落語「五百羅漢」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円窓の噺「五百羅漢(ごひゃくらかん)」によると。
 

 八百屋の棒手振り八五郎は、六つくらいの見ず知らずの女の子を連れて商いから帰ってきた。
 この子は迷子で、かみさんの問い掛けにも口を利けない。どうやら、先だっての大火事で親とはぐれてしまい、驚きのあまりに言葉を失ってしまったのであろう。
 迷子だったので”まい”という名前をとりあえず付けて、親が見つかるまで手許に置くことにした。
 翌日から、八五郎は商いをしながら、女房は外へ出て用足しをしながら、尋ね回るが、一向に手がかりはなかった。
 四日目。「このまいは、いやな子だよ。ヤカンを持って口飲みするよ」、とかみさん。
「親の躾が悪いのかな〜。親が見つからなかったら、うちの子にしてもいいと思っていたのに・・・。手がかりがねぇんだから、探しようがねぇ」。
「だったら、この子を檀那寺の五百羅漢寺へ連れってって、羅漢さんを見せたらどうだい? 五百人の羅漢さんのうちには自分の親に似た顔があるというよ。それを見つけて、なんか言おうとするんじぇないかい。それが手がかりになるかもしれないよ」 。
 翌日、五百羅漢寺へ行って羅漢堂の中の五百の羅漢さんを見せた。上の段の一人の羅漢をジーッと見つめて、指差しをした。「この子の父親はこういう顔か。これも何かの手がかり」と納得して、境内を出たところで、住職とばったり会った。
 ”まい”のことを話すと、住職が「今、庫裏の畳替えをしているんだが、その畳屋さんが『火事でいなくなった娘がまだ見付からない』と、来る度に涙ぐむんだ」と言う。
 その時、子供が畳の仕事場になっている所へ駆け寄ると、小さいヤカンを持って口飲みを始めた。
 これを見た八五郎「畳屋の娘だ! 躾が悪かったわけじゃねぇ。いつも親と一緒に仕事に付いて行って、覚えたのが、口飲みだったんだ」。
 ちょうど庫裏から畳を運び出してきた畳屋が、子を見付けて”よしィ!”と絶叫。
 はじかれたように立ちあがった子が、「ちゃーん!」と声を出して、吸い寄せられるように跳び付いていった。
 畳屋は泣きながら、その子を両手で包むように抱きしめて離さない。
 この様子を見ていた八五郎「やっと声が出た・・・。本物の親にゃ敵わねぇ」。
 住職も八五郎も涙して「しばらく、二人切りにさせておきましょうや」。
 二人が手をつなぎながら、親が大きなヤカンを持って口飲みをして、プーと霧を吹き出すと、畳ほどの大きな虹が立った。子供が小さなヤカンで口飲みして、ぷーっと小さく霧を吹くと、可愛い虹が立った。この二つの虹と虹の端が重なった様は、親子がしっかりと手を握り合って「もう離さないよ」と言っているようだった。
 八五郎は「こちらへ来てよかった。さすが五百羅漢のおかげだ」。
 住職は「な〜ぁに、今は親子ヤカン(羅漢)だよ」。

 


 
1.五百羅漢寺(目黒区下目黒3−20−11) http://www.rakan.or.jp/
 
 江戸時代の羅漢寺。左側の上下に走る道路が五ッ目道路(明治通り)。手前の雲がかかった辺りが
新大橋道路。奥の川が竪川。本堂の左右に回廊、西側にさざい堂、東側に庫裡が有った。(五百羅漢
寺資料より)

 天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島3)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として人びとの人気を集めていました。
 「目黒のらかんさん」として親しまれている当寺の羅漢像は、元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたものです。 500体以上の群像が完成してからもう300年の星霜を重ね、現在は東京都重要文化財に指定されています。(現存305体)
 しかし、明治維新とともに寺は没落し、二度移転し、明治41年に目黒のこの地に移ってきました。大正から昭和にかけて非常に衰退し、雨露をやっとしのぐほどの無残な状態になり、羅漢像の将来が心配されていました。
 昭和54年になって、日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、多くの困難をのりこえて昭和56年に近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」としてよみがえりました。
五百羅漢寺出版「らかんさんのことば」より


