落語「火事息子」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「火事息子」(かじむすこ)によると。
 

  江戸は火事早い所と言われます。神田の質屋伊勢屋の若旦那・藤三郎は小さい時から火事が大好き。おもちゃも、纏(まとい)とか、ハシゴなどで他のものは買わなかった。年頃になると、半鐘が鳴ると掛けだしていって家には居なかった。親御さんも心配でたまらなかった。
 町内の頭のとこに行って、火消しにしてくれと頼んだが、立派な若旦那だからと断られた。回状が回っているので他の頭のとこに行っても同じであった。考えあぐねて、火消し屋敷に入ることにした。
 藤三郎は金にあかせてすっかり全身に彫り物をした。白い肌に朱の色が映えて見事であった。それを見た親から勘当を言い渡された。

 旧暦の11月寒風吹く北風の中、伊勢屋さんの近くで火事があった。頭に藏の目塗りを頼んだが、風上だから我慢してくれと断られた。商売上目塗りをしないと信用に関わるからと、番頭の佐兵衛に頼んだ。しかし仕事違いで、ハシゴから手が離せず目塗りどころではない。
 そこに、遠くで見ていた臥煙(がえん)が、屋根から屋根へパパパパッっと平地を走るように、猫が飛ぶようにやって来た。藏の折れ釘に佐兵衛の身体を支えさせ、両手が使えるようになった。

 火事も収まり、ホッとしていると、火事見舞いの客がごった返した。親の代理で見舞いに訪れた、よその若旦那をみて、藤三郎と比較して愚痴と涙が出るのであった。
 折れ釘から降りてきた番頭は「先ほどの火消しにはたいそう世話になったから、ご主人から会ってお言葉を掛けて欲しい。」という。ご主人は「商売とは言え屋根から屋根へ見事な身の軽さだった。お手伝いしていただいた方だから、質物はそのまま出してお上げ。」、「いえ、・・・実は、あの方は勘当になさいました藤三郎さまです。」、「なんて危ないことを・・・、怪我でもしたらどうするんだ。あッ・・・いや、他人様だから関係ない。だから会いたくない。」、「でも、赤の他人様ですから、この様な時にこそ会って、お礼をするのが人の道ではありませんか。」、「年寄りをへこませて、面白いだろう・・・。分かりました、会いましょう」。
 台所の隅で役半纏一枚で小さくなっている藤三郎であった。通り一遍の挨拶と感謝の言葉を述べ、藤三郎もそれに応えた。しかし、全身の彫り物に毒づき、親の顔に泥を塗ったと言葉はキツイ。お礼も言ったし、用もないから引き取れとつれない。若旦那の「では・・・、帰ります。」、「チョットお待ちなさいよ」。止める番頭、「おかみさん、チョット ォ〜」。

 そこに猫を抱えた母親が出てきた。「猫は火を見ると床下に逃げると言うから、焼き殺してはいけないと思ってず〜っと抱いているんだよ。」、「ここにいらっしゃるのは若旦那様です。」、「猫なんてどうでもいい。藤三郎かい。いつもお前のことを話して居るんですよ。寒そうにして。あの結城の着物をこの子に着せたらさぞ似合うことでしょう。この子にあげたい。」、「やることはならない。やるくらいなら捨てろ。」、「捨てるくらいなら、やっても良いじゃないですか。」、「解らないやつだ。捨てればこいつが拾っていく。」、「解りました。箪笥ごと捨てます」。
 「この子は粋ななりも似合いましたが、黒の紋付きがよく似合いました。いつか親の代理でお年始回りをした時、芝居に出てくるような綺麗な若旦那と評判になり、『この子の親はどんなんだろう』といわれ、『私です』と言って、笑われた事がありました。これに黒羽二重の紋付きを着せて、仙台平の袴をはかせ、小僧を連れてやりたいと思います。」
 「こんなヤクザなやつに、そんな格好をさせてどうするんだ。」
 「火事のお陰で会えたのですから、火元に礼にやりましょう」。

 


