落語「饅頭恐い」の舞台を歩く
   

 

 立川談志の噺、「饅頭恐い」(まんじゅうこわい)


 

 町内の若い衆が集まって、好きな物を言い合っている。「俺はカミさんだな」、「ぬけぬけと、良く言うよ。隣は?」、「家の隣のカミさん」。「俺はオデキのカサブタをむくのが好き」。

 そこに留公が、息せき切って駆け込んできた。「誰か追いかけてこないか。松ノ湯脇の近道を来ると、後ろから『留!』と呼ぶ声がした。振り向くと大きな口を開いた大蛇がいて呑み込むというので、慌てて逃げてきた。ヘビは恐いよ。鰻もドジョウもミミズも恐い」、「あんなのっぺらぼうのミミズが恐いのか」、「お前、暗闇からのっぺらぼうが出てきて、ニタニタって笑ったら恐いぞ」、「のっぺらぼうが笑ったかどうか分からないだろう」、「顔にシワが出来るから分かる。それより、長いものが恐い」。
 「コイツの言うことも分かる。人は胞衣(えな)を方角を決めて埋めた土の上を、初めて通った虫を嫌いになるという言い伝えがある。虫が好かないというよな。ここで、恐いものを聞こう」。

 「俺はヘビ」、「留と同じだな」、「そんなヘビではなく、キングコブラ。それが海を泳いで来たらどうしようと思うだけで恐い」。「そっちは」、「カエル。口をパクッと開けたのは恐い、考えたら家のカカアが『夕んべはどこ行ってたの』と、口をパクッと開けるのを見てから恐くなった」。「俺は、ナメクジ。ヌルヌルしていて恐い」。
 聞いていくと、ヒル、蜘蛛、ゴキブリ、毛虫、蟻、馬、ミミズ・・・嫌いなものは恐い。

 向うを向いてたばこ吸っているのは寅さん。「何か恐いものは無いか」、「無いッ。ないッ、ないッよ」、「じゃ~ヘビなんかはどうだ」、「ヘビなんか見るとゾクゾクする。旨いから食べちゃう。ものを考えるときは頭に締める。カエルは皮をむいて焼いて食べちゃう。ナメクジは三杯酢にして食べちゃう。ミミズはケチャップ掛けてスパゲッティー・ナポリタンにして食べちゃう。ゴキブリは手足を取ってドロップ代わりにして舐める。恐いものはなんにもねェ~よ」、「お前は偉いよ。皆、子供に返って恐いものの話をして遊んでんだ。それじゃ、場がしらけちまうよ」、「なんだよ。蜘蛛なんて納豆に混ぜてかき回すと糸を引いて旨い。蟻なんか赤飯もらったときに、ゴマ塩代わりにかけて食べる。毛虫が恐い?あんなものは柄を付けて歯ブラシ代わりにする。馬だって残らず食う。恐いものなんてナイ。・・・チョット待った。有る、一つだけ。忘れようと粋がっていたが、有るんだ」、「それは何だ」、小さな声で「饅頭」、「?」。
 詳しく聞くと泣き出して手に負えないので、隣の三畳間に布団を引いて寝かしつけた。

 普段からひねくれ者で、左と言えば右と言うし、右と言えば左だという。黒いと言えば白だという。生意気な野郎で、嫌われ者だった寅さん。饅頭を皆で買ってきて、枕元に置いたら面白いと、衆議一決したが、シャレがキツすぎて、餡(あん)で殺したら暗殺になる。
 それより早く、饅頭を買ってきた。腰高饅頭、栗饅頭、蕎麦饅頭、木の葉饅頭、揚げ饅頭、肉まん、葛饅頭(くずまんじゅう)、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)、今川焼きはチョト違うがそれも混ぜて、お盆に山積みにした。

 隣の部屋に持ち込み寅さんを起こし、その饅頭を見せると、「饅頭ッ」と言って絶句するかと思ったら、饅頭恐いとイイながら、持ち込んだ饅頭を食べ始めた。いっぱい計略にはまった町内の若い衆は「饅頭に食われてんだろう」、「いや、饅頭に食いついている」。暗殺は失敗に終わった。
「お前は本当に悪い奴だな。ホントは何が恐いんだ」、
「お茶が恐いよ~」。

 



