落語「水神」の舞台を歩く
六代目三遊亭円生の噺、「水神」(すいじん)によると。
昔、三囲(みめぐり)神社の縁日の晩、三十格好の男が2ヶ月ぐらいの乳飲み児を抱いて、おろおろとしていた。空腹とみえて、激しく泣き続ける児をあやしきれずにいた。黒っぽい着物姿で、露天商いをしている二十五・六の人格の良い美しい娘が、みかねて声を掛けてきた。娘のお乳を含ませると、がつがつと飲んで安心したように眠りこけてしまった。
女房は私の働きが悪いので、この子を置いて何処かに行ってしまった。お乳をほしがるので心当たりを探していたので、お礼にお名前を教えて欲しいと言うと、「こう」だと言う。「お幸さん、ですか。良い名前ですね。一生涯忘れません。私は屋根職人の”杢蔵”(もくぞう)と言います」。
これからもお乳が必要でしょうからと、女は店をたたみ、児を抱いて、男を「水神の森」にある我が家へと案内した。これが縁で女と男は一緒に住むことになった。お幸は児を連れて縁日に出かけて商いをし、家ではかいがいしく杢蔵の世話をした。杢蔵は家族の幸せを感じ、生まれ変わったように屋根職人として真面目に働いた。知らず知らずの内に小金も貯まって、幸せな日々が4年間続いた。
5年目のある早朝のこと、杢蔵が目を覚ますと、お幸がまだ寝床で眠ったままでいた。初めて見るお幸の寝姿であった。布団を掛け直してあげようと、その姿を見て驚いた。
お幸は、顔は人間だが、体はカラスだった。
杢蔵は化け物を蹴飛ばそうとしたが、これまで世話してもらった恩を考えるとそんな事は出来なかった。気を取り直し、見なかったことにして、布団を掛け直した。
とその時、普段と変わらぬ姿で起きてきたお幸が、「見たでしょ」と言った。「ん、チョイとだけ」と言ったが、お幸は座り直して身の上を語り始めた。お幸は、水神さまのお使い姫の牝ガラスであった。 神様から頼まれて霞ヶ浦まで行ったが、若かったので途中で遊びほうけて、使いの事は忘れてしまった。神様が怒って、野ガラスにするところを、5年間人間の女にして置くから、それが無事済んだら元の使い姫に戻してくれる事になっていた。人間になったがどの様に生活すればいいのか分からなかったので、カラスになって山に入って果実や玉子などを採って、縁日で売って生活をしていた。
貴方の事も小梅の空から見て知っていました。我が子を置いて居なくなった人間は何て非情なんでしょう。ですから、この児を私が育てる決心をしたのです。貴方の事も嫌いではなかったので夫婦になったのです。貴方に私の正体を見られたので、5年にならないので、野ガラスになるでしょう。どうか今のままでいてくれと、杢蔵は懇願した。俺はお前が好きだからと頼んだら、この黒羽織の様な物を着れば一緒に行けるとお幸は言った。子供の事を考えるとカラスになる勇気のない杢蔵は人間にとどまった。
お幸は一陣の風とともに去っていき、家もたちまち消え、カラスの群が舞っていた。隣で寝ている子供を起こすと、水神に遊びに来ただけで、小梅の家に帰ろうという。子供に聞きながら帰ると小綺麗になった家だった。お幸はみんなには見えなかったが、充分すぎる程家族を守っていたのだと、杢蔵は思った。
勝手なもので、元の女房が尋ねて復縁をせがんだが、追い返してしまった。それから男手ひとつで、一生懸命育て、十二の時浅草の呉服屋に奉公に出した。二十三になった時、実力を認められて、大店の娘にと養子に入った。杢蔵は独りになって、思い起こされるのはお幸のことばかり、水神に来てみるとカラスが群がって飛んでいた。「枯れ枝に カラスの止まりけり 秋の暮れ」、よっぽど寂しくなったのか、お幸に逢いたさに黒い羽織を脇に抱えて、大屋根に昇った。
お幸の事を考えて、羽織に袖を通すと羽根になって、ふわりと大空に舞い上がった。
おお、飛べる!飛べる!
