落語「淀五郎」の舞台を歩く

  

 六代目 三遊亭円生の噺、円朝作「淀五郎(よどごろう)」によると。

 

 どの社会でも頭抜けるというのは容易な事ではありません。四代目市川団蔵は目黒に住んでいたので目黒団蔵と呼ばれ、意地悪団蔵、皮肉団蔵とも呼ばれていた。市村座の座頭をしていて、屋号を三河屋。名人でございました。

 忠臣蔵を上演することになりまして、大星由良之助と高師直(こうのもろのう)の二役は、団蔵が演じるとして、当時、塩冶判官(えんやはんがん)をさせたら並ぶものがないと言われていた紀の国屋・沢村宗十郎が急病で倒れ、誰にするかで皆、頭を抱えてしまった。狂言を変えようかという話も出たが、団蔵の一声で、宗十郎の弟子の淀五郎に白羽の矢がたちます。歌舞伎の世界では階級制度が厳しかったが、名題に昇進、塩冶判官の役をもらった。これは、大抜擢です。

 初日、三段目松の廊下の刃傷を無事終えて、いよいよ、出物止めの四段目、切腹の場。
 中央に判官。短刀を腹につきたて、苦しい息の下、由良之助を待ちます。そこへ花道より由良之助が駆けつけ、主君の前で平伏し、最後をみとどけ、仇討ちを誓うという前半最大の見せ場でございます。
 団蔵演じる由良之助は、パタパタと花道を駆けてきたものの、花道の途中でぱたっと平伏したまま、一向に判官の方に近づこうとしません。 あまりの下手さに団蔵そこから動こうとはしません。淀五郎がしきりと「由良之助、待ちかねた、近う近う」と呼んでも、花道に座ったまま、「委細承知つかまつってござる」と動こうとしません。 「しくじった」と思ったがざわつく舞台を終わらせた。

 舞台も終わり、淀五郎が団蔵に挨拶に行くと、団蔵は淀五郎をしかりつけます。
「なんだい、あの演技は。ひどいね。あんな腹の切り方があるかい」
「どういうふうに切ったらよろしいのでしょうか」
「そうだねぇ。本当に切ってもらおうかね。下手な役者は死んでもらった方がイイ。死にな」。

 ひどい言われようですが、なにしろ相手は格が違う。淀五郎も自分の未熟は分かっているので、家に帰って、あれか、これかと工夫して二日目に挑みますが、やっぱり花道の途中で座ったまま、団蔵は舞台の方にやってきません。

 2日続けて恥をかかされた淀五郎は、若いだけに思いつめます。よし、こうなったら、明日、本当に腹を切ってやろう。その代り、あの皮肉な団蔵も生かしちゃおかねぇ。
 そう覚悟を決めると、淀五郎は、世話になった人に暇乞いをして歩き、栄屋中村
秀鶴(仲蔵)のところを訪れます。事情を察した仲蔵は、淀五郎に稽古をつけてやります。

 一晩みっちり稽古して、翌日、一番で小屋に入り、今日は団蔵を叩き斬って自分も死のうと気負っていた。三段目、高師直・団蔵を本当に斬ってしまおうと思った。団蔵は本当に斬られるかと二度ほど思ったほどである。
 「一幕早いから我慢をしておこう」。その意気込みが凄く四段目、見違えるばかりに上達した淀五郎の演技に感服した団蔵は、見せ場の切腹の場面、いつものように花道七三に平伏。
 淀五郎演じる判官が苦しい息の下、由良之助を呼ぶ声に応じて、これぞ名人というにふさわしい演技で、つつつ〜と傍に駆けつけます。淀五郎演じる判官は、駆けつけた由良之助に、
 「由良の助か〜ッ」。
 見ると団蔵は花道に居ない。「畜生ッ、花道にも出てこないのか。でも、声はしたようだが」
ひょいと、脇を見ると三日目に居た。

「う〜!待ちかねた〜ッ」。

 



1.歌舞伎 通し狂言仮名手本忠臣蔵

 浄瑠璃のひとつ。並木宗輔ほか合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期にとり、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。(広辞苑より)