1. この噺は元来上方の噺で、亡くなった桂枝雀の高座は絶品であった。その上方版「饅頭恐い」もご覧下さい。東京落語には無いところを上方版「饅頭恐い」から拾うと、

 黙っているみっつぁんに「おめえは、どんなもんが恐い?」と聞くと「ないッ」でも、なんかあるだろうとしつこく聞くと「おととい、カカアの炊いた飯がコワかった」。
 そのコワいじゃなくて、動けなくなるような恐いものだと言うと「カカアがふんどしを洗ったとき、糊をうんとつけ過ぎちゃって、コワくって歩けねえ」。

 罠に狐が捕らえられていた。悪狐だと石つぶてを浴びせるところ、貴方にだけ見せるものがあるので助けてくれと懇願された。私らが化けるところは見せないのだが、特別見せると言って、娘に化けた。その娘は綺麗な娘で、後ろ姿も見せてくれというと、振り返って見せてくれたが、フサフサな尾っぽが出ていた。注意すると手で隠し、一人前の娘に仕上がった。
 若い男が通りかかり、なにやら声を掛けると連れだって、小屋の中に入っていった。戸がピタリと閉まったので、外から覗きたくて節穴を探し中を覗いたが真っ暗で何も見えない。なおもよく見るが真っ暗で、時々頭の上に、バサァっと掛かるものがある。覗く内に後ろから声が掛かった。「馬の尻を覗いてどうするんだ」。

 最後まで聞いてくれるならと、おやっさんが恐い話をしだした。
 夜も更けた帰り道、橋を渡りかけたら若い女が袂に石を詰めている。これは身投げだと思ったので、後ろから羽交い締めにして押さえつけた。「助けると思って殺して下さい」と懇願したので「事情を聞いてそれからでも遅くない。どうしても女御の力では死ねないときは、私が殺してやろう」。死に急いで、死にたい、死にたいと言うだけであった。今だったら引きずっても連れてくるんだが、私も若かったし酒も入っていたので、そんなに死にたいのならと、欄干に頭を打ち付けて、「ヒェ~」と言う女の後も見ずにスタスタと歩いて橋を渡り切るときに後ろでザブ~ンという音を聞いた。「少しの親切が足りないばっかりに、先程まで話をしていた女が身を投げたかと思うと、自然に南無阿弥陀仏と念仏が出た」。雨も降り出し嫌な晩だと、早く帰ろうとスタ・スタ・スタと道を急ぐと、後ろからジタ・ジタ・ジタと濡れ草履の音がする。遅く歩けば遅く、速く歩けばその音も早く付いてくる。恐くて後ろを見ることも出来ず、ひょいとわきの小さな御堂の賽銭箱の裏に身を隠した。
 その足音が通り過ぎて、「見失ったな」と振り向く女。濡れた着物にザンバラの髪、真っ青な顔に欄干に額をぶつけ割れたところから血がだらりと。フラフラと賽銭箱まで来て、「先程助けてやろうとおっしゃったのに・・・」、そこまで言われると胆が座って、「自分で飛び込んでおいて、人の親切を無にして今更何を言うんだ」と、髪の毛を持ってズルズルと先程の橋の上、女を持ち上げ川の中にザバ~ンと・・・。
 わいがハマった。
 運悪く下に舟がいて、それに頭をぶっつけて、バチバチと目から火が出て、その火で足に火傷をした。熱かったので「熱ぃ!」と言う声で目が覚めた。お前らも気ぃ付けぃ、櫓(やぐら)ごたつは危ないぞォ~。
 おやっさん、どうにもならんな、夢ですかィ。「いやいや、ホンマのところもある。川にはまってびしょ濡れになったところは、寝小便たれしてた」。

原話より
  ある貧しい若者、饅頭を食べたいが金がない。そこで、饅頭屋の店先で、大声を出してぶっ倒れた。饅頭屋が驚いて訳を聞くと、男は「饅頭が怖いのだ」、「怖いことがあるものか」。と言って、饅頭を100個あまり並べた部屋に男を閉じ込め、外から様子をうかがうと、何にも音が聞こえてこないので、心配になって戸を開けてみたら、男は饅頭をむさぼり食っていた。
 「どうしたんだ」、「もう饅頭は怖くなくなった」、饅頭屋はだまされたことに気づき、怒って「本当は何が怖いんだ」、「お茶が2、3杯怖い」。

 明の李卓吾(りたくご=1527-1602)が編んだと言われる『山中一夕話』にある。
この話は、同じく明の馮夢竜(ふうむりゅう=1574-1645)の『笑府』にもあります。それが、日本に渡り『落噺気のくすり』(安永8年・1779)には、今の話のような骨格を持って、語り直されています。

