落語「粗忽の使者」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん朝の噺、「粗忽の使者」(そこつのししゃ)によると。

 

 杉平柾目之正(すぎだいら_まさめのしょう)の家臣、地武太治部右衛門(じぶた_じぶえもん)が、殿の使者として赤井御門守の屋敷を訪れることになった。
 出掛ける前から大騒ぎ。慌てるあまり犬と馬を間違えたり、馬にまたがれば前後反対にまたがり、首をすげ替えろとか、腰を上げている間に馬を回せと言う始末。
 本郷の赤井御門守にはお付きの者が居るので無事着いた。

 使者の間に通され、田中三太夫が使者の口上を問うが、どうしても思い出せない。思い出せないのでここで一服する、いえ、切腹すると言い出したが、三太夫さんが止めた。幼い頃より父に居敷(いしき=尻)をつねられて思い出すのが癖になっているので、三太夫に居敷をつねってくれるように頼む。
 三太夫が早速試したが、 今まであまりつねられ過ぎてタコになっているため、いっこうに効かない。
 「ご家中にどなたか指先に力のあるご仁はござらぬか」と尋ねても、武道は出来ても、指先の力は・・・、若い侍はみな腹を抱えて笑うだけで助けてくれない。

 これを耳にはさんだのが、屋敷で普請中の大工の留っこ。そんなに固い尻なら、一つ俺が代わってやろうと、釘抜きのエンマを忍ばせた。三太夫さんに、面会し、指には力があると申し上げた。
 だが、大工を使ったとあっては当家の名にかかわるので、留っこを仮の武士に仕立て、着物を着せたが袴もはけないので手伝ってもらった。チョンマゲも直して、留っこでは、らしくないので、中田留五郎ということにし、治部右衛門の前に連れて行った。
 三太夫さんが留五郎殿と何回呼んでも返事がないので、ついに”留っこ”と言うとすかさず返事が戻ってきた。 あいさつは丁寧に、頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだと言い含められた留っこ、初めは「えー、おわたくしが、おあなたさまのおケツさまをおひねりでござりたてまつる」などと言っていたが、三太夫さんはしかめっ面。
 早速始めようとしたが、見られるといけないので三太夫さんを次室に追い出して、治部右衛門と二人になると途端に職人の地を出し、「さあ、早くケツを出せ。なに、汚ねえ尻だナ。硬いな、かかとみたいになっている。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」。
 エイとばかりに、釘抜きのエンマで尻をねじり上げる。「うー、キクー、・・・もそっと強く」 、「このエンマ、なまってしまったのか?。どうだこれで」、「ウーン、あぁー、痛たタタ、思い出してござる」、すかさず次の間の三太夫が「して、ご口上は」、
「聞かずに参った」。


 

1.「赤井御門守」

 赤井御門守は実在の殿様ではなく、落語国に住む架空の殿様です。架空の殿様ですから、住まいも好きなところで・・・。となってしまいます。
 でも、前歴が分かっていて、元はお公家様でご先祖は算盤数衛表(そろばんかずえのひょう)玉成卿(たまなりきょう)と言った。石高が十二万三千四百五十六石七斗八升九合ひとつかみ半の大名であった。
 また、杉平柾目之正も実在の殿様ではありませんし、家臣の地武太治部右衛門と言う、与太郎以下の家臣を抱えるなんて・・・。

 上図;「古今亭志ん生」 山藤章二画 新イラスト紳士録より 志ん朝のお父さん志ん生も粗忽の使者をやっていたんですね。

赤門;東京大学の南西隅の中山道に面した朱塗りの門。もと加賀前田家上屋敷の御守殿門で、文政10年(1827)第十一代将軍家斉の娘・溶姫が前田斉泰に嫁した際に建造したもの。現在東京に残っている赤門はここだけです。
家斉は特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。徳川歴代将軍の中で子作りに精を出した将軍として名を残した。その為、ノシを付けて各大名に押しつけた。
溶姫(やすひめ、ようひめ);母親は側室・お美代の方(専行院)で、もと内藤就相の娘、中野清茂の養女。
溶姫(1813年 - 1868年)は二十一女で加賀藩主・前田斉泰に嫁ぐ。時、14歳だった。
御守殿門(ごしゅでんもん);御守殿の居所(奥方御殿)の表門。全部朱塗りで、黒色の金物を用い、左右に唐破風造(カラハフヅクリ)の両番所を設けた。火災で焼けると、その後再建されるのを禁じられた。