◇三段目  足利館門前進物の場
             同 松の間刃傷の場
◇四段目  扇ヶ谷塩冶判官切腹の場
          同 表門城明渡しの場

■仮名手本忠臣蔵 四段目 浮世絵 

仮名手本忠臣蔵 四段目

 絵師: <初代>国貞
 上演: 文化11年(1814) 4月 中村座
 役者: 左から、顔世(かおよ、塩谷判官の妻) <二代目>藤川友吉。 由良之助 <三代目>坂東三津五郎。 
力弥 <初代>市川伝蔵。 判官 <初代>市川市蔵。 石堂 <二代目>助高屋高助。 山名 <二代目>尾上松助、演劇博物館所蔵浮世絵より。 
 やはり由良之助は判官の膝元に居ないと様にならないようです。実際には内蔵助は赤穂にいて、3日遅れで主君浅野内匠頭の刃傷、切腹の知らせを聞いています。

役者の階級は、下立役(稲荷町)−中通り(チュウドオリ−相中(アイチュウ)−相中見習い−相中上分−名題下−名題(ナダイ)と格が上がっていった。 円生のマクラより。
また「名題」のなかで一座の親方のことを座頭(ざがしら)と呼んだ。
 淀五郎は相中上分・名題下を飛び越え名題に抜擢された。やはり舞い上がるほど喜んだ事でしょう。

市川団蔵について、多くの演者は五代目の「渋団」と通称される人物で演じられる。中村仲蔵(第44話「中村中蔵」に詳しい)と同じ時代なら 四代目になるので、円生だけは四代目の「目黒団蔵」としています。また五代目の時代に淀五郎という役者がいたかどうかは定かではなく、同時代に合致する役者は存在しない 、と言われるのが通説です。落語の淀五郎の生い立ちはフィクションで、名優と絡ませた非常に良くできた噺です。
右図:市川團蔵(右)と板東彦三郎。三代目歌川豊国画
東京国立博物館蔵  2015.11.加筆

四段目の幕だけはお席を離れませんよう。
  江戸時代の芝居小屋は上演中でも客が出たり入ったりしていた。役者も興行主も文句を言うはずがありません。でも、ひとつだけ例外がありました。それが忠臣蔵の四段目。「由良之助はまだか」とまちかねる塩冶判官が自らの腹に刀を突き立てたその時に、由良之助が早駕篭で到着するという緊張感満点の大見せ場は、江戸時代の芝居関係者もじっくり見てほしかったのでしょう。 「出物止め」、上方では「通さん場」と言って、決して途中入場、退場を許さなかったそうです。

言葉の説明
 頭取;劇場などで楽屋のすべての取り締まりに当たる者。
 香盤(こうばん);出演者リスト。キャスト。
 芝居茶屋;桟敷や升席の確保、チケットの段取りや弁当の手配などをしたり、休憩や食事などにも利用できる茶屋。
 上使(じょうし);幕府・藩などから上意を伝えるために派遣された使者。
 所司(しょし);役人。貴族の家の雑務をつかさどる人。
 肩衣(かたぎぬ);裃(かみしも)。
 天井を見せる;仰向けにして起きあがらせないこと。人を痛めつける、人を苦しめるの意。
 了見;考え。気持ち。思案。
 青黛(せいたい);舞台化粧に使われる藍色の顔料。立役の月代、髭の剃り跡、藍隈に使われる。
    藍染めの際表面に浮かぶ泡「藍の花」と呼ばれるものを集めて乾燥させたもの。
 

2.忠臣蔵四段目の場
 
落語にはこの「淀五郎」と「四段目」があります。
 落語「四段目」(蔵丁稚)より
(クリックすると四段目のあらすじが見られます)
 

