落語「四宿の屁」の舞台を歩く

  
 

 六代目 三遊亭円生の噺、「四宿の屁(ししゅくのへ)」によると。
 

  おならと言うものは多人数の席では、お前がやった、いやそっちだと犯人探しで沸いて、陽気になるもので、逆に一人の時はこんなにバカバカしいものはない。「へをしって おかしくも無し 独り者」。

屁にも春夏秋冬があります。
春・・、「川越しの 肩暖かき 春の風」
川越人足がお客を肩車して川を渡っていた。肩先で一発やられたので、ぬくもりが春風と一緒に肩を抜けていった。
夏・・、「ブクブクと 水に泡立つ 水場(すいば)かな」
ご存じ、お風呂やプールでの、それが泡になって立ち上ってくるさま。口元で破裂するとサ〜ァ大変。
秋・・、「ゴメンごめんと 芋食い過ぎし 今日の月」
冬・・、「炬燵から 猫もあきれて 首を出し」。

四宿での、それぞれの話で、まずは、
 品川・・。ここは海が見えて風光明媚であった。二人寝の花魁が一発やったが音はしなかった。顔の方に臭いが上がって来るのをおさえて、下の方をパタパタさせていた。お客が「何をパタパタさせているんだぃ」、「前を通る帆掛け船の真似をしているのさ」、ホッ として上の方の手を離すと臭ってきた。
「その船は”肥船”じゃないかぃ」。
 新宿・・。お客と二人でお酒を飲んでいると、若い衆が挨拶にやってきた。花魁が若い衆にお酌をしようと腰を上げた途端、でた。そこは若い衆、売り物の花魁に傷が付くのをかばって「すいません」と謝ったが、 お客はそれを承知でイイ若い衆だと、祝儀を渡した。 帰ろうとする若い衆に花魁が「ちょいとお待ちよ。半分お出しョ、私の働きだから」。
 板橋・・。お座敷で宴会。小職(こしょく)がお酌をしようと腰が上がった途端、”ぷう〜ぅ” 「行儀が悪い子だねぇ、メソメソしないで下にお行き」。小言を言っていると自分も”ぶ〜” 「ちょっとお待ち。私も行くから」。面目なくて花魁もその場所には居られなかった。 (小職と花魁の音の違いが面白い)
 千住・・。呼び寄せておきながらチットモ来ないと愚痴っていたが、気配を感じて狸寝入りをしていた。花魁が部屋に入って来るなり枕元で”ぶ〜う” 揺り起こしてお客に聞いた「今の知っているでしょ」、「何が」、「知らないの。大きいのが・・・」、「大きいのがって、何が」、「大きい・・・、う〜、地震サ」、「地震ッ!、屁の前か後か?」。

 


 今回は軽い噺を紹介しています。円生も時間がない時にはこの様な軽くて笑える噺を高座に掛けていました。

1.「屁の噺」続き
■その一、花魁(おいらん)が大事なお客の前で一発やってしまった。あわてた花魁「すいません。お客様の前で日に1回失礼をして、親の病気が治るようにと願を掛けたものですから・・・。」、「偉いな!親孝行で」。 
ホットする間もなく、また、続けて出てしまった。
「また出たね」、「う〜・・・、これは明日の分です」。
「珍話 楽牽頭(がくたいこ)」明和9年(1772)9月刊 笹屋嘉右衛門著 ”屁”

■その二、(上記類型で) ある人、女房に酌とらせて、二三人寄合ひて、はなしなどして居たりしに、女房、屁一つ取りはづし(放屁する)ければ、亭主こらえかね、「さて、わたくしの女房に、悪(あ)しきむしがござる。かやうに客人のござる時にかぎつて、月に一つづつ取りはづします」という折ふし、また一つ放しければ、「ああ心やすや。もはや来月の分もしまふた」といわれし。
「かの子ばなし」元禄3年(1690)刊 鹿野武左衛門?著 ”まひとつのあんじ”

■その三、花魁が真夫(まぶ)の前でやってしまった。「年期(ねん)があけたら夫婦になる約束をしていたが、おならをしたぐらいで愛想が尽きてしまうような、情無しではないかと、実はお前さんの心を試したんだよ」、お客は「なにも、おならで試さなくったっていいやな」と許した。途端にまた”ぶうっ”。「お前は疑り深いからな」。

