落語「両国八景」の舞台を歩く
   

 

 八代目雷門助六の噺、「両国八景」(りょうごくはっけい)


 

 かわるがわる色々なお顔をご覧に入れまして、さぞ御力落としのことでしょうが、これも何かの因縁とあきらめてご辛抱の程願っておきます。(助六の決まり文句)

 縄のれんの居酒屋で、醤油樽をイス代わりに、十五六の小僧を店番に酒を飲ませている。小僧を肴にもう一本もう一本と長っ尻の男・熊の為に、店を閉めることが出来なかった。そこに現れた兄貴分の虎が後引き上戸の熊を連れて帰ることになった。聞くと、湯の帰り道、フラフラッと店に入って一杯飲んで、ホッとしたら気が付いた。湯の帰りで銭の持ち合わせが無いので誰かマヌケが来るまでつないでいた。「マヌケまで言われたら世話が無い」と言いつつ、釣りは要らないよっと払っていると、「ちょっと待った。釣り銭分呑ませろ」。「さぁ、まっすぐ帰ろう」。

 賑やかな所に出た。そこは両国広小路。今日から川開きで花火も上がるから、人出も多い。

 「サァサァ、人間は病の器だよ。トロトロと眠ると高い所から落ちる夢を見る。全身にはビッショリと汗をかく、その様な時はご用心。ここに解剖図が掛けてある。これが人間の内臓で、上から肺臓、心臓、腎臓、肝臓、膵臓、大腸、小腸、盲腸、結腸、直腸、これを合わせて五臓六腑という。手前持ちたる五臓円(ごぞうえん)、これを飲めばスーッとして、気分爽快になり、どんな病気にも効く。いつもは20文だが、口開けのお客さんに限り10文だ。だれかお試しで、飲んでみる人は居ないか」、「お試しでここにくれ。旨いな。酒の肴になる。もう一回くれ」、兄貴分が慌てて引き離した。

 「陶器が割れたときは、焼き接ぎ屋に持って行くが、時間がかかる。ここにある早接ぎの粉があったら重宝する。まず、粉に水を一二滴垂らし良く練ると、下の板が着いてくる。この練った粉を割れた所にヘラで充分着けて、グッと押しつける。はみ出した所はヘラで柔らかいうちに取る。白い器で黒い線が入るのが嫌な人は、おまけに付ける金粉を刷毛に付けて塗ると綺麗になる。このまま冷やせば良いのだが、お急ぎの時は暖めるともっと早く乾いてくっつく。いつもは20文だが、今日は口開けのため10文だ。お試しの方はいないか。いないですよね」、酔った熊は「お試しに、ここにくれ。色は汚いがどんな味がするのか」。
 口に入れた熊さん、モグモグやっていたが、固まり始めて、慌てだしたがくっついてしまった。泣き声を聞きつけて、兄貴が来て、焼き接ぎ屋に水をもらい、ヘラで口の周りをこじり、上唇と下唇を持って上下に引くとやっと開いた。迷惑を掛けたと一袋買うと10文と安いので聞くと、

「普段は20文ですが、口開けは10文です」。

 

浮世絵;名所江戸百景「両国橋大川ばた」 広重画



1.この噺は、

 前半を三代目金馬がお得意だった「居酒屋」、後半がガマの脂売りで有名な「ガマの膏」であったり、両国の香具師(やし)達の啖呵売(たんかうり=大声で口上を述べ立てて物品を売ること)を楽しませてくれる。大道芸人や大道商いが集まっていた。

