落語「両国八景」の舞台を歩く 八代目雷門助六の噺、「両国八景」(りょうごくはっけい)
円生は「ガマの膏」の中で楽しそうに次のように説明しています。
2.両国(りょうごく)
絵本隅田川両岸一覧より「両国 納涼」 北斎画 (両国広小路界隈の賑わい)
■明暦の大火;明暦3年(1657)の江戸最大の大火で、世界的にもまれな大火。振袖火事、丸山火事ともいう。前年11月以来80日間も雨が降らず乾燥しきっていたうえ、北西風が激しく吹く1月18日午後2時ごろ、本郷丸山から出火、本郷・湯島・駿河台・神田・日本橋・八丁堀・霊岸島から佃島・石川島まで延焼、また駿河台から柳原・京橋・伝馬町・浅草御門へひろがり、隅田川を越えて隅田川沿いの深川まで飛火して、翌19日早朝鎮火した。
「人出と小屋や店が建ち並ぶ両国広小路」 江戸東京博物館のジオラマ
■両国広小路の賑わい;明暦の大火後、現在の両国橋より約100m下流に、万治2年(1659。寛文元年(1661)とも)両国橋が架橋され、両国橋両端に空き地を設け、それを火除け地とした。どちらにしろ、明暦の火災後2~4年後には架橋した素早い対応でした。将軍御成の時と火災の時は取りつぶすと言うことで、簡易な小屋が建ち繁華街に成長していった。特に両国橋西側(現在の東日本橋)を両国西広小路と言って、両国東広小路(現在の両国)を引き離す賑わいであった。特に断りが無いときは、両国西広小路を指した。
3.八代目雷門助六
この噺の音源は亡くなる1年前の国立演芸場での高座から概略を書いています。仕草噺の代表で、年齢を感じさせない噺ぶりです。
4.言葉
■花火(はなび);享保18年(1733)5月28日水神祭で花火をあげた。この時の花火が両国川開き、花火大会の創始となる。鍵(かぎ)屋が取り仕切って開かれたが、一晩で揚げられた花火は仕掛け、打上げ合わせて20発前後だったと言われます。
■五臓六腑(ごぞうろっぷ);五臓六腑とは元々中国の医療分野で用いられた分類であり、
五臓とは
①肝臓 ②心臓 ③脾臓 ④肺臓 ⑤腎臓 のことを指し、
六腑とは
①胆 ②小腸 ③胃 ④大腸 ⑤膀胱 ⑥三焦(さんしょう)を指す。三焦は胃の上(上焦)、胃の中(中焦)、膀胱の上(下焦)で消化や排泄をつかさどる。
他の臓器とは違い物質的な実体は存在しないとされている。現代医学ではその存在は否定されているが、東洋医学、特に鍼灸の分野では重要な臓器とされている。
他の落語家さん達も、助六もこの五臓六腑を間違って言い立てています。
■20文(20もん);銭の単位。現在の320~350円位。10文はその半額。
■口開け(くちあけ);物の口を開くこと。また、その時。転じて、物事のはじめ。最初。くちびらき。かわきり。
■焼き接ぎ屋(やきつぎや);欠けた陶器を釉(ウワグスリ)で焼きつけて接ぐこと。その人。
写真右;重要文化財 青磁茶碗 銘「馬蝗絆(ばこうはん)」 12世紀(南栄) 将軍足利義政があるときこの青磁にヒビが入ったので同じ物を中国に所望したが、中国にもこれだけの品は既に無く、茶碗に鉄のカスガイを打って返してきた。それがまた良いというので名物になった。東京国立博物館所蔵見聞 2014/05/25まで東洋館5室で箱まで含め展示中。
■縄のれん(なわのれん);(多くは縄で出来た暖簾をさげたからいう) 居酒屋・一膳飯屋などの異名。写真下左
■醤油樽(しょうゆだる);二斗樽、容量:36リットル
上部直径:約46cm
高さ:約44cm。他に四斗樽、一斗樽、五升樽等がありますが、丁度イスの大きさに合うのは二斗樽でしょう。
写真右二斗樽=1升瓶、20本分。
舞台の両国を歩く
両国広小路は隅田川を渡す両国橋の両端にある火除け地としての空き地に、小屋がけの見世が出て繁華街に発展した地です。現在隅田川の両端に存在するJR駅は中央区側の浅草橋駅と墨田区側の両国駅があります。
まずは、浅草橋駅で下りて、神田川に架かる浅草橋に向かいます。ここは江戸時代に浅草御門跡の橋で、「むさしあぶみ」(下図。浅草橋御門での惨事)で詳しく明暦の大火を書き記され、その悲惨さを後世に伝えたところです。神田川は江戸城の外濠になり、江戸城の警護としては奥州街道、水戸街道に通じる大事な見附でした。外濠の江戸城よりの内側に、小伝馬町の牢屋敷が有り、明暦の大火の時、ここも類焼の危機が迫り、囚人を見殺しに出来ず鎮火後帰ってくる事を約束させて解放しました。結果的には囚人達は感謝し鎮火後には帰ってきたと言います。話変わって、浅草見附の番人達は囚人達が脱獄したと勘違いして門を閉めてしまったのです。ここに避難してきた人々は開門を迫りましたが叶えられず、2万数千人の死者を出してしまったのです。
その後、これに懲りた幕府は隅田川の上流荒川に千住大橋が架かっていたが、隅田川に最初の橋として架けた橋を「大橋」と命名したが、江戸っ子達は武蔵国と下総国の両国を繋いだので、いつの間にか「両国橋」となってしまいました。この時、両国橋の東西の場所を火除け地として空き地にしたのです。
この両国橋の西側に薬研堀という堀がありましたが、元禄11年(1698)埋め立てられて商家が立ち並び、薬研堀不動尊の参道として賑わいました。そこには町医者が移り住み、漢方薬として七色唐辛子を作ったところ、江戸中で大評判となり江戸の名物になりました。今でも七色唐辛子の別名を薬研堀というのはこのためです。現在は、大木唐がらし店のみになってしまいました。
両国橋を渡って、隅田川の東側に行きます。ここが両国東広小路と呼ばれたところですが、広場は狭く遊び場も少なく、西広小路から比べたら一段落ちたところです。江戸時代は回向院や、回向院境内で行われていた勧進相撲や、秘仏秘像のご開帳があって人々を集めていて、それなりに賑わっていました。
現在、回向院の裏には忠臣蔵で有名な吉良邸跡が残り、初代国技館が有った地にはマンションが建っています。また、勝海舟の生誕の地(両国公園内)や、芥川龍之介・生育の地(両国小学校)が有ったりします。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2014年3月記
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