3.12月14日(新暦1月) 忠臣蔵の討ち入りの日
 徳川家康が江戸に幕府を開いて100年がすぎた元禄時代、戦国の荒々しさは影を潜め、歌舞伎、浄瑠璃、華美な衣服など町人文化が大きく花開いた。五代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」により、 特に犬が大切にされた頃です。
 勅使の饗応役(きょうおうやく)を命じられた赤穂藩主・浅野内匠頭は、元禄14年(1701)3月、江戸城本丸「松の廊下」で吉良上野介に切りかかった。
 将軍・綱吉は殿中での刃傷に大いに怒り、浅野内匠頭に即日切腹を申し付けたが、一方の傷を負った吉良には十分養生するよう見舞い、御仕置き無しとした。武士社会における喧嘩両成敗のルールに反するこの処置は、江戸庶民の反感をかうこととなった。
 主君切腹に御家断絶、城の明渡しとなった事態に、赤穂藩の家老・大石内蔵助は吉良上野介の処分と御家再興を嘆願するが叶わない。主君の無念を晴らさんと同士47名が、翌元禄15年12月14日 (旧暦、現在の1月下旬)雪の夜吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を討つ。その首を主君浅野の墓前に供えて本懐成就を報告した。討ち入りの後、四十七士は切腹を命じられ、 浅野家の江戸における菩提寺、泉岳寺に葬られた。今も線香の煙が絶えません。
 この”
赤穂事件”を題材に、「仮名手本忠臣蔵」というお芝居が完成し、江戸庶民を喜ばせました。

 浪士が吉良上野介の首級を討ち取った日付は、正しくは元禄15年12月15日です。これは、討ち入ったのが14日深夜、すなわち15日午前4時(七つ刻)に集合、首を討ち取ったのが明け方だからです。
その日を西暦に直すと1703年1月31日だったという。

討ち入りペイパークラフト;赤穂市では忠臣蔵討ち入りの「大石内蔵助」ペイパークラフト図面を配布しています。組み立てにチャレンジ出来る方は以下にあります。
http://www.ako-rekishi.jp/wp-content/uploads/2014/08/627bcae6867c3d75878769230216417a.pdf

浅野家の菩提寺「泉岳寺」
 泉岳寺は慶長17年(1612)に徳川家康によって外桜田の地(現在の千代田区霞ヶ関あたり)に創建された禅宗のお寺である。開山は今川義元の孫にあたる門庵宗関(もんなんそうかん)禅師である。しかし、創建から29年後に起こった寛永の大火の災禍にあう。高輪に移転させたもののなかなか工事が進まないのを見て、三代将軍・徳川家光は毛利、浅野、朽木、水野、水谷の五大名に奉行を命じ、泉岳寺を完成させた。以来、高輪・泉岳寺は約2万坪の広大な敷地に七堂伽藍を備える曹洞宗・江戸三ケ寺の一つに数えられ、浅野家の江戸における菩提寺となった。 (泉岳寺案内書より)
 中門に掲げられた山号「萬松山」は松平の松を取り、「松萬代に栄ゆる」の意味で、寺号「泉岳寺」は、源氏の流れをくむ徳川にちなみ、「源の泉、海岳に溢るる」から名づけられたといわれている 。額は中国明時代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書。
 



地図

 地図をクリックすると 説明付きの大きな地図になります。 
 

舞台の吉良邸跡から泉岳寺までを歩く
(それぞれの写真、説明文をクリックすると大きなカラー写真になります)

 道順については諸説あって細かい所は分かっていません。永代橋を渡ったのは確実ですが、アトは・・・。多数派を取って歩きます。行程約11km。

 

浅野内匠頭終焉之地碑(港区新橋4−31−17、日比谷通り)
四段目・扇ヶ谷塩冶判官切腹の場の舞台です。奥州一之関藩・田村右京大夫屋敷跡に碑が建っています。新橋4丁目交差点から東に屋敷があって、ここで切腹し、後の話に発展していきます。旧町名;田村町はここから来ていますが、今は無粋な新橋です。
  この屋敷には「田村の化銀杏」と呼ばれた巨木が有り、海上からの目印になっていましたが、大正12年(1923)関東大震災で焼失。その後切株のそばに「田村稲荷」を祭っていましたが、戦災でまた焼けてしまいました。(新正堂主人談)。背の高い巨木の写真を見ましたが、海からこの木と愛宕山が良く目立ちます。今は何もありません。
  この近所に「新正堂」という和菓子屋さんがあります。ここの最中がなんと「切腹最中」と言います。名前は凄いが、味は素直な美味しさです。

吉良邸跡(墨田区両国3−13 本所松坂町公園)
赤穂浪士47名が討ち入り、吉良上野介の首をとった所です。
当時、吉良邸は松坂町1,2丁目(現、両国2,3丁目)の内約8400平方メートルあった広大な屋敷でした。しかし、年月が経ち一般民家が建ち並び、その面影はなくなりました。
昭和9年、地元有志が、遺跡を後世に残そうと一角を購入、墨田区に移管され現在に受け継がれています。