上記原話
 馴染みの床で、”ぶつ”との取りはづし。女郎ぬからぬ顔で、「必ず笑いなんすな。わつちやア、ぬしを客衆だとは思ひんせぬ。やつぱり亭主だと思いんすによつて、こんな恥づかしい事をしんした。必ず悪しく思つてくんなんすな」、「なに、おれが悪く思ふものか。そふ心に隔てのないが、やつぱりありがたいわな」、「そふ言つてくんなんすりやあ、わつちも嬉しいけれど」といふ口の下から、また”ぶつ”と放(ひ)れば、客「ハテ、疑ひ深い」。
 「落噺・下司(げす)の知恵」より”馴染み”。 天明8年(1788)刊 北尾政美画 
2012.10.追記

■その四、「四宿の屁」の中で、円生は自分の事だと断りながら・・・、満員電車の中でたまらず出てしまった。幸い音がしなかったが、間もなく臭ってきた。隣にいた職人風の人達が「臭い臭い」と騒ぎ出したので、黙っていると犯人のように思われるといけないので、「臭い臭い」と自分も言っていた。電車も空いてきたので場所を変わろうとして移動した。すると先ほどの職人の一人が言った。「おい、屁が歩いていくぞ」。

■その五、「可哀相だよズボンのおなら 右と左に泣き別れ」

■その六、八代目文楽や橘家円蔵などが泥棒の話をする時、マクラに使っていたもの。
 浅草寺のお賽銭を盗み出した泥棒君、裏から逃げればいいものを正面から逃げた。仁王門まで来た泥棒を怒った仁王様が捕まえて、グイと足で踏んづけた。腹を踏まれた泥棒君、よほど切なかったとみえて、一発おならを”ブイ”。仁王様は鼻を背けて「クセエ奴だ」、泥棒君あわてず「臭う(仁王)か」。

 

2.噺の中に出てくる四宿
 江戸を中心に”四”街道の最初の宿場です。宿場と言っても実際は飯盛り女という名の遊女を置いた岡場所であった。吉原は公認の場所で、格式も品格も高かったが、岡場所はそれに対して気安く遊べたので人気があった。

品川新宿(品川区北品川〜南品川。東海道)
 
第5話「居残り佐平次」、「品川心中」で紹介、歩いた所です。

新宿(新宿区新宿。甲州街道)
 
第8話「文違い」で紹介、歩いた内藤新宿です。

板橋宿(板橋区板橋〜仲宿〜本町。中山道)
 
第6話「阿武松」で紹介、歩いた所です。

千住宿(荒川区南千住〜足立区千住。日光街道)
 第7話「藁人形」で紹介、歩いた所です

 

3.肥船
 肥桶を積んで運搬する船。こやし船。落語「汲みたて」で説明しています。

若い衆(わかいし);遊郭の見世で客引きからお客に値段の交渉、女性の吟味、面倒までみる男衆。立て込んでくると見世の中の細々した事まで手伝った。ぎゅう (妓夫、牛太郎)遊郭の若い衆(使用人)。年の若い男や、若者、あんちゃん、などではありません。

小職(こしょく、こじょく);娼家で使う女児。禿(かむろ)。花魁見習いの女児。
”おしょく”と発音すると”御職”のことで、意味が違ってきます。御職とはその遊女屋で一番上位の遊女の事を指します。初めは吉原に限られたが、後には岡場所でも言った。板頭=その見世のナンバーワン。

 

4.浅草寺、山門「宝蔵門」、一般に「仁王門」と呼ばれます。
  現在の門は昭和39年大谷米太郎夫妻の寄進により再建されました。(総工費1億5千万円だった)
・鉄骨・鉄筋コンクリート、入母屋造り、本瓦葺き、高さ22.7m、間口21m、奥行き8m、東西を5つの間に分け、左右の間に仁王像が安置され中央の3間が参詣人などの通行用です。
・仁王像:制作は錦戸新観(左、”あ”と口を開いている阿形(あぎょう)像)・村岡久作(右、”ん”と口を閉じている吽形(うんぎょう)像)両仏師の彫刻により、大相撲の北の湖現理事長が入門間もないころと吊出しが得意技だった明武谷をモデルに制作されました。総檜造り高さは5.45mあり、重さおのおの1トンあります。
阿吽とは、出す息と吸う息のことで、ここから「阿吽(あうん)の呼吸」と言います。

     

・上部に見える「浅草寺」の扁額は、京都曼殊院門跡天台座主良尚法親王の書(元禄5年)の模写。
・中央の「小舟町」の提灯は日本橋小舟町奉賛会より昭和63年10月に奉納され架け替えられたものです。
 長さ:3.7m、直径:2.8m、重さ:600kg
 提灯の上部に小舟町から提灯を寄進することになったいきさつが記されています。それによると「本堂の落慶30年記念開帳を慶賀し、江戸時代貞享年間(1684〜1687)に寄進は始まる」ということです。この300年以上の小舟町の伝統を継承して今回も寄進されたということです。
・2個の吊灯籠は魚河岸講より、提灯と同じく昭和63年10月に奉納架け替えられたものです。
 高さ:2.75m、重さ:1000kg、銅製
この灯篭には寄進者である、講のメンバーである七つの水産会社・魚市場の名が記されています。
・門の裏には山形県村山市より奉納された、長さ4.5m、幅1.5m、重さ500kgの大わらじがあります。
この大わらじは、800人で1ヶ月かけて製作したものです。
 この門は、戦災で焼失した経堂に替わって、
国宝の「法華経」・重文の「元版一切経」・四天王などの寺宝を収蔵しているので「宝蔵門」と呼ばれています 。

