落語「刀屋」の舞台を歩く

  
 

 古今亭志ん朝の噺、「刀屋」(おせつ徳三郎・下)によると。
 

  御店のお嬢さん”おせつ”さんの婿取りの婚礼が行われると聞いた”徳三郎”。御店に奉公している時は、二人は将来を約束したいい仲であった。あれだけ約束したのに婿を取るのかと思ったとたん、カーッとなって刀屋が並んだ日本橋村松町に飛んで行った。夕方、一軒の刀屋に入って「望みはないが、とにかく切れる刀を譲ってほしい」と見つくろって貰う。素晴らしい刀であったが高価であったので、もっと安価な刀で二人だけ切れればいいだけの刀をと頼んだ。主人は事の裏を読んで徳三郎の気持ちを聞き出し説教をした。友人の事だとすり替えて、二人の仲を裂いて婚礼をあげるので、式に斬り込んで彼女と婿さんを切り殺してしまう。「貴方は?」、「ッ・それを手伝うのです」、「それでは主人殺しで大変な事になりますよ」。それだったら、”入水”と言ういい方法がある、がどうか。と冗談半分に言ったが徳三郎は本気になってしまった。その時、迷子捜しの一行が入ってきた。十八になるお嬢さんが迷子になった、と言うより足袋裸足で家から逃げ出した。それを探している、と言う。

 それを聞いて、おせつさんの事だとわかり、徳三郎はあわてて店から飛び出して、新大橋を渡って叔父さんの住まい深川佐賀町に来てみると、人とぶつかってしまった。暗いので分からなかったが、おせつさんであった。二人はしっかりと抱擁した。ホウヨウと言っても仏の法要ではないですよ。(^_-) と、志ん朝。 「迷子や〜い、迷子や〜い」の声に追われて、手に手を取って二人は仙台堀から中木場辺りに出てきた。木場の材木の影に隠れて、やり過ごした。
 「二人で死んでしまいたいが、初めてなもんで分からないがどうすればいいかね」、「お嬢さん、それでは川に飛び込みましょう」、と言う事で「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら、手と手を取って川に飛び込んだ。しかし川には筏がぎっしり繋いであったので、その上に「ドスン」と落ちてしまった。迷子捜しがその音に気付いて探し当てた。「良く助かったね」「助かったのはご主人様の日頃からの御祖師さまへの信心のお陰だね」「そうかぃ ?」「 そーだとも、御材木(お題目)のお陰で助かりました」。

 


1. 「おせつ徳三郎」には当然”上”があります。「花見小僧」と言って、その粗筋は、

 ある大店の一人娘の”おせつ”が”徳三郎”という店の若い者と深い仲になった。それで親の勧める縁談にも耳を貸さない。主人は花見の時期に娘と徳三郎にお供をした小僧 から二人の様子を聞き出そうとしたが、小僧も利口者で簡単には口を開かない。「子供の物忘れはお灸が一番」と足を出させ、休みや小遣いをやるからと少しずつ口を開かせた。
  「ばあやさんと四人で柳橋の船宿に行きました。お嬢さんと徳どんは二階に上がり、徳どんは見違えるような良い着物を着ていました。船に乗って隅田川を上り、向島・三囲(みめぐり)の土手に上がり、 花見をしながら植半で食事をしました。お嬢さんに『長命寺の前の山本で桜餅を買っておいで』と言われ、帰ってくるとばあやさんだけで二人は居ません。『お嬢さんは”しゃく”が起きたので奥の座敷でお休みになっている』と言うので、行こうとすると『お前は行かなくても良い 。お嬢さんのしゃくは徳どんに限るんだよ。本当に気が利かないんだから』と言われ、『はは〜ぁ、そうか』と思いました。」と、顛末をしゃべってしまった。小僧は約束の休みも小遣いも貰えず、徳三郎には暇が出て、叔父さんの所に預けられた。

■柳橋(やなぎばし);第22話「船徳」に出てくる柳橋がここです。

■向島・三囲;第32話「野ざらし」に出てくる、三囲(みめぐり)神社(墨田区向島2−5) がここです。その前の隅田川土手が三囲の土手。同じく、桜餅の山本(墨田区向島5−1)もここで詳しく解説しています。

