落語「穴泥」の舞台を歩く

  
 

 八代目桂文楽の噺、「穴泥」によると。
 

 『油断せぬ、心の花は暮れに咲く』。うまいことが言ってございます。人間てぇものは普段が肝心だってぇ事を言いますがそれに相違ございません。

  暮れも押し詰まって、金の算段に出かけたが手ぶらで亭主が帰ってきた。たった3両が出来ないのかと、女房にさんざん毒づかれ喧嘩して飛び出してきたが、その算段は出来る訳はない。あてもなく歩いていると立派な蔵が有る商家の庭先に出た。奉公人達がそろって遊びに出かけたが、裏木戸がバタンバタンしているので、教えてあげようと庭先に入り、部屋うちを覗くと宴会の後と見えて料理が沢山残っていた。「こんにちは」と言いながら上がり込んで、冷や酒や残りの料理に手を付け始めた。朝から何も食べていなかったので、気持ちよく食べ飲んだ。ここで、この家の人に見つかったらなんて言おうかとか、やな女だが嫁に来たてはいい女であったとか一人酒をしているまに酔ってしまった。

 やっと一人歩きができる程の子供が顔を見せた。あやしながら後ずさりをしていると、踏み板がずれていたので、穴蔵に落ちてしまった。「だれだ〜、俺を突き落としたのは、何を盗んだ〜」、大きな声でわめいていたので主人が出てきて、事の一件を悟って、泥棒だからと頭 (かしら)を呼びに行かせる。あいにく頭は出かけて居ず、留守番の”平公”が駆けつけてくれた。
 あっしの背中はこっちが上り龍でこっちが下り龍、泥棒なんか怖くはないし、ふんじばって叩き出しちゃう。頼もしそうな平公ではある。子供のお祝いの日だから縄付きは出したくない。お前さんが中に入って泥棒を抱き上げて欲しい。
    平公「えぇ? まだ、中に居るんですかぃ。(泥棒に向かって)これから降りていくからなッ」
    泥棒「降りて来い。ふくろっぱり(ふくろはぎ)を食い千切るからな」
    平公「旦那、ここは柔らかいから・・・」、上り龍も下り龍も見かけに寄らず、からっきし意気地が無かった。
    旦那「1両やるから、降りてくれ」
    「金なんか関係ないが、降りていくぞッ」
    「降りてきて見ろ、股の間にゲンコツで急所を突き上げるからな」
    「旦那、ああ言ってますよ」、怖じ気づく平公。益々泥棒君のペースに。
    「それでは、2両だすから」
    「金の問題ではないが、これから降りて行くからな」
    「降りて来てみろ。両足をピーッと引っ裂いちゃうから」
    「旦那、あんな事言っていますよ」
    「それでは、3両あげましょう。それで降りておくれ」
    「旦那が、3両下さるのだ、今降りるからな」
    「なにぃ〜、3両ッ! それなら俺の方から上がって行く」。



 古今亭志ん生はこの話の主人公の様な貧乏な実生活を送っていて、それを売りの一つ(?)にしていて、暮れにはよくこの話を高座に掛けていた。志ん生が出番が無いにもかかわらず、寄席に顔を出してこの噺を高座に掛けていたのには円生初め楽屋連が大笑いをしたというエピソードが残っています。あまりにも生々しいので、格調高く(?)”文楽”の噺を下敷きにしました。

  江戸時代の日常の買い物は現金払いではなく、月払いのカード払いであった。カードはジョークですが、月末払いの掛け売り(買い)で、月末には精算された。それが出来ないと、盆暮れに精算された。暮れは勘定取りが1年溜まった勘定をどんな事があっても集金して歩いた。川柳にも、
    「大晦日首でも取ってくる気なり」と意気込めば、
    「大晦日首でも良ければやる気なり」と丁々発止の対決になる。
しかし、 時間は止まらないので、
    「越すに越されず、越されずに越す大晦日」と言う事になります。鐘が鳴り始めれば、新玉の新年。あと半年(?)は大丈夫。

 落語にも、大晦日をどうやって取り立てから逃れられるか、撃退するかという、涙ぐましい噺が沢山あります。
円生「掛け取り万歳」、志ん生「言い訳座頭」、小さん「にらみ返し」など有ります。みなさん楽しんで演じていました。  

 

1.穴蔵
 文楽が言うには大きな商家には床下に穴が掘ってあって火災の時はそこに品物や掛け取り帳などを投げ込み水や砂を張って逃げ出した。それによって焼けてしまう物もあるが助かる物も有った。

