落語「応挙の幽霊」の舞台を歩く
   

 

 二代目三遊亭円歌の噺「応挙の幽霊(おうきょのゆうれい)」によると。
 

 書画骨とう屋が一人で酒を飲んでいる。そこへ旦那がやってきたので、骨とう屋は、旦那に幽霊の絵(掛け軸)を勧める。
 これはふつうの幽霊のとはちょっと違う。枯れ柳なんかがないが素晴らしいなどと、半可通の旦那の気をそそるような勧め方だ。
 「応挙の絵だというんですがね」と、骨とう屋
 「いや、オウキョでもラッキョでもかまわんよ」、絵なんて自分が気に入ればいいんだ、と旦那は早くも買う気。
 そこで「では、1万円といいたいところだが、9千円でどうでしょう?」
 「今、財布に1500円しかないから、それを内金にして…」「内金なんか…」「いや、気持ちの問題だから」と旦那は1500円置き、後は明日の朝、絵を届けてくれたときに払うといって、去っていく。
 実はその絵は骨とう屋が市場で650円で買ったもの。
 「1万5千円といえばよかったな、これだから、この商売やめられねえ。」と、お多福豆をつまみに酒を飲み続ける。
 これも掛け軸の幽霊のおかげだと鰻と酒を供える。
 気分良くした骨とう屋は鰻を届けてもらい、「かかあがいたら、喜ぶだろうなあ」と往時をしみじみ振り返りながら、かつて朝鮮にいた頃唄った鴨緑江の歌を一節。
 鰻と酒を供えたそれが、あれ?その鰻と酒が減った…
 急にあたりが暗くなり、涼しくなった。三味線の音とともに掛け軸から女幽霊が出てきた。
 「こんばんは、私は幽霊です。」久しぶりに酒と鰻をいただいて、あたしゃ、嬉しくて…、「そばにいってもいい?」と女幽霊は骨とう屋の横に来て、「もういっぱいちょうだい」と酒をせがむのだ。
 彼女がいうには、どこでも幽霊の絵は三日か四日は掛けて眺められても後は女子供に怖がられてお蔵入り、虫に喰われて…であった。が、ここでは認められて嬉しいというわけだ。
 「もう一杯」と女幽霊は骨とう屋と差しつ差されつ、幽霊のつま弾く三味線に合わせて鴨緑江の唄や都々逸など唄って酒酌み交わす。明るく色っぽい幽霊はやがて酔っぱらって掛け軸に戻ったが、手枕で向こう向いて眠り込んでしまった。
 困った骨とう屋、「明日の朝までにこの酔いが醒めれば良いが…」。

 


 
1.応挙の幽霊
  日本で馴染み深い足のない幽霊は、円山応挙がはじめて描いたとされています。(版画ではそれ以前にもありました。自筆ではこの絵が初めてです)
  彼が、障子越しに病弱であった妻の影姿を見て、足のない幽霊を思い立ったとされています。足の部分は香や蚊遣りをたいていますと、その煙で霞んで見えない事もあります。 幽霊と言うより、愛する 病弱な妻を障子越しに鮮烈に瞼に焼き付いた姿を、写生を本領とする応挙が描き上げたもので しょう。
 怖い幽霊ではなく、品のある愛すべき幽霊画「お雪さん」です。

  現在、円山応挙の筆による「幽霊画」と断定されうる作品は、海を渡って、米国カリフォルニア州のカリフォルニア大学バークレー美術館の所蔵 (下3.丸山応挙の落款の入った幽霊画)となっているもの。
縦97センチ、横26センチ、江戸の巨匠、円山応挙が描いた幽霊です。

 そして、青森県弘前市の久遠寺が所有するもの、この2作品のみです。バークレー美術館蔵のものが、応挙の落款が残されており、久遠寺のものは落款が入っておりませんが、ほとんど同じだと言われます。

 応挙が描いたといわれる幽霊画はたくさんあります。落款が入っていなかったり、弟子による模写が多いのが原因のようです。
 で、谷中の全生庵にある、「お雪の図」は偽物とはなっていませんが、本物とも言われていません。いわゆるグレーゾーンの闇の中にあります。幽霊ですから。(右図)
 二つの応挙を比べると、顔の表情、顔つきが違うのが分かるでしょ。