 北斎描く、冨獄三十六景「五百らかん寺 さざゐ堂」。
3階建てのお堂を仏像を見ながら、右回りで回ってきて、見晴台に着き富士を遠望して一休み。

  五百羅漢寺は亀戸から本所の緑町に明治20年に移転しています。この時明治の廃仏毀釈により羅漢像の廃棄が行われ、危うく羅漢像の金箔ほしさに燃やされるところを、それを知った知者達の手ですくわれました。その後、明治41年(江東区史では42年)現在地の下目黒に落ち着きました。しかしその時既に遅く536体が305体になってしまいました。
 大正6年の大暴風雨によって本堂は荒れ果て、大正12年の関東大震災で壊滅的な損害を被りました。
 下町は大震災によって火災が発生、灰燼と化したのに、強制的に移転させられた事によって、幸いにも羅漢像は助かったのです。 その後、東京大空襲でも危うく火災から難を逃れ、いまの羅漢像が生き延びられたのです。”人間万事塞翁が馬”を地でいったような話です。

羅漢さん
 らかんさんはお釈迦さまのお弟子さまだった人たちです。歴史上に実在していた人です。修行を積んでとうとう聖者の位に登りつめたひとです。だから、らかんさは、ひとり山の奥にこもって禅をくんでいる仙人ように気難しい、とっつきにくいイメージがもともとあったのです。しかし江戸時代にはいって五百羅漢さんが登場するようになって、イメージががらりとかわりました。
 ひとりひとり顔のちがったらかんさんがならんでいるなかに、お参りの人びとは亡き人の面影によく似たらかんさんを見つけだして、久し振りに再会したような感激をおぼえたのです。写真のなかった当時、羅漢堂は懐かしい人の面影を偲ぶことができる有難い場所になったのです。瞼の父に会いにきて、小さな手をあわせて一生懸命に祈っていた幼な児もいたはずです。
 そんなところが人気を呼んで全国各所に五百羅漢像が造立されました。羅漢堂にいならぶ五百羅漢さんは、人びとにとって懐かしい自分の肉親の姿であり、恋人の姿だったのです。

五百羅漢寺出版「らかんさんのことば」より

 羅漢寺についての説明は、御住職の解説、浮世絵・資料の提供、等過分のご指導感謝します。

現在跡地にある羅漢寺(江東区大島3−1−8)
 旧羅漢寺があった所にある現在の羅漢寺は全くの関係がないお寺さんです。元の羅漢寺が強制移転させられた後に、土地を切り売りされて、八王子から移ってきたお寺が、地元の意向を受けて「羅漢寺」と名を変えたものです。でも、地元では羅漢さんと親しみを込めて呼ばれています。

檀那寺(だんなでら)
 八五郎の帰依している寺。檀家の所属する寺。檀寺。だんなじ。

 

2.迷子さがし碑
 江戸時代の江戸の街は3〜6年で1回は火災に類焼すると言われるくらい火事早い所でした。そのため、多くの家族が生き別れになってしましましたが、今のように通信手段がなかったので、消息をつかめず泣く泣く別離の状態で過ごす事になりました。
 ただ一つ例外的に「迷子知らせの標柱」がありました。
 落語「ぼんぼん唄」で紹介しているこの標柱がそうです。片面に迷子捜しの紙を貼り、反対側には預かった子供の親探しの紙を貼りました。

 

3.畳屋さん
 
私の子供の頃は畳職人が自宅まで来て、一枚ずつ表替えをしていました。その時は噺の中のように、ヤカンで霧を吹いていました。現代では私の知り合いの畳屋さんでも手縫いでは畳を作りません。畳は上げて工場に持ち帰り、機械で仕上げて、現場に持ち込みます。聞けば昔は手で仕上げていたそうですが、今は皆無だそうです。ただ、どうしても現地で直さなくてはならない時は、昔ながらの方法で加工するそうです。でも、その時ですら、ヤカンで霧を吹くような事はなくなりました。もう何十年も前の話になります。
 右の写真はワーズウィック・コレクションから1890年(明治23年)に撮影された畳屋さんです。

 

4.棒手振り
 
棒手(ぼて)振りとは、天秤棒の前後に荷物を提げて売り歩く行商人の総称で、”ふりうり”とも言われた。反対に店を構えて商売をしている商人もいます。小さな居酒屋のように店を構えて商売をしている者もありますし、棒手振りのように小さな資金でその日から商売をしている者もいます。江戸の町では何十種類もの棒手振りがいて、ご用聞きから行商人まで各家庭を回って商っていました。落語「唐茄子屋政談」の中に出てくる”唐茄子売り”も 、落語「時蕎麦」の”ソバ屋”も棒手振りです。

