落語「王子の狐」の舞台を歩く

  
柳家小さんの噺、「王子の狐」によると。

  ある男が王子の原で、狐が若い娘に化けるのを見た。誰を化かすのだろうと、周りを見回すと自分一人しかいない。化かされるくらいなら、こちらから化かしてやろうと算段し、「お玉ちゃん」と、声を掛けて料理屋”扇屋”に入る。二階の部屋に入り上座に座らせ、あぶらげでなく天ぷらを注文。男は刺身と酒を頼んで、差しつ差されつやっているとお玉ちゃんは安心して酔いつぶれ、床の間を枕に寝込んでしまう。見計らった男はお土産の卵焼きをもらって、ドロンしてしまった。
 だいぶ寝込んだお玉ちゃんを起こしに行った女中が、お連れはもう帰ってしまったし、お勘定はあなた様からもらえと言われたと告げると、ビックリしたお玉ちゃん、尻尾を出してしまう。それを見た女中はもっと驚いて、階段を股が裂けるほどの勢いで飛び降りてご注進。みんなで上がって見ると狐が考え込んでいた。部屋の狐をとっちめてやろうと 棒きれを持って飛び込むと、狐は必死に逃げ回り追いつめられると、”狐の最後っぺ”を発射して這々の体で逃げ延びた。
 そこに主人が帰って来た。この話を聞いて、「お稲荷さんのお使いに何と言うことをしたのだ。誰のおかげで、この店があるんだ。厄払いにお稲荷さんにお詫びに行くぞ」。

 話変わって、化かした男は友達の家に扇屋の卵焼きをお土産に持って行く。事の次第を話すと、友人は「狐は執念深い。そんなたたりのある物は貰えない」と、脅かして帰す。家に帰ってきたが 、家族に異変が無く、たたりも何事もなかったので一安心。
 翌日、謝りに狐と会った所に手土産を持って訪ねると、子狐が遊んでいた。子狐に事情を話し、お詫びの印だと土産を渡す。
 さんざんいじめられて苦しんでいる母狐に、今人間がきて謝りながらこれを置いていったと渡す。「人間て執念深いんだね」と警戒しながら開けてみると、美味しそうなぼた餅が出てきた。子狐は盛んにほしがるが、母狐は「いけないよ。馬の糞かもしれない」。

 


1.扇屋(北区岸町1−1−7)
 
この噺の舞台です。今は5階建ての扇屋ビルで飲み屋さんや歯医者さんや食べ物やさんが入っています。2階が扇屋さんの入り口です。
 店のパンフレットによると、扇屋は慶安元年(1648)三代将軍家光の時代に初代弥左衛門が農業のかたわら掛け茶屋をしていたのが始まりでそれから当代で十四代目(早船武彦 氏)になります。江戸時代になると文人墨客の筆や「江戸名所図絵」「江戸砂子」 江戸土産、錦絵などに書かれるようになりました。
 「寝ぬ夜のすさび」と云う古書に料理屋の折り詰めは扇屋より始まれりと書かれてあり、扇屋名物玉子の釜焼き折り詰めに江戸時代のこと故、硫黄の付いた「つけ木」をさし添えて狐に化かされないまじないにしたと云うことです。
 また、明治天皇が休息に二度の来店をしたという。

 北区飛鳥山博物館の資料から、「王子の名料亭」として、次のように解説されています。
 
飛鳥山が江戸の花見の名所となり、さらに江戸で王子稲荷信仰が盛んになるにともなって「遊歴雑記」初編に、「この辺りかじけたる辺鄙(へんぴ)ながら、王子稲荷の門前より飛鳥山の麓までその間凡(およそ)四町余、茶店おのおの軒を同ふし、繁花(はんか)の土地にも劣らぬ」とあるように、飛鳥山から王子稲荷への参道沿いに、料理屋、茶店が建ち並ぶようになっていき、江戸の市中と変わりのない程に、王子・飛鳥山の地は繁盛していきました。
 王子の料理屋としては海老屋、扇屋がよく知られています。立派な望楼をもち、石神井川
(音無川)をはさんで向かい側に庭園を持つ料理屋として料理番付にも、たびたび登場したほどです。
 こうした料理屋ができるまえは、「王子の茶店は菜めし田楽のみにて、青魚に三葉芹の平皿にもりたるのみ」であった状態が、文化年間(1804〜18)になると、「今は海老屋、扇屋などといふ料理茶屋出来て、其余の茶屋も其風を学ぶ事となりぬ」(大田南畝)というように、料理にも工夫がこらされていきました。

