落語「佐々木政談」の舞台を歩く

  
 三遊亭円生の噺、「佐々木政談」によると。 

 

  嘉永年間に南の町奉行へ、佐々木信濃守と言う方が職につきましたが、調べのお上手な誠に活発な方で、賄賂、これはどうも甚だ良ろしくない風習であるから、こういう事は、絶対に止めさ せたいがどうも、正面を切って賄賂(まいない)を取るなとも言えないから何か、意見をする様な事は無いかと、御非番の時には色々、姿を変えて町を見回ると言う。
 今日も、田舎侍と言う出で立ちで小紋の短い羽織を召しまして、三蔵と言う伴を一人連れて役宅、只今あの朝日新聞の本社がございます、えー数奇屋橋御門口と申します、あれから銀座に出て来たんで、別に銀ブラをしようなんてぇ訳じゃ無いんでしょうが、あちらこちらと町の様子を見ながら歩いていると、子供が大勢ぞろぞろぞろぞろ、手習いの帰りと見えて、二人の子供が両手をこう結わいられて。縄を持った子供が手先と見えましてね。先へ棒を持った者が立って、「ほうほう寄れ寄れ。これこれ、邪魔だ邪魔だ寄れ寄れ」と、奉行ごっこが始まった。

 四郎ちゃんが奉行でござを轢いてお調べに入った。立ち見している佐々木信濃守と同じ名前で始まったが、邪魔だとその本人を追い立ててしまう。
 お調べは頓知頓才で一件落着。子供達は明日も四郎ちゃんが奉行でまたやろね〜、と解散。見ていた佐々木信濃守は親、町役同道で南町奉行に出頭しろと三蔵に言いつけた。
 この話を聞いた親の桶屋高田屋綱五郎はびっくり、家主太兵衛をはじめ、町内もひっくり返る様な騒ぎになった。

 青い顔の親父を筆頭に全員白州の上に控えていると、佐々木信濃守が着座。みんなビクビクの中、お調べが始まった。四郎吉の遊びの中の裁きが良かったと褒めるが、そんなのは上から下を見ながらだから簡単だという。
 「これから奉行の言う事に答えられるか」、「上下に座っていたのでは位負けするので、そこに並んで座れば答えられる」、許しが出たので並んで座る。
「夜になると星が出るが・・」、
「昼にも出ているが、見えないだけだ」と、まずは一本取られる。
「その星の数が判るか?」、
「このお白州の砂の数が判りますか?」、「何故」、
「手に取れるものの数が判らないのに、手が届かない空の星の数など判らない」、
また一本。
「しからば、天に昇って星の数を数えている間に、白州の砂の数を数えておくが、如何か」、「そんなの訳無しのコンコンチキ」、「訳無しのコンコンチキ?」、
「初めて行くので、宿屋切手と案内人を付けてください」、
またまた技あり。
褒美にと三方の上に饅頭を山積みして、食べても良いと差し出す。
「何かを買ってくれる母親と、小言をくれる父親とどちらが好きか?」、
「こーやって、二つに割った饅頭、どちらが美味いと思いますか?」、
「う〜ん」、 「これが頓知頓才」。
「四角くても三方とは?」
「一人でも与力と言うがごとし」。
「では、与力の身分は」、
懐から起きあがり小法師を出して「これです」、「これとは?」、
「身分は軽いが、御上のご威勢を笠に着てピンしゃんピンしゃんと立ちます。その上、腰の弱い者です」。与力は下を向いてイヤな顔をしている。
「それでは与力の心はどうか」、
「天保銭を貸してください」その銭を、起きあがり小法師にくくりつけて放り出した。
「銭のある方に転がっている」。ひどいすっぱ抜きで、与力が驚いたり、怒ったり。
「座興で、嘘だ」と、座を納める。

 綱五郎そちは幸せ者である。これだけの能力を桶屋で果てさせるのは惜しい。15才までそちに預けるが後は私が召し抱えて近従にさせると言う。出世の道が開けたという、佐々木政談でした。

 