「お幸〜!おこう〜〜」。
1.水神(隅田川神社。隅田区堤通二丁目17-1)
御祭神;速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)。速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)。鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)。大楫木戸姫神(おおかじきどひめのかみ)
。
由来;治承の頃、源頼朝が関東下向の折、暴風雨に遭い、水神社に祈願したと伝えられているが、御鎮座の年代は未詳。
かって「水神宮」、「船霊社」と呼ばれ、樹木が繁茂し、”水神の森”とも称された微高地でした。隅田川の増水でも沈む事が無く、”浮島の宮”の名も有りましたが、実際は社殿は水没しなかったが、社務所は何回も床上浸水しています。昔から河川交通の要衝であり、墨田郷の総鎮守、船頭や荷船仲間に広く深く信仰されていた水運の神様です。その為、狛犬の代りに亀が左右に鎮座しています。明治五年に隅田川神社と改称。現在は高速道路と防災拠点建設の為、旧地より25m程南に移動しました。本殿は南向きであったが、移動して東向きとなった。今の地が料亭「八百松」が有った跡地です。
(宮司奥様談)
享保18年(1733)
5月28日
水神祭で花火をあげた。この時の花火が両国川開き、花火大会の創始となる。鍵屋が取り仕切って開かれたが、一晩で揚げられた花火は仕掛け、打上げ合わせて20発前後だったと言われます。
今でも隅田川花火大会の前には、安全祈願が隅田、台東両区長、関係者が出席の下ここで行われます。
2.三囲神社(墨田区向島2−5)
落語・第100話「花見小僧」、第67話「和歌三神」、第32話「野ざらし」、で紹介している、三囲
(みめぐり)神社です。
錦絵の題材として桜とともによく描かれている、墨堤沿いの鳥居。
境内に「雨乞いの碑」が有ります。 これは、元禄6年(1693)は非常な干ばつの年で農民達は困って、境内に集まり鉦や太鼓を打ち鳴らして雨乞いをしていた。ちょうど通りかかった俳人其角は、能因法師などの雨乞いの故事にならい「遊(ゆ)ふた池や田を見めぐりの神ならば」と詠んだ。翌日、雨が降ったと言われています。
写真は土手に面した、浮世絵でも紹介された鳥居。
現在、デパートの三越各店屋上にある神社は、本店本館屋上をはじめ、「三囲神社」の分霊となっています。越後屋として江戸に店を出したときからの守護神、鬼門除けの神とされている。
3.カラス
カラスの化身お幸。カラスって神様の従者として、表されている事が多いのです。古代神話でも、神武天皇が熊野から大和に入る際に導いてくれたのは、三本足の大ガラス(八咫烏=やたがらす)だった。
と言うように、神様の先導をしていたのです。また、カラスは熊野の権現様のお使いと言われています。
日本サッカー協会のロゴもこの八咫烏です。三本足の1本でボールを掴んでいるのがマークです。
西洋でも、旧約聖書の中でアポロに仕えたカラスが登場しています。そのカラスは全身真っ白で、頭が良く美しかった。しかし、井戸端女のように軽く、口から出任せばかり言うお調子者でした。ある時、水くみを頼まれたが、忘れて遊び過ぎ、帰るのも忘れてしまった。でまかせの言い訳ばかりなので、怒ったアポロはカラスを真っ黒にして夜空にピンで留めてしまった。
今でも天に張り付いています。これはホントですが、”真夜中のカラス”で見えないものの、ピンだけは光って見えます。その4つのピンはカラス座という星座です。春の南の空では結構目立っています。が、私はピンが多すぎて、どれがそのピンか判別がついていません。
西洋にも、お幸さんみたいな、飛んでる娘(カラス)が居たんですね。
「身近なカラス」 国立博物館付属自然教育園 でカラスの面白い生態を紹介しています。
■東京都の捕獲作戦
一つは生ゴミ対策;東京のカラスは1970年代の大量消費時代に区部でえさとなる生ごみが豊富に入手できるなど、カラスの生息に適した条件が整ったため増加が始まったと言われる。区部のカラスの生息数は、85年には約7千羽で、99年には約2万1千羽と推定される。都は、防鳥ネット3万4千枚を配布しているが、都に寄せられたカラスに関する苦情は99年度が511件で、その約6割が繁殖期の4月から6月に集中している。(都政新報2000.6.20)