 ここに出てくる「海老屋」は扇屋の兄弟が隣でやっていて、番付では扇屋よりも常に上位に付けていたが、今はもう無い。
図版;江戸百景より「王子料理屋河辺の宴席」 料理屋の前を流れる音無川は小石まで綺麗であったと言われる。
写真;北区立郷土資料館絵はがきより 「明治末期の扇屋と音無川」 08年10月追記

 2008年10月現在、扇屋さんは料亭の店は閉鎖してしまいました。扇屋ビルは健在で、その1階入り口に一坪ぐらいの卵焼きコーナーを設け、お土産だけ販売しています。高島屋・新宿、日本橋で同じ物が販売されています。


2.王子稲荷
(北区岸町1−12−26)
 正式には王子稲荷神社。ここは関八州の稲荷の総司で、今から約一千年の昔「岸稲荷」として、祭神「稲荷大明神」を祀った。広重の「江戸名所図絵」にも描かれている。
 ”装束の榎まで持つ王子なり”  (東鳥)  と言う句もある。


3.音無川
 
扇屋の脇を流れる川で、上流は滝野川そのまた上流が石神井川と名が替わります。落語「阿武松」で紹介した、板橋宿の名の起こり”板橋”が掛かっていた川が、この川です。石神井公園を経て東京都の最西・奥多摩まで続いています。下流はすぐそこの隅田川に合流します。
  扇屋さんの前の川は親水公園で江戸時代をイメージして昭和63年に創られたもので、せせらぎも湧き水を利用してポンプによって循環しています。本流はその前の都電が走る明治通りの下をトンネルで抜けて 、隅田川に合流します。
 江戸時代には渓谷の美しさは素晴らしく、いくつかの滝が流れ落ち、川の水は綺麗でその水で点てたお茶は最高であったと言われています。

写真;音無橋から観た音無川の清流。正面のビルが扇屋さんの建物。その先にJR王子駅があります。右側飛鳥山、左側王子神社。
2008年10月追記。



4.名主の滝(公園)
(北区岸町1−15)
 王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培し一般の人々が利用出来るようにしたのが始まりで、名称もそれに由来しています。この時期は定かではありませんが、實永3年(1850)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた女滝男滝がここのことで、それ以前の事と考えられます。その後、 所有者が何回か変わって、整備され今のようになりました。(入り口の立て看板より)
 

5.飛鳥山公園(北区王子1−1。JR王子駅前)
 
JR王子駅の西側にある小高い丘になった公園です。落語「花見の仇討ち」の舞台で紹介した公園がこの飛鳥山公園です。
 ここから見る音無川はずーっと下の方にあります。(親水公園の場所は分かるが深くて見えない)そしてその向かいに扇屋があり、権現(王子神社)の山がこちらと同じ高さにあります。音無川が谷を作って流れ下って行く様子が手に取るように分かります。


6.装束稲荷
(北区王子2−30)
  広重の「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」でも紹介された稲荷。大榎(おおえのき)のもとに大晦日の夜に数百の狐が集まって、狐火を燃やす。農家の人々はその狐火の数を読んで、数の多い時には来年は豊作であり、少ない時は稲作の出来がよくないと占ったという。ここに集まった狐は装束を改めてから、王子稲荷に集まった。広重の作としては妖気漂う珍しい絵であるが、亡くなる1年ぐらい前の作品です。
 元々の位置は3〜40m先の北本通りのバス停「王子二丁目」(王子1−14−4前)に有ったが、榎が枯れたのと道路拡張で現在地に移転した。

 左図は王子装束ゑの木「大晦日の狐火」広重画です。
榎の回りに集まる狐たちと、右前方のこんもりした森の中にある王子稲荷に列を作って歩き始めている狐たちを描いています。

 東京・北区装束稲荷はこの絵の榎の場所にあります。ここに毎年大晦日の夜に関東一円(いにしえの東国33国のこと)の狐が集まってきます。ここで装束を改めた狐たちは関東総鎮守の王子稲荷に参拝に出掛けます。その狐火が見られたと言います。
 その伝承にならい、毎年大晦日の24時(元旦0時)に狐の扮装をした地元有志が集まって、200数十人の列を作って王子稲荷に参拝に出掛けます。
 この中の何人かは人間に化けた本物の狐だと言われています。
左図をクリックすると当夜の写真集になります。 