■落語家さんの大部分は、行き先の赤井御門守は住所不定、又は今の丸の内、大名小路に屋敷を構えていた設定になっています。特に落語「妾馬」では丸の内になっています。同じ殿様ですが、志ん朝はハッキリと本郷・赤井御門守と言っています。加賀百万石前田家を指しています。

 

2.加賀前田家
 
加賀国石川郡にある金沢城(金沢市)に居城。藩主は前田氏。外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜された。
  加賀前田家は、尾張国愛知郡(現名古屋市中川区)の土豪であった前田利昌の四男・利家が、織田信長に仕えて功績を挙げ大名になることで頭角を現しました。 信長没後に利家の娘の豪姫が養女となっていた豊臣秀吉が統一事業を進めると、利家は賤ヶ岳の戦いでは一時は秀吉と対立しますが、豊臣政権の五大老に列し、筆頭大老の徳川家康に次ぐ地位を得て加賀国を与えられます。
 その子の利長は秀吉没後に家康暗殺企図の嫌疑をかけられますが、利長の母で利家の妻である芳春院が人質になることで決着し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは徳川方につくなどして領地を拡大し、江戸時代初期には加賀国・能登国・越中国の3ヶ国に119万石を有する大名になりました。
 利長の跡を継いだ弟の利常は次男の利次に富山藩10万石を、三男の利治に大聖寺藩7万石を分与しました。ほかに利家の五男・利孝を祖とする上野国七日市藩もあります。
 三代利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は彼の時代に造営された。

 加賀百万石といわれますが、加賀藩の財政は元禄期以降、百万石の家格を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化する一方でした。
 そのような状況下で、江戸時代中期には五代藩主前田綱紀が藩政改革を進めます。
 藩政改革で既得権を奪われた門閥派の重臣や倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満が募っていく上に、七代藩主前田宗辰以降は早逝する当主が多く、加賀騒動などの混乱が生じ、藩政は停滞します。その結果、幕末は藩内の意見を統一できず、百万石の大藩でありながら目立った働きは出来ませんでした。

 徳川のお姫様をお嫁さんにもらったら、出費がかさむうえ、溶姫は身一つで来たわけではありません。嫁に出すときは、大奥からつけられた溶姫付きの女中達もセットで、この人たちが大変威張っていたようで、藩の中で浮き上がっていました。どの姫にも同じように奥女中が付いていた。この奥女中は幕府のスパイでもあり、藩内の情報は幕府に筒抜けになっていた。
 慶応4年(1868)3月、倒幕の気運が高まり江戸は危険だということで、溶姫は後に引き取った実母・お美代の方と別れ金沢に移ることとなります。そして、そのわずか2ヶ月後に波乱の人生を終えます。享年56歳でした。

右図;『近世人物誌 徳川溶姫君』 月岡芳年画
 将軍家斉が諸大名に嫁がせた多くの息女は、実家を笠に着て夫をも凌ぐ勢いだった。しかし斉泰は、たとえ将軍家の娘だろうと妻は夫に従うべきであると、婚礼の翌日鷹狩りから帰るなり溶姫に自分の草履を脱がせるように命じた。それを断るようなら離別するつもりでいたところ、溶姫が嫌がりもせず庭先に降り立って斉泰の草履を脱がせたため、以後二人は仲睦まじくなった、という逸話を描いたもの。

加賀前田家上屋敷;現在の本郷キャンパスを切絵図と対照させると、北側の地震研究所、農学部グランド、野球場がもと肥前唐津藩下屋敷(小笠原信濃守)、その南側、応用微生物研究所、農学部、同農場、浅野地区がもと水戸藩中屋敷、本郷キャンパスの中心を占める一画はもと加賀藩上屋敷、そして病院は加賀前田家の支藩である大聖寺藩、富山藩の屋敷地であった。