 
1.火事息子
 
大正期に、「唐茄子屋」、「火事息子」で、有名を馳せた、名人の呼び声高い、初代の三遊亭圓右。
 その姿を、高座で見て感動したであろう、志ん生、圓生、正蔵の各師は、それぞれに圓右師匠の「火事息子」の姿を透かして見せてくれているように思います。三代目三木助は、圓右師匠の高座は見ていないようですが、それだけに興味深い舞台を見せてくれています。談志さんは、この三木助師匠の火事息子にぞっこんです。 
  火事息子は、神田の質屋を舞台にした物語で、質屋の倅、藤三郎(圓右・圓生)、徳三郎(志ん生、正蔵)が主人公として登場します。

■三代目桂三木助の火事息子から
 親子の情愛が滲み出ている場面を紹介します。いつもは亭主の言うことに反論もせず、暮らしてきた奥様ですが、ここでは初めての逆襲を始めます。母親の愛が伝わってきます。

 「お父ッつァんのほうが、ご無理じゃないかと思います。いえ、今日はあたしは言わせていただきますよ。そうじゃァありませんか、はじめてあたしがこの子を産むときに、どうしましたお前さん。『あたしが育てます』と言ったら、『冗談言っちゃいけない、江戸のうちでも五本の指を折られる質屋でもって、子供が出来て、乳母(うば)ひとり付けずに育てられるか、世間さまへみっともない』、『そんならなにか良い乳母がおりましょうか?』、『あぁ、め組の伝吉の内儀さん、火事場で伝吉が大怪我をして、若死にをしてしまって、子供も死んでしまって、ほんとうに一人しか残っていない。可哀想じゃないか』。それで、お前さんが伝吉の女房のお崎をこれの乳母につけて、よく働いて可愛がってくれた。良い乳母だと思っていたが、良い事もありゃァ悪い事もある。ジャーンと半鐘の音がすると、すぐにお崎は、大屋根へあがっちまう。こりゃァ後で火がつくように泣いちまう。あたしがお崎に『お前は赤ん坊をおっほり出しといて屋根ェあがっちまっちゃしょうがないじゃないか』。こんだァこれを負ぶって屋根ェあがる。風邪でもひかしたら、だいいち、あの大屋根の上をあっちィ行ったり、こっちィ行ったり、『もしも間違いでもあったらどうするんだ』ったら、お崎が『お内儀さん、あたくしの父親は仕事師でございます、あたくしの亭主も仕事師でございます、あたしは腹からの仕事師でございます。畳の上で粗相するかしれませんが、屋根の上で粗相したことはございません』。寒い時だってなんだって、この子負ぶって、上に刺し子を着て、屋根の上をあっちィ行ったり、こっちィ行ったり、表へ出れば、これに土産を買ってくれば、纏の土産だ、梯子の土産だ、鳶口だ、これが火事が好きになんのは当たり前じゃありませんか。それを、今ンなって、お前さん・・・」。
「いぃや帰るこたぁない、お父ッつァんばかりの子じゃぁない」。

この項;福田典夫氏 解説および三木助口上筆記


2.火消し

 江戸の火災に対して大きな効力を発揮したのが、幕府が編成した消防組織です。江戸の消防組織は、大名が勤めた大名火消し、旗本が勤めた定火消し、町民が勤めた町火消の三つに大別できます。

 大名火消(だいみょうびけし)、はじめは組織化されたものではなく、火災のたびごとに大名に消火を命じる臨時的なものでした。大名火消が組織化されてくるのは、寛永20年(1643)に、六万石以下の譜代大名16家に火消しを命じ、これを四組に分け、一組に4大名を編成し、1組10日交代で勤めるようにしてからです。その後、三組編成となりますが、これらの大名は、それぞれ一万石につき30人の割合で人夫を出して消防にあたることになっていました。大名火消は、明暦の大火以前には唯一の消防組織として、江戸市中の消防をすべて引き受けましたが、定火消が設置されてからは、主として江戸城の消防にあたるようになりました。
 大名火消のなかでも、特定の場所・施設の消火にあたるものを所々火消しといい、定められた方面の火災にだけ出動するものを方角火消といい、大火の際に臨時に定火消を応援するものを増(まし)火消といいました。増火消は、将軍の命を奉じて老中が発する奉書によって命じられたので、奉書火消しとも言われました。