二つ目はおとり箱を使って捕獲作戦。東京都は、1個30万円するトラップを100箇所に設置して、1年間で数千羽のカラスを捕まえる計画。実際、カラス対策に2003年度1億6000万円もの予算を計上しています。
結果、東京都では、2001年からカラス捕獲作戦を始めて以降、捕獲総数が5万羽を超した。都環境局の調査によれば、23区や周辺市街地の生息数が、ピーク時である2001年の3万6400羽から、昨年末時点で1万9800羽となり、半数近い減少となったという。
今は「鳩にエサをやらない運動」を平行してやっています。
東京23区のカラスは遊びすぎていると大変ですゾ。
いっそ、人間の女にしてしまえば良いんですよ。あっ!野ガラスはなれないんだ。
4.小梅(こうめ)
杢蔵が住んでた所。三囲神社の裏の方が小梅と呼ばれた所です。江戸時代にはもっと広範囲な地域を指していて、向島から押上にかけて一帯を小梅と言った。現在、小梅小学校、小梅橋にその名を留めています。
5.この噺「水神」について
「君の名は」で一世を風靡した脚本家菊田一夫が円生のために書き下ろした新作落語が「水神」です。円生は1963年11月15日の芸術祭参加第53回東京落語会で初演している。その後、1968年10月の第112回東京落語会でも演じています。新作ではあるが、民話風の噺としてなかなか秀逸なもので心に響きます。「羽衣伝説」や「葛(くず)の葉」もそれぞれ、「羽衣の松」
、「安兵衛狐」などと落語になっているのを考えると、民話やお伽話は、落語と素性が良いようです。
円生はこの事をマクラで演じています。
円生は菊田一夫から請われて芸術座で公演された「がしんたれ」に出演、以後何回か役者として舞台に上がった。その経緯で、何か落語を書いてもらえるかお願いしたところ、気い良く引き受けてくれたので、改めてNHKから依頼した。後日
、東京落語会に掛ける為にお願いしたが、忙しい人なのでなかなか出来てこなかった。落語会の日にちが迫ってきたので、改めて催促すると1枚、また1枚と原稿が上がってきた。原稿では古女房が押し掛けてきて、一緒になり一人息子を育て上げ、その女房にも先立たれ、寂しくなって大屋根から黒羽織に手を通して、魂だけが舞い上がるようになっていた。それではあまりにも寂しいので作者に了解をとって、今のような噺の姿になった。
(CDの解説から要約)
舞台の隅田川神社を歩く
落語「松葉屋瀬川」や「花見小僧
」で伺った東白鬚(しらひげ)公園内の木母寺の南隣が隅田川神社です。
昭和20年3月東京大空襲があって10万人の死者を出した。この教訓から墨堤通りのすぐ西側に火炎が延びないようにと高層のアパートが南北に屏風のように建てられた。この時、池
(入り江)の脇に鎮座していた、木母寺・梅若堂は川岸に移動させられて、木造建築と言う事でガラス・ショーケース(?)の中にお堂は納められてしまった。
また隅田川土手にあった隅田川神社は首都高速道路6号向島線建設の橋脚が建つ為、安政5年(1858)に建てられた本殿は、昭和50年(1950)やむ終えず南に25m移動となった。その地は有名な料理屋「八百松」が有った場所です。
元来、隅田川と墨堤通りに挟まれた東白鬚公園の緑地は隅田川の河川敷であった。隅田川に架かる水神大橋から土手ずたいに南に延びる一方通行の道には忍岡高校、木母寺、隅田川神社、排水ポンプ場と続いて居ますが、この道は当時無かった。だから、河川敷の向こう、河川の土手は墨堤通りになります。その向こう、東側はここ河川敷よりも低かったので、ポンプ場が出来るまで、雨が降るとよく冠水した。
当然河川敷の隅田川神社も台風の時は冠水して社務所は床上1m等と言う事もあった。しかし社殿は石垣で高くなっているので難を逃れている。
隅田川神社の裏は当然隅田川ですが、今、川は見えません。土手は高く石垣で積み上げられ、その上には首都高速道路が高架で走り、天から圧迫されるようです。隅田川神社と隅田川の間を高層な遮蔽物で仕切られてしまったので、隅田川に直接出る事も出来ません。水運の守護神だと言われますが、隅田川側から見ても何処に神社があるのか、一瞬見当がつきません。
「花見小僧 」でも紹介したように、春の桜の時期は大勢の人出で賑わいますし、6月15日(その前後の日曜日)の例大祭は御輿も出て賑わいます。東武伊勢崎線「鐘ヶ淵駅」 徒歩10分。
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2005年7月記
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