荻生徂徠落語の噺の原典になる話 とエピソード

 

 儒学者の荻生徂徠(おぎゅう_そらい)の若い頃の話です。延宝元年(1673)、徂徠は父と共に江戸を追われ、上総に蟄居したのは14歳の時であった。
 流浪し、書物も少なく、師も友人も無かった。たまたま古行李(こうり)の奥に、父が書き写した『大学諺解(げんかい)』(林羅山著)の1冊を見つけ、これを熟読し、よく味わった。また、種々の書物を探して読みあさり、独学したが、上総に10年余りいて、25歳の時、父と一緒に江戸へ戻った。
 その後、父は家を出て、医官となり、第三子の叔達(しゅくたつ)に跡を継がせた。徂徠は芝浦に下り、生活費を稼いだが、ひどい貧乏であった。だが、少しも気にせず、勉学に励んだ。

 ある日、入口に声がした。
「ごめんなすって。わっしは近くの増上寺門前の豆腐屋でござんすが、あつあつの豆腐粕を持ってきやした。食べておくんなせい。」
と言う。驚いた徂徠は、
「せっかくだが、支払う金子が今、手元にないので」
と断ろうとすると、
「どうせ余りもんだから、銭などいらねえよ」
と置いて帰ってしまった。それからは毎日、豆腐粕を届けてくれた。その豆腐屋は、食うや食わずの中で学問に励む徂徠の姿を垣間見て感心し、少しでも助けてやろうという気になったのである。

 その後、徂徠はようやく認められて幕府に召し抱えられるようになった。まず、第一に世話になった豆腐屋に恩返しをと考え、毎月少ない給与の中から米三升を豆腐屋へ贈った。時の老中柳沢吉保は、荻生徂徠の評判を聞いて、書記に採用し、俸給十五人扶持を与えた。
 当時、徳川五代将軍綱吉は学問を好み、たびたび吉保の屋敷に出掛け、徂徠に命じて家臣へ経書を講義させ、恩賞などを贈った。
 やがて徂徠は古文辞学を説き、学問の総裁として活躍し、次第に食禄を増して五百石を拝領し、番頭格に進んだ。
「近世大儒列伝より」

 

■徂徠の逸話其の壱
 藏一杯の書物を売るという話を耳にすると、早速、家財を売り払って60両程の金子を用意し、それを買い求めた。彼は日頃、時間を惜しんで読書に励み、薄暗くなると、戸外に出て読み、家人が灯をともすと、すぐさま灯のそばに寄って本を読んだ。
 また、徂徠は草書が好きで、
「人には得手不得手があるもので、自分は楷書が苦手である」
と言って、草書ばかり書き、草書韻会を机の上に置いて学んだという。
「先哲像伝より」

 

■徂徠の逸話其の弐
 藤元啓(げんけい=伊藤南昌)という者が字を書く事がうまいので、徂徠は自分の塾に置いて書を写す仕事をさせていた。ところが、元啓は徂徠の召使いの女と、ひそかに情を交わすようになった。徂徠は、それに気づいていたが、問いただしはしなかった。だが、元啓は知られたと悟り、とうとう塾から姿をくらましてしまった。
 その後、しばらくして徂徠が町を通ると、元啓が印肉の行商をしているのを見つけた。すぐさま使いの者をやったが、元啓は家の奥に隠れてしまった。探し出して連れ帰らせ、また、もとのように塾に置いてやった。
「先哲叢談より」

 

■徂徠の逸話其の参
 大岡越前が江戸町奉行の時、徂徠を招いて食事をした。
「私は天下の大役を仰せつかっていますが、学問が無くて、諸事に行き届かぬ事と思います。先生の門に入って学びたいものです。」
と言った。徂徠は
「あなたは優れた裁きをされています。今から学問の道にお入りになると、学問に偏り、お役の方がおろそかになり、かえってお勤めが粗略になる恐れがあります。」
と答えた。その言葉に越前守は、
「学問をする者は、お役目が務まらぬと申されるか。」
と尋ねた。
「学問は大道であって、ある時、急に思い立って始めても役に立つものではありません。なまじ、理屈が分かると、万事が悪く見え、かえって役に立ちません。奉行のお役目は天下の風俗を取り裁き、正邪を正す事にあります。これまでのお裁きで十分です。もし、学問をなさりたいのなら、ご隠居後でもよいと思います。元来が優れた方ですから、どのようにも達成出来ることでしょう。ご子息への戒めにもなりましょう。決して無益な事ではありません。
当分の学問は、かえって妨げになりましょう。」
「八水随筆より」

出典:このページ全ては「江戸逸話事典」逸話研究会編 新人物往来社出版から引用

 

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