 定火消(じょうびけし)、
明暦大火の翌年万洽元年(1658)に四名の旗本に対して、江戸中定火の番を命じ、役料三百人扶持を給し、各与力六騎・同心三十人を付属させたことにはじまります。役屋敷は、飯田町・市谷左内坂・御茶ノ水上・麹町半歳門外の四ヵ所に与えられました。これらの場所はいずれも江戸城の西北にあたり、西北季節風の吹く冬季にこの地域から出火すると、江戸市中が風下となるので、まずこの四ヵ所に定火消を配置したと考えられます。その後定火消の定員は増減がありますが、宝永元年(1704)に10名となり固定したので、十人火消ともよばれました。
 この十組の火消屋敷は、八重洲河岸・赤坂溜池・半藏門外・御茶ノ水・駿河台・赤坂門外・飯田橋・小川町・四谷門外・市谷左内坂にありました。
 定火消屋敷は、約三千坪(約9900平方メートル)ほどで、火消役はじめ与力6人・同心30人や臥煙300人が常住し、屋敷のなかには火の見櫓が設けてあり、常に 2人の見張番が勤務して、火災の警戒にあたりました。火災の合図があると、定火消役は騎馬で火事場に出動し、与力・同心や臥煙がこれに従いました。火事場での消火活動の主体となったのは臥煙でした。定火消には寄合の旗本が命じられたので、寄合火消ともいいました。

 右写真;定火消しの火の見櫓。四ッ谷・消防博物館所蔵模型。写真をクリックすると大きくなります。

 町火消(まちびけし)、享保3年(1718)10月に、町奉行大岡忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。12月には、火消組合を編成し、絵図に朱引をして各組合ごとの分担区域を定めています。しかし、これは地域割りがうまくいかなかったので、享保5年8月に、組合の再編成がおこなわれました。隅田川から西は約20町を一組とし、47組を編成しました。これらの組合は、いろは四十七文字を組の名としましたが、へ・ら・ひの三字は除き、そのかわりに百・千・万を加えました。隅田川から東、本所・深川地域は別に、一組から十六組までの16組合に編成しました。享保15年1月になると、47組をさらに一番から十番までの十組の大組に編成しました。これにより従来の編成では不足がちであった人夫を、はるかに多く火事場に集めることが可能となりました。この結果、従来一町から30人ずつ出していたのを15人に半減して、町々の負担を軽くしています。その後、いろは四十七組のほかに本組が編成されて三番組に加えられたため48組となりました。元文3年(1738)になると、四番組と七番組は交字の縁起が悪いということで、四番組は五番組に、七番組は六番組に編入しましたので、大組は8組となりました。このほか、元文3年ごろまでに、本所・深川の16組も南・中・北組の大組に再編成されました。

 町火消には、はじめ町の住民があたり、これを「店(たな)人足」といいました。当時は破壊消防が中心でしたから、これに慣れない素人があたるのでは効果もあがらず、怪我人も少なくありませんでした。また、町民はそれぞれ生業を持っていましたし、自己の財産を守らなければなりませんでしたので、店人足に出るのを避けるようになりました。このため町では、破壊消防に慣れた鳶職人を雇って店人足に混ぜて使うようになりました。のちにはこの鳶職人が町火消の主体となっていき、町では鳶職人を町抱え、または組抱えにして常備するようになりました。
 町火消の装備や鳶職人の賃銭は、地主が所持家屋敷の規模に応じて負担する町入用から支出されました。町火消が江戸の消防組織の中心となっていくにしたがい、その費用も増大していきました。

農山漁村文化協会発行「大江戸万華鏡」より防火対策と消防システムから引用

 若旦那藤三郎は町火消しに入れず、定火消しの臥煙になった。肌は白く良いとこの若旦那だけに、普通の臥煙と違って、美しくもあったのでしょう。今日の火事を契機として、水が違うので臥煙で長く生活が出来るはずはなく ・・・、と言うことは遅かれ早かれ、伊勢屋に戻ることになるであろうと、勝手に想像しています。


武家火消しの図」 左に描かれているのが、火災に出動する定火消し。右は武家の子女が奥方火事装束に
身を包み、避難する様子が描かれています。雑踏の中でも目立つように、色華やかな衣装です。
四ッ谷・消防博物館所蔵