1.三遊亭金馬はこの噺「佐々木政談」を「池田大助」の別名で演っています。ギャグも内容も全く同じですが、主人公の奉行は大岡越前守になっています。子供は”大ちゃん”の池田大助です。 池田大助は大岡越前の第一秘書(?)に成った人だと言われています。元々は上方の噺なので固有名詞が変わってもおかしくないでしょう。 この噺のギャグは一休さんのパロディーだと言われています。

 この噺のもう一つの主題は余録です。付け届けは与力、同心に公然と行われていた。諸藩の大名を筆頭に町々からも、「いつもお世話になるから」と、年中付け届けが絶えなかった。裏からそっと出す者や大名などは公然と奉行所に進物として届けていた。後で筆頭役が各自に分配したが、多い時で与力一人に1年で三千両もの大金が分配されたという。すごい別途収入です。その他に拝領地を又貸しして、地代まで入った。

池田大助
 
池田姓の奉行には池田播磨守頼方がいます。嘉永5(1852)〜安政4(1857)と安政5(1858)〜文久1(1861)に南町奉行所に就任しています。が、この池田播磨守と池田大助は残念ながら別人のようです。
 

2.佐々木信濃守は静岡藩生まれで佐々木顕発(あきのり)と言います。非常にマイナーな奉行を主人公にしています。なので、詳しい経歴は判りません。佐々木信濃守は 祿高200石、嘉永5年(1852)より安政4年(1857)まで大阪東町奉行を5年間勤め、大阪から江戸に移り、作事奉行から北町奉行、西丸御留守居役から南町奉行に着きました。その後、外国奉行にもなっています。佐々木信濃守顕発の墓所は谷中霊園にあり、墓碑の正面には”従五位佐々木蘭斎之墓”と刻まれています。没年明治9年12月31日。
 奉行の在任期間は次の通りです。
   
北町奉行    文久3年 (1863)4月16日〜文久3年4月23日 (7日間)
    南町奉行    文久3年(1863)8月2日〜元治元年(1864)6月29日 (約11ヶ月)

 円生が最初に「嘉永年間に南の町奉行・・」と言っていますが、上記の年号から文久年間の誤りであるのが判ります。 大阪町奉行の時代は嘉永年間ですが、舞台が違います。
 

3.新橋竹川(たけかわ)町 (中央区銀座7丁目8〜10)桶屋高田屋綱五郎、伜四郎吉家主太兵衛、が住んでいた所。 銀座ですよ銀座、桶屋さんが、です。と思いますが、当時はそれ程でも無かったのでしょうか。

数寄屋橋御門口 (現;新数寄屋橋脇) JR有楽町前にある”マリオン”、元朝日新聞社が有った北側が、南町奉行所。その前にあった外堀に架かった橋が数寄屋橋。その橋前に御門が有って、数寄屋橋御門口と言った。数寄屋橋を渡ると、そこが今の銀座。当時の地名で元数寄屋町と言った。

 南町奉行所と職務について、及び数寄屋橋の写真は37話「三方一両損」で詳しく記述しています。
 

4.八丁堀の与力と同心組屋敷 (中央区八丁堀1〜2丁目及び日本橋茅場町1〜3丁目) 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
 八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた。江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織り姿で懐手、帯に差した十手の朱房も粋な庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
 初期には江戸町奉行板倉四郎右衛門勝重の配下として与力10人、同心50人から始まって後、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増員し、両町奉行所に別れて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300〜500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。
 これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、別途収入を得る為町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
(中央区教育委員会)

 八丁堀の現在地は中央区八丁堀1−3丁目です。南八丁堀が4丁目です。与力・同心組屋敷が八丁堀や茅場町に集中してあったのでしょう。 堀の八丁堀は街の南端に西の弾正橋から東の稲荷橋まで約八丁(870m位)あった。近年は”桜川”と呼ばれたが埋め立てられて桜川公園や都勤労福祉会館等がその上に建っています。
 


 