■植半;明治時代の代表的な料理屋。隅田川白鬚橋上流の木母寺(もくぼじ、堤通2−16)の近くに有ったが今は無い。お嬢さんの言い付け通り桜餅を買いに行ったが、片道約2km有り、桜の季節買うのにも時間が掛かったでしょうから、2時間近くは掛かった事になります。本当はもっと遠くの品川や川崎まで行かせたかった (帰ってこれない!)でしょうが、小利口な小僧なんか連れて来るんじゃなかったと思っていた事でしょう。
 「本当に気が利かないんだから」と言われれば「はは〜ぁ、そうか」と、直ぐに頭が回る小僧です。未だ何でだか分からない私とは雲泥の相違です。やはり”しゃく”は苦しーんでしょうね(違うって?どこが?)。

 

2.日本橋村松町 (中央区東日本橋1丁目1〜3、横山町の近所)
  刀屋の店舗が多かった所と、古今亭は言っています。村松町、両国、橘町が一緒になって今は東日本橋になってしまった。 どこを探しても刀屋は有りません。横山町が近いせいか、衣料関係の業種が多く集まって商っています。その後にはマンションの新築ラッシュです。

右図;「江戸庶民風俗図絵」三谷一馬画 2011.8.追加

 

3.新大橋を渡り深川佐賀町へ
 
二人が出会った、叔父さんの家がある所。

新大橋(隅田川に架かる両国橋の一つ下流の橋)  最初の橋は元禄6年(1693)12月7日に現在の橋より、やや下流に架けられた。この木橋の様子は広重作、名所江戸百景「大はしあたけの夕立」であまりにも有名です。上流の両国橋を大橋と呼んでいたので、この橋を新大橋とした。 住民は大変喜こび、松尾芭蕉もその中の一人で、次の句を残しています。
    初雪やかけかゝりたる橋の上
    有難やいたゞいて踏む橋の上
 先代の橋は明治45年(1912)7月19日鉄橋が完成。以来六十有余年大震災、大空襲にも耐え、橋上において多数の命が助かり、”人助けの橋”と言われるようになった。この鉄橋は愛知県犬山市「明治村」にその一部が保存されています。
 昭和52年3月27日現在の橋に架け替えられました。


「幕末の新大橋」鹿鳴館秘蔵写真帖より。 左、上流で両国橋、橋を渡った先が深川の公儀の御籾蔵が有った。
2011.8.写真追加

佐賀町(江東区佐賀町) 永代橋の東詰北側の町。江戸時代から続いている小さな町。かつてこのあたり一帯は海岸の干潟でしたが、埋立地として寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。その後、両町の地形が肥前の佐賀港に酷似しているところから佐賀町と改められました。水運が盛んだった時、倉庫の町として発展、三井倉庫は有名で江東区佐賀2−8に有ります。地下鉄東西線「門前仲町」徒歩15分、水運が盛んであった往時をしのばせる水辺の光景で、水彩都市江東区の原風景でもあります。
 
佐賀町の三井倉庫群と掘割が、今年度の江東区「第九回まちなみ景観賞」に選定される。「まちなみ景観賞」は区内のまちの姿をひきたてる魅力ある建造物、工作物やその周辺の景観地域活動などを表彰する制度だ。平成12年度は区民から寄せられた八十九件の推薦候補の中から、江東区都市景観審議会が現地調査を含めて審査を行い決定された。

 

4.仙台堀に沿って中木場へ
 
おせつ徳三郎が手に手を取って迷子捜しから逃げてきた所。


「迷子捜しの図」三谷一馬画  鉦太鼓で探しまわらちゃ逃げるのに精一杯。 2011.8追加

仙台堀(川) 前回の噺「探偵うどん」に出てくる小名木川の南側に平行して走る運河。東側7割近くは埋め立てられて公園になってしまった。佐賀町の北側を流れる仙台堀川は今でも水をたたえた、昔の面影を残しています。西側は 清澄排水機場で隅田川に合流しています。
 佐賀町の北側の仙台堀川伝いに東に向かうと木場に出ます。木場の中央まで約1.5km。

中木場(なかきば、江東区木場) 中木場という町名は有りません。木場の中程という意味で使われているのでしょう。 江戸時代大火が多くて材木屋の材木に火が移り大火事になる事が多く、その為江戸の東の端に集められて”木場”の名前がおこりました。材木は原木で筏にされて運ばれてくるので、沢山の割堀があり、川面が見えないくらい、いつも筏が係留されていました。今は夢の島の先”新木場”に移転して、材木関係の会社はごくわずかしか残っていません。その跡地は木場公園、現代美術館として開放されています。

 

5.筏(いかだ)

 

 

