落語「紋三郎稲荷」の舞台を歩く
二代目 三遊亭円歌の噺、「紋三郎稲荷」によると。
常陸・笠間藩、家臣・山崎平馬(へいま)は参勤交代のおり風邪がモトで江戸への出発が3〜4日遅れた。
「コンコン」と咳をしながら幸手の松原に一人で着いた。カゴ屋が松戸までの帰りだから安くするのでと、勧めるので1貫200
(文)のところ気前よく酒手ぐるみで1貫300で乗る事になった。 気持ち良くうたた寝をしていると、背割り羽織の間から胴服の狐の尻尾がカゴの外にはみ出していた。カゴ屋はそれを見て驚いた。相棒に、「紋三郎様の眷属(けんぞく)を乗せてしまったようだ、先ほどから『コンコン』と言うし、カゴ代も値切らず多くくれるし、これは武士ではないゾ」。それをカゴの中で聞いていた平馬はイタズラ心を起こした。
問われるままに、「笠間の牧野家の者ではなく、由緒あるところの者である。これから江戸表は王子、袖摺、三囲、九郎助へ参る」。行き先はみんな稲荷なので、カゴ屋はビックリして紋三郎の眷属(けんぞく)と早合点し、途中一本松は犬がいるからと休まず通って、三本杉の茶屋で一休みした。
お稲荷さんばかり食べていた。カゴは松戸に入ると笠間稲荷の信心家である本陣に泊まる事になった。
カゴ屋は主人に、「お客は紋三郎様の眷属だから・・・。」と耳打ちした。その為、丁重なもてなしで、食事も名物のナマズ鍋と鯉こくでやっている。 「コンコン」とやったり、狐の尻尾をチラチラさせるので、泊まりの講中のお客や主人達は隣の部屋でお参りしたり、お捻りを投げたり・・・、平馬は御神酒を飲んで楽しんでいた。
翌朝、七つの鐘を聞いて、冗談が過ぎたと思いながら旅支度を済ませ、庭に降りると小さな祠があり、一礼をして裏木戸から一目散に随徳寺(ずいとくじ=逃げ去った)。
それを見ていた祠の狐が、「近頃化かすのは人間にかなわない」。
1.笠間稲荷
■笠間稲荷(茨城県笠間市笠間1)
京都の伏見稲荷、佐賀の祐徳稲荷と共に、日本三大稲荷の一つとして知られる。御祭神は、宇迦之御魂神(ウカノミカマノカミ)です。
創建は、第36代孝徳天皇の御代白雉年間(650〜654)まで遡るといわれ、現在でも五穀豊穣、商売繁盛を願い、庶民の神様として胡桃下稲荷・紋三郎稲荷の名で、信仰を集め、年間三百万人以上の参拝客が訪れています。
江戸時代には歴代笠間藩主の厚い崇敬を受けて、社地・社殿などが寄進されました。
本殿は江戸時代末期、安政・万延年間(1854〜1861)の建築で銅瓦葺総欅の権現造。本殿周囲の彫刻は、江戸で流行していた最先端の技術を伝えていて、実に精巧で見事なものです。(昭和63年1月国指定
・重要文化財)。
胡桃下(くるみがした)稲荷または紋三郎(もんざぶろう)稲荷とも呼ばれる。
■紋三郎稲荷の昔話
奥州の棚倉城主に阿部という殿様がいました。殿様は鷹狩りが大好きで、たくさんの鷹をかっていました。
ところが、ある日かわいがっていた一羽がどこかへすがたを消してしまったのです。さあ大変です。家来達はおどろき血眼になってさがしまわりましたが見当たりません。家来達は、「これはおそらく狐のしわざにちがいありません。明日は全員で野狐狩りをして、一ぴき残らずつかまえてしまいましょう」
と、申し合わせをしました。
その夜、殿様のまくら元に一人の翁があらわれて、「わしは笠間の紋三郎と申す者だ。どうか明日の狐狩りは三日ほどのばしてほしい。わしに少し考えることがあるので・・・」
と、申し出て消えてしまいました。
殿様は、不思議に思いましたが、この願いを聞くことにしました。
やがて、三日目の朝をむかえると、げんかん先の石の上にすがたを消したあの鷹がもどっているではありませんか。そして、そばには老いた狐がたおれていました。
殿様はおどろき、「あの翁はただものではあるまい」と、さっそく使いを出して、笠間城下町の紋三郎をさがさせました。
ところが、紋三郎と言う人物は見当らず、紋三郎とは笠間稲荷神社の別名であることがわかりました。
そこで、殿様は神様のありがたさを知り、「おおのぼり一対」を笠間稲荷神社へ寄進して、後々までも信仰をあつくしたと言い伝えられています。
■紋三郎稲荷(別称の言われ) 江戸時代の藩主牧野貞通の一族である”門三郎”が深い信仰心から多くの人々に功徳を施したことによりいつしか笠間稲荷を「紋三郎稲荷」とも呼ぶようになりました。
2.笠間(紋三郎)稲荷神社 東京別社(中央区日本橋浜町2−11−6)
笠間の8万石殿様、藩主牧野遠江守康満の江戸屋敷がこの地にあり、邸内神として、故郷の笠間稲荷を祀ったのが始まりです。明治になって、屋敷は無くなりましたが邸内神の”笠間稲荷”だけは当地に残り、今に伝わっています。(宮司談話)
日本橋七福神の一つです。
家臣・山崎平馬は国元から参勤交代で、当地浜町の下屋敷まで来る時の道中逸話がこの噺です。牧野遠江守の江戸藩邸(上屋敷)は、神田・水道橋外にあった