 日本橋一丁目穴蔵遺跡。防水のため分厚い木材が使われ、構造も精密であったことがうかがわれる。

 旧東急デパート新館(白木屋)跡、旧・万町(よろずちょう)の位置の発掘調査が行われ、その途中経過状態(18世紀中ごろの発掘面)が平成13年5月27日に一般公開された時の写真。

資料;1.三十二回江戸遺跡にみる町屋の下水―日本橋の町屋を中心に」東京都中央区教育委員会 仲光克顕氏


資料; 2.中央区教育委員会 社会教育課文化財係、日本橋一丁目遺跡調査会
http://mediaport.on.coocan.jp/kandagawa/bridges/nihonbashi_iseki.htm より参照
写真、資料掲載を心優しく許諾していただいた、東京都中央区教育委員会 仲光克顕氏に感謝します。

 京橋二丁目5番地穴蔵遺跡。(日本橋と銀座に挟まれた町)において13年9月17日より日本橋一丁目に続いて、遺跡発掘調査が行われました。

 土自体はあまり固くないので木で囲い壁を作った。穴蔵は船大工の技法で木を組み水の浸入を防いだ。

 火事が多かった江戸では、万一の際に家財を守るために、江戸城、大名屋敷や商家で多数の「穴蔵」を建造していた。下町、低湿地と山の手、台地で穴蔵の作り方がまったく異なり、日本橋(下町)は船大工の工法が生かされていることがよく分かる。大店 (おおだな)では奥と店とで2ヶ所以上の穴蔵を持っている所もあった。また交易で地方からの特産品を扱う商家は蔵を分散して建設し、一つが焼け落ちても残った蔵で商売を続けた。どちらにしても『火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞』と言われるぐらい、火事の多かった江戸では必需品であった。火災保険のない時代、焼け出されると全ての家財、商品が失せてしまう。庶民とすれば火災からそれを守る最低限の防衛であったのでしょう。

 両写真ともずいぶん深い所に掘ったとお思いでしょうが、それは間違い。当時火災が出ても残土などは片さづ、地ならししてその上に土を被して平地とした。その為、当時の地面より数メートル地盤が持ち上がっています。

 穴蔵の大きさは畳2枚分から4枚分位まで、深さは3尺(0.9m)から約1間(1.8m)といろいろあった。山の手では地下水位が低かった(水が出ない)ので、地下の壁面を石組みにしたりして、乾燥状態の室が出来た。この地下室は麹室 (こうじむろ)や野菜栽培(ウド)室として常時使われた。反対に商家の多かった下町では地下水位が高かった(掘れば直ぐ水がわいて出た)ので、防水の必要性から、木組みの船板構造がとられた。これは穴を掘って回りを板で土止めを施し、四角い木製風呂桶のような物をその中に作った。底の部分に粘土を詰めて、もう一回り小さい風呂桶状の物を入れ、2ヶ所の壁の隙間に同じく粘土を入れる。これで、防水性が一段と向上した。このままでは、天井がないので横板を渡し、入り口を残して土や砂で覆った(左図 。古泉弘/著『江戸の穴』(柏書房)より)。出入りにはハシゴが使われ、防水性が高いと言っても漏水してくるので日常では使う事が出来なかった。
 この噺の穴蔵は防火金庫のような物で、緊急時(火災)に使われた。使い方は、火災が近づいてきたら、まず中に溜まった水をかき出し、家財や貴重品、商品、帳簿類を投げ入れた。続いて、蓋をして砂などを掛けて水を含ませ、その上に水を張った桶を並べて逃げた。

 吉原の遊郭にも穴蔵はあったのですが、ある楼主が品物が助かるぐらいだから、人間だって助かるに違いない。と火事の時に遊女と一緒に穴蔵に入って蓋を閉めさせた。火事が収まって、蓋を開けると・・・、その時の説明文に『・・・、夫(それ)魚ハ水中に居て水をしらず 人ハ気中に住して気をしらず・・・云々』と書かれています。当時の記者も勉強家であった。道元の「正法眼蔵・現成公案」からの引用です。当然、全員死んでいました。

(図版;小学館『大系日本の歴史10』(江戸と大坂)の押し絵から。都立一ツ橋高校(千代田区東神田1−12)発掘調査からの作図。文;『江戸の穴』、東京都教育庁文化課学芸員・古泉弘著 柏書房から要約 。またこの本に穴蔵について詳しく記述されています)

 

2.菊屋橋の大店(おおだな)
 