 


  舞台の五百羅漢を歩く

 目黒で有名なお寺さんは隣の目黒不動と、ここ五百羅漢寺です。前回は落語「永代橋」の慰霊碑を見に隣の海福寺(目黒区下目黒3−20)を訪れた時と、 落語「御慶」で目黒不動を訪ねて来た時と、今回の為に来た時の、つごう3回目の来訪になります。
 前回までは通り一遍の参拝でしたが、今回はここが主役。見る方にも力が入ります。ここは緩い傾斜地の斜面に、その自然を上手く使った配置になって本堂、羅漢堂などが建っています。

 正面山門の入口には五百羅漢の一人「不退法尊者」の銅像が飾られています。その右には山門があって、その2本の石柱は緑町時代の山門の石柱です。階段を上がると、右側に五百羅漢群像を飾る羅漢堂があります。入場料を払って見学?参拝をしましょう。羅漢像を見ると言うより、146体の多くの羅漢像に見られているような変な錯覚にとらわれます。たくさんの人間達が居るような気配さえ感じます。

 本堂には正面に釈迦如来像その回りにはお弟子さん達が控えています。左右には羅漢像が控えていて、お釈迦様の法話を聞いています。私もこの中の一人となって、テープから流れる法話を聞いていましたが、私一人しか居ない本堂なのに、ザワザワする程の人の気配を感じます。誰かが私の肩を叩くような感じを受けますが、少しも違和感なく受け入れられます。お寺さんでこんな不思議な体験をしたのは初めてです。
 等身大で写実的な羅漢さん達ですからその様に感じるのか、300年以上経つと自然と羅漢さん達は開眼するのでしょうか。貴重な体験をしました。

 帰り際、斉藤住職にお会いしましたので、羅漢寺の歴史や羅漢さんについて等の話を伺う事が出来ました。また通常出入りが出来ない屋上にある、鐘や人面牛身虎尾で三つ目で想像上の怪獣神・獏王像(ばくおうぞう)を見る事が出来ました。 資料もいただき、有り難うございました。

 

地図

      
亀戸羅漢寺=江戸時代の場所    現在の目黒五百羅漢寺

地図をクリックするとそれぞれ大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

 

五百羅漢寺 正面(目黒区下目黒3−20−11)
羅漢さんの一人「不退法尊者」のお出迎えで、右側山門をくぐり大勢の羅漢さんにご対面です。

 

五百羅漢寺 羅漢像回廊入口
本堂だけには収まりきれない大勢の羅漢さんが羅漢堂に並んで参拝者の私を眺めています。

  

五百羅漢寺 羅漢群像
本堂右側のコーナーに座する羅漢像、左側にも同じだけの羅漢さんが座しています。本堂には正面本尊のお釈迦様がいますが、法話が流れていて、まさにお釈迦様が羅漢さん達と私だけに説法を聞かせていただいているような錯覚にとらわれます。

歌麿「浮世絵江戸本所五百羅漢図」
当時の博覧会またはイベント会場の様な楽しさと興奮があったのであろう。多くの着飾った人達が物見遊山に訪れています。(羅漢寺絵葉書より)

北尾重政「五百羅漢右綾三匝堂(さそうどう)之図」
”匝”は回るという意味で、三周すると、上部のテラスに出ます。北斎の絵にもあるように、ここからの富士の眺めは素晴らしかった。 (羅漢寺絵葉書より)

 

五百羅漢寺への道標(江東区猿江2−16)
「是より五百らかん江右川・・・
八町ほど先・・・」と記されています。
陸路からだけでなく、この小名木川からも見る事が出来、江戸と市外の境界を表すランドマークにもなっていました。
文化2年(1805)再建銘有り、区の有形民俗文化財。

亀戸羅漢寺(江東区大島3−1−8)
目黒の羅漢寺があった所に、地元の別羅漢寺が建っています。新大橋通を渡った向かいの江東区文化センターの前庭に羅漢寺跡の石柱が建っています。
 狭い敷地を有効に使ったお堂と庫裡があります。
三匝堂を連想させるようなお堂ですが、内部は一度も見た事がありません。

                                                        2006年7月記

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