「あるじなき吉良邸に咲く寒椿」 小沢昭一(俳優)

吉良邸跡内部にある吉良上野介の像
邸内にはこの像の写真や松の廊下刃傷、両国橋に集まった錦絵、また邸内の建物図などがあり、楽しませてくれます。吉良上野介の首を洗ったという「首洗いの井戸」も有ります。

 赤穂浪士は上野介の首を槍の柄にくくりつけて吉良邸を出たあと、一行は西隣の回向院へ向かいました。しかし、開門してくれず、両国橋東詰めに移動します。 ここで態勢を立て直します。回向院は落語「猫定」、「しじみ売り」で歩いています。

両国橋東詰(墨田区両国1丁目11)
当時の両国橋は今の橋より南側に架かっていて、橋詰めは広い空き地(広小路)になっていました。現橋の南側の小さな公園に大高源吾忠雄句碑が有ります。  赤穂浪士のひとりであり、室井(榎本)其角の弟子と伝わる子葉こと大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑があります。

 赤穂浪士一行はここで、市中に入るため橋を渡るつもりでしたが、幕府直轄の橋のため渡れず、やむおえず隅田川の東側を南下し永代橋を渡る事としました。

万年橋(江東区常磐と清澄を渡す)
北斎や広重も題材に選んだ景勝の橋です。ここから眺める清洲橋は絶景です。

 一行は、竪川の一ツ目橋を渡り、隅田川に沿って、小名木川の万年橋を渡り、すぐに右に曲がり川沿いを進みます。(一方通行出口)

ちくま(乳熊屋)味噌ビル(江東区佐賀1−6−2)
赤穂義士休息の地。2〜3軒先で永代橋を渡る道路に出ますが、当時は手前(上流30m)に架かっていた。その橋口、乳熊屋味噌店で足を休ませたのでしょう。写真奥が永代通り、右に曲がって永代橋です。

 一行は万年橋から上の橋、中の橋、下の橋を通って、深川を通過する。俳人大高源吾は乳熊屋味噌店・店主竹口作兵衛とは其角の門人であった。たまたまこの日は乳熊屋味噌店の上棟式に当たり、店に招き入れ、甘酒や粥を振る舞い、労をねぎらった。大高源吾は看板を書き残したと言われる。 

永代橋(隅田川に架かる橋。江東区と中央区を結ぶ)
落語の舞台にも登場する、男性的な名橋です。落語「永代橋」、「小猿七之助」で紹介しています。ここを渡ると落語「宮戸川」で有名な霊岸島になります。

 一行は旧の木橋の永代橋を渡ります。ここから江戸の市中に入っていきます。現在は渡ると左に折れる近道がありますが、当時は松平家の屋敷があって、道はなく迂回しなくてはなりませんでした。日本橋川に沿って真っ直ぐ行って、 左の湊橋渡り、亀島橋を右に見て高橋を渡り、左に折れて稲荷橋を直ぐ渡り、築地鉄砲洲に入ります。

浅野内匠頭江戸上屋敷跡の碑(中央区明石町10or11、聖路加病院西南角)
浅野家上屋敷がここにありました。今の聖路加病院と同看護大学及び河岸地を含む約9000坪の敷地があった。西南は築地川に面していたが、今は埋め立てられて、公園になっています。
江戸幕府はこの地区を安政5年(1858)欧米5ヵ国と修好通商条約を結び、横浜、神戸と列んで築地居留地とした。明治になってからも引き継がれ、外国の知識人が多く住み、日本の近代化に大きく影響を与えました。
明治16年頃ここに「耕牧舎」という乳牛牧場があって、経営者の長男が生まれました。後年、芥川龍之介(1892〜1927)になった人です。

 一行は浅野家の旧上屋敷だった跡を左に見ながら、築地本願寺の西側に回り込みます。

築地本願寺(中央区築地3−15−1)
「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言うのが正式名称です。今の建物は関東大震災で焼失後再建された物で、結婚式場、大会場まで持っています。道行く人がふらりと入れる、開けたお寺さんです。当時、本願寺は南向きに建っていて(今は西向き)、門前は今の築地市場・場外市場当たりが門前町でした。
 境内北側には四十七士の一人、間新六の墓が祀られています。これは新六の姉婿、中堂又助が切腹した新六の遺骸を引き取り、自分の菩提寺である築地本願寺へ葬ったものとされています。しかし泉岳寺 にも一緒に墓を設けています。

