつじつまの合わない所がある。
◇ 
回向の句「野を肥やす骨をかたみにすすきかな」で、季節はススキで秋。
◇ その前に「四方(よも)の山々雪解けて、水かさまさる大川の、上げ潮みなみ(南風)、岸辺をさらう波の音が、だぶり、だぶりと・・」、雪解けて水かさまさるは春先のこと。その上、波の音が、だぶり、だぶりと・・と言えば水量が多い。 これでは釣りにならない・・・でしょう。
◇ そのうえ「枯れ葦(よし)が風もないのに、ガサガサ・・」季節は冬。南風が吹いて、波が音を立てているのに、風が無くなり葦がガサガサ。烏が三羽飛び立った。隠居が不思議がる以上に私も驚いた。
 

3.鐘の音
 
「浅草寺弁天山で打ち出す鐘が、陰にこもってものすごく」鳴るところで、八っぁんは、「上野と浅草では鐘の音が違う。上野は金が入っているから音が高い。」と言っているが、間違い。上野と浅草松尾芭蕉の俳句、 ”花の雲 鐘は上野か 浅草か”で有名で、落語「時そば」で紹介した時の鐘。金が鋳込まれているのは浅草の鐘。「五代将軍綱吉公の寵臣牧野備後守成貞が黄金200枚を喜捨し、地金中に鋳込ませ・・」と、区の説明書きが立っている。
 

4.出典
 
この噺は元来が上方の噺で「骨釣り」と言い、桂米朝などもよく演っている。その米朝の噺によると、
 安治川を屋形船で下って、旦那と芸者、幇間とで金を掛けて釣りをする。幇間がドクロを釣り上げてしまう。釣りも途中で止めて、お寺で供養してもらい、家に帰って寝てしまう。夜中、幇間の家に 幽霊の娘が訪ねてきて、お礼をする。
 隣のやもめが翌朝訪ねてきて、あんな綺麗な娘を連れ込んでと、文句を言う。事情を説明すると、自分も行こうと自前で船で釣りに出る。しかし、魚ばかり釣れて骨は釣れない。あきらめて、中州に小便をしに上がると骨があったので、ふねをまわしてお寺で供養をしてもらい家に帰ってきた。夕方からまだ来ないと声を上げていた が、寝ていないと来ないと言うので、寝て待っていると・・・。
 深夜、「開門、開門!」すごい声で、大男が入って来た。やもめが驚いて聞くと石川五右衛門だという。「お礼に、おとぎなどしましょう」と言うので「とんでもない!男同士でどうしようと言うんだ。  それで分かった、お釜に縁がある」。

 『骨釣り』をもとに、落語「こんにゃく問答」を作った、江戸の二代目林家正蔵の作とされる。これを初代三遊亭圓遊が現在の滑稽噺の形に改作した。

  その原典となる噺が、
 ある人が広い野原を通っていたとき、白骨を見つけたので、「やれやれ、気の毒に・・・」と、ねんごろに埋めてやって、家に帰ってきた。すると、その夜のこと門を叩く者があるので、「どなたじゃ」と問うと、「妃(ひ)でございます」と言うので、門の内に入れてやると、それは楊貴妃(唐の玄宗皇帝の妃。安祿山の謀反の時殺された)の霊で、白骨を埋めてくれたお礼を述べてから、枕を共にして帰って行った。それから後に、また野で白骨を見つけたので、それも埋めてやって帰って来た。その夜、門を叩いて、「わたしは飛(ひ)でございます」と言う、内へ入れてみると、これは『三国志』の張飛(ちょうひ=蜀の三傑の一人の武将。呉を討伐に赴くとき部下に殺された)の霊であった。そして、白骨を埋めてくれたお礼を述べてから、「今宵は枕を共にして、嶋屋の番頭(男色の異称で、江戸小伝馬町の嶋屋幸兵衛という呉服屋の番頭が小僧に怪我させたと言う)を、きめとうござる」。
 

5.言問団子(墨田区向島5-5-22
 古より、江戸郊外の向島は四季折々の眺めに富んだので、文人墨客の散策するもの多く偶々杖を曳く風雅の人の求めに応じて手製の団子や渋茶を呈したのがそもそも言問団子の由来です。 明治の文豪、幸田露伴の好物でした。 幸田露伴はこの近所に住んでいた。

 「名にしおはばいざ言問はん都鳥
   我が思ふ人はありやなしやと」    在原業平

の歌から取った屋号の江戸名物、団子屋さん。

だんご(小豆・白・味噌餡入)500円 

(ホームページより)

 

 

 

 串にさしていない事、そして小豆餡(あん)・白餡・みそ餡の三色を特徴とする言問団子は、江戸時代より同じ味を守り続けて、お米の粉を餅状にした小豆餡と白餡で包んだ団子と白玉粉を餅状にしたものをクチナシよりとった色粉で 青黄色にし、中にみそ餡を入れたものの3種類があります。江戸のお菓子にしては珍しくしゃれています。