 

2.饅頭
 饅頭は中国伝来の菓子で、伝説によると諸葛孔明(しょかつこうめい)が水神を慰めるために、人の頭に模した羊豚(ようとん)入りの饅頭を祭壇に供したのが、その起源とされる。羊豚入りとは、現在の大きな肉マンみたいなものであったのでしょうが、味の方は分かりません。

■薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう);すりおろした薯蕷(ナガイモ)の粘りを利用して米粉(薯蕷粉、上新粉)を練り上げ、その生地で餡等を包んでしっとりと蒸し上げた饅頭。上用饅頭とも言い、紅白饅頭や織部まんじゅうなどがこれにあたる。使われる薯蕷にはつくね芋(京都地方)、大和芋(関東)、伊勢芋(中部地方)などがある。茶席で使われる主菓子(おもがし)のひとつ。奈良の林浄因(りんじょういん)が作ったという言い伝えから、その子孫のお店の名前をとって「塩瀬饅頭」とも呼ばれる。右写真。
上方落語では、”薯蕷のおまん”と言っています。

塩瀬饅頭;塩瀬の始祖・林淨因は、主に寺院を対象に、奈良でお饅頭商いを始めました。
 淨因は、中国で肉を詰めて食べる「饅頭(マントゥ)」にヒントを得て、肉食が許されない僧侶のために、小豆(あずき)を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡(あん)を作り、これを皮に包んで蒸し上げました。お饅頭の、ふわふわとした皮の柔らかさ、小豆餡のほのかな甘さが、寺院に集う上流階級に大評判となりました。
 当時、日本の甘味には柿や栗の干したもの、お餅に小豆の呉汁をつけるお汁粉の元祖のようなものしかありませんでしたので、画期的なお菓子の誕生ということになりました。
 日本人は昔から豆類を多く摂取し、小豆好きであったことから、餡饅頭は好評を博したのだと考えられます。
 淨因のお饅頭は、後村上天皇に献上されるまでになります。天皇はお饅頭を大変喜んで淨因を寵遇し、宮女を賜りました。当時、一商人が宮女を下賜されるということは、特別の栄誉でありました。結婚に際し、淨因は紅白饅頭を諸方に贈り、子孫繁栄を願って大きな石の下に埋めました。これが「饅頭塚」として、林淨因が祀られている林神社に残されています。今日、嫁入りや祝い事に紅白饅頭を配る習慣は、ここより出ているものです。
 それから幾代か経て、商いの場は京都に移ります。林淨因の子孫、紹絆は、中国で製菓を修得後日本に帰り、中国の宮廷菓子に学び、山芋をこねて作る「薯蕷饅頭」を売り出しました。この「薯蕷饅頭」が現代塩瀬に伝わるお饅頭の元となりました。

 塩瀬は将軍家からも、宮中からも愛され、その繁盛は続きます。明治時代には、宮内省御用を勤め、今日に至ります。
 塩瀬饅頭は、大和芋の皮をむき、摩り下ろすところから始まります。職人の手による手作業です。耳たぶより少し柔らかい固さの皮に、餡を入れて蒸し上げると、本当に上品なお饅頭が出来上がるのです。
この項、塩瀬総本家ホームページより http://www.shiose.co.jp/shiose_history.html 

腰高饅頭(こしだかまんじゅう);丈高にふっくら作ってある饅頭。

栗饅頭(くりまんじゅう);栗餡を包んだ小判形の饅頭。皮の上に卵黄を塗って艶よく焼いたもの。また、その両方を兼ね備えた饅頭。くりまん。

蕎麦饅頭(そばまんじゅう);そば粉またはこれに上新粉や小麦粉を混ぜたものにすりおろしたやまのいもなどを加えて練った皮で、あんを包んで蒸したまんじゅう。

木の葉饅頭(このはなんじゅう);木の葉の形をした”サラッ”とした餡の饅頭。

揚げ饅頭(あげまんじゅう);衣で餡を包み油で揚げた物。

葛饅頭(くずまんじゅう);葛粉と砂糖などを練った生地で、餡を包んだ饅頭。多く、包んだあと蒸し、冷やして食べる。

肉饅頭(にくまんじゅう);イーストなどを加えてふくらませた小麦粉の皮に、豚肉・玉ねぎなどを包んで蒸した中華饅頭。豚饅頭。にくまん。

今川焼き(いまがわやき);銅板に銅の輪型をのせ、水で溶いた小麦粉を注ぎ、中に餡を入れて焼いた菓子。江戸神田今川橋辺の店で製し始めたからこの名がある。今は輪の代りに多数の円形のくぼみをもつ銅の焼型を用いる。鯛焼きもこの仲間です。