(まとい)と梯子;藤三郎が好きで好きでたまらなかったもの。梯子は延焼しそうな家屋に立てかけ、屋根に上るためのもの。屋根に上がったら、自らの所属する火消し組の威信をかけて、 纏を振り、先陣を誇示するもの、だけではありませんが。
刺し子(さしこ);綿布を重ね合せて、一面に1針抜きに細かく縫ったもの。丈夫であるから、消防服や柔道着などに用いる。江戸っ子は訛って「さしっこ」と発音した。
右図:「刺し子半纏の裏側」江戸東京博物館蔵 表側は仲間内で共通のデザインであったが、裏側は歌舞伎等の粋な場面から図柄を選んで個々で楽しんでいた。


 東京消防庁出初め式の時の纏のそろい踏み。

半鐘(はんしょ);火災警鐘用の合図に打ち鳴らす小形の釣鐘。
 叩き方によって火元の遠近が分かった。ひとつ番(ばん)といって、極遠方の時打ったものから、二つ番、三番と近くになった。三番になると2〜3丁(町。おおざっぱに2〜300m)の近さになった。自分のところに影響が及ぶような至近距離の時は「擦り番」といって、半鐘の内側を摺るようにジャラジャラジャラと鳴らした。こうなると恐いですね、恐ろしいですね。

臥煙(がえん);江戸城の回り、見付の警固に当った 「定火消」の組織の一員で、火消し人足または火事人足。仲間内で、せんじん(先陣)と言ったが、他ではだれも言わず、臥煙と言った。
 臥煙は彫り物をし、屋敷内では賭博に明け暮れ、金が無くなると町方にせびり、乱暴者が多かったことから町方から嫌がられ無頼漢ともいわれた。無頼漢らしい気質を臥煙肌といいます。伝法肌とも言った。

 「臥煙になるには、男っぷりが良くなければならない。続いて背が高い者。力がある者。純粋の江戸っ子でないとなれなかった上に気性が激しい若者であった。(「類縁が居ないこと」の条件が付くこともありました)
 普段は、どんな極寒でも役半纏というハッピ一枚で、サラシの腹巻きに六尺の下帯、白足袋を履き、頭は奴銀杏というハケ先がパラッと散っている上に向こう鉢巻きをして、そのまま火元に飛び込んだ。寝る時は、長い丸太を枕代わりに目刺し状態で寝て、起こす時は先端を木槌で叩き起こした。これで起きられなかったら?そんな臥煙は何処にも居なかった。起こされる前に半鐘の音で飛び出していた。
」 円生のマクラより意訳。

破壊消防;当時の消防は火消しと言っても、現代消防のように直接火炎を鎮圧するのではなく、火元の家を破壊して火勢を鎮圧したり、風下の家屋を破壊し延焼防止に、重点がおかれた。火が入った建物は屋根を抜いて火勢を上に抜き壁を内側に倒し、延焼しないように消火した。落語「二番煎じ」に破壊消防のジオラマがあります。

彫り物江戸時代の浮世絵など文化的成熟を通して、装飾としての彫り物の技術も発展した。背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな彫り物が、江戸時代に完成した。

  十九世紀に入るとその流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、彫り物をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及していった。旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、彫り物を施す者が現れるようになった。「遠山の金さん」で有名な遠山景元が彫り物を入れていたのは、恐らく事実であろう。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「入れ墨」より。 写真左;線彫り、右;虎 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E3%82%8C%E5%A2%A8

 「臥煙のほとんどは「彫り物」をしていた。大阪の方では「我慢」といい、よほど我慢をしないと完成しないからと納得出来る。若い頃、彫り物をした芸人(落語家)が何人もいた。立花家花橘(かきつ。生没1884年-1951年9月23日、本名;菱川一太郎)という関西の噺家は襟元から5〜6寸下がった背中に桔梗の紋がひとつ入れてあった。彼の定紋で夏、裸でも失礼にならない・・・。紋付きだから。」 円生のマクラより意訳。
 彫り物は趣味で入れるものですが、入れ墨は犯罪者に入れるもので、意味の違うものです。けっして彫り物をした人に入れ墨と言ってはいけません。言っても良いですが、口は聞いてくれないでしょう。
 

