落語「永代橋」の舞台を歩く
 

  
 六代目三遊亭円生の噺、「永代橋」によると。
 

 永代橋の落橋事件を円生は初めに次のように語っている。文化4年8月15日の祭礼が雨で延び延びになって、やっと晴れた19日に執り行われた。当日大変な人出であったが、午前10〜11時ごろ一橋公が舟で隅田川を通ったため、橋止めをした。11時頃橋を通る事を認めたが両岸とも同時に開けた為、群衆が殺到し中央でぶつかり人の重みで崩れた。後ろの群衆はその事が判らず、前へ前へと押していき、中央に達すると河に転落して、最後の人間は濡れなかった。いずれかの武士がこの最中に危機を察し、中央で欄干に捕まり大刀を抜き振り回し、日に輝く刀を見た群衆が危機を察し、後ずさりをしたため、その後人が落ちなかった。この事でどれだけの人が助かった事か知れない。大変な人助けであった。また幾日も下駄が沿岸に流れ着いたと言う。

 こういう事故があると家主は自分の店子が無事かどうか確認に走り回る。何もなかったと思って戻ってくると、差し紙が来て、武兵衛が水死したので引き取りにこいと言う。そこに酔った武兵衛が帰って来た。家主多兵衛が呼び止めると、祭りには行ったという。「家賃も貯めて遊山などするから落っこちて死ぬんだ」「死んだ気がしない」 「当たり前だ、初めて死ぬんだから」 「ウソだと思うなら、わしと一緒に行こうじゃないか」。これから武兵衛を連れて歩き出す。「本当に死んでるのですか」「そうだ」「大家さんは死んでますか」「縁起でもないこと言うな」「だって、死んだ人間と生きている人間が一緒に歩いて居るんですか」「そこがお前はバカだ。死んでいるくせして、生意気だ。少し下がれ」、「酒を呑んでいるときはそんな気はしなかった」「それがバカだというのだ」。
 収容所に来て、多くの犠牲者を眺め「気の毒ですね」「てめ〜だって仲間じゃないか」「だって、誰も悔やみを言わないから、自分で言った」。
 武兵衛?と対面すると、「あ〜!・・これは俺だ!浅ましい格好になって・・、これだったら先月家賃を払わないで、もっと旨いものを食えばヨカッタ」「まだ貯める気か」。・・?・?「これは、俺ではないよ、だって着ているものが違う」「当たり前だ、死ぬとき裸になる者や別の着物を着る奴だって居る」「それに顔が長くなった」「死ねば長くなる」「ここに黒子がある」「死ねば黒子の一つぐらい出来ることもある」「ぐずぐず言わないで引き取れ」「それでどうします」「葬儀を出す」「俺が?」「独り者だから自分のことは自分でしろ」「じゃ〜、先に香典下さい」「家賃と棒引きだ」。「やはりこれは、おかしい」「役人に言われたから引き取れ」「それじゃ〜、この赤ん坊を」「魚を買いに来て居るんじゃない」と言い合っていると、役人にとがめられ、事情を説明するに「本人が本人を引き取りに来ました」。詳しく事情を聞き、死人の持ち物を改めると、武兵衛の盗まれた財布が出てきた。その中の紙切れから武兵衛の所に差し紙が来た。盗まれた武兵衛は金がないので祭りに行かず助かり、盗人は替わりに死んだ。財布も戻って、引き上げてくる。「お前が早く引き取らないから、お役人に怒られるのだ」と武兵衛をぽかぽか。「お役人さん、助けて」
「我慢しろ、どんなことしても、お前は家主にはかなわない」「どうしてですか」
「多兵(大家の多兵衛)に無兵(武兵衛)だ」。

 

 筋書きは落語「粗忽長屋」に良く似ていますが、ギャグが違います。
 



1.永代橋
 
当時、大川(隅田川)最下流に架かる橋で、隅田川4番目の橋(千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋〈上流から、又架けられた順も〉)で、元禄11年(1698)五代将軍綱吉が50才を迎えた記念として架けられた。その為”永代”。別の説では深川に永代寺がありその名からともいい、または永代島を結んでいたのでこの名になった、とも言われる。(東京都と中央区の説明では説が違う)
    千住大橋     文禄3年(1594)   
    両国橋        寛文元年(1661)一説によると万治2年(1659)12月に竣工したとも言われる。
    新大橋        元禄6年(1693)
    永代橋        元禄11年(1698)に架橋。
両国橋、新大橋、永代橋3橋を大川三大橋と言われた。安永3年(1774)吾妻橋が架けられ、大川四大橋と言われ、明治までこの状態が続く。江戸庶民の気持ちの上では、千住大橋は入らなかった。