 

3.お茶
 上記のように、これだけお饅頭を並べられたら、美味しいお茶が飲みたくなるでしょうね。
 男連中が、それも若い連中が甘ったるい饅頭が恐い、なんて連想も出来ません。恐いと震えてる寅さんに病気見舞いだと持ち込んだ連中は、またまた彼の作戦にまんまとハマってしまいます。その上「お茶が恐い」なんて、そのお茶はどんなお茶を出せば良いのでしょうか。

 - 煎茶   - 深蒸し茶   - 玉露   - 玄米茶
  - ほうじ茶   - 粉茶   - 茎茶   - 抹茶
  - 粉末茶   - 有機栽培茶   - ティーバッグ   - 番茶
  - かぶせ茶   - 玉緑茶   - 芽茶   - 大福茶
  - べにふうき   - 乳酸菌発酵茶

 お茶(緑茶、日本茶)茶葉の種類一覧表。お茶の緑園さん http://minorien.jp/ichiran/ichiran.html より
ティーバックが入るのなら、自販機に入っている、ペットボトル入りの茶や、缶入り飲料茶も入るのでしょうか。

 中国には1000種類のお茶が有ると言います。饅頭だけでは無く、お茶も仲間が多いのです。

 

4.言葉
胞衣(えな);胎児を包んだ膜と胎盤。後産(アトザン)。
 胞衣を入れて埋めるのに用いた桶を、胞衣桶(えなおけ)と言った。外面を胡粉で塗り、雲母で松・竹・鶴・亀などを描く。おしおけと言う。また、産後5日または7日に、胞衣を桶または壺に納めて吉方の土中に埋める儀式を、胞衣納め(えなおさめ)と言った。その上を最初にまたぐ(通る)ものが、その人の恐いものになると言われた。

むしがすかない;中国の道教の考えで『三虫(三尸)』というのがあって、人の体の中には災いを起こす三匹の虫が住んでいて行いを監視していて、それが時々体を抜け出して天帝に報告に行っているというものです。それが日本に伝わり「三尸九虫」という、人の体内には九つの虫がすんでいてそれぞれが、病気を起こしたり、意識や感情を呼び起こすのだと言う俗信になりました。「虫」にまつわる言い回しはそこから来ているという説があるようです。落語「疝気の虫」 http://ginjo.fc2web.com/162senkinomusi/senkinomusi.htm の中で解説しています。

のっぺらぼうのっぺらぼうとは、顔には目も鼻も口もないミミズだけではなく日本の妖怪も。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』の中の『むじな』の話が有名。 饅頭より恐いですぞ~、その話とは、