と言われています。
また、円歌は噺の中で”牧様”と言っていますが、”牧野様”の間違いです。
■紋三郎稲荷の分社(日本橋浜町2−31−1)
明治座の中に有ると、円歌が噺の中で語られている明治座は写真の様に立派なビルになっています。その名を浜町センタービルと言います。この写真の裏(北)側に立派なお社が建っています。下の写真参照。左の写真は、明治座南側からで、北側の社は見えません。
私は楽屋裏かその辺に祀られていると思っていました。楽屋には通常稲荷の神棚があり、そこから大部屋の位の低い者を”稲荷下”と呼んだくらいです。が、どっこい、素晴らしいお社に祀られているのでビックリしました。
3.眷属(眷族、けんぞく)
1.一族。親族。身うち。うから。やから。
2.従者。家子(いえのこ)。腹心のもの。(広辞苑から)
4.1貫200文は
どのくらいの価値があるかと言えば、
初期の公定相場は金1両=銭4貫 (4000文)=銀50匁。
幕末には 金1両=銭10貫(10000文)=銀60匁。
話を簡単にするため、1両を5貫文とすると、1貫200文は5000分の1200両です。1両が約8万円とすると約2万円になります。
1両2分(1.5両)有れば江戸で職人一家が1ヶ月暮らせたと言います。今、50万円の月収が有るとすれば12万円相当になります。タクシー代に換算してもかなりの額になります。カゴ屋が「200文を値切られ、丁度の1貫文で行く所を100足して300で行くのは気前が良すぎる」 と言ったほどです。
屋台の蕎麦が16文ですから、200文で12杯も食べられます。現在500円として6000円になります。その伝でいくと、1貫200は37,500円になります。
5.幸手から松戸までの距離
幸手(さって)は埼玉県幸手市、鉄道で言えば浅草から出ている東武鉄道で約47kmの町です。松戸は千葉県松戸市、常磐線で上野まで約18kmあります。
笠間までは鉄道で行けば上野から常磐線で松戸を抜けて、水戸の手前友部で水戸線に乗り換え2つ目の駅が笠間です。筑波山の北側、茨城県笠間市、笠間焼きで有名な所です。行程112km、これが一番近い行き方です。
当時も水戸街道(常磐線と平行している)を利用するのが一番便利ではなかったかと思いますが、平馬は笠間を出て、南下せず、西に道をとって日光街道
(東北道)に出て、そこから南下します。利根川を渡ると幸手の町に入ります。 通常でしたら、このまま南下して春日部、越谷、草加、上野と道をとりますが、松戸に戻るカゴに乗ってしまいます。江戸川に沿って松戸まで南下します。地図上直線で40km位で距離的には幸手から上野まで行ける距離です。平馬はわざわざ遠回りして松戸で1泊した事になります。ですから、風邪っぴきの平馬がわざわざ遠回りするのは、噺に少し矛盾が有ります。
私でしたら、水戸街道の土浦か取手(とりで)でカゴに乗ります。もしかしたら円歌は取手と幸手を間違ったのかも知れません。
6.噺の中に出てくる稲荷四社
■王子稲荷(北区岸町1−12−26)
第34話「王子の狐」の舞台です。 正式には王子稲荷神社。ここは関八州の稲荷の総司で、今から約一千年の昔、「岸稲荷」として、祭神「稲荷大明神」を祀った。広重の「江戸名所図絵」にも描かれています。
「装束の榎まで持つ王子なり」 東鳥 と言う句もあります。
■袖摺(そですり)稲荷(台東区浅草5−48−10)
縁起が正面の木札に書かれていますが、薄くなったり剥落して完全に読みとれません。判読すると、「今から約800年前源頼朝が伊豆に流された時、邸内の安泰を祈願して祀られた。その後小田原に移り、それが慶長年間、小西米右衛門によって今の地に祀られるようになった。家内
安全、繁栄の御利益有り」
岡本綺堂の「半七捕物帳」の”広重と川獺”の中にも登場します。昔から有名な稲荷神社だったようです。しかし現在は今回紹介した稲荷神社のなかで一番小さな神社でした。
■三囲(みめぐり)神社 (墨田区向島2−5)、
第67話「和歌三神」で紹介した神社です。そこから引用。三囲神社は第32話落語「野ざらし」にも出てきた所です。 商売繁盛の神様として、恵比寿と大国天を祀っているが、鳥居と石碑の多い三囲神社です。特に墨堤沿いの鳥居は錦絵の題材として桜とともによく描かれています。
文和年間(1352〜1356)、近江国三井寺の僧であった源慶が、巡礼中に牛島(現向島)で荒れ果てたほこらを見つけました。源慶は、その荒廃ぶりを悲しみ修復を始めたところ、土の中から白いきつねに乗った翁の像が出てきました。そしてその時、どこからともなく白ぎつねが現れて、翁の像の回りを3度まわって、またどこかに消えて行きました。この故事から『みめぐり』の名前が付いたといわれています。
■九郎助(黒助)稲荷(台東区千束3−20−2)