■団子 唐菓子の団喜から変化した物と考えられるが、団子もまた全国的につくられその種類も多い,江戸文明の最高潮の時代である安永,天明頃、江戸で有名だったのは、宋つき団子,笹団子,さらしな団子,おかめ団子(落語「黄金餅」で紹介)、吉野団子、言門団子 、新宿・追分け団子であった。
 串に刺す団子の数も色々あって、室町時代の金連寺の「浄阿上人絵伝」には、薄茶に共すらしく二個ずつさしてある。御所の菓子の「天の川」も黄色と薄紅色の二個であり、江戸の羽二重屋、やなぎ屋は四個、下賀茂の「みたらし団子」や稲荷「はかせ」などは五個である。

 話はそれますが、この隅田公園を走る道路の白髭橋の方(北)に行くと、右側に小さなお団子屋さんが有ります。昔話の「桃太郎」に出てくるお供の動物にあげたお団子、「キビ団子」。その「キビ団子」屋さんが有ります。串に刺した小さな団子で、珍しさで一度は食べてみるのも良いでしょう。話の種になりますよ。

 「明治初めの言問団子」 開化写真鏡〜写真からみる幕末から明治へ〜 大和書房刊  2011.8.追加


 
6.長命寺桜餅(墨田区向島5-1-14) 
桜餅縁起・・・ 下総銚子の山本新六という人が、元禄4年(1691 )より向島長命寺の寺男として住み込みました。そして時は江戸時代、享保2年 (1717)のこと、 当時江戸向島の長命寺の門番をしていた山本新六さん、毎日毎日向島堤の桜の落葉の掃除に手を焼いておりました。そこで、この桜の葉を何かに使えないものかと考え、まず作ってみたのが桜の葉のしょうゆ漬け。しかしこれはあまり売れませんでした。そこで、薄い小麦粉の皮に餡を包み、桜の葉を塩漬けにしたものにこれを巻いた桜餅が誕生しました。これは大変はやったようで、1日700個以上出ていたようです。 それから二百八十年余、隅田堤の桜と共に名物となった。その後、今に至るまで江戸の名物として長く花見客に愛されてきました。 当時一年間に25万個仕込んだというのですから、いかに評判になったのかがわかります。

 さてこの桜餅を関東風とし、発祥の寺の名をとり「長命寺」と呼んだりします。それに対し関西風の「道明寺」と言う桜餅もあります。どちらも桜の葉に挟まっているのは変らないのですが、皮が違います。「長命寺」は小麦粉の皮で、餡をまるめこんだりはさんだりします。そのため見た目は筒形や半円形のものが多いのです。一方「道明寺」は道明寺粉 というツブツブの粉で作ったお餅に餡を包み丸めてあるので、見た目はタワラ型のものが多いのです。

■明治の俳聖正岡子規が当店の二階を月光楼と称して一夏を過ごした折、
 「花の香を若葉にこめて かぐはしき桜の餅家づとにせよ
  葉桜や昔の人と立咄 葉隠れに小さし夏の桜餅」
などの歌を残しています。

  通常見る桜餅は餅1個に対して桜の葉1枚であるが当店のは、2、3枚を使用している。

ホームページより)

 

桜餅の葉っぱは何か
 オオシマザクラという種類で、伊豆半島や伊豆大島に自生しており、ソメイヨシノの起源とされている。
 桜餅用の葉っぱの最大の生産地は、西伊豆の松崎町。 ここで、全国の70〜80パーセントを生産。
 葉っぱの摘み方は、冬の間にオオシマザクラの木を短く切る。そうすると、そこから枝が伸びてきて出てきた若い葉を5月下旬から8月にかけて摘み取り、半年間樽で塩漬けして 出荷している。年間900万束(1束=50枚だから、4億5千万枚!)を生産ちなみに、葉っぱは1回摘み取った後、肥料を与えるとあとからどんどん出てくる。
 摘み取る→施肥を繰り返し、シーズンが終わると、冬まで休ませる。この桜の葉、桜餅にしか使えないように思えますが、松崎町では沢山の桜の葉のお土産があるようです。

長命寺(弁財天) (墨田区向島5−4)

  桜餅店の裏と言うか、表にある長命寺は、弁財天を本尊に祀っています。 

 天台宗延暦寺の末寺といわれ、いつ建設されたかは不明ですが、古くは宝寿山・長命寺という名前だったと伝えられています。この名の由来は、三代将軍徳川家光が鷹狩にて急病になり、近くにあったこの寺の井戸の水で薬を服用したらすぐに治癒したことからと伝えられています。

 向島は雪見の名所。ここ長命寺には、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶ所まで」の句碑が有ります。
 