 東京の港区元赤坂迎賓館と千代田区の境にある紀之国(きのくに)坂は、江戸時代に紀州の藩邸があったところから、その名がついた。御所の高い長塀と昔からの大きな堀が続く、物寂しい坂だった。昼間でさえ人通りはなく、夜ともなればなおさらのこと、どんなに回り道をしたとしても人々は紀之国坂を避けたという。紀之国坂には「むじな」が出るという噂があった。
 ある晩、紀之国坂を上って帰りを急ぐ老商人がいた。「むじな」が出るといううわさを聞いてはいたが、何かの急ぎの用とやらで、老商人は仕方なく紀之国坂を上っていくことにしたのである。
 老商人が早足で歩いていると、どこからともなく泣き声が聞こえてきた。辺りを見渡すと、堀の方を向いてしゃがんでいる女の姿を見つけた。老商人は持っていたちょうちんを女に向けた。身なりはしっかりしていて、髪なども良家の娘のようにきちんと結ってあった。はて、うら寂しいところで何をしているのだろうかと心配して、「もし、娘さん。一体、こんな夜分にどうなさったのかね」と、声をかけた。しかし、老商人の気づかいの言葉を意に介すでもなく、女は相変わらず泣き続けていた。老商人はもう一度、「どうなさったのかね、娘さん」と、声をかけてみたが駄目だった。老商人は途方に暮れてしまった。どうしようかと迷った揚げ句、「娘さん、もう泣くのはおよしなさい。後生だから、私に何か助けられることがあったら話してご覧なさい」と、優しい口調で諭してみた。
 すると、女は立ち上がって老商人の方に向き直ると、今まで顔を覆っていた着物の袖をどけて、面をつるりとなで上げた。
 老商人は耳をつんざくような悲鳴を上げた。女の顔は目も鼻も口もない、のっぺらぼうだったのだ。老商人は持っていたちょうちんを投げ出して、無我夢中で紀之国坂を駆け上がった。後ろを振り返る勇気なぞ、とても出なかった。
 しばらくひた走っていると、前方にそば屋の屋台の明かりが見えてきた。老商人はちょっとだけ安心した。
「大変だ」。老商人はわめき立てながら、そば屋の主人の着物を引っ張った。そば屋はやれやれという感じで、
「どうなさったんですか。まるで追い剥ぎにでもあったような顔をしているじゃないですか」と、言った。
「いや主人、そうではないんだ。それがその、何だ」。
 老商人は息が上がっていたために言葉をうまく紡げなかった。すると、そば屋は突然、薄気味悪い笑い声を上げながら、「分かりました。多分、こんなやつに出くわしたんじゃないですか」と、顔をつるりとなで上げて、ゆで卵のようなのっぺらぼうに変身した。
 老商人は気を失ってしまった。
<『怪談』 ラフカディオ・ハーン 著 平井呈一 訳/岩波書店>

 落語「のっぺらぼう」にこの噺と、本題が有ります。




 舞台の今川橋と明石町を歩く

 

 大福餅は饅頭と違うのでしょうか。これも考え始めると夜も寝られなくなるので、餅菓子屋さんに聞きました。

 饅頭は小麦粉をこねて中に餡をいれて蒸したものが一般的で、種類は非常に多くなっています。一方大福は大福餅とも言われている様に、餡を薄い餅で包んだ物で、蒸しません。大福の歴史はよくわかりません。ですから両者の違いは作り方と皮の部分が根本的に違います。
 大福には、豆大福(餅に赤豌豆等を混ぜる),草大福(餅に蓬を入れる),苺大福(餡の中にイチゴ)や雪見大福(白玉粉が原料の求肥でアイスクリームを包んだ)もあります。この他にも、団子を餡で包んだ、あんころ餅や、牡丹餅(ぼたもち)・おはぎもこの仲間です。
 だから、今川焼きは饅頭じゃないと、噺の中でも語られています。意外と細かくウルサいんですね。今川焼きは売っている所は少ないのですが、鯛焼きは結構売っている所が多くあります。

 その今川焼き発祥の地と言われる地に行きます。
 江戸中期の安永年間(1772-1780)、江戸市内にかつて存在した竜閑川に、当地の名主今川善右衛門が架橋した「今川橋」の神田側に実在した店で、これらの焼き菓子を発売して高い評判を呼び、後に「今川焼き」が地名から一般名詞化して広がったとされている。
 現在、竜閑川は埋め立てられて、そこには細い路地であったり、建物が川状に建ち並んでいたりします。ですから現存しませんが、千代田区と中央区の区境になっています。中央通りが南北に走る、神田駅の南側には、今川橋交差点が有ります。江戸時代の今川橋跡はその南側100mの所に岩手銀行の入った東山ビル(中央区日本橋本町四丁目9)の正面にその碑があります。そのビルの北側に沿った路地が区境になっています。この今川橋の神田駅よりにあった今川焼屋さんが、名前発祥の店だったのです。現在はビジネス街ですから、その様な店はありません。

 饅頭の老舗「塩瀬」に伺います。
 佃大橋の西詰めの町、明石町にあります。近くには高層の聖路加(せいろか)病院があり、タクシーが行列を作っていますし、病人とお見舞い客で大賑わい。お店だったら、大歓迎なのでしょうが、病院ではね。
 その一画に有る、ここは本店で、都内の有名所の百貨店に出店していますので、わざわざ交通の不便な所まで買い物に来るお客は、まれなのでしょう。私を含めて。店内は静かな雰囲気と上品さが醸し出されています。薯蕷饅頭だけ買って売り上げにもならない客です。甘い物は苦手な私ですから、小振りの、と言うより一番小さな薯蕷饅頭2個を買って帰りましたが、旨い不味いより口の中が甘さと小豆でいっぱい。早く美味しいお茶が欲しくなりました。