「仁王・二王」 伽藍守護の神で、寺門または須弥壇の両脇に安置した一対の金剛力士。普通、開口形即ち阿形(あがた)を金剛像、閉口形即ち吽形(うんがた)を力士像と、また左は蜜迹(みつしゃく)金剛、右は那羅延(ならえん)金剛と分けて別尊のようにもいう。ともに勇猛・獰悪(どうあく)の相をしている。(広辞苑より)

 宝蔵門に収蔵されている重要文化財「元版一切経(げんばん_いっさいきょう)
浅草寺が所有する事になったいきさつ 「図説 浅草寺」より。
 
源頼朝夫人の北条政子が息子の頼家の追善供養のため、中国から取り寄せて鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納したものです。そのため5428巻の各巻に「鶴岡八幡宮」の朱印が捺されています。
明治時代になって「神仏分離令」が発せられ、焼却処分されるところを「高仲貞運尼(ていうんに)」が托鉢によって得た資金で買い求め、明治4年浅草寺へ奉納したものです。
 この「一切経」は180箱に収められ、鎌倉から品川までを船で運び、さらに大八車を使って浅草寺まで運ばれました。そのとき力を貸したのが「鳶の頭」新門辰五郎でした。
 太平洋戦争による戦災で「経蔵」は焼失しましたが、一切経は疎開していて難を逃れることが出来ました。
 貞運尼は1827年(文政10)下谷御徒町の生まれ、長唄の師匠から29才で出家し、本郷の喜福寺で修行、浅草観音に深く帰依していました。托鉢の時は三味線を弾きながら回ったそうです。


  舞台の四宿を歩く
 

  ご存じのように四宿は歩き済みですので、今回は伺いません。で、今回は浅草寺の仁王門を訪ねました。

 雷門 ここが浅草寺の正面玄関。慶応元年(1865)焼失した門を昭和35年5月、95年ぶりに松下幸之助氏(松下電器創業者)の寄進により再建された。 寄進のプレートが側面に貼られています。「風神・雷神像」、「天龍・金龍像」を奉安する。大提灯は幅3.4m高さ4m重さ670kg有る。 風神・雷神から、雷門と呼ばれます。

     

 仲見世 雷門から宝蔵門までの参道の両側にある、土産物店街。本堂に行くにはここを通ってお詣りをする。何時も人通りが絶えない。

 宝蔵門(仁王門) 昭和39年4月に落慶した。前仁王門(昭和20年3月10日戦災で焼失、国宝)を大谷米太郎氏(ホテルニューオータニ創業者)の寄進により再建された。二層目には重要文化財の「元版一切経」を納めてある。仁王像は5.45mあり、大提灯、吊り登楼、大ワラジは人目を引く。 宝蔵門の正面が本堂です。
 ここの仁王に泥棒が捕らえられ踏みつぶされた? へ〜!

 浅草寺本堂 宮戸川(隅田川)より取得された聖観音像を奉安したことを起縁として創建された浅草寺は、幾多の興廃消長の後、天台宗総本山である比叡山延暦寺の直末ととなり、現在は聖観音宗総本山として独立しています。山号は金龍山、別名は浅草観音、本坊を伝法院といいます。江戸時代には庶民の信仰を集め屈指の寺院となり、庶民文化の発祥の地となりました。何時行っても大変な人出です。

 

地図

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写真

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雷門
名物の中央に掛かった”大提灯”は修理のため外されています。間の抜けた門になっています。写真にならないので、この部分だけは1ヶ月前に撮ったものを使っています。

  

仲見世
雨の仲見世です。雨も風情があります。昼間なのに既に看板には電気が入っています。正面に見えるのが宝蔵門です。
 

  

宝蔵門(仁王門)正面
左右に並んだ仁王様は本文を参照。6本並んだ柱の1〜2本間と5〜6本間の間に有ります。

宝蔵門(仁王門、右写真)裏側
雨の中、修学旅行生が見学しています。鳩と戯れ「キャァ、キャ〜」と騒いでいます。

  

浅草寺本堂
雨の日でも参拝者は絶えません。

                                                        2003年5月記

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