落語「鶉衣」の舞台を歩く
   

 

宇野信夫作 
 六代目三遊亭円生の噺、「鶉衣」(うずらごろも)によると。

 

 いろいろな趣味があって、時代を表す、集めるという流行があった。弁当箱が流行れば弁当箱を、白い鼠の南京鼠が流行れば鼠を、ウサギやオウムなども流行ったが、熱が冷めれば見向きもされなかった。

 ウズラが江戸時代におおいに流行ったことがある。地主のお嬢さんがウズラを欲しがったが、それは浪人が飼っているウズラだった。同じ長屋の源兵衛さんに頼んで1両で交渉させたが、無礼であると首筋捕まれて表に放り出された。その時亀の尾をしたたかに打って痛くてしかたない。
 切り戸から家主が顔を出したのでウズラの一件を頼んだ。

 浪人は内職の釣り針にやすりを掛ける仕事をしていた。私も趣味替えしてウズラを飼いたいがそのウズラを私にくれないか。新しいウズラは買ってあげるからと持ち出したが、「伊勢屋の娘はことのほかワガママであるな」と切り替えされた。私にくれると思って譲ってほしいと言ったが、頑として首を縦に振らない。それでは店(たな)を開けろと言うが早いか、表に引きずり出されて、亀の尾をしたたかに打ってしまった。

 今度は頭を呼んだ。頭は独り合点でお嬢様がお悩みだと言うが、私は女房と別れもお嬢様と一緒になっても良いですよ。話は全然違ってウズラの一件であった。この話はお断りしたい。あの浪人と馬はダメなんです。連雀町の酒屋の前で馬が暴れた。私(あっし)は逃げようとしたが冷や汗が出て動けなくなった時に、侍が現れ見事に取り押さえた。その侍はあの浪人で、浪人を見るだけで、あの馬を思い出す。勘弁してください。お嬢様はウズラを飼っても様にならない、同じ飼うなら猫が良いですよ、可愛い猫が友達のところで生まれたので、もらってきます。ご主人の了解を待たず駆け出していった。

 お嬢さんにきつく言われて、番頭の彦助が浪人の家に向かった。今までの件を謝り、その足で浪人の家を後にした。ウズラのことは言い出せなかった。しかし、気が立っている時に話をしてもまとまらないだろうとあきらめた。翌日、世間話をして帰ってきた。3日、4日・・・、ウズラのことは言い出せなかった。7日目、浪人は「鶉居(じゅんきょ)とか鶉衣と言う言葉があるが、その貧しさでウズラを飼うとはおかしい」、番頭は、「私は伊勢屋の前に捨てられた捨て子で、ご主人にここまで育ててもらった。ご主人には恩義があって恩を返したい。そのご主人がふさぎこんでいた。その訳はご存じのウズラの一件です。どうぞ私にお譲りください」、「娘御はそれにしてもワガママであるな」、「母親を亡くし、男手一つでここまで育てられたからでしょう。如何がでしょうかウズラは」、「それでは明日この時刻にお越しください。ご返事が出来ます」。

 翌日浪人の家に来てみると、内職はしていず小鍋仕立ての料理を突きながら一杯やっていた。勧められて部屋に上がり、飲めないのを無理にお猪口一杯飲んで苦しくなった。鍋の物を突いてくれと勧められた。「時に昨日お話の返事はいただけるのでしょうか」、「ウズラのことだな。ウズラはもういない。カゴを見なさい」、「ウズラはどこに」、「二人が囲んでいる、この鍋の中です。何日も通ってきた貴方の心中、ご主人の意中、家主の心中は分かる。貴方が旦那様に誠を示すのであれば、私は自分の心に誠意を尽くす。今朝方、ウズラに『金品に替えるぐらいなら、我が腹中に納まる方がイイだろう』と言い聞かせたら、イイと言った。言うわけは無いがグウグウと鳴いた。可愛がっていた鳥を我が手で殺し料理する我が心中を察してください。ウズラはお譲りすることがもはや出来なくなってしまった」。
 このことを店に帰って話をすると、娘も澱(おり)が取れたように心改まり、浪人の家に謝りに行った。

 中川山城守という大名が世間話で浪人が馬を鎮めたことを聞いた。その者を調べてこいとの事で調べると、鍋町の長屋に住む浪人・曽野門太夫だと分かったが、長屋の者も大家も、一徹者でお付き合いが出来ないでしょうと告げた。帰ってこのことを報告し、召し抱えるのは止めた方がイイというと、町人を抱えるのではなく、気骨のある侍を抱えるのだから、今すぐ抱えるようにと鶴の一声。馬廻り役150石で出世した。
 馬に乗ってヤリ持ちを従えて通行中、町中で長屋の住人に出合った。ビックリしてこのことを大家に話して、「どうして出世したのでしょうね」、「それはウズラを食べたことだろう」、「そうか、あっしは昨日、鳩を食った」、「鳩を食った?それは気をつけろ、豆鉄砲を喰らうぞ」。