 一行は本願寺の北側から西側を抜けて、右に曲がり晴海通りに出ます。右に歌舞伎座を見て昭和通り を左に進み、蓮莱(ほうらい)橋(旧名汐留橋、落語「しじみ売り」の舞台)を渡り、新橋で第一京浜国道(旧東海道)に道を取ります。しかし、本道を通らず、平行した脇道を通ります。ここでも、脇道はどこだの論議が出ます。
 歌舞伎座(銀座4−12−15);浅野内匠頭嫡男浅野大学長広は流刑になりますが、将軍綱吉が死去した後に恩赦となります。再び浅野家に役目を仰せつかってからの屋敷が今の歌舞伎座の地です。忠臣蔵が歌舞伎十八番の人気演目になってゆく事は何か因縁めいています。

高輪大木戸跡(港区高輪2−19)
江戸の南の玄関として道幅役6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き木戸を設け、夜は閉めて通行止めとし、治安維持と交通規制の機能を持っていた。天保2年(1831)には高札場も設けられた。
旅人達の送迎もここで行われ、付近には茶屋もあって賑わった。また品川宿にいたる海岸の景色が良く、月見の名所でもあった。

 一行は新橋から東海道金杉橋を渡り、本芝に入ると左手に東京湾が見えてきます。その先左手の海岸は落語「芝浜」で財布を拾った芝浜です。今は埋め立てられて、どこにも海は見る事が出来ません。その先に大木戸があります。関所ではないので、そこを通過して泉岳寺に向かいます。

萬松山泉岳寺(港区高輪2−11−1)
徳川家康が外桜田に創立したが、寛永18年(1641)寛永の大火で焼失。高輪に移転したが再興ままならず、毛利、浅野、朽木、丹波、水谷の五大名に命じやっと出来上がった。曹洞宗の江戸における本山であり、この縁で浅野家など大名数家の菩提寺にもなりました。
 泉岳寺は入り口に「中門」、ここに掲げられた山号「萬松山」の額は左写真。入って正面に「山門」があり、右手に「大石内蔵助良雄銅像」が建っています。山門の奥に「本堂」が有ります。境内左手に「鐘突堂」、梅木があり、「首洗い井戸」が有ります。この井戸は吉良上野介の首をここで洗い、主君の墓前に供えたと言われます。その奥、小高くなった所が赤穂義士の墓所です。いつ行っても線香の煙の絶える事がありません。
 元禄16年(1703)2月4日切腹した後、直ちにここに埋葬されました。間新六の墓は築地本願寺に、寺坂吉右衛門は麻布の曹渓寺に有りますが、後日造られた物です。曹溪寺(港区南麻布2丁目9−22)は落語「黄金餅」で取り上げています。 また、本人は討ち入りに参加したかったが、周囲の反対で出来ず、討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓を含め48有ります。
 墓所からの帰り道、境内の右手に「赤穂義士記念館」が有ります。左の写真はそこの看板表示です。

「冬晴れや香を分け合う泉岳寺」 黒滝志麻子
「安兵衛の墓に酒なき寒さかな」  岡島真理

 一行は海岸線を左に見ながら、品川の手前、東海道は高輪で泉岳寺にやっと着きました。

肥後熊本城主細川越中守綱利高輪下屋敷(港区高輪一丁目6〜16、高松中学校東敷地境。高輪1−15、マンション横)
大石内蔵助はじめ17名が預けられた所です。落語「井戸の茶碗」でこの地を紹介しています。
旧細川邸シイの木(港区高輪一丁目16−25高輪支所敷地内。一丁目8−6住宅前)

 一行の内、大石内蔵助良雄(45)、吉田忠左衛門兼亮(63)、原惣右衛門元辰(56)、小野寺十内秀和(61)、堀部弥兵衛金丸(77、最高齢)、・・・大石瀬左衛門信清(27,最年少)までの17名が列記されています。「自刀せる義士左の如し」の銘板が有ります。(写真・文 ;落語「井戸の茶碗」より)


                                                                                                                      2009年6月記

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