 筏は標準的には左図のように組まれて川を下ってきました。またその状態で木場の川(運河)に係留されていました。3mx15mが一組で、それを連結して川を下ってきました。
 江戸時代、各地から材木が運ばれてきましたが、主に”青梅材”と呼ばれた杉・檜材が多摩川を筏によって運ばれ、出荷されてきました。火事の多い江戸では火事があると青梅を中心とした東京の山間部が潤ったのです。
 青梅材が盛んになる前は”四谷丸太”が有名で今では考えられませんが、明治の中頃まで杉丸太では銘木の産地でした。都心の真っ只中、新宿より丸の内に近い四谷がですよ。    図は「大江戸万華鏡」農文協より

右写真;新木場に係留されている筏。一番多くの筏が有るところを撮っていますが、最近は製材された状態で、輸入、輸送されてくるので筏は激減しています。
 


  舞台の村松町から木場まで歩く
 

 志ん生は村松町から両国橋を渡って、木場まで行きますが、ここでは志ん朝の噺の筋に沿って歩きます。

 村松町は今の東日本橋1丁目の西側です。 地図のない地方の方には何だか分からないでしょうから、説明を加えると、隅田川に架かった両国橋の西詰めが東日本橋、その西側が村松町です。その北側にちょくちょく出てくる横山町があります。東南に新大橋がありますので、木場に抜けるには両国橋より新大橋の方が近いでしょう。その事からも親父の志ん生よりも志ん朝の方が自然です。

 旧村松町から清洲橋通りを東南に進むと左手に「明治座」が有ります。今は時の人が出ています。12月公演『北条時宗』、主演;北大路欣也+和泉元彌です。裏の公園を抜けて新大橋を渡り最初の交差点を右折します。道なりに真っ直ぐ南に下ると、芭蕉記念館、万年橋、清洲橋通りを横切り清澄公園を左に見ると、その先仙台堀川に架かる清川橋です。ここまで約2km、ここで一息入れましょう。と、言っても何もありません。橋の右手前に、日本最初のセメント工場、浅野セメント(現;太平洋セメント)の発祥の地があります。橋の右側、川の上、隅田川までは「清澄排水機場」が有り、川は見えません。仙台堀川の水を1秒間に4mx4mx3mの容器に入った水を一気に(48t/s)排水する事が出来ます。大雨や台風の時に力を発する様です。橋を渡るとそこが、佐賀町。叔父さんの住んでいた所でもあり、おせつさんと出会い熱い抱擁を交わした所でもあります。今も夜は暗い所です、それもその筈やたら倉庫だらけの町だからです。

 さて、木場に向かって歩き始めます。清川橋から仙台堀川に沿って東に進むと1.3km程で三ツ目通りに出ます。その先は木場公園です。ここら一帯が材木問屋が集まっていた木場です。地名の木場は右折して、仙台堀川に架かった末広橋を渡った所からその先一帯がそうです。今は木場公園や消防署、警察署などが有り、材木問屋は既に新木場に移転して見つける事が出来ません。江戸時代は木場一帯に沢山の割堀がはしり、そこに大量の筏が水面も見えない程貯蔵されていたのでしょう。その割堀もずいぶん埋め立てられて、わずかな運河だけが残っています。その中に木場橋も有ります。新木場に行くと筏を見る事が出来ますが、木場では筏は全く係留されていません。 今ここで飛び込んでもお材木には助けられません。

 

地図

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写真

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日本橋村松町 (中央区東日本橋1丁目1〜3、横山町の近所)
刀屋が多く軒を連ねていたと言う。今はビジネスビルとマンションが混在しています。

新大橋
橋の中央にある二本のワイヤーを吊す鉄柱に、江戸時代の新大橋(広重の浮世絵)と昭和時代の鉄橋が「銅板のレリーフ」になってはめ込まれています。

仙台堀川
隅田川から木場の東側、大横川にT字形にぶつかっています。そこまで今も水をたたえた川になっています。その先は埋め立てられて、”仙台堀川公園”になってしまいました。

深川佐賀町
仙台堀川に架かる清川橋を南に渡れば佐賀町です。倉庫街の様な町です。

木場橋(木場3丁目に架かる橋)
下を流れる川(大島川東支川)は整備されて川の公園になっています。ここも当然ながら、筏は有りませんでした。

木場公園(江東区木場4&5の北半分、平野4丁目、三好4丁目南半分)
木場の材木商が町を作っていた所。今は移転した跡地が、整備された公園になって解放されています。紅葉が最高に美しい時です。
公園の東側を流れる”大横川”です。カモの親子がのんびりと泳いでいました。ここにも当然ながら、筏は有りませんでした。

  

新木場の筏
深川の木場は引っ越して、夢の島の南「新木場」に新天地を築いています。
深川江戸資料館蔵

                                                       2002年12月記

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