 円生は「ガマの膏」の中で楽しそうに次のように説明しています。
■ろくろッ首;三味線を弾いている女性の首が伸びて、頭が上昇していく。黒幕の後ろではハシゴを登る女性が居るだけなんですがね。
■河童の見世物;濁った水中から泡とともに河童の頭がのぞき、間もなく水中に没する。瓢箪のオシリの回りに毛を植えてさも河童のように見せて、紐でつながれた瓢箪を操作していた。
■カエル娘;これは呼び込みの口上だけで中身は良く分かりません。今の声は金馬と正蔵が混ざったような声だと言っています。
■化けもの屋敷;昔は招魂社、今の靖国神社によく出ていた。私(吟醸)もその存在を知っていますが、最近は見かけません。他の見世物小屋より入場料が高かったが、若い二人は入りたがった。舞台装置は当然作り物であったが、中には人間が入っているものもあって、驚く仕掛けになっていた。驚かない男客には下から男の一物をおもいっきり握った。どんな男でも「ギャ~」っと声が上がった。
■べな(屋);入ると男が鍋をひっくりかしたものを叩きながら、「べな。・・・べな」。”なべ”をひっくり返したから、”べな”だと言う。
■大ザル小ザル(屋);どんな大きな猿だと思って入ると、中には竹ザルの大きいのと小さいのがあるだけ。決して猿とは言わず、”ザル”と言っているのがミソであった。
■大イタチ(屋);山で捕れたばかりだから近寄ると危険だよとの口上で入ると、6尺の板が立てかけてあって真ん中に血が付いている。聞けば「大きな板に血、オオイタチ。板は山で取れるし、倒れると危ない」。
■人食い人間(鬼娘);正蔵(彦六)の噺では、女が赤ん坊を食べるという。小屋の中は薄暗く女が座っている回りに、骨や食べかすが散らかっている。客が一杯になったところで裏から赤ん坊が連れ出され、女の脇に置かれる。口上が「さっきの回で一人食べてしまって腹はキツイ、もう一人食べても良いのだが・・・」と言うと、客の中から「かわいそうだから、やめとけ~」の声が掛かり、お客さん全員のお助けコールになり、そのままゾロゾロと小屋の外に。
 どれもこれもダマシであったが、それを江戸の人達はおおらかに楽しんでいた。

 

2.両国(りょうごく)
 明暦3年の大火(1657)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際この辺りで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵と下総の両国の境界をなしていた。また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして、上野、浅草に並び称される盛り場に発展した。明治維新の頃、ここには新柳町、元柳町、横山町、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町があった。昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ(吟醸注、平成26年現在、東日本橋と町名変更されている)。
 維新後100年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が忍ばれる。
昭和44年11月 日本橋両国町会が建てた「両国」の碑文より。

 

 絵本隅田川両岸一覧より「両国 納涼」 北斎画 (両国広小路界隈の賑わい)

明暦の大火;明暦3年(1657)の江戸最大の大火で、世界的にもまれな大火。振袖火事、丸山火事ともいう。前年11月以来80日間も雨が降らず乾燥しきっていたうえ、北西風が激しく吹く1月18日午後2時ごろ、本郷丸山から出火、本郷・湯島・駿河台・神田・日本橋・八丁堀・霊岸島から佃島・石川島まで延焼、また駿河台から柳原・京橋・伝馬町・浅草御門へひろがり、隅田川を越えて隅田川沿いの深川まで飛火して、翌19日早朝鎮火した。
 翌日19日午前10時ごろ、伝通院表門下の新鷹匠町より出火、北西の強風にあおられ、小石川・飯田町から田安門・竹橋門内の桃山風の豪壮な大名・旗本屋敷を焼き、譜代大名の懸命な消火にもかかわらず、正午過ぎ江戸城の天守閣に火が入って焼け落ち、本丸・二の丸も焼失して、風向きが変わって将軍徳川家綱は西の丸に避難した。以後江戸城には天守閣が再建されなかった。
 同日、3番目の出火地、番町からの火焔で焼け残った江戸の南部を焼いてしまった。
 悲惨なことに、火災があった翌日、雪が降り積もり、凍死者まで出した。 この時の横死者を供養するために建立されたのが現在の両国回向院です。
 明暦の大火は落語「二番煎じ」に詳しい。回向院については落語「開帳の雪隠」に詳しい。