 

 



1.鶉(ウズラ)
 キジ目キジ科の鳥。尾短く、全体赤褐色で黄白色の縦斑と黒斑とがある。草原にすむ。肉・卵は美味。そのため家畜として飼われる。古くは鳴き声の観賞のために人家で飼った。ヨーロッパ・アジアに分布。元来渡り鳥で冬は暖かい南で暮らし、夏は日本に渡ってくる。男子のこぶし大の体格。
 日本では室町時代には籠を用いて本種を飼育されていたとされる。江戸時代には武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長期から寛永にかけてをピークに大正時代まで行われた。

 人には良く馴れ、手乗りウズラも珍しくなく、部屋飼いしていると、主人を見抜き付いて歩くことも珍しくない。また、ジャンプ力は強く飛び上がることは上手いのですが、着地が下手で、何処に落ちるか分からない。家畜化されているので、抱卵はしないので、孵卵器で卵は孵す。雌ですら平気で自分の卵をサッカーボールのように転がして見向きもしない。生活はハーレム状態で、1羽の雄に数羽の雌が普通で、生後60日ほどで成熟し、寿命は10年ぐらい。

 ウズラに関した言葉は沢山有って、どれも体型、色柄からきた言葉が多い。
*うずらあわせ【鶉合せ】;飼養しているウズラを持ち寄って、その鳴き声の優劣を競う遊び。
*うずらかご【鶉籠】;屋根を糸の網できわめて低く張った方形の籠。ウズラを飼うのに用いる。 
右写真http://www.ceres.dti.ne.jp/~kaorito/HowTo.html より
*うずらごろも【鶉衣】;俳文集。横井也有の遺稿。刊本12冊。前編1787年(天明7)刊、後編88年刊、続編・拾遺1823年(文政6)刊。和漢の故事をはじめ種々の材料を機知と技巧をもって軽妙な筆致で描く。
*うずらだち【鶉立ち】;用意もなく急に旅立つこと。給仕などをする者が、回り膝をせず直ちに立つこと。無作法な立ち方。
*うずらのころも【鶉の衣】;つぎはぎした衣。また、すりきれて短くなった衣。うずらぎぬ。
*うずらのとこ【鶉の床】;(ウズラの臥す所から転じて) むさくるしい臥床。
*うずらふ【鶉斑】;ウズラの羽のように茶褐色に黒白の斑紋ある模様。鷹の羽などに見られる。
*うずらもく【鶉杢】;ウズラの羽色のような木目。屋久杉の異称。鶉目。落語「牛褒め」にも出てきた木目の美しさで使われる希少性のある高級天井板。
 以上、鶉写真と文、広辞苑から

 

2.町名
連雀町(れんじゃくちょう);馬が暴れた所。千代田区神田須田町一丁目の内。須田町交差点の西側の小さい町。

 神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負(しょ)い子(こ))をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
 明暦(めいれき)三年(1657)の大火「振袖(ふりそで)火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地(ひよけち)として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野(むさしの)に代地(だいち)を与えられ移住させられました。現在の三鷹(みたか)市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
 一方、安政(あんせい)三年の地図には、この界隈(かいわい)に土井能登守(どいのとのかみ)、青山下野守(あおやましもつけのかみ)などの上屋敷がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町(さえきちょう)に編入され、連雀町から遷座(せんざ)された出世稲荷(しゅっせいなり)神社は、土井家屋敷内にあった延寿稲荷(えんじゅいなり)神社とともに町内の鎮守(ちんじゅ)となりました。
 明治四十五年(1912)、甲武(こうぶ)鉄道(のちの中央線)終点・万世橋(まんせいばし)駅(落語「反対車」で写真有り)が、現在の交通博物館の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐(ひろせちゅうさ)の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝(ようしょう。落語「大蔵次官」で写真有り)として栄えました。また、寄席(よせ)の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉(ひぐちいちよう)がその著『別れ霜(じも)』において、「神田連雀町とかや、友囀(ともさえず)りの喧(かしま)しきならで客足しげき……」と、その賑(にぎ)わいを記しています。
 大正十二年(1923)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町は須田町一丁目に改称されました。
千代田区 町名由来板ガイドより