2.
円山応挙の幽霊の絵 その二

 応挙が旅の途中に、たまたま千葉県市川市行徳の旅籠「志がらき」に泊り、夜中に廊下で胸を病でいた女とばったり出会ったときの驚きがきっかけで、描かれたといわれます。

 この絵は、元前田公爵の所蔵であったが、東京新川の酒商中井新右衛門が手に入れ、さらに行徳の酒問屋遠州屋の岩崎粂蔵が譲り受けた。しかし、どういうわけか遠州屋に不幸が続きやがて没落してしまい、その時に徳願寺にあずけられた 。

 武蔵の絵と書、応挙の幽霊の絵は、毎年11月16日の午後3時から5時まで、この日に限って一般公開されます。

海厳山徳願寺(浄土宗)  千葉県市川市本行徳5−22
http://www.icnet.ne.jp/~tokuganji/
 徳願寺は、慶長15年(1610年)聡蓮社円誉不残上人が、もと普光庵という草庵に堂宇を建てて寺院を開創したものです。
 本尊は、北条政子が運慶に作らせたという3尺2寸の阿弥陀如来像。
 徳川家の位牌が数多く残る将軍家の菩提寺でもあります。また、宮本武蔵ゆかりの寺としても知られ、山門入って左手にある武蔵供養塔、直筆の書、八方睨みの達磨の絵などの寺宝も多い。
 

3.円山応挙(まるやまおうきょ)(1733〜1795) 画家 円山派の祖

 バークレー美術館の幽霊画

 丹波国(現在の京都府亀岡市)に農家の次男として生まれました。幼い頃から絵を書くのを好み、15歳の頃に両親と共に京に移り絵の勉強を始めたと言われています。
 京へ上洛した応挙は、画家石田幽丁に弟子入りしましたがその生活は苦しく自分の描いた絵を売って何とか暮らしを支えていました。大乗寺の住職密蔵上人と出会ったのはそんな時でした。上人はまだ無名であった彼の画才を見抜き、ひいきにしていたと言われています。
 ある日、上人が彼に「何か志はあるか?」とたずねたところ、返事は「残念ながら自分は無一文です。もし銀三貫目あれば江戸へ行き勉強し必ず天下に名を残す絵師になります。」 、「それならたやすいことだ。私がなんとかしよう。」と即座に銀三貫目を彼に渡しました。彼は喜んで江戸へ行き3年間の修行を経て、洋画の遠近法や、宗元画の写実洋式に刺激されて実物写生に精進し、独自の写生画風を大成し、円山派を開き、現代にも名を残す絵師となりました。
 
重要文化財「郭子儀図襖絵」(部分) 天明8年(1788) 兵庫・大乗寺蔵

 1787年、当時55才になった応挙は、古くなって改築の時期にさしかかっていた大乗寺の話を聞きつけ、密蔵上人の恩が強くよみがえってきました。以来8年間5回に渡って寺を訪れ、子弟や門弟と共に襖絵や軸物を多数描き、その数は165点にのぼっています。
 応挙の手がけた襖絵は「孔雀の間」、「芭蕉の間」、「山水の間」の三間に残されています。 孔雀の間の襖絵は、16枚の金箔地襖に水墨で3羽の孔雀と松、岩を描いた大作です。 応挙がこの作品を描いたのは、晩年の1795年、63歳の時のことです。

重要文化財「松に孔雀図襖絵」寛政7年(1795)
兵庫・大乗寺蔵

 しかし彼は、 61歳頃から眼病と中風に悩まされ、体も弱っていたようです。その時期の作品の鐘馗図には「寛成乙卵春試筆六十三齢源応挙」と記されていますが、応挙が作品に年齢を残す事はほとんどなかったので、死期を悟っていたのかもしれません。
 この作品を描きあげた3ヵ月後の7月17日、京の自宅で亡くなりました。

大乗寺 http://www.daijyoji.or.jp/main/index.html
  天平17年(745年)開基行菩薩によって開かれたお寺で、別名「応挙寺」と呼ばれ親しまれています。円山応挙の他呉春や門弟の襖絵が数多く残されており、寺全体が円山派の美術館となっています。 兵庫県香住町。

 