 「人出と小屋や店が建ち並ぶ両国広小路」 江戸東京博物館のジオラマ

両国広小路の賑わい;明暦の大火後、現在の両国橋より約100m下流に、万治2年(1659。寛文元年(1661)とも)両国橋が架橋され、両国橋両端に空き地を設け、それを火除け地とした。どちらにしろ、明暦の火災後2~4年後には架橋した素早い対応でした。将軍御成の時と火災の時は取りつぶすと言うことで、簡易な小屋が建ち繁華街に成長していった。特に両国橋西側(現在の東日本橋)を両国西広小路と言って、両国東広小路(現在の両国)を引き離す賑わいであった。特に断りが無いときは、両国西広小路を指した。
 江戸時代の後半、花火見物と夕涼みができる洒落た所が、隅田川両国橋の両岸の火除け地に成立していった。
 ここには、朝には青物市が立ち、昼から小芝居、軽業(かるわざ)、落語、講談、女義太夫などのコモ張りの小屋が客を集め、夕方から花火が上がり、酒売りや水茶屋、お茶漬け屋、うどん屋、汁粉屋などの掛け茶屋が人を集め、簡単な小屋がけにはいかがわしいお化け屋敷や、香具師達が路上で品物を売っていた。
 江戸で一日に千両が落ちる所と言って、日本橋の魚河岸、同じく歌舞伎小屋、吉原の遊廓に並び、両国の広小路が名を連ねていた。主に両国橋西詰めの広小路が賑わいの中心であったが、東詰の回向院側も、また賑わいがあった。どちらも賑わいの廻りには料理屋や貸座敷、岡場所が多く、男連中は楽しみに暑い夜を涼みに出てきた。花火は隅田川から花火屋に上げてもらい、それを楽しんだ。それを岸の見物人達もご相伴になった。
 朝から縁日のような両国広小路であった。

 

3.八代目雷門助六
 八代目雷門助六(1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京都出身の落語家、喜劇役者。本名は岩田 喜多二(いわた きたじ)。出囃子は『助六ばやし』。 父は六代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で高座に上がる。1917年には五代目柳亭左楽の門人となり、1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進。1928年には雷門五郎に改名する。
 1937年ごろに雷門五郎劇団を結成し、戦中戦後は寄席を離れ軽演劇の一座を率いて全国を巡業。浅草松竹演芸場などを中心に喜劇役者として活躍した。1959年より短期間ながら吉本新喜劇の座長として出演した。
 1956年7月には落語芸術協会(当時・日本芸術協会)に加入し、寄席に復帰。1962年10月に父の名雷門助六を襲名し、落語に専念。東京・名古屋・岡山にまたがる雷門一門の惣領として活躍した。「あやつり踊り」「かっぽれ」「人形ばなし(二人羽織)」「住吉踊り」「松づくし」など踊りを中心とした寄席芸を確立した。 得意ネタは『長短』『虱茶屋』『片棒』『仕立ておろし』『宮戸川』など。
 1981年に勲五等双光旭日章受賞。1986年に文化庁芸術祭賞受賞。 晩年は膝を悪くして正座が出来なくなったため、前に釈台を置き、胡坐で演じていた。平成3年(1991)に満84歳没。

 この噺の音源は亡くなる1年前の国立演芸場での高座から概略を書いています。仕草噺の代表で、年齢を感じさせない噺ぶりです。
 「操り(人形)踊り」の踊りは糸で吊られた人形になって踊るもので、その動作、表情は最高。また落語「虱茶屋」は絶品でした。こちらまで背中がムズムズしてくるようなリアリティがありました。

 

4.言葉
川開き(かわびらき);東京・隅田川の川開きは有名で、江戸中期享保18年(1733)以降趣向をこらした花火が人気を呼び,明治以降も多くの人出が見られたが、昭和37年(1962)から交通事情の見地からいったん廃止されたが、昭和53年(1978)復活した。江戸時代には陰暦5月28日に行われたが、この日は曾我兄弟の討死に関連して〈虎が雨〉の降るとされた日で、水にまつわる信仰を背景にして始まった行事なのであろう。 現在は7月最終土曜日に隅田川華美大会が行われる。
落語「水神」に詳しい。

花火(はなび);享保18年(1733)5月28日水神祭で花火をあげた。この時の花火が両国川開き、花火大会の創始となる。鍵(かぎ)屋が取り仕切って開かれたが、一晩で揚げられた花火は仕掛け、打上げ合わせて20発前後だったと言われます。
 今でも隅田川花火大会の前には、安全祈願が隅田区、台東両区長、関係者が出席の下ここ水神で行われます。
落語「水神」より