  出世稲荷神社(左、神田須田町1-11)と、延寿稲荷神社(神田須田町1-2)。

■鍋町(なべちょう);神田鍋町が正式名称。舞台の長屋があった所、千代田区神田鍛冶町三丁目の内。地下鉄銀座線神田駅の真上。JR神田駅の北側で上記連雀町とは近隣になります。

 ここ神田鍛冶町三丁目は「鍋町(なべちょう)」と呼ばれた町でした。
 この界隈(かいわい)が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師をつとめていた、椎名山城(しいなやましろ)が屋敷を構えていたためと伝えられています。鋳物師とは、鍋(なべ)や釜(かま)をつくる職人のことです。ほかに御腰物金具師(おこしものかなぐし)や御印判師(ごいんばんし)なども住んでいました。
 鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。文政七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』によれば、紅(べに)や白粉(おしろい)などの化粧品、傘、菓子、釘や打物(うちもの)などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいたことがわかります。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。
 明治のはじめ、隣接するいくつかの横町(よこまち)を含めて鍋町は広がりました。明治六年(1873)、一部が黒門町(くろもんちょう)に編入され、さらに昭和八年(1933)、鍋町は鍛冶町三丁目と改称し、一部が鍛冶町二丁目になりました。昭和二十二年(1947)には町名に「神田」が付き、昭和四十一年(1966)に実施された住居表示で一部は内神田三丁目に編入されました。
千代田区 町名由来板ガイドより

須田町(すだちょう);江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596〜1615)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も、農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には「すた町」と記されています。
 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
千代田区 町名由来板ガイドより

 神田青物市場の風景 明治末頃 個人蔵

神田市場址(かんだいちばあと);中世の神田川右岸(南岸)は、水田が多い農村地帯だったようです。江戸初期の慶長年間(1596〜1615)にも、この界隈(かいわい)を中心に「神田青物市場(かんだあおものいちば)」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。
 水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸(かまくらがし)から荷揚げされた青物が、一万五千坪(約4万9500平方メートル)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。
当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在のわたしたちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町(たちょう)、佐柄木町(さえきちょう)、通新石町(とおりしんこくちょう)、連雀町(れんじゃくちょう)なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら五町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競(せ)りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。
 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、大正十二年(1923)9月1日関東大震災で壊滅的に破壊され、昭和三年(1928)には秋葉原西北に、平成二年(1990)には大田区へと移転しました。
千代田区 町名由来板ガイドより

 神田青物市場のにぎわい(風俗画報 明治33年)

 

3.言葉
鶉衣;「うずらごろも」、又は「じゅんい」とも読んで、ウズラの尾のようにみすぼらしい、つぎはぎの着物。

鶉居(じゅんきょ);鶉のように住まいが定まらないこと。

(たな);借家。借室。

地主(じぬし)と家主(やぬし);地主は地所を持っていてそこに借家や長屋を建て、雇われた家主(大家)がその家作を管理し家賃の回収や町役の仕事をした。店を貸すのも、貸さないも大家の権限で出来た。

切り戸;庭先にある簡易な戸。

亀の尾(かめのお);(形が亀の尾に似るからいう) 人の尾骨。仙骨(せんこつ)とも

小鍋仕立て;一人用の鍋で料理を作りながら食べる食事法。
 小鍋立てで思い出されるのは、池波正太郎の『仕掛人・藤枝梅安』のなかの梅安最合傘に出てくる小鍋です。小鍋立ての具が全く違うのですが、その様子は同じですから紹介しましょう。

 その夜・・・。
 梅安は、ひとりで、おそい夕餉(ゆうげ)の膳に向かっていた。
 春の足音は、いったん遠退いたらしい。
 毎日の底冷えが強(きつ)く、ことに今夜は、
(雪になるのではないか)
 と、おもわれた。
 梅安は、鍋へ、うす味の出汁(だし)を張って焜炉(コンロ)にかけ、これを膳の傍へ運んだ。
 大皿へ、大根を千六本に刻んだものが山盛りになってい、浅蜊のむきみもたっぷりと用意してある。
 出汁が煮え立った鍋の中へ、梅安は手づかみで大根を入れ、浅蜊を入れた。千切りの大根は、すぐに煮える。煮えるそばから、これを小鉢に取り、粉山椒をふりかけ、出汁と共にふうふういいながら食べるのである。
 このとき、酒は冷やのまま、湯のみ茶わんでのむのが梅安の好みだ。