 舞台の数寄屋橋から銀座、谷中墓所を見て歩く

 有楽町駅前の”マリオン”北側、それが江戸時代に南町奉行所が有った所です。今の新数寄屋橋をくぐり(渡り、じゃないのが悲しい)、SONYビルがある数寄屋橋交差点を右に曲がり、銀座の街を斜めに歩いていきます。銀座は高級品を扱う店が多いのですが、画廊も結構目に付きます。7丁目に入ると裏通り(失礼)には飲み屋さんがひしめいてきます。飲み屋さんと言っても、赤提灯の様な店ではなく、高級(?)スナック等で敷居はたいそう高いのが通常です。表通りに出ると、ツンとすましたお店が続いています。銀座7丁目、ここが江戸時代”竹川町”と言われた所です。当然、悪ガキ達がお奉行ごっこをしている様な情景はどこにもありませんし、想像だに出来ません。 着飾ったご婦人方の姿が目に付きます。
 余談になりますが、隣の銀座8丁目のバス停に「天国前」が有ります。東京・銀座はスゴイでしょう、何でもあります。「てんごく前」??・・・?、ここはそんなスゴイ所なのか、と一瞬思いましたし、次は「地獄」・・?はナイでしょう。”天国前”は”てんくにまえ”と読んで、天麩羅屋さんの「天国=てんくに」を言っているのです。な〜んだ、と思いましたが最初に見た時は本当にビックリしました。生きていて良かった。

 谷中霊園の佐々木信濃守の墓所を訪ねます。
 徳川家最後の将軍慶喜の墓所もこの霊園にあります。この近くには徳川家由来の有名人が多く葬られています。勝海舟もここに眠っています。ここからさほど離れていない所に、彼の墓があります。場所は「乙2号8側」の角にあります。新しい佐々木家之墓の右隣に”従五位佐々木蘭斎之墓”と正面に刻まれている墓石が有ります。側面に没年、明治9年12月31日。隣に墓誌が建っていてその長文の中に「人推其裁決校正、至為大岡越州流亜、・・」と記されています。
 管理事務所の手をわずらわして佐々木姓の墓所を調べましたが、20基ほど有りますが、どれもが確当しません。佐々木顕発(あきのり)や佐々木信濃守で調べているからで、彼の”号”「蘭斎」で調べて、やっと3日目に見つけました。や〜、これだけ広い霊園は善し悪しです。これだけ広いとみなさんもご存じの著名人に会う事が出来ます。「俳優・長谷川一夫」、「映画監督・稲垣浩」、「宝塚理事・天津乙女」、「歌舞伎役者・中村仲蔵」、「新国劇・沢田正次郎」、「新派・川上音二郎」、「作家・獅子文六」、「東京国際フォーラム 太田道灌の像制作、彫刻家・朝倉文夫」、「箏曲・宮城道雄」、「小説家・円地文子」、「実業家・渋沢栄一」、「首相・鳩山一郎」、「日本画家・横山大観」等々、ごく一部でも蒼々たる人達が眠っています。変わったところでは「高橋お伝」の墓もあります。また、お茶の水のニコライ堂を建てたロシアのニコライもここに眠っています。

地図

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写真

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新橋竹川(たけかわ)町 (中央区銀座7丁目8〜10)
銀座7丁目。日本橋まで2kmの標識。国道15号線は第1京浜国道で、江戸時代からの東海道です。俗称中央通り、または銀座通り。全国の銀座の本家です。一番賑やかな商店街だと言われている所です。

新橋竹川(たけかわ)町その2 (中央区銀座7丁目8〜10)
銀座通りの7丁目交差点。ヤマハホール、ガスホールなどが見られます。いつ行っても沢山の人出と高級品を扱う店が建ち並んでいます。

与力と同心 (中央区八丁堀)
当然、今はその当時の面影は全くありません。
 39話「猫定」主人公、猫定が住んでいた所でもあります。八丁堀玉子屋新道(中央区八丁堀3− 12.13に挟まれた道、京華スケアー辺り) です。
 オフィス街でもあり、古き良き時代の人情味を残した住宅地でもあります。幾つかのビル建築現場では、そこからは座棺のおけや遺骨が多数出土していると聞いています。その為現在は工事がストップしている所も有ります。寺町であった名残が出ているのでしょう。

佐々木信濃守顕発の墓所(台東区谷中霊園、「乙2号8側」)
”従五位佐々木蘭斎之墓”と表面に刻まれた墓石が建っています。正面に佐々木家之墓、反対側には長男の墓石が建っています。

                                                      2002年5月記

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