4.全生庵「圓朝まつり」
■圓朝忌
 もとは、江戸落語中興の祖である故三遊亭圓朝の命日(8月11日)に、墓所のある谷中・全生庵で「圓朝忌」として行われていた法要が始まりです。この法要は、毎年、落語協会と落語芸術協会が交互に主催して行っていました。
  ご住職による法要のあとに、「奉納落語」として代表者がひとり、落語を一席申し上げました。これはお客様に対してではなく、ご本尊様と圓朝師匠に奉納する、という意味合いです。列席の皆様には背中を向けて喋ります。
  その後、境内にて扇子と手拭いのお焚き上げが行われ、芸人同士が親交を深めるという、いわば「法事」という色彩の強いものでした。  一部の熱心なファンが何人か訪れてはいましたが、一般には公開されているものではなかったのです。

■圓朝忌から圓朝まつりに
 この「圓朝忌」から落語芸術協会が撤退し、落語協会の単独開催が数年続きました。
 2002年(平成14年)から「圓朝忌」を発展的に解消し、名前も「圓朝まつり」と改称して、大々的な”ファン感謝デー”にしよう、ということになりました。日程も、お客様が参加しやすいように、「毎年8月11日の直前の日曜日」と いうことに変更しました。
 圓朝師匠の法要や物故者の供養、そして扇子お焚き上げなどの仏事はそのまま継続しながら、落語協会所属の芸人とファンの皆様とが触れ合える「お祭り騒ぎ」にスタイルを変更したのです。 境内には芸人が出す模擬店があふれ、お客様には飲食や買い物を楽しんでいただけます。芸人は直接お客様とふれあい、サインや写真撮影にも応じます。時折、ゲリラパフォーマンスも展開されます。また「奉納落語会」と銘打って、坐禅堂にて落語会を開催します。
 フィナーレでは、お宝グッズのオークションや、「住吉踊り」連中によるかっぽれの総踊りで、賑やかに締めくくります。
 朝から夕方まで楽しめる、芸人とお客様とのふれあいの場、それが「圓朝まつり」なのです。
(落語協会ホームページより)
今年(2006年)は8月6日に行われました。

■三遊亭圓朝については、第48話・落語「お若伊之助」で詳しく書いています。
 


  舞台の全生庵を歩く

 2006年全生庵の「圓朝まつり」に出掛けました。8月6日梅雨も完全に明けて暑い夏の日差しが厳しいです。
 まつりには大勢のフアンが詰めかけています。これも落語協会のイベントの盛りあげ方が上手いのでしょう。即席の売店が並んでまつりを盛り上げています。例年の落語クイズは結構難しく、何人もの挑戦者が難渋しています。私はまつりのそこまで行って苦労する事もないので素通りしました(解答が出せないので・・・)。

 本堂では法要が始まっています。
 その隣の部屋で幽霊画のコレクションが公開されています。エアコンが激しく動いていますが、外の熱気に負けているのでしょうか。団扇が置いてあるのが笑いを誘いますが、やはり、そのお世話になるのが当たり前のようです。
 たくさんの幽霊達が並んでいますが、応挙の幽霊画が抜きん出て素晴らしく他を圧倒しています。

 それぞれの幽霊画の下には作者と短いコメントが書かれていますが、それを見なくとも品性が違うのが分かります。
 そこには肴も酒もありませんので、手枕で向こうにむいて寝ているような事はありません。又、来年まで、藏の中でお休みになるのでしょうね。

 

地図

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写真

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全生庵
「圓朝まつり」が行われる、谷中・全生庵。普段の静かなたたずまいを見せている時。

圓朝碑
谷中・全生庵の境内にある「三遊亭圓朝翁碑」。山門入って直ぐの右側にあります。

  

圓朝墓
谷中・全生庵の墓所にある「三遊亭圓朝居士の墓」。本堂裏手の墓地内にあります。三遊亭円生の墓も二代目から右側に併設されています。

圓朝まつり
2006年8月6日、全生庵の「圓朝まつり」に出掛けました。
写真集になっていますのでご覧下さい。

お雪さん
丸山応挙が描く幽霊画「お雪さん」です。毎年8月に全生庵で一般公開しています。
手前の女性の髪かたちの方が怖い!?

海厳山徳願寺千葉県市川市本行徳5−22)
立派な山門をくぐると正面に見えるのが、この本堂です。山門の左手には宮本武蔵の供養塔、右側には鐘楼があります。

                                                        2006年8月記

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