3.『火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞』
・火事
火事によって江戸が大きくなったと言われる程、火事が多かったし、住民に多大の影響をあたえた。
・喧嘩火事、祭礼、劇場などでメンツをかけて、武士から、火消し、町人までグループ同士がやりあった。
・伊勢屋
江戸は地方から出てきた商人達によってまかなわれていた。その中でも伊勢(三重)から来た商人は商才に長けて目立った。
・稲荷
;全国に8万を超すと言われる神社の中で、3万2千ともいわれる稲荷神社の数の多さは、日本人と農耕との深い関わりを示しています。「商売繁盛の神様」で長屋の裏にも稲荷はあった。
・犬の糞
;犬公方と呼ばれた第五代将軍徳川綱吉の悪政で犬が増えた。結果犬の糞はどこに行っても多かった。

 この言葉の前段には「武士鰹大名小路生鰯、茶店紫火消錦絵、」と言われ、江戸名物と言われました。
 

4.噺の言葉
■神田
(かんだ。地名);質屋伊勢屋さんがあったところ。昭和22年に、麹町区と神田区を合併して千代田区になった。皇居のある千代田区の東半分が神田区であった。今でも町名の上に神田を被して町名としている所が多い。例えば神田神保町、神田小川町、神田須田町、神田岩本町、等々。
 彦六(正蔵)や三木助は舞台を神田三河町と言っています。当時は神田とは付けず、単に「三河町」と呼ばれていました。神田橋と鎌倉橋に挟まれた、今の内神田一丁目から神田小川町手前までの北に延びた細長い一帯です。三河町三丁目西隣には駿河台定火消し屋敷がありました。

■旧暦の11月;新暦の12月末。寒いでしょうね。半纏一枚では。

■藏の目塗り;火災の時、火や熱が蔵内に入るのを防ぐ為、藏の扉回りを水で練った土(用心土)で塗り込むこと。落語「ねずみ穴」にも出てきます。

■羽二重(は‐ぶたえ);縦糸に生糸、横糸に濡らした生糸を織り込んだ、緻密で肌触り良く光沢のある平組織の上質な白生地。主として紋付の礼装に用いる。 黒く染めたものを黒羽二重といった。福井・石川・富山などが主産地。

■仙台平(せんだい‐ひら);極上質の精好織袴地の一種。元禄(1688〜1704)前後頃、仙台藩主が西陣から織師を招いて織り始めたという。この生地で作られた袴(はかま)。
黒羽二重紋付きの着物に羽織り、仙台平の袴で火事見舞いに連れ歩きたかった。
左図; http://www.kimono-taizen.com/kind/kind3.htm より
 


  舞台の火消し屋敷を歩く

 定火消し、十人組火消しともよばれた、火消屋敷を歩きました。

1.八代洲河岸(やよす-がし。千代田区丸の内2−1馬場先門角、明治生命館)
 
八重洲(やえす)と言えばJR東京駅の八重洲口を真っ先に思い浮かべます。そうです、中橋の加賀屋佐吉から使いが来る落語「金明竹」の舞台がそうです。しかし、それは誤解で、正確には「八代洲河岸」と呼ばれた馬場先濠の河岸を言います。ここの定火消しは馬場先門交差点角にある重要文化財に指定された、昭和9年建築「明治生命館」(明治安田生命保険相互会社ビル)がそれです。

2.赤坂溜池(あかさか-ためいけ。港区赤坂 1丁目10、アメリカ大使館公邸)
 上水道のための溜池が有りましたが、今はありません。溜池交差点を外堀通り新橋方向に曲がり特許庁の前を南に曲がるとアメリカ大使館があります。その奥にある大使公邸が、その場所です。この一角は警備がうるさくチャップリンの映画ではありませんが、 悪い事をしていなくても、何か言われそうであまり行きたくありません。公邸の回りの塀は純日本風の瓦の乗った練り塀です。もしかして、当時の塀を復元して使っているのでしょうか。

3.半藏門外(はんぞうもん-がい。千代田区隼町1、半蔵門会館)
 皇居の西側にある門で、甲府に一直線で繋がっている珍しい直線の街道(甲州街道)の起点になっています(正式起点は日本橋です)。この門を出ると親衛隊が居住する町、番町が右手にあります。その先が四谷になり、新宿に繋がっています。皇居を出た所が半蔵門交差点、その角にTOKYO・FMが有ります。その隣の半蔵門会館がその地です。半蔵門の言われは服部半蔵が住んでいたからとも言われます。