  舞台の隅田公園を歩く
 

 江戸で2番目に古い隅田川七福神の一つ、恵比寿と大国天を祀る三囲神社を”ふりだし”に、この神社の裏を流れる隅田川の土手に出ます。土手は道路も走っていて、ゆっくりと散歩が出来るような雰囲気はありません。その上、この頭上に首都高速6号(向島)線が走っています。雨が降ってもぬれないのが気休めになるだけですが、情緒はありません。でも、桜の「お花見」の頃は大賑わいです。
 道路を渡って、コンクリート製の護岸に登るとやっと隅田川が見えますが、緑の川岸のイメージではなく大きなどぶ川のへりみたいです。対岸には昔吉原に船で通う、山谷堀があったはずですが今は埋め立てられて、こちらと同じような護岸になってしまいました。ここには”竹屋の渡し”が有った所です。
 言問橋を背に護岸に沿って上流に歩き始めます。桜橋が見えてきました。この橋は隅田川に架かる唯一の人道橋です。上空から俯瞰すると、アルファベットの”X”の形をしています。落語「たがや」で紹介した花火で、隅田川花火大会は第1会場として、ここで打ち上げられます。話し戻って、いました、居ました、何人かの釣り人がハゼを釣っています。10cm位の型の良いのが上がっていますし、セイゴも混じっています。ノー天気な八っぁんが居ないので、みんなゆったりと釣りを楽しんでいます。
 桜橋を越えると、そこの護岸が”テラス”(川に突きだしたプラットホームみたいな遊歩道)から、割石に変わりました。人は歩けませんが、この方が風情がありますし、魚にも良いような気がします。だって、この方がより自然に思えるからです。ここが「野ざらし」の舞台です。昔は寂しい所だったのでしょう。「枯れ葦(よし)が風もないのに、ガサガサ・・」と、烏が三羽飛び立つのがここです。「野を肥やす骨をかたみにすすきかな」と言うほどの所ですから。
 川岸を後に、左前方が首都高入り口「向島」です。私は歩きですから横切って渡った所が、「言問団子」の店です。通りを挟んで真向かいに「長命寺・桜餅」店があります。
 ここで一服。濃いお茶を!

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

三囲(みめぐり)神社 (墨田区向島2−5)
 商売繁盛の神様として、恵比寿と大国天をまつっているのが、鳥居と石碑の多い三囲神社です。特に墨堤沿いの鳥居は錦絵の題材として桜とともによく描かれています。昔は田中稲荷と呼ばれていた三囲神社、その名前の由来を紹介します。
 文和年間(1352〜1356)、近江国三井寺の僧であった源慶が、巡礼中に牛島(現向島)で荒れ果てたほこらを見つけました。源慶は、その荒廃ぶりを悲しみ修復を始めたところ、土の中から白いきつねに乗った翁の像が出てきました。そしてその時、どこからともなく白ぎつねが現れて、翁の像の回りを3度まわって、またどこかに消えて行きました。この故事から「みめぐり」の名前が付いたといわれています。
言問団子 (墨田区向島5−5)
 串にさしていない事、そして小豆餡(あん)・白餡・みそ餡の三色を特徴とする言問団子。
長命寺の桜餅 (墨田区向島5−1)
 裏(いえ表?)が長命寺で、長命寺桜餅は、1月と4月は予約をとらないと売切れてしまうほどの人気があります。
隅田公園 (墨田区側)
 隅田川の東川岸にある土手上の細長い公園。南は東武鉄道の鉄橋から北はここら辺りまでが、桜で有名。公園はまだ北に延びていますが。
今はその上に不粋な首都高速の橋桁が通っていて、昔の風情はなくなってしまった。しかし今も桜の時期には花に酔いしれる大変な人手があります。
 この写真の左隅に見えるのが、長命寺の桜餅の店。カメラマンの背中が、言問団子の店。右側が隅田川。
言問団子(桜餅)脇の隅田川
 コンクリートで固められた土手の内側はテラス(しゃれたネーミングですが、遊歩道とでも言うのでしょうか)になっています。ここ2〜30mが石を入れた川岸になっていますが、まもなく写真前方のような、テラスになってしまうようです。(工事案内板から)。残念です。ここに葦(アシ)が生えていて、ガサガサときたのでしょう。 か?
桜橋の下で釣りをする人
 人道橋で上から見るとX型をしたしゃれた橋が桜橋です。その下でハゼ釣りをしている人が何人かいました。結構釣れているようです。
 左側が下流。言問橋が架かっています。その対岸が浅草。やはり、川岸は隅田公園と言います。
桜橋を背景に釣りをする人
 魚ならぬ屍を釣りに来る、おっちょこちょいの江戸っ子八っぁんが来る前に沢山釣っておいてください。と、本心思いました。釣り人には通じませんでしたが・・・。

                                                       2001年10月記

次のページへ    落語のホームページへ戻る

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送