六代目三遊亭円生の噺、「お藤松五郎」(おふじまつごろう)によると。
本日大凶、天中殺、バイオリズムが最悪、そこまで言わなくても良いくらい、登場人物全員が大凶。つまらない、小さな誤解からそれを真実と見なし、走り始める人が、どんなに不幸になるか、その出発点です。情報が今のように発達しても、誤解から生じる心の隙間、それを埋めるのは一呼吸をした後の、心の余裕なのでしょう。
「両国広小路」隅田川に架かる両国橋。正面茶店と奥の小屋掛け芝居と見世。 江戸東京博物館ジオラマ。
「両国橋橋詰」豊国画 5枚続き ジオラマとは逆に対岸から見た図。中央に両国橋、右手前に水茶屋が並んでいます。この中で一番綺麗なのがお藤ちゃんです。
■柳橋(やなぎばし);柳橋は両国広小路北側を流れる神田川最下流に架かる橋名。この北側を柳橋(町)と言い、高級料亭が多く、多くの芸者に支えられた花街です。明治以降およそ100軒の料亭と600人の芸妓がいた。柳橋の南側には米沢町を含め妓楼が多くありました。
■米沢町(よねざわちょう);中央区東日本橋二丁目両国橋西詰めの街。現在は町名変更になってその名はない。ここには「四つ目屋」という媚薬玩具を商う店があった。また、落語「幾代餅」(紺屋高尾内)で語られる幾代餅屋さんもここにあった。
■葭町(よしちょう);中央区日本橋人形町一丁目、三丁目を挟む地域。いまの人形町交差点から江戸橋に抜ける道筋の街で、明治になってから日本橋芳町と呼ばれたところです。落語「百川」で田舎出の百兵衛さんが世話になった、口入れ屋の桂庵千束屋があったところ。
■横山町(よこやまちょう);中央区日本橋横山町。万屋清三郎が道具屋を開いていたところ。この地は問屋街で落語の世界でもいろいろな問屋さんがここで営業しています。
■清正公様(せいしょうこうさま);中央区日本橋浜町二丁目59、肥後本妙寺別院。清正公様(加藤清正)と言えば「井戸の茶碗」で出てきた、港区白銀台一丁目にある最正山覚林寺は通称「白金の清正公さま」と呼ばれ、こことは別のお寺さんです。
■茶店(ちゃみせ);お茶や簡単な料理、団子や餅などを提供した小さな店。水茶屋とも。
3.お藤さん
一中節の三味線弾きで堅いと言われた菅野松五郎、落語「お若伊之助」で登場した一中節の師匠は菅野伊之助です。同じ菅野派なのです。
■使い屋;命ぜられて用たしをすること。また、その人。伝言を伝えその返事をもらってくる使者。商家の奉公人とは違って、お客のリクエストに従って用件を聞くプロの使者。今だったら電話もあるし、携帯電話が有れば、使い屋という商売もなかったし、行き違いもなかったでしょう。
■(引手)茶屋(ちゃや);本来は遊廓の妓楼で遊ぶ為にここに入り世話を受ける店。引手茶屋。しかし大きな茶屋だと、ここで飲み食いさせた。遊女は呼べないが、芸者や幇間を呼んで飲食できた。その内の一つに草加屋が有ったのでしょう。上記の茶店(水茶屋)とはまったく別物です。
舞台の両国広小路を歩く
当時の両国橋は現在の橋の南側(下流)に架かっていました。その為、現在の地形と当時の地形は一致しません。それを無視すれば現在も両国西詰めは江戸期と比べても車道の広さは広小路です。両国橋を渡す道路は、京葉道路。両国橋の西側浅草橋交差点を境に西側は靖国神社前を通るので靖国通り、その東側は千葉まで繋がる京葉道路と名を変えます。
今回の舞台は両国広小路ですが、現在は両国橋を渡った西側は広く、横断するのに苦労するほど歩行者には親切な設計が施されていません。回り道して右(北)側の柳橋に向かいます。毎回訪れる柳橋ですが来るたびに新しい発見があります。今回は柳橋を渡らず、来た道を戻ります。表通りの京葉通りと柳橋が架かっている神田川に挟まれた地が、柳橋裏河岸と呼ばれた所です。江戸時代はこの地から南側全体を俗に柳橋と呼ばれていました。南側の柳橋(町)から見れば、ここは裏河岸なのでしょう。
京葉通りを渡った薬研堀不動院参道の看板が掛かった柳橋通りを入って行きます。この通りは現在は奥まで抜けられますが、江戸時代は米沢町の入口に当たり、直ぐ突き当たって草加屋というお茶屋が有ったところですが、現在は当然ありません。奥まで進むと左手に、薬研堀の不動院があります。ここからザクッと南に下れば浜町の公園に出ます。その一画にお藤さんが寄ると言っていた清正公(せいしょうこう)様があります。また、真っ直ぐ西に出て行けば人形町の先、葭町に出ます。どちらもそんなに苦になる距離ではありません。
両国橋の川沿いに戻ります。区立日本橋中学校は江戸の最後まで残った薬研堀の跡に建った学校です。生徒達はその校庭で思い切ってスポーツに励んでいます。その地にあった隅田川に接する河口に架かった元柳橋(難波橋)は当然埋め立てられて道になっていますが、その上空を歩道橋が隅田川と学校を渡しています。元柳橋上空から見る、江戸時代の両国広小路は何処に行ってしまったのでしょうか。道路が残るのみで、商店、盛り場は何処にもありません。ただ都心に向かう道だけがあります。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
清正公様(中央区日本橋浜町二丁目59、清正公寺)
両国広小路跡(中央区東日本橋二丁目の隅田川沿いの地)
両国橋(隅田川の中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶ橋) 柳橋(東日本橋と台東区柳橋を結ぶ、神田川の最下流に架かる橋)
柳橋裏河岸
(中央区東日本橋二丁目26&27)
米沢町(中央区東日本橋二丁目東北一帯)
薬研堀不動院(中央区東日本橋二丁目6)
横山町(中央区日本橋横山町)
葭町(中央区日本橋人形町一丁目、三丁目を挟む地域) 2010年11月記 |
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