■この落語は典型的なPR落語のひとつです。料亭”扇屋”の広告のような噺です。この他にもPR落語にはいくつか有って、紹介済みの「百川」も日本橋にあった百川楼のPR落語だと云われています。他には「なめる」の薬屋の宝丹などがあります。放送でながす噺の中ではスポンサーの名前を入れて”ヨイショ話”を作っていることが多々あります。


 舞台の王子を歩く

  JR王子駅北口を出て西側に出ます。(目の前のラブホテルには入らずに)JRと平行した商店街森下道りのスタート地点に”割烹王子 扇屋”のビルが建っています。隣に音無川の再改修された公園があります。本流の音無川は明治通りの下をトンネルでJRを横切り、その後都電の線路と平行して流れてゆきます。公園の音無川はポンプで湧き水を循環させて清流を再現しているものです。扇屋さんはその音無親水公園とその先の飛鳥山公園を借景にして建っています。今日は七五三の参拝客が多く見受けられます。その家族連れが扇屋さんを利用していますので大盛況で、 天ぷらで食事をしたかったのですが、卵焼きをお土産に買い求めただけで早々に退散してきました。この店は二階が入り口なので、股が裂けないように階段を一段づつ下りてきました。
 あとでお品書きを見ると、「江戸会席」コースで、昼が6,000円、夜は8,000、10,000、20,000円以上となっていました。私は・・・?、連れのお玉ちゃんが居なかったので・・・、う〜、ラーメン+ビール。嗚呼。

 戻って、森下通り商店街を北の方に向かって歩き始めますと、4〜5分でピンク色の”いなり幼稚園”が左手に出てきます。その園内というか境内を横切って”王子稲荷”の正面階段を上ることになります。丘の斜面を利用した煌びやかな本殿が建っています。流石に使い姫の狐が狛犬のように至る所に建っています。参拝後本殿の右脇を抜けて丘を登ると本宮があり、またその奥の階段を登ると、そこに”狐の穴跡”が有りました。実際に 過去何組かの狐が住んでいて、その内の一つの穴跡だそうです。これが化かし損ねたあの母狐一家が住んでいたのでしょうか?

 森下通りに戻り、その先に進みますと、すぐ同じく左手に北区立”名主の滝公園”が現れます。小さんもマクラで言っている名滝があります。うっそうとした木立の中に丘の斜面から吹き出す滝が3〜4ヵ所、見事な造園の中で水しぶきを上げています。回りでは家族連れがお弁当をひろげています。何とも 静かで良い景色の日本風庭園です。

 JRを横切って北本通りに出ます。信号を渡った先 、王子2−30は表通りからほんの一つ入った裏角に有りました。そこに”装束稲荷”がこぢんまりと建っていますが、町の有志に守られて、赤い幟が沢山はためいています。社の扉の前には真新しい油揚げが供えられていますし、掃除も行き届いています。道行く人も素通りせずに軽く会釈をして通り 過ぎます。町の中で大事にされている様子が伝わってきます。毎年、狐が装束を改めてここから王子稲荷まで行くことに因み、大晦日から元旦に掛けて氏子が行列を再現しているそうです。 本当は人間の形をした”狐”かもしれません。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

扇屋
 
割烹ですから料理が有名なのは当たり前ですが、特に”玉子焼き”が有名です。私が買ったのはお寿司屋さんが使う様な厚焼きです。また、予約の必要なこの店独特の”釜焼き”と言うのがあります。これは直径20cm位の厚いケーキ状の玉子焼きで、 蝋燭を立てるとバースデーケーキのようで、ケーキカットして数人で食べないと食べきれないものです。どちらも味は甘みの勝った玉子焼きです。

王子稲荷
 
正面階段の下に対になった、お使い姫の狐の一方です。本堂の脇にある狐は鍵をくわえています。ここから蜀山人は
「いざあけんゑびや扇屋とざすとも 王子の狐かぎをくわえて」と、詠んでいます。

広重画 浮世絵
 
「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」
 「王子道狐のよめ入」

装束稲荷
 
真紅に塗られた社、その正面に飾られた一対の狐面。なんとも遊び心とセンスがあって顔がほころびます。その前の、賽銭箱の上にはつい今し方供えられたのであろう”油揚げ”が乗っていました。装束稲荷 が生活の中に溶け込んでいる様子が良く分かります。

名主の滝(公園)
 
昼なお暗い木立の中の滝。男滝、女滝などが有って、その流れは川になり、池に集まってきます。あまり入園者も居ないようで、この景色全部が自分の為にあるような贅沢さを感じます。
 ここも、自然水が枯渇してしまい、今は水を循環して景観を保っています。

                                                        2001年11月記

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