 出汁=酒、醤油、塩で味付けしただけの下地が、梅安好みの味付けです。

  ウズラの小鍋仕立ては、モツを取り除き開いたウズラを一口大に切り分け、長ネギを入れて出汁で煮たものでしょう。小鍋仕立ての時は、具は2品から3品までと梅安(作者・池波正太郎)は言う。ウズラの肉は贅沢な素材です。美味だったでしょうが、今回涙が出るような味がした事でしょう。  

 



 舞台の神田を歩く


 JR神田駅で電車を下ります。南北に走る幹線道路、江戸時代は御成街道といい、現在は中央通りと正式に呼称されています。落語「黄金餅」や「反対車」でこの道は良く通ったところです。
 おさらいをすると、神田駅南側から旧名で今川橋→元乗物町→鍛冶町一丁目→ガード下の鍛冶町二丁目→出た所の鍋町→通新石町→須田町→筋違橋→渡って神田花房町。現在は須田町の北側は万世橋、渡って外神田という秋葉原になります。

 神田駅のホーム下をこの中央通りは斜めに抜けていますので、この道を北に向かいます。舞台の長屋があった旧・鍋町はガードをくぐった、左から右に向かう一方通行の広い道から始まり次の須田町一丁目交差点までが、その町域でした。現在・神田鍛冶町三丁目です。ここ神田鍋町には、万蔵店に落語「梅若礼三郎」の小間物屋利兵衛が住んでいました。神田周辺には落語の世界では有名な旧名・神田竪大工町が駅の西側にあります。東側には紺屋町、神田お玉が池跡等があります。

 鍋町の先が旧名・通新石町、その先で二股に道が分かれ、現在の幹線(中央通り)が右側に少し曲がって須田町交差点から現万世橋を渡ります。しかし、江戸時代はこの道がなく、左側の真っ直ぐな道を北に進み神田川にぶつかった所に筋違(すじかい)御門と番所があって、渡る橋を筋違橋と言いました。ですから当時万世橋はありませんでした。筋違橋は元交通博物館跡、現在の高層ビル・JR万世橋ビルがあり、中央線の終点・万世橋駅があった辺りから神田川を渡していました。その南側が火除け地で広場(八辻原)になっていました。

 靖国通りのを西に行くと、須田町交差点の隣町が旧名連雀町で、靖国通りで南北を二分された形の町です。この街の西側靖国通りに接する辺りに青果市場跡の碑が建っています。その説明ではここらを中心に関東大震災まで、江戸の胃袋を養っていました。神田は活気があって江戸っ子の典型のように言われますが、このやっちゃ場が有ったからです。

 神田駅から神田川までは、どこも中小の企業が会社を構え、その活気は青果市場を彷彿とさせる感が有ります。現在は神田川南側に高層ビルが建っていますが、他の地区では屋上が下からでも見えるほどのビルが建ち並んでいる、親しみが持てる街並みになっています。でも、長屋が有ったり、馬が暴れるような所では無くなったのは事実です。
 神田駅の東側には山手線に並行して上野を通る新幹線が走り、上野止まりになっている常磐線が東京駅まで乗り入れるために、高架橋の新設工事をしています。町は流動的に発展していますが、江戸のよき風情まで流されて行ってしまいました。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

鍋町

鍋町(神田鍛冶町三丁目)
 神田駅から出たガード下より。ここから北の須田町に向かって歩きますが、気がついたら行き過ぎてしまうほどです。

鍋町

鍋町
 
鍋町の北側、中央通りあと200mで須田町交差点だと道路案内板が出ています。

竪大工町

竪大工町(内神田三丁目の内)
 神田駅の西側に落語の世界では、大工さんの絡まる話は、この竪大工町に住んでいました。

一八稲荷神社

多町青物市場役所跡(神田多町2-5)
 一八稲荷神社は1の日と8の日が縁日なのでこう呼ばれています。青物市場が有ったときは、ここに青物市場の役所が置かれていました。

青物市場跡の碑

青物市場跡の碑(神田須田町1-8)
 多町の北側、靖国通りに近い所に市場跡の碑が建っています。この碑を中心に広大な土地をやっちゃ場として機能していたのでしょう。その名残を見付けることは出来ませんが、須田町交差点際に果物の万惣が有ります。

連雀町

連雀町
 靖国通りに分断された連雀町。右側が南側の連雀町、左側が北側の連雀町。靖国通りの正面奥には山手線に並行して常磐線の新設工事が高い位置を走っています。

連雀町

連雀町
 北側の連雀町。須田町一丁目になり、ここには蕎麦、鰻、お汁粉、フグ、鮟鱇鍋などの老舗が今も営業を続けているデルタ地帯です。バックの高層ビルが元交通博物館の跡に建った、JR万世橋ビルです。

2013年5月記

 

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