落語「鶉衣」の舞台を歩く
宇野信夫作
1.鶉(ウズラ)
キジ目キジ科の鳥。尾短く、全体赤褐色で黄白色の縦斑と黒斑とがある。草原にすむ。肉・卵は美味。そのため家畜として飼われる。古くは鳴き声の観賞のために人家で飼った。ヨーロッパ・アジアに分布。元来渡り鳥で冬は暖かい南で暮らし、夏は日本に渡ってくる。男子のこぶし大の体格。 人には良く馴れ、手乗りウズラも珍しくなく、部屋飼いしていると、主人を見抜き付いて歩くことも珍しくない。また、ジャンプ力は強く飛び上がることは上手いのですが、着地が下手で、何処に落ちるか分からない。家畜化されているので、抱卵はしないので、孵卵器で卵は孵す。雌ですら平気で自分の卵をサッカーボールのように転がして見向きもしない。生活はハーレム状態で、1羽の雄に数羽の雌が普通で、生後60日ほどで成熟し、寿命は10年ぐらい。
ウズラに関した言葉は沢山有って、どれも体型、色柄からきた言葉が多い。
2.町名
神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負(しょ)い子(こ))をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
出世稲荷神社(左、神田須田町1-11)と、延寿稲荷神社(神田須田町1-2)。
■鍋町(なべちょう);神田鍋町が正式名称。舞台の長屋があった所、千代田区神田鍛冶町三丁目の内。地下鉄銀座線神田駅の真上。JR神田駅の北側で上記連雀町とは近隣になります。
ここ神田鍛冶町三丁目は「鍋町(なべちょう)」と呼ばれた町でした。
■須田町(すだちょう);江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596〜1615)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も、農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には「すた町」と記されています。
神田青物市場の風景 明治末頃 個人蔵
■神田市場址(かんだいちばあと);中世の神田川右岸(南岸)は、水田が多い農村地帯だったようです。江戸初期の慶長年間(1596〜1615)にも、この界隈(かいわい)を中心に「神田青物市場(かんだあおものいちば)」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。
3.言葉
■鶉居(じゅんきょ);鶉のように住まいが定まらないこと。
■店(たな);借家。借室。
■地主(じぬし)と家主(やぬし);地主は地所を持っていてそこに借家や長屋を建て、雇われた家主(大家)がその家作を管理し家賃の回収や町役の仕事をした。店を貸すのも、貸さないも大家の権限で出来た。
■切り戸;庭先にある簡易な戸。
■亀の尾(かめのお);(形が亀の尾に似るからいう) 人の尾骨。仙骨(せんこつ)とも
■小鍋仕立て;一人用の鍋で料理を作りながら食べる食事法。
その夜・・・。
出汁=酒、醤油、塩で味付けしただけの下地が、梅安好みの味付けです。
ウズラの小鍋仕立ては、モツを取り除き開いたウズラを一口大に切り分け、長ネギを入れて出汁で煮たものでしょう。小鍋仕立ての時は、具は2品から3品までと梅安(作者・池波正太郎)は言う。ウズラの肉は贅沢な素材です。美味だったでしょうが、今回涙が出るような味がした事でしょう。
神田駅のホーム下をこの中央通りは斜めに抜けていますので、この道を北に向かいます。舞台の長屋があった旧・鍋町はガードをくぐった、左から右に向かう一方通行の広い道から始まり次の須田町一丁目交差点までが、その町域でした。現在・神田鍛冶町三丁目です。ここ神田鍋町には、万蔵店に落語「梅若礼三郎」の小間物屋利兵衛が住んでいました。神田周辺には落語の世界では有名な旧名・神田竪大工町が駅の西側にあります。東側には紺屋町、神田お玉が池跡等があります。
鍋町の先が旧名・通新石町、その先で二股に道が分かれ、現在の幹線(中央通り)が右側に少し曲がって須田町交差点から現万世橋を渡ります。しかし、江戸時代はこの道がなく、左側の真っ直ぐな道を北に進み神田川にぶつかった所に筋違(すじかい)御門と番所があって、渡る橋を筋違橋と言いました。ですから当時万世橋はありませんでした。筋違橋は元交通博物館跡、現在の高層ビル・JR万世橋ビルがあり、中央線の終点・万世橋駅があった辺りから神田川を渡していました。その南側が火除け地で広場(八辻原)になっていました。
靖国通りのを西に行くと、須田町交差点の隣町が旧名連雀町で、靖国通りで南北を二分された形の町です。この街の西側靖国通りに接する辺りに青果市場跡の碑が建っています。その説明ではここらを中心に関東大震災まで、江戸の胃袋を養っていました。神田は活気があって江戸っ子の典型のように言われますが、このやっちゃ場が有ったからです。
神田駅から神田川までは、どこも中小の企業が会社を構え、その活気は青果市場を彷彿とさせる感が有ります。現在は神田川南側に高層ビルが建っていますが、他の地区では屋上が下からでも見えるほどのビルが建ち並んでいる、親しみが持てる街並みになっています。でも、長屋が有ったり、馬が暴れるような所では無くなったのは事実です。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。 2013年5月記 |
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