五臓六腑(ごぞうろっぷ);五臓六腑とは元々中国の医療分野で用いられた分類であり、 五臓とは ①肝臓 ②心臓 ③脾臓 ④肺臓 ⑤腎臓 のことを指し、 六腑とは ①胆 ②小腸 ③胃 ④大腸 ⑤膀胱 ⑥三焦(さんしょう)を指す。三焦は胃の上(上焦)、胃の中(中焦)、膀胱の上(下焦)で消化や排泄をつかさどる。 他の臓器とは違い物質的な実体は存在しないとされている。現代医学ではその存在は否定されているが、東洋医学、特に鍼灸の分野では重要な臓器とされている。
  多く、からだ全体の意に用いるときも、五臓六腑にしみわたる、等と使う。
 右図;明代(15世紀)の医師、張景岳(張介賓)の著書、『類経図翼』にある『内景図』。

他の落語家さん達も、助六もこの五臓六腑を間違って言い立てています。

20文(20もん);銭の単位。現在の320~350円位。10文はその半額。

口開け(くちあけ);物の口を開くこと。また、その時。転じて、物事のはじめ。最初。くちびらき。かわきり。

焼き接ぎ屋(やきつぎや);欠けた陶器を釉(ウワグスリ)で焼きつけて接ぐこと。その人。
 今は接着剤などを使えば、誰でも割合簡単に接着できますが、昔は修理専門の職人がいました。古い時代は、陶磁器類の接着に漆を使っていましたが、18世紀末の寛政年間頃に、白玉粉で接着してから加熱する焼き接ぎ方を発明した人がいて、普通の安い茶碗などこの方法で修理するようになりました。
 落語「井戸の茶碗」に、筒井筒の名器がやはり焼き接ぎされたものです。(下・写真左)

  

 写真右;重要文化財 青磁茶碗 銘「馬蝗絆(ばこうはん)」 12世紀(南栄) 将軍足利義政があるときこの青磁にヒビが入ったので同じ物を中国に所望したが、中国にもこれだけの品は既に無く、茶碗に鉄のカスガイを打って返してきた。それがまた良いというので名物になった。東京国立博物館所蔵見聞 2014/05/25まで東洋館5室で箱まで含め展示中。

縄のれん(なわのれん);(多くは縄で出来た暖簾をさげたからいう) 居酒屋・一膳飯屋などの異名。写真下左

 

醤油樽(しょうゆだる);二斗樽、容量:36リットル 上部直径:約46cm 高さ:約44cm。他に四斗樽、一斗樽、五升樽等がありますが、丁度イスの大きさに合うのは二斗樽でしょう。 写真右二斗樽=1升瓶、20本分。



 

 舞台の両国を歩く

 

 両国広小路は隅田川を渡す両国橋の両端にある火除け地としての空き地に、小屋がけの見世が出て繁華街に発展した地です。現在隅田川の両端に存在するJR駅は中央区側の浅草橋駅と墨田区側の両国駅があります。

 まずは、浅草橋駅で下りて、神田川に架かる浅草橋に向かいます。ここは江戸時代に浅草御門跡の橋で、「むさしあぶみ」(下図。浅草橋御門での惨事)で詳しく明暦の大火を書き記され、その悲惨さを後世に伝えたところです。神田川は江戸城の外濠になり、江戸城の警護としては奥州街道、水戸街道に通じる大事な見附でした。外濠の江戸城よりの内側に、小伝馬町の牢屋敷が有り、明暦の大火の時、ここも類焼の危機が迫り、囚人を見殺しに出来ず鎮火後帰ってくる事を約束させて解放しました。結果的には囚人達は感謝し鎮火後には帰ってきたと言います。話変わって、浅草見附の番人達は囚人達が脱獄したと勘違いして門を閉めてしまったのです。ここに避難してきた人々は開門を迫りましたが叶えられず、2万数千人の死者を出してしまったのです。

    

 その後、これに懲りた幕府は隅田川の上流荒川に千住大橋が架かっていたが、隅田川に最初の橋として架けた橋を「大橋」と命名したが、江戸っ子達は武蔵国と下総国の両国を繋いだので、いつの間にか「両国橋」となってしまいました。この時、両国橋の東西の場所を火除け地として空き地にしたのです。