 長さ120間余の橋長があり、大川最長橋。今の橋より北側(上流)約150mに橋が架かっていた。
 この橋は当然木製の橋であったが、船の通行を考え、水面から高い作りになっていたので、筑波山、秩父連山、富士山,、房総半島が一望に良く見えた。江戸庶民には人気があって、浮世絵の題材にもなった。
 当初、幕府の直轄であったが、後年補修費が掛かるので、財政難から地元に管理を任せた。その為通行料を取って管理、補修費の財源に充てた。

「永代橋落下の光景」(永代橋危難記)

 約100年後、文化4年(1807)8月15日深川八幡の11年ぶりの大祭が雨で順延になり19日に執り行われ、人気を呼んで庶民が殺到した。その上、一橋公が船でこの下を通った為通行止めにし、解除後一時期に群衆が殺到し、人の重みで橋が落ち、大災害になった。奉行所の発表で440人が死んだが、実際には1500人を越えていたと言われる。死体は下流の品川沖まで流される者までいた。
 後年河竹黙阿弥は「八幡祭小望月賑」(はちまんまつり よみやの にぎわい)という、本を書いて大当たりを取った。 落語「永代橋」はこの危難を舞台に作られた。

 蜀山人の狂歌に「永代のかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」。

 赤穂浪士は吉良邸討ち入り後、その先の両国橋を渡ろうとしたが幕府直轄の橋のため渡れず、この永代橋を渡ったのでも、有名である。
 

2.富岡八幡宮(江東区富岡1−20−3)
 深川の小島、永代島に寛永4年(1627)に創建された。回りの砂洲を埋め立てて、氏子の居留地を開き、今の境内・深川公園地・富岡町・門前仲町の6万5百坪の社有地を得た。隅田川の両岸、深川及び新川、箱崎町の氏子をはじめ、江戸最大の八幡様で、「深川の八幡様」として親しまれている。

 祭礼は江戸三大祭りの一つと言われ、氏子町内御輿が120数基が繰り出され、その内の代表町会御輿50数基が勢揃いして、連合渡御が行われる。沿道から盛大に水が掛けられ”水掛祭り”としても有名。100万人以上の人出を記録する(神社調べ)。
 江戸三大祭りは神田祭り(神田明神)、山王祭り(赤坂日枝神社)、浅草三社祭と一部で言われるが、三社祭を外して深川八幡祭りが入って三大祭りと言われるのが本道であろう。しかし四大でも五大でもいいように思うのだが。江戸っ子のこだわりか。


御輿の行列。永代通りを埋め尽くす御輿と群衆、正面奥が永代橋。

 本社御輿としては、日本一の黄金御輿が飾られている。この御輿は平成3年に奉納されたもので、台輪幅五尺(1.5m)、屋根の最大幅九尺三寸(2.9m)、高さ4mを優に越え、担ぎ棒を組むと4.5トンになる。鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンドがはめ込まれ、装飾の各所に宝石を配した豪華な神輿です。

 横綱力士碑。貞享元年(1684)に勧進相撲が行われ、江戸勧進相撲の発祥の神社となった。明治33年に歴代横綱を顕彰するために第12代横綱陣幕久五郎が発起人となって建立された。歴代横綱の名前が刻まれている。他に大関力士碑、超50連勝力士碑、巨人力士身長碑などがある。
 

3.落橋の犠牲者を悼んで(深川)
 木場の人々は深川寺町通り(江東区深川2丁目)の海福寺に「永代橋沈溺横死諸亡霊塚」を建立した。明治43年に目黒区下目黒3−20−9へ移転し、今でも山門脇の2基の供養塔には「歌舞伎『八幡祭小望月賑』と落語『永代橋』の素材になった」と説明板が立っている。
 隣の目黒不動は江戸一番のお不動さんで、賑わっている。帰り道にちょっと立ち寄ってみるのもいいでしょう。
 


