落語「ぼんぼん唄」の舞台を歩く

  
 

 古今亭志ん生の噺、「ぼんぼん唄」によると。
 

  江戸時代、京橋八丁堀、玉子屋新道に”源兵衛”という背負い小間物屋があった。女房”おみつ”さんと二人暮らしで、子供が欲しかった。浅草の観音様に三七21日、日参して子供が授かるように願を掛けた。満願の日何事もなかったので、帰り道、天王橋に差しかかると人だかりの中に迷子が居た。抱き上げると泣きやんで可愛いので連れて帰って来た。女の子で観音様からの授かりものと、拾ってきたので”おひろ”と呼んで大事に育てた。

 1年が経って、盆の14日。近所の子供と遊んでいた。盆の唄 “♪ぼ〜ん、盆の十六日、江戸一番の踊りは八丁堀” と子供達は唄ったが、四つになった、おひろだけは・・・相生町と唄った。みんなは自分の町内を褒めるのに、この子は相生町と言った。元はそこに住んでいたのであろうと、あくる朝、相生町に調べに出かけた。近所で聞くと、材木屋の越前屋で子供を無くして騒いでいた事があった、と言う。主人に会うとそっくりな顔をしていたので、一年前の話を聞くと、「天王橋でケンカに巻き込まれ家族中がバラバラにはぐれてしまった」、「その後、お子様を拾い大事にお育て申しておりました」。越前屋でも色々な神様に願掛けて、お願いしていたのが叶ったと、踊り出してしまった。
 人情話の一席でした。

 


1.迷子捜し
 繁華街では人にもまれて迷子を出す事があります。町内で手分けして探す事もありますが、見つからないと掲示板に張り出して迷子捜しをしました。今回のように上手く探し当てて、くれればいいのですが、中には行方不明になる者もいましたので、特に繁華街には石標を建てて、迷子捜しの手助けをした。それが下の三カ所の石標です。


一石 (いちこく)橋迷子しらせ石標  「東京都指定有形文化財(歴史資料)(八重洲1−11、一石橋南たもと)
 江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かった。
 迷子が出た場合、町内で責任を持って保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政4年(1857年)にこれを建立したものである。
 柱の正面には「満よひ子の志るべ」、右側には「志らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見た通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って、迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。

「東京都教育委員会説明版より」

「奇縁氷人石」(きえんひょうじんせき、文京区・湯島天神境内)
  文京区の有形文化財で、嘉永3年(1850)の建碑。正面には「奇縁氷人石」と彫られ、石柱の右側には「たつぬる可た」、左側には「をしふるかた」と彫られています。使い方は一石橋と同じです。ただ、上部に紙を貼る窪みはありません。
 この碑が残っている事から、湯島天神が大勢の参拝客や行楽の人達で賑わい、江戸有数の盛り場で有った事が分かります。落語「初天神」でもその賑やかさが伝わってきます。


浅草寺「迷い子知らせ」石標(台東区浅草、浅草寺境内・はと豆を売っている所の隣)
 江戸時代仁王門前に安政7年(1860)に建てられた物の復元。昭和32年2月建立。江戸時代にはいたる所で目にした迷子しらせ石標。この石標は正面に「南無大慈悲観世音菩薩まよひごのしるべ」と書いてあり、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たした。石標の左側には「たずねる方」と刻まれている。迷子や尋ね人を探す方の人はここに貼り紙をして知らせ、右側の「志らする方」では、心当たりの方が知らせるようになっていた。裏には「安政七年庚申歳三月建、施主新吉原松田屋嘉兵衛」とあります。これは安政の大地震による廓の犠牲者の慰霊碑を兼ねて建てられた物です。

■永見寺「迷い子知らせ」石標(台東区寿2丁目7−6、本堂右側)
 このお寺さんには先代三遊亭金馬さんが眠っています。たまたま訪れたこのお寺さんの本堂脇に建っていた四つ目の石標です。
 ご覧のように正面「たづぬる方」、上方に四角い凹みがあってそこに名前特徴を書いた紙を貼っておきます。また、裏面には「志らする方」と彫られていて、仕様は正面と変わりはありません。
09年07月追記


 家族連れで出掛けた時は、私は迷子は居ないものと思っています。なぜなら子供が迷子になるのではなく、親がどこかに行って、子供が親を捜し出せなくなってしまうと思っています。言うなら、”迷い親”とでも言うのでしょうか。ですから、迷子案内所には親よりも先に子供が保護されています。親はどこに行ってしまったのでしょうかね。
 昔、息子が就学前に一人で遊びに出掛け帰ってきません。心配になって駅前に探しに行くと家の子に似た子とお巡りさんが二人連れで歩いて行きます。家と反対方向です。追いかけて、事情を話すと、「一人で帰れるから大丈夫」と歩き出したが、心配で付いて来ているとの返事。お巡りさんの推理が正しくて、二度目の迷子にならずに済んだ事を思い出しました。子供って逆の方向にどんどん歩いて行くものです。

 

2.京橋八丁堀、玉子屋新道、背負い小間物屋「源兵衛」が住んでいた所
 落語「猫定」の定吉が住んでいたのがこの玉子屋新道です。「佐々木政談」にも登場する八丁堀。どちらもそこで詳しく解説しています。
 背負い小間物屋とは小間物すなわち雑貨類を、店を構えて居るのではなく、荷を背負って行商をしていた。

 

3.天王橋(報恩寺橋)(台東区蔵前1丁目南を流れる鳥越川に、蔵前通りに架かっていた橋)
 