4.御茶ノ水(文京区本郷1−1、お茶の水駅北・順天堂医院)
 JRお茶の水駅を出て、外堀に架かったお茶の水橋を渡り、左に曲がると目の前にある順天堂大学/医学部附属順天堂医院がそれです。私事ですが、ここで私の大事な(?)盲腸を切除された所です。当時はこんな立派な建物ではありませんでしたが・・・。

5.駿河台(するがだい。千代田区 内神田1−14&15美土代町交差点角・東京電機大学)
 「業平文治」で前回訪れた鎌倉橋の近く、美土代町交差点角東京電機大学の建物がそうです。
 彦六(正蔵)や三木助は質屋の舞台を神田三河町と言っています。その舞台で言うと、駿河台定火消し屋敷の東隣は三河町三丁目ですから、至近距離に質屋伊勢屋が有ったことになります。

6.赤坂門外(あかさか-もんがい。港区 元赤坂1・豊川稲荷)
 痴楽の落語「ラブレター」で訪れた豊川稲荷です。赤坂見附の交差点が赤坂御門跡ですから、文字通り門外にあります。町火消しを創設した大岡越前守邸宅の邸内神がこの豊川稲荷で、青山通りを挟んで向かい側にも敷地はありました、と言うより青山道路が広がって寸断されてしまったのです。

7.飯田町(いいだまち。千代田区 富士見1−10)
 ここの北側はJR飯田橋駅ですが、外堀に架かった橋は飯田橋ではなく牛込橋(牛込御門跡)です。富士見小学校と日本歯科大が有る所です。富士見小学校は現在更地になっていて、新しい校舎と幼稚園、コミュニティーセンターの統合された施設が出来るようです。建築工事の真っ最中。南に下った所が靖国神社と、その先は皇居です。この皇居に入る内濠が千鳥ヶ淵と言って桜の名所で、満開に咲いた桜は水面に映えて、それは見事なものです。

8.小川町(おがわちょう。千代田区神田 駿河町1−1、ニコライ堂)
 司祭ニコライが建てた東京復活大聖堂教会の聖堂がニコライ堂です。その姿は素晴らしいものです。この建物と本郷通りを渡った先までが小川町定火消し屋敷があった所です。ここから南に下ると上記の駿河台の定火消し屋敷が有りました。

9.四谷門外(よつや-もんがい。新宿区四谷?)
 四谷も四谷御門跡も解りますが、その四谷門外には江戸切り絵図(江戸時代の地図)で虱潰しに探しましたが見つかりません。他の9ヶ所は見付けてマーキングしましたがどうしても見つかりません。各種の資料をひもといて、バラバラにしても見つかりません。地元の新宿区歴史博物館に聞きました。結果不明ですが、四谷門外ではなく、門内には一ヶ所有りますとの返事、それによると今の六番町内にあったと言いますが、それも真偽の程は分からないと言います。
 結果、残念ながらJR四谷駅とその前にある四谷御門跡と四谷見附交差点を見てきました。

 しかし、調べたら有りました。四谷門内六番町の定火消し屋敷について。(別ページで記述しています)
 

10.市谷左内坂(いちがや-さないざか。新宿区市谷左内町21、市ヶ谷八幡横左内坂)
  JR市ヶ谷駅を降りて外堀を渡ります。突き当たりになっていますから、右に曲がって直ぐ左の小道を入ります。急な登り坂が延々と続きます。この坂を左内坂と言い、坂の途中に碑が建っています。その説明によると「この坂は、江戸時代初期に周辺の土地と共に開発したもので、開発者の名主島田左内に因み左内坂と呼ばれるようになった。その後明治時代まで名主を務め、代々島田左内を名乗っていたという 」。
 坂の途中から電柱に取り付けられた表示に左内町の名が見られます。その辺りから右(東)側がその定火消し屋敷が有った所ですが、民家が建ち並んで、どこまでがその屋敷だったか解りません。
 

 臥煙の質屋の倅、藤三郎はどこの定火消し屋敷から駆けつけて来たのでしょうか。神田に近い所と言えば、駿河台、小川町、お茶の水、飯田橋、辺りでしょうか。 職務を放りだしてまでは来ることが出来ませんから、それより遠方の定火消し屋敷だったのでしょうか。私はまた、夜が寝られなくなりました。 