 本郷に設置された加賀藩江戸藩邸は17世紀初頭に下屋敷として発足し、その後、天和3年(1683)に上屋敷となった。なお中山道に沿って上方に上ると中屋敷(現在の文京区駒込=六義園の西)、下屋敷(現在の板橋区加賀=板橋宿の北側)があった。この屋敷には北陸の雄藩にふさわしい庭と建築群が建設された。

藩邸内部は心字池(三四郎池)を取り囲む育徳園と東側の馬場が中心を占め、その南西側に主要な建築が設けられた。西側はふたつの主要な門が中山道に向かって開かれていたが、南のものが「大御門」であり、その東側の広大な建築が藩主の公的私的な生活にかかわった御殿である。また北寄りの「御住居表御門」が赤門です。赤門は東京大学に現存する最も古い建築で、赤門の奥に広がるのは御守殿であって、藩主夫人の住宅である。また育徳園東側の馬場には享和2年(1802)に「梅の御殿」が建てられ、第十代藩主重教夫人(寿光院)、第十一代治修夫人(法梁院)が住んだ。

 江戸切り絵図から「加賀屋敷」。中央に育徳園、その東に馬場があります。

育徳園心字池(三四郎池);寛永3年(1626)前田家三代利常の時に、三代将軍家光訪問の内命を受け、殿舎、庭園の造成にかかり3年を要し完成させた。外様大名として誠意を示す必要があった。このとき完成した回遊式庭園が育徳園と呼ばれ、池を心字池といった。夏目漱石の名作『三四郎』は、ここを舞台としたため、「三四郎池」とその後呼ばれるようになった。

 

3.粗忽者
 そそっかしい人。志ん朝がマクラで例を挙げています。
 戸を開けないで出ようとしたり、鏡に映っている自分の顔に驚いたり、マスクをしていてツバを吐いたりする人がいる。

 浅野内匠頭の家来・竹林忠七は殿様にすごく愛されていた。ある時、殿の月代(さかやき=頭部の髪の毛のない部分でチョンマゲを乗せる)を剃っているとき、柄が緩んできた。これでは殿の頭を切ってしまうと、咄嗟に柄を頭でとんとんと叩いた。激怒した殿様、注意をしていて、ふと平伏する忠七を見ると動かない。よくよく見ると寝ていた。

 火急の使者に立って背中に魔除けの白矢を背負い、馬に乗って出掛けたが、途中で便意をもよおし、馬を下りて林の中に入った。背中の矢が邪魔になるので、近くの木に刺して用を足した。終わって、見ると矢が刺さっている「誰か拙者を狙っている者がいる」、周りを見ると馬が繋がれている「やはりそうだ。証拠もある」と、自分の用を足したものを見て言った。自分のした物を忘れてはいけません。

 

4.言葉
居敷(いしき);尻。ケツと言うより品が良い?

普請(ふしん);建築・土木の工事。幕府では戦国時代〜江戸時代、大名・諸士・領民などに課した築城、寺社・宮殿の造営、家屋・河道の修理などの夫役(ブヤク)を普請役と言った。今回は赤井御門守の屋敷内ですから、そこで使われる職人衆の一人が、大工の留っこです。

チョンマゲも直して;江戸っ子は髷(まげ)をセンターから少し横に曲げて乗せた。チョとずらすことで粋さを出した。武士はその逆で、型にはまったセンターに髷を置いた。

エンマ;【閻魔】地獄に堕ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の主神、冥界の総司。地蔵菩薩の化身ともいう。像容は、冠・道服を着けて忿怒の相をなす。もとインドのヴェーダ神話に見える神で、最初の死者として天上の楽土に住して祖霊を支配し、後に下界を支配する死の神、地獄の王となった。地蔵信仰などと共に中国に伝わって道教と習合し、十王の一となる。焔摩。閻羅。閻魔王。閻魔大王。閻魔法王。
 ここから、(閻魔王がうそをついた者の舌を抜きとるという俗説に基づく) 釘抜き。

