役者の階級は、下立役(稲荷町)−中通り(チュウドオリ−相中(アイチュウ)−相中見習い−相中上分−名題下−名題(ナダイ)と格が上がっていった。
円生のマクラより。
また「名題」のなかで一座の親方のことを座頭(ざがしら)と呼んだ。
淀五郎は相中上分・名題下を飛び越え名題に抜擢された。やはり舞い上がるほど喜んだ事でしょう。
■市川団蔵について、多くの演者は五代目の「渋団」と通称される人物で演じられる。中村仲蔵(第44話「中村中蔵」に詳しい)と同じ時代なら
四代目になるので、円生だけは四代目の「目黒団蔵」としています。また五代目の時代に淀五郎という役者がいたかどうかは定かではなく、同時代に合致する役者は存在しない
、と言われるのが通説です。落語の淀五郎の生い立ちはフィクションで、名優と絡ませた非常に良くできた噺です。
右図:市川團蔵(右)と板東彦三郎。三代目歌川豊国画
東京国立博物館蔵 2015.11.加筆
■四段目の幕だけはお席を離れませんよう。
江戸時代の芝居小屋は上演中でも客が出たり入ったりしていた。役者も興行主も文句を言うはずがありません。でも、ひとつだけ例外がありました。それが忠臣蔵の四段目。「由良之助はまだか」とまちかねる塩冶判官が自らの腹に刀を突き立てたその時に、由良之助が早駕篭で到着するという緊張感満点の大見せ場は、江戸時代の芝居関係者もじっくり見てほしかったのでしょう。
「出物止め」、上方では「通さん場」と言って、決して途中入場、退場を許さなかったそうです。
■言葉の説明
頭取;劇場などで楽屋のすべての取り締まりに当たる者。
香盤(こうばん);出演者リスト。キャスト。
芝居茶屋;桟敷や升席の確保、チケットの段取りや弁当の手配などをしたり、休憩や食事などにも利用できる茶屋。
上使(じょうし);幕府・藩などから上意を伝えるために派遣された使者。
所司(しょし);役人。貴族の家の雑務をつかさどる人。
肩衣(かたぎぬ);裃(かみしも)。
天井を見せる;仰向けにして起きあがらせないこと。人を痛めつける、人を苦しめるの意。
了見;考え。気持ち。思案。
青黛(せいたい);舞台化粧に使われる藍色の顔料。立役の月代、髭の剃り跡、藍隈に使われる。
藍染めの際表面に浮かぶ泡「藍の花」と呼ばれるものを集めて乾燥させたもの。
2.忠臣蔵四段目の場
落語にはこの「淀五郎」と「四段目」があります。
落語「四段目」(蔵丁稚)より
(クリックすると四段目のあらすじが見られます)
3.12月14日(新暦1月) 忠臣蔵の討ち入りの日
徳川家康が江戸に幕府を開いて100年がすぎた元禄時代、戦国の荒々しさは影を潜め、歌舞伎、浄瑠璃、華美な衣服など町人文化が大きく花開いた。五代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」により、
特に犬が大切にされた頃です。
勅使の饗応役(きょうおうやく)を命じられた赤穂藩主・浅野内匠頭は、元禄14年(1701)3月、江戸城本丸「松の廊下」で吉良上野介に切りかかった。
将軍・綱吉は殿中での刃傷に大いに怒り、浅野内匠頭に即日切腹を申し付けたが、一方の傷を負った吉良には十分養生するよう見舞い、御仕置き無しとした。武士社会における喧嘩両成敗のルールに反するこの処置は、江戸庶民の反感をかうこととなった。
主君切腹に御家断絶、城の明渡しとなった事態に、赤穂藩の家老・大石内蔵助は吉良上野介の処分と御家再興を嘆願するが叶わない。主君の無念を晴らさんと同士47名が、翌元禄15年12月14日
(旧暦、現在の1月下旬)雪の夜吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を討つ。その首を主君浅野の墓前に供えて本懐成就を報告した。討ち入りの後、四十七士は切腹を命じられ、
浅野家の江戸における菩提寺、泉岳寺に葬られた。今も線香の煙が絶えません。
この”赤穂事件”を題材に、「仮名手本忠臣蔵」というお芝居が完成し、江戸庶民を喜ばせました。
浪士が吉良上野介の首級を討ち取った日付は、正しくは元禄15年12月15日です。これは、討ち入ったのが14日深夜、すなわち15日午前4時(七つ刻)に集合、首を討ち取ったのが明け方だからです。
その日を西暦に直すと1703年1月31日だったという。
■討ち入りペイパークラフト;赤穂市では忠臣蔵討ち入りの「大石内蔵助」ペイパークラフト図面を配布しています。組み立てにチャレンジ出来る方は以下にあります。
http://www.ako-rekishi.jp/wp-content/uploads/2014/08/627bcae6867c3d75878769230216417a.pdf
■浅野家の菩提寺「泉岳寺」
泉岳寺は慶長17年(1612)に徳川家康によって外桜田の地(現在の千代田区霞ヶ関あたり)に創建された禅宗のお寺である。開山は今川義元の孫にあたる門庵宗関(もんなんそうかん)禅師である。しかし、創建から29年後に起こった寛永の大火の災禍にあう。高輪に移転させたもののなかなか工事が進まないのを見て、三代将軍・徳川家光は毛利、浅野、朽木、水野、水谷の五大名に奉行を命じ、泉岳寺を完成させた。以来、高輪・泉岳寺は約2万坪の広大な敷地に七堂伽藍を備える曹洞宗・江戸三ケ寺の一つに数えられ、浅野家の江戸における菩提寺となった。
(泉岳寺案内書より)
中門に掲げられた山号「萬松山」は松平の松を取り、「松萬代に栄ゆる」の意味で、寺号「泉岳寺」は、源氏の流れをくむ徳川にちなみ、「源の泉、海岳に溢るる」から名づけられたといわれている
。額は中国明時代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書。
地図をクリックすると
説明付きの大きな地図になります。
舞台の吉良邸跡から泉岳寺までを歩く
(それぞれの写真、説明文をクリックすると大きなカラー写真になります)
道順については諸説あって細かい所は分かっていません。永代橋を渡ったのは確実ですが、アトは・・・。多数派を取って歩きます。行程約11km。
|
浅野内匠頭終焉之地碑(港区新橋4−31−17、日比谷通り)
四段目・扇ヶ谷塩冶判官切腹の場の舞台です。奥州一之関藩・田村右京大夫屋敷跡に碑が建っています。新橋4丁目交差点から東に屋敷があって、ここで切腹し、後の話に発展していきます。旧町名;田村町はここから来ていますが、今は無粋な新橋です。
この屋敷には「田村の化銀杏」と呼ばれた巨木が有り、海上からの目印になっていましたが、大正12年(1923)関東大震災で焼失。その後切株のそばに「田村稲荷」を祭っていましたが、戦災でまた焼けてしまいました。(新正堂主人談)。背の高い巨木の写真を見ましたが、海からこの木と愛宕山が良く目立ちます。今は何もありません。
この近所に「新正堂」という和菓子屋さんがあります。ここの最中がなんと「切腹最中」と言います。名前は凄いが、味は素直な美味しさです。
|