文楽も志ん生も円生、小さんもみんなここの大店の場所を特定していませんが、彦六の正蔵は菊屋橋の大店と言っています。場所の特定だけに彦六の噺から取り上げます。

 菊屋橋(台東区) 今は無い旧町名で菊屋橋があったが、今の元浅草の東側と寿の西側がそうであった。
落語「富久」の幇間の久蔵や「柳田格之進」の浪人柳田格之進と娘きぬと二人が住んでいた裏長屋は西半分の浅草 阿倍川町とその前は言った。 最近まで長屋が多くて職人の町であった。
 JR上野駅と隅田川駒形橋のちょうど真ん中あたりです。菊屋橋は江戸時代、南北に走る新堀川に架かる橋で近くにあった菓子屋「菊屋」にちなんだという。今は新堀川は埋め立てられて、合羽橋商店街通りになっています。川が無くなったので橋もありません。この川は南下して鳥越川に合流し、東におれて隅田川に流れ込んでいます。その途中に落語第51話「後生うなぎ」で紹介した、天王橋が有ります。

 菊屋橋の北に合羽橋道具街が有ります。約1qの通りの両側に日本でも有数のありとあらゆる厨房用品、道具が売られています。名前の合羽橋も新堀川に架かった橋で、おもしろい話が残っています。
 ”かっぱ伝説” ある日、雨合羽職人の合羽屋喜八、通称合羽川太郎は近所の子供たちがカッパの子供を捕まえていじめているのを見て、銭をやって逃がしてやった。そのカッパは大きくなって隅田川に住みついた。この地域一帯は低地帯で雨が降るたびに北側の吉原田圃の水があふれ出し困っていた。文化3年(1804〜1817)、隅田川に住む河童の助けをかり、全財産を使い果たし、やっと新堀川(現合羽橋道具街の通り)を開いたとの伝承があります。 近くに通称「かっぱ寺」(曹源寺)があります。

 

3.頭(かしら)
 平公が居候している頭とは鳶(とび)の頭の事で、東京タワーを組んだのも、明石海峡大橋を架けたのもみんな鳶さんです。一般建築でも柱や鉄骨、足場を組むのはみんな鳶の仕事です。私が見る分では建築業界で普段一番歩き方の上手な職人さんは”鳶”です。能舞台を歩く狂言師や歌舞伎役者が摺り足のように乱れなく歩く歩調、また落語家では八代目文楽が舞台に出てくる様がこの様でした。見ていても気持ちが良くなる位の素晴らしさです。本人に聞くと「エェ」というだけですが、高所で安全に体を移動させるにはこの動きが一番無理がないのでしょう。そー、猫が垣根の上を歩いている様がこれです。
 鳶とは町火消しです。火消しの財源は各町会持ちです。大店は沢山の資金と盆暮れには着物や半纏を送り、ご祝儀も弾んでいます。町内で冠婚葬祭や、もめ事、雑用があれば、お返しに”ひと肌”も二肌も脱ぎます。ひとたびお店に何かがあれば呼び出されますし、喜んで飛んできます。
 今回は頭が留守で代役の子分がやってきましたが、見るからに勇みな奴ですが、からっきし意気地無しでした。

 


 

  舞台の菊屋橋を歩く
 

 菊屋橋の北側は料理関係の道具は何でもそろう街です。厨房セット、店舗家具、料理道具、食器、料理サンプル、白衣、看板、籏、暖簾まで、ありとあらゆる品々が並んでいます。プロだけではなく、主婦も買いに来ます。暮れの日曜日でも沢山の人出が見受けられます。
 菊屋橋の南側は旧町名で「菊屋橋(町)」と呼ばれた所です。今はごく普通の町並みを見せています。町の中に入っていっても、菊屋橋の町名に関するものは見あたりません。それよりは明治から昭和にかけてこの町の西半分(元浅草の東側)を浅草 阿倍川町と言った。前にも書いたとおり、落語界の貧乏人が長屋に住んでいた。反対の東半分(寿の西側)に蔵が建つ大店が有ったのでしょう。ここからみても、今はその雰囲気はありません。

 

地図

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写真

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菊屋橋交差点
菊屋橋交差点から見た菊屋橋(町)の町並み。
左が浅草寺方向、右側がJR上野駅方向です。

菊屋橋・合羽橋道具街入り口
菊屋橋交差点から北側にこの道具街が始まります。
コーヒーカップの階段踊り場が付いたビルが目を引きます。反対側にはコックさんの帽子をかぶった、「大きな顔のディスプレー」が屋上に乗っています。

合羽橋
菊屋橋から歩いて中程に、合羽橋交差点があります。ここに新堀川に架かった橋、合羽橋が有りました。
今は、新堀川は埋め立てられて道路になり、川も橋も有りません。

                                                                                                             2002年12月記

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