迷子を拾ったのがこの橋の近くです。
 
蔵前通り(江戸通り)を横切る今は無くなった鳥越川に架かっていた橋で「鳥越橋」と呼ばれていた。俗に「天王橋」とか「須賀橋」と言われた。 しかし、今は川も橋も有りません。詳しくは落語「後生鰻」で記述しています。

 

4.相生町(あいおいちょう) 
 
千代田区神田相生町、ここに材木屋の越前屋が有った。と言っても、よほどの神田っ子で無くてはこの町名を探し出すのが困難でしょう。と言うのはここには都内では珍しく住宅やビルが1軒も無いからです。当然人は住んでいません。ん!どうして・・?。JR秋葉原駅構内(東北部)の一部に名前が残っているだけの小さな町です。いえ、町名です。
 墨田区にも同名の町名があります。両国橋を渡って竪川土手沿いの北側に長く1〜5丁目まで有りました。一の橋(一ッ目通り)から二の橋(二ッ目通り=清澄通り)の先までです。私は噺から、距離的に神田の相生町だと思ったのですが、違っていました。

 両国の相生町、両国橋を渡った、墨田区両国2丁目から緑1丁目西半分までの竪川沿いの町。元禄年間(1688〜1704)に初めてこの町名が唱えられるようになりました。江戸期の相生町は1〜5丁目まで有り、1,2丁目は俗に本所一ッ目、3,4,5丁目は本所二ッ目と言われた所です。

ぼんぼん唄;盆に子供が群れをなし唱えて回る盆歌。盆になると、10歳ぐらいの女の子を頭に3・4歳の女児まで、夕方街角に集まって大勢手をつなぎ「ぼんぼん唄」を唄って夜の町を歩いた。紅提灯や切り子灯籠を持つ子もいた。盆の”小町踊り”*とも言い、俗に”ぼんぼん”と言った。京都の”さあのや”、大阪の”おんごく”と同じです。江戸時代は盛んであったが、明治に入って衰退し今は見られません。
*小町踊り;江戸初期、京都などで、七夕の昼、少女たちが着飾って町を練り、また輪になって回り、盆唄を唄いながらおどる踊り。たなばた踊り。

 


  舞台の相生町を歩く
 

 千代田区神田相生町;秋葉原電気街の中心地、ヤマギワ電機の角、中央通りに交差する東西に走る道路を東に進みます。駅前再開発地域です。建設現場の塀が見えるだけで未だ何もありません。ここに将来高層ビル群が林立するのです。落語「千両みかん」で、東京都の設計構想図面が見られます。今は想像も出来ません。右側に秋葉原駅が見えます。正面に山手線、京浜東北線、東北新幹線の高架橋が見えます。このガードをくぐった両側、秋葉原駅の高架ホーム、新幹線の走る線路とその手前の狭い空き地が”神田相生町”です。色々な町を歩いてきましたが、町名だけで何もない町は初めてです。写真を撮るにしても基準になる物が何もありません。やむ終えず新幹線やまびこが走ってくるところを撮りました。ここが神田相生町。

 舞台の相生町・・・。両国回向院の南側に竪川という川が流れています。川と言っても中川と隅田川の東西を結ぶ運河です。江戸期及び戦前までは東の葛西、行徳から江戸に物資を運ぶ重要な水路でしたが、今はあまり利用されていません。それより今は上部に首都高速道路の7号線が走っていますので、陸路での物流が主役になったようです。
 この川に架かった橋の名前が、隅田川から数えて順番に一ッ目から六ッ目まで有りました。一ッ目に架かった橋が一の橋、二ッ目に架かった橋が二の橋・・・・六ッ目に架かった橋が六の橋となっています。また、その橋を南北に通る道路は同じように一ッ目通り、二ッ目通り・・・・六ッ目通りと呼ばれました。今でも三ッ目通り、四ッ目通りはそのまま使われています。
 本題の相生町はこの川の北側に一ッ目から二ッ目先まで細長く有った町で、中小工場が集まった町でしたが、今はマンションが多くなり混在した町並みを呈しています。
 相生町の北側には両国回向院、大徳院、忠臣蔵の吉良邸跡が有ります。京葉道路を渡るとJR両国駅、その北側には相撲の国技館、隣には江戸東京博物館があります。相撲部屋も多く、ちゃんこ料理屋も沢山ありますので、帰りには寄ってみたら如何でしょうか。

 

地図

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写真

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神田相生町 (千代田区神田相生町)
写真手前が東北新幹線、その向こう高い所に山手線が秋葉原駅に到着しています。この下辺りが相生町。回りには進入禁止のフェンスが張り巡らされて近か付く事は出来ません。今では変な場所になっていますが、江戸時代は鉄道も無かったので、町として当然機能していたのでしょう。

 

両国の相生町(墨田区両国2丁目から緑1丁目までの竪川沿いの町)
竪川の北岸に長く延びる町です。竪川の上部には高速道路の屋根が架かり風情は全くありませんが、川として現在も機能しているようです。北側の町は商店街ではありませんので、静かな町になっています。

天王橋
蔵前通りに交差する鳥越川に架かっていた橋が天王橋。今は川も橋も有りませんが、当時を思い起こす物に交番だけがあります。その名を「蔵前警察署須賀橋交番」と言います。近所に須賀神社があります。
写真の突き当たりが隅田川です。

京橋八丁堀、玉子屋新道(中央区八丁堀 3−12.13に挟まれた道、京華スケアー裏)
「猫定」の定さんやこの噺の源兵衛さんとおみつさんが住んでいた。当時の面影は全くありませんが、細い小道が当時のままの狭さなのでしょう。

                                                         2003年7月記

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