定火消し屋敷−四谷

 四谷門外の定火消し屋敷がありませんでしたが、本当に無いのでしょうか。

四谷門内(千代田区六番町)
  地元の新宿区歴史博物館に聞きましたが、結果不明でした。四谷門外ではなく、門内には一ヶ所有りますとの返事、それによると今の六番町内にあったと言いますが、それも真偽の程は分からないと言います。

 で、この言葉を元に調べてみました。四谷門内の六番町にありました。現在の千代田区六番町8番地、番町小学校がその跡です。

写真上;番町小学校(千代田区六番町8番地)の敷地
 

1. Yahoo!マップで調べた江戸地図ですが、今はそのサービスが廃止されてしまったので、この地図の当時作成年度が分かりません。概略次に示す地図より古地図であることは確かです。
 地図上で、この四谷御門の、御門内(上)に赤い印を付けた「定火消」の屋敷があったのが確認出来ます。

2.この図は文政年間(1818〜29)版
金鱗堂 尾張屋版

上記と同じ所に
「松平玄蕃頭忠恵」屋敷
上野小幡藩(群馬) 二万石と書かれています。
新しい住人が引っ越して来たのでしょう。彼も定火消しだったのでしょうか。

 

 

 


 

3.この図は安政6年(1859)改訂版
須原屋茂兵衛版

上記と同じ所に「松平摂津」屋敷と書かれています。
既に定火消屋敷から解除されて(?)いたのでしょうか。
それとも彼が定火消しだったのでしょうか。

 ここで面白いことが見えてきます。安政2年(1855)発行の「昇栄武鑑」に書かれている定火消し旗本の名です。
能勢熊之助頼富 4800石 摂津の国能勢郡
彼は摂津の国能勢郡を預かっていたのです。新しい屋敷主が「松平摂津」と記されていますので、同郷の二人の何かの因縁を感じます。
 

 

 

4.この図は文久3年(1864)改訂
金鱗堂 尾張屋版

5年後、尾張屋版に上記の屋敷が分割されていて
以下のようになっています。

ここには「火附盗賊御改」と記されて戸田與左衛門邸宅になっています。
上記の邸宅が分割されてしまったのでしょう。


結論として

 少なくとも文政年間(1818〜29)以前には四谷門内六番町に定火消し屋敷が有ったことがうかがえます。何かの都合(多くは財政上)で、この四谷は廃止されてしまったのです。
 宝永元年(1704)この組織がかたまった頃には、推定ですが門外にあったのでしょう。それが門内の六番町に移転し、その後江戸後期には廃止されてしまったのです。

 

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