吉原の遊郭の中にも四隅にお稲荷さんが祀られていた。大門くぐって左に「明石」、時計回りに「九郎助(黒助)」、「開運」、「榎本」稲荷があり、入り口見返り柳の反対側に玄徳(よしとく)稲荷が有った。『明治8年五稲荷社を合わせて、吉原神社が出来た』(吉原神社説明)。しかし明治27年の地図によるとまだ吉原神社は無い。大正12年の地図で初めて五稲荷は合祀され、玄徳稲荷が有った所に吉原神社が出来た。その後、昭和に入って現在地に移転した。(第25話「明烏」より)
舞台の紋三郎稲荷を歩く
中央区久松町、久松警察の前の道路を金座通りと言います。銀座通りではありません。この通りを渡ると浜町、ここに”別社・笠間稲荷”が有ります。別名紋三郎稲荷。今の東京では標準的な大きさなのかも知れません。稲荷とは田畑の収穫物の豊作を感謝し豊穣を祈念してお参りするもので、決して御利益を祈願するものでは無いとの事です。祈願ではなく感謝のお礼参りが本筋だそうです。宮司さんのお話も聞けましたので、これから明治座の方に行く事にしましょう。
金座通りを東に行くとすぐに清洲橋通りに出ます。この道は6車線もある一方通行の道です。久松町交差点を右折してすぐに、左手に幟が沢山はためいている明治座が見えます。今月は「五木ひろし」の公演を開催中です。失礼ながら横目で見ながら正面右手に回ると、そこに「笠間出世稲荷大明神」の額が上がった紋三郎稲荷の分社が有りました。円歌が噺の中で明治座の中にも有ると言っていたのがこれです。大変立派に祀られています。先ほどの東京別社がここのまつりごとは司っています。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
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三囲(みめぐり)神社 (墨田区向島2−5)
「雨乞いの碑」。元禄6年(1693)は大変な干ばつで雨がなかった。三囲神社に集まった近隣の氏子達が雨乞いのお祈りをしていた。たまたま、そこに芭蕉の弟子で其角(きかく
、1661〜1707)が通りかかり一句詠んだ。
「遊(ゆ)うた地や田を見めぐりの神ならば」
翌日、久々の雨が降った。
(第67話「和歌三神」より)
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袖摺稲荷神社(台東区浅草5−48−10)
浅草警察署の北側に当たります。間口2間(3.6m)程の狭い敷地に2階建てのお社が建っています。地元の有志によって維持されているのでしょう。質素ながら、清楚なたたずまいを見せています。
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王子稲荷(北区岸町1−12−26)
第34話「王子の狐」の舞台です。
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九郎助稲荷(台東区千束3−20−2吉原神社内)
第25話「明烏」の舞台です。吉原の四隅にあったお稲荷さんの一つで、今は吉原神社に合祀されています。
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紋三郎稲荷東京別社(中央区日本橋浜町2−11−6)
日本橋久松町にある久松警察署前の通り”金座通り”を渡り(横断禁止で渡れませんが)目の前が紋三郎稲荷です。
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紋三郎稲荷の明治座分社(日本橋浜町2−31−1)
額には「笠間出世稲荷大明神」と入っています。毎年3月3日にお祭りが行われます。
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笠間稲荷・楼門。
昔からこの地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神をお祀りしていたことから、「胡桃下稲荷」と呼ばれ、また江戸時代の藩主の一族に門三郎という人がいて、当社への信仰が篤く、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施したことから「お稲荷さんの門三郎」と名声を博し、いつしか当社を「紋三郎稲荷」とも呼ぶようになりました。
今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れています。
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2003年5月記
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