木母寺(もくぼじ、墨田区堤通2−16−1)

 

『江戸名所図会』 木母寺、梅若塚

毎年4月15日、木母寺では「梅若忌」が行われます。

 

梅若塚 正面から見たところ。赤い塀の中に玉砂利のひかれた中央に有るのが梅若塚です。
その向こうにガラスケースならぬガラス張りの建物の中に有るのが梅若堂です。この地は防災
拠点になっている為、木造建築が許可になりませんので、戦災にも焼けず残った堂はケースの
中に納めてしまったものです。
 

 

梅若堂(念仏堂)から見た梅若塚 梅若堂は念仏堂ですからその先に見える梅若塚を拝しなが
ら念仏を唱え、梅若の菩提を弔った。堂は1間半四方の、四畳半の大きさです。

梅若伝説とは
 平安の中ごろ、京都北白川の吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御前との間には梅若丸という男の子がいました。五歳の時、父と死別した梅若丸は比叡山月林寺に入り、彼ほどの稚児はいないとの賞賛をうけます。これに妬んだ松若という稚児のいる東門院の法師達におそわれた梅若丸は山中をさまよったのち、大津の浜で信夫藤太という人買いに会い、奥州に売られます。途中、梅若丸は隅田川のほりで病にたおれ置き去りされますが里人の看病むなしく貞元元年(976)3月15日 十二歳で帰らぬひととなります。
    「訪ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと」  
と和歌を詠んだ。たまたま来あわせた忠円阿闍梨が里人と墓をたて柳を植えたといいます。

 一年後、息子の失踪に狂女となった母親が我が子をさがして隅田川を渡ろうとすると対岸の柳の下で大勢の人が念仏をとなえています。船頭に一年前に病でたおれた梅若丸という十二歳の男の子いたことを聞きます。里人とともに母親が菩提をとむらうと梅若丸が霊として現れ一時の再開を果たしますが消えてしまいます。

 塚のそばに庵をたて母親は妙亀尼となってそこで暮らしますが、悲しみにかてず橋場の鏡ヶ池に身をなげます。不思議にも亀が遺体を乗せて浮かびあがり、母親は妙亀大明神(注)として祀られ、梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

(注);台東区橋場1丁目28(隅田川を挟んだ南側)の区立公園の中央部の丘に妙亀塚があり、これが母親妙亀尼の墓だと言われています。建立弘安11年(1288)の板碑があり、都史跡に指定されています。(台東区下町風俗資料館より)

 三遊亭円生が噺の中で、和歌を埋めたので梅若塚ではなく”埋和歌塚”だと語っていますが、それは噺を面白くするためのこじつけです。

     

三遊塚 三遊亭円朝が明治22年3月21日、先師(初代)三遊亭円生翁を追福する為、
木母寺に建立したものです。

 

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