 (右図)食い切り;釘抜きに似て、釘をはさむ部分が刃になっているもの。エンマはこの刃の部分が平になったもの。こんなので、いくらカカトみたいな硬い尻でも、挟まれたら切れてしまう。

 



 舞台の赤門を歩く

 

 東京大学本郷キャンパスにある赤門。加賀百万石の前田家の御守殿門で、徳川将軍の姫君を嫁にもらうと、この門が建てられた。建てられたが、気位の高い姫ですから、それを牛耳るのは大変なもので、気弱な殿様だったら負けてしまいます。嫁はやはり同じぐらいの考えを持った者どうしの方が上手く行きそうですが、戦国時代を含めて江戸時代も姻戚関係を結んでお互いの安泰を保証し合うのが常套手段です。現在の企業でも株を持ち合ったり、技術提携をしたりして、競争は敵対する相手だけとします。

 部外者立入禁止の表示がありますが、赤門は日中開いていますので、何時でもここから出入りが出来ます。本郷通りに面したこの門は校舎を建てるため、明治36年(1903)本郷通りに向かって15m程移動して現在地に落ち着きました。昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定されています。
 この門の形式は切り妻造りの三間薬医門で、唐破風造本瓦葺きの番所が左右に付いています。瓦の先端には前田家梅鉢の紋、徳川家の葵の紋、東大の「學」の文字が描かれています。(下写真)

 この門の前ではいつ行っても、記念撮影をしているグループに出会います。ま、東大の象徴のような門ですから。

 奥に入って行くと、左手に鬱蒼とした木立があります。この一画が盆地のように低くなっていて、中心に回遊式の心字池があります。俗に三四郎池と呼ばれ、この方が通りは良いようです。ぐるりと池の周りの木漏れ日の落ちた散歩道を歩くと、滝があって池に流れ込んでいます。池の中には小島が有って、亀が甲羅干しをしていますし、池の中には錦鯉や大きな鯉が泳いでいます。島にはツツジが満開に咲き誇っています。

 この庭園・育徳園は今でも自然のままで、亀などは歩いて来たのではないでしょうが、野鳥の宝石と言われる、カワセミが飛来し、鴨が羽を休めています。また、1mを越える青大将がノンビリと池の縁を散歩しています。江戸時代だったら、我々下々は近寄ることすら出来なかったのに、今は良い時代になったものです。

 加賀屋敷の時代には、この育徳園の奥、東側には武士のグランド・馬場が有ったのですが、現在は学生のための小さなグランドになっています。
 北側に抜けると、東大の安田講堂が時計塔を持って建っています。その正面に突き当たる銀杏並木道を行くと、東大の正面になる、石造りの正門が立ちはだかっています。
 敷地全体は本郷通りが一番高く、そこからだらだらと低くなって、一番東の上野の不忍池まで、下がり続きます。結構な高低差があって、ボケッとした身でも、体感的にその傾斜は分かります。

 

地図

 
 

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写真


 それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

東大正門(東京大学正門、文京区本郷七丁目3)
 加賀藩前田家には無かった門ですが、東大の中央を占めるので、正門になった。ここを入ると正面奥に安田講堂があります。

赤門正面
 正門の南側にある加賀藩前田家伝来の門。屋敷があったときは、この奥は姫君達の屋敷があり、屋敷への正門はこの南側にありました。

赤門内側
 門の裏側も全て赤く塗られていたが、両側の番所は木地のままですが、元来は腰から下はナマコ壁でした。

レゴで作られた赤門
 東大生もいろいろなクラブを持っていますが、レゴクラブなんて有るんですね。そのクラブで作られた赤門です。

三四郎池
 育徳園と呼ばれた庭園の中心にある池を心字池と呼ばれていた。夏目漱石の小説「三四郎」に出てくる主人公がここを舞台にしたので、三四郎池と呼ばれるようになった。

カワセミ
 三四郎池は当時の姿を保っていて、周りの校舎も見えず学生もわざわざ訪れず、表通りの喧騒もなく、自然の静けさを保っています。そのお陰で、深山幽谷にしか住まないと言われるカワセミも住み着いています。

青大将
 同じように静けさを保っているので、1m以上の青大将も住み着いています。

                                              2013年5月記

 

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