  永代橋と富岡八幡宮を歩く
 

 映画「タイタニック」は、大悲劇の中で進行していく愛のストーリーですが、事故の中で繰り広げられる人間模様が大きな画面の中で感動させました。この「永代橋」も残酷なほどの噺の中で、こんなにも馬鹿馬鹿しい筋書きが書かれる、人間のサガに驚きです。悲劇すら笑いの素材にしてしまう、江戸の文化に敬服します。
 
 
永代橋は当時隅田川の最下流に架かった橋であった。今は下流から4番目の橋になった。 当時はこの鉄の橋より約150m上流に架かっていたと、その場所に碑が建っている。この橋は当然木製の橋であったが、船の通行を考え、水面から高い作りになっていた。筑波山、秩父連山、富士山は今は見ることが出来ないが、今では考えられない情景になった。只、佃島とその周辺の景色は手に取るように見ることが出来る。

 今の永代橋は橋の名を取って永代通り、その永代通り架かっている。深川(江東区)と都心(中央区、及び皇居)を結んでいる動脈である。1日中車の切れる間がない。
 永代通りの東側約1kmに富岡八幡がある。この深川八幡はインターネットにホームページを持っています。時代ですネ〜、ここで参拝して下さい。 6話「阿武松」や13話「富久」でも紹介されている八幡様で、3年に一度の大祭は大変な賑わいである。日曜日のクライマックスには100万人以上の人出がある。また水掛祭りでも有名で、御輿の渡御に水を盛大に掛けるのが特徴です。見物の人達にもおこぼれ(本筋)がお見舞いする事もある。氏子は深川、新川、箱崎中から町内120基以上の御輿を引き連れて、祭りの輪の中に集まる。日本一の御輿や歴代横綱の碑がある。縁日も盛大で、普段でも毎日賑わっている。本堂前で月に2回(第1,2日曜日)、古道具市が開かれ、落語「道具屋」ではないが、本当にいろいろな物が商われている。この八幡様の御利益はいろいろありますが、変わったところで、釣りブームの影響で「釣行安全・大漁祈願お守り」があります。

 隣には、同じくらい大きな「深川不動」があり、こちらも兄弟のように賑わっている。

 江戸時代、現在の永代周辺は「浜十四ヵ町」とも呼ばれ、 江戸前(東京湾)の魚を捕る漁師町として栄えていた。明治の頃、黒江町(今の門前仲町。八幡と永代橋の中間に位置する町)の永代通り沿いに露天を列べ魚を商った。「黒江の夕河岸」として有名。芝浜のような夕河岸で、賑わった。今でも、屋形船や釣り宿が多くあり、アサリを焚いて丼に乗せた、「深川丼」は今でも人気がある。

 

地図

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写真

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  永代橋(えいたいばし)
 
優美な男性的な橋で、人や車用の道路橋としては最初に明治30年
(1928)鉄橋として架けられたが、関東大震災で大破、昭和3年(1928)4月に現在の橋に生まれ替わった。
  浮世絵の永代橋
広重作「永代橋佃沖漁舟」、橋の右前景は佃島。水平線方向に
漁り火を焚いて漁をしている。
  深川八幡の祭礼
御輿100数十基が出たときのもの。半纏のガラは各町会が
江戸の粋さを出す最高の表現場所である。この半纏は八幡様のお使いの鳩をデザインして、八幡の八の字を表している。
  海福寺(目黒区下目黒3−20)の慰霊塔
隠元禅師の創建になる寺で、移転後もここで毎年彼岸には供養が行われ、塔婆が納められている。塔の台座には横死者の戒名が刻まれ、それによると江戸中の多方面の人々が犠牲になった事が判る。事故の記録として数少ない貴重なものとなった。
海厳山徳願寺(浄土宗)  千葉県市川市本行徳5−22
http://www.icnet.ne.jp/~tokuganji/
 札所1番の徳願寺は、慶長15年(1610年)聡蓮社円誉不残上人が、寺院を開創したものです。
 徳川家の位牌が数多く残る将軍家の菩提寺でもあります。また、宮本武蔵ゆかりの寺としても知られ、山門入って左手に武蔵供養塔もある。
ここにも永代橋の遭難慰霊碑が山門脇に建っている。

                                                       2001年5月記

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