 この両国橋の西側に薬研堀という堀がありましたが、元禄11年(1698)埋め立てられて商家が立ち並び、薬研堀不動尊の参道として賑わいました。そこには町医者が移り住み、漢方薬として七色唐辛子を作ったところ、江戸中で大評判となり江戸の名物になりました。今でも七色唐辛子の別名を薬研堀というのはこのためです。現在は、大木唐がらし店のみになってしまいました。
 薬研堀が最後まであったところは、現在の日本橋中学校の校庭であり、そこに架かっていた橋を「難波橋(別名、元柳橋)」と言います。ここは、両国西広小路ですが、現在はその面影は全く無く、ただビルが建ち並んでいて当時の風情は何も有りません。有るのは隅田川が流れているぐらいです。
 柳橋は神田川の最下流隅田川と合流するところに架かっています。浅草橋と柳橋の間には船宿が多く、落語「船徳」の舞台になったところです。

 両国橋を渡って、隅田川の東側に行きます。ここが両国東広小路と呼ばれたところですが、広場は狭く遊び場も少なく、西広小路から比べたら一段落ちたところです。江戸時代は回向院や、回向院境内で行われていた勧進相撲や、秘仏秘像のご開帳があって人々を集めていて、それなりに賑わっていました。
 現在は、千葉方面に真っ直ぐ延びる京葉道路の右側に回向院があって、東京大空襲の時本堂は炎上し、現在はお寺には似合わない四角いコンクリート造りの本堂になっています。境内には多くの遺跡がりますが、中でも鼠小僧の墓は削って持ち帰ると勝負事に効果があると言われています。回向院の西隣には両国花火資料館(住友不動産両国ビル1階)があります。

 現在、回向院の裏には忠臣蔵で有名な吉良邸跡が残り、初代国技館が有った地にはマンションが建っています。また、勝海舟の生誕の地(両国公園内)や、芥川龍之介・生育の地(両国小学校)が有ったりします。
 回向院の北側にJR両国駅に向かう大通りの左右には相撲に関した店や、ちゃんこ料理屋が多くあります。両国駅のガードをくぐると、現在の国技館や江戸東京博物館が並んで建っています。国技館の中には無料で誰でも入れる(相撲興行中は入場券が必要)相撲博物館があります。
 その北側には、自由に入れる回遊式庭園を持つ旧安田庭園や、関東大震災で亡くなった人達や、後に東京大空襲で横死した人達を祀る東京慰霊堂を持つ横網公園があります。ここにも、震災関係の資料館があります。

 

地図



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写真


 

 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

神田川(中央区東日本橋二丁目)
 隅田川に合流する江戸城外濠の川。右河岸が柳橋の地、左が東日本橋。中央遠景に見えるのが、明暦の大火で大きな被害を出した浅草御門跡の浅草橋。

薬研堀(中央区東日本橋二丁目)
 両国広小路の奥にあった薬研堀不動尊の両国橋際から始まる参道。
ここには、江戸の名物、七色唐辛子の製造販売店が有り、通称薬研堀と言われます。

両国橋(隅田川に架かり京葉道路を通す)
 大正の関東大震災で被害を受けて、架橋されなおした現両国橋。

隅田川(中央区側から見る)
 隅田川をくぐる浅草行きの遊覧船。両国橋は橋の上端部に赤いラインが入っていたのですが、塗装されなおしたら、そのラインが無くなり間の抜けた締まりの無い橋になってしまいました。

両国広小路跡
 右側の川が隅田川、そこに架かるのが両国橋。江戸時代の木橋より上流に架かっていますので、広小路が広く(長く)見えます。土手の散歩道を挟んで左側の路が広小路の南端。

隅田川越しの広小路(両国広小路跡)
 両国橋を渡り東側の橋上から、両国西広小路跡を眺めています。正面の建物群が広小路跡に建ったビルです。

回向院(墨田区両国二丁目8。山門)
  両国東広小路先にある、明暦の大火の時横死者を埋葬し、供養を一手に引き受け回向したところです。今は相撲の街になって、相撲部屋やちゃんこ料理屋が建ち並び、両国駅の北側には国技館や江戸東京博物館が有ります。

                                                                2014年3月記

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