地図

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写真

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神田(千代田区神田)
神田と言っても広うござんす。で、JR神田駅で代表を務めさせていただきます。高架上のホームには中央線の電車が発車を待っています。
「定火消し」
安藤広重描く『江戸の華』。
四ッ谷・消防博物館所蔵
 定火消し同心であった広重が描いた火事絵で、21点の中から5点を紹介します。
作品はどれも定火消し同心でなければ描き得ない臨場感に溢れたものです。
 広重は画家として身を立てるため、27歳で家督を子供に譲り、浮世絵師として名を成しました。この絵は広重23歳の時の錦絵です。
現代の火消し装束
東京消防庁出初め式の時の纏のそろい踏み。江戸消防記念会の勇姿。
大岡越前守が施策として打ち出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護らせる」という、いわゆる自衛・自治の考え方に根ざした町火消を創設。その後、町火消しの意気を汲んだ組織として現在の江戸消防記念会となった。
八代洲河岸(千代田区丸の内2−1馬場先門角、明治生命館)
八代洲(やよす)河岸と里俗では言われた所で、JR東京駅の八重洲口とは違います。
松平采女 五千石 1700坪 与力6人・同心30人・臥煙300人

赤坂溜池(港区赤坂 1丁目10、アメリカ大使館公邸)
奥の高層ビルが米国大使館。手前の日本風の練り塀に囲まれた所が、定火消し屋敷跡。
小出伊織 五千石 3000坪 与力6人・同心30人・臥煙300人

半藏門外(千代田区隼町1 、半蔵門会館)
右隣がTOKYO・FM、左隣が国立劇場、その先が最高裁判所です。
神保三千次郎 六千石 3000坪 与力6人・同心30人・臥煙300人
御茶ノ水(文京区本郷1−1、お茶の水駅 北・順天堂医院)
正式には順天堂大学・医学部附属順天堂医院と言います。数年前に高層ビルに建て替えられて、威風堂々としています。
内藤外記 五千七百石 2800坪 与力6人・同心30人・臥煙300人
駿河台(千代田区内神田1−14&15美土代町交差点角・東京電機大学)
東京電機大学入試センタービルが定火消し屋敷跡。
岡田将監 五千三百石 1900坪 与力6人・同心30人・臥煙300人
赤坂門外(港区 元赤坂1 豊川稲荷)
青山通り、赤坂見附交差点先の緑の一角が豊川稲荷で、通りの向かい側まで敷地でした。
米澤小平夫 四千石 3700坪 与力6人・同心30人・臥煙300人
飯田(千代田区富士見1−10)
飯田橋と誤記されますが飯田町が正しい。富士見小学校と日本歯科大がその敷地でした。
戸田中務 六千石 3600坪 与力6人・同心30人・臥煙300人
小川町(千代田区神田 駿河町1−1、ニコライ堂)
駿河台甲賀町とも呼ばれた。JRお茶の水・聖橋口南側、ニコライ堂と本郷通をまたいた先まであった。
斉藤左衛門 六千石 3200坪 与力6人・同心30人・臥煙300人
四谷門外(新宿区四谷?)
四谷門外の定火消しはどこを探しても、切り絵図でも、新宿区歴史博物館でお聞きしても、確当するところがありません。不明と言うことで四谷見附交差点の写真を載せます。 四谷駅から四谷見附交差点を見ています。その向こうが四谷門外で、新宿方向にカメラは向いています。
四谷門内六番町の定火消し屋敷について
市谷左内坂(新宿区市谷左内町21、市ヶ谷八幡横左内坂)
市ヶ谷見附交差点から左内坂を上り、右側。
渡辺図書助 五千石 2400坪 与力6人・同心30人・臥煙300人

★表中の旗本の名前は安政2年(1855)発行の「昇栄武鑑」による。知行高及び屋敷の広さ(一部四捨五入しています)を記した。年代によって旗本の名が変わる定火消し屋敷もあった。この9人の他に次の2人が見えます。
 秋山主殿正光   4700石 駿河の国駿東・富士・庵原・有渡郡
 能勢熊之助頼富 4800石 摂津の国能勢郡
 

                                                        2008年6月記

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