右看板;塩瀬本家にある看板。「日本第一番 本饅頭所 林氏塩瀬」 東京・明石町 

 最後にラフカディオ・ハーンの「のっぺらぼう」の舞台、紀之国坂に行きます。
 赤坂見附の5差路の交差点を四ツ谷駅方向に弁慶橋を右に見ながら、その下の弁慶濠と言う外濠を右に見ながら坂を登ります。この道を外堀通りと言い、坂を紀之国坂と言います。左側に元赤坂(町)の紀伊藩中屋敷跡の長い白塀が続きます。ここが現在迎賓館として使われている、当時の塀です。中を覗くことも出来ない高い塀と、厳重に警備された物々しい中屋敷塀が続き、道路の右側にはホテルニューオオタニの建物が見えます。紀之国坂の中程に落語「ちきり伊勢屋」で歩いた赤坂喰違(くいちがい)見附跡があって江戸城側に抜けられます。円生は首つりの名所だと言うように、木立が鬱蒼として、昼でも薄暗いとこですから、前の紀之国坂はもっと暗くて薄気味の悪い所だったのでしょう。最初ののっぺらぼうの娘さんに出合ったのもここら辺りかと、自分勝手に思っています。驚き慌てて坂を登り切った所が、目の前に四ツ谷駅が見えて左側には迎賓館が終わり、西洋風の入口ゲートが見えます。ここら辺りにのっぺらぼうの蕎麦屋さんがいたのでしょう。今はその先に交番もあって、駆け込めば何とかなったことでしょうが、お巡りさんものっぺらぼうであったなんて。江戸の街中にはこの様な寂しい所が、至る所にあったのです。ここだけが特別な所では無かったのです。
 皆さんも気ぃ付けぃ、暗い坂道は危ないぞォ~。

 

地図



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写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

塩瀬総本家本店 (中央区明石町7)
 落ち着いた街中に、落ち着いた店舗を構えています。いつ行っても私のためだけに接客してくれます。

 

聖路加病院 (中央区明石町)
 塩瀬本店の隣は聖路加病院です。102才の日野原重明氏を聖路加国際病院名誉院長に置いた病院。
 名誉院長は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き、終末期医療の普及にも尽くすなど、長年にわたって日本の医学の発展に貢献してきた功績が文化勲章につながります。従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも彼です。平成13年(2001)12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた名物院長。

佃大橋 (隅田川の中央区明石町と佃を渡す)
 塩瀬の隣に流れる隅田川に架かる佃大橋。遠景は佃にある 「リバーシティー21」のマンション群。
 『佃大橋』は佃の渡しに変わる橋で、右岸の明石町側では 「築地川公園通り」 と、また左岸の月島側では「清澄通り」と立体交差する、その総延長が576mにも及ぶ 「連続高架橋」。 架設当時は、桁橋としては国内屈指の規模であり、技術力の高さを示す橋でもあったが、機能本位で情緒は有りません。

紀之国坂 (港区元赤坂東の坂)
 紀伊国坂とも呼ばれ、左側の白壁は元紀州徳川家中屋敷(上屋敷は間違い)が有った所で、現在は赤坂御用邸、及び迎賓館として使われている。木が鬱蒼として、それらしい雰囲気を持っています。

赤坂喰違見附(千代田区紀尾井町に抜ける外堀の見附)
 落語「ちきり伊勢屋」で訪れた、赤坂喰違見附跡が右に曲がるとあります。坂の勾配は緩くなって、紀州家屋敷が終わる所まで続きます。喰違見附は江戸時代初期の江戸城外郭門のひとつであり、明治7年(1874)にはここで岩倉具視暗殺未遂事件「喰違の変」が起きています。

今川橋交差点(千代田区鍛冶町、中央通りの交差点)
 江戸時代に丸型の焼き菓子をこの付近で売り始めたことがきっかけで、今川焼きの名がついた。ここは「黄金餅」、「反対車」、「三井の大黒」で通った所でもあります。写真奥は日本橋。

今川橋跡の碑 (江戸時代の今川橋の架かっていた地)
 今川橋交差点から南によった所に竜閑川が横切って、今川橋が架かっていた。現在は埋め立てられて写真の北側(上部)に残る路地とその真ん中に、千代田区と中央区の区境が走る。野鳥が飛んできて魚を摘まんで行ってしまうので、金網がかけられています。都会の中にも自然がまだ残っています。

                                                           2014年4月記

 

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