落語「粗忽の使者」の舞台を歩く
古今亭志ん朝の噺、「粗忽の使者」(そこつのししゃ)によると。
上図;「古今亭志ん生」 山藤章二画 新イラスト紳士録より 志ん朝のお父さん志ん生も粗忽の使者をやっていたんですね。
■赤門;東京大学の南西隅の中山道に面した朱塗りの門。もと加賀前田家上屋敷の御守殿門で、文政10年(1827)第十一代将軍家斉の娘・溶姫が前田斉泰に嫁した際に建造したもの。現在東京に残っている赤門はここだけです。
■落語家さんの大部分は、行き先の赤井御門守は住所不定、又は今の丸の内、大名小路に屋敷を構えていた設定になっています。特に落語「妾馬」では丸の内になっています。同じ殿様ですが、志ん朝はハッキリと本郷・赤井御門守と言っています。加賀百万石前田家を指しています。
2.加賀前田家
右図;『近世人物誌 徳川溶姫君』 月岡芳年画
■加賀前田家上屋敷;現在の本郷キャンパスを切絵図と対照させると、北側の地震研究所、農学部グランド、野球場がもと肥前唐津藩下屋敷(小笠原信濃守)、その南側、応用微生物研究所、農学部、同農場、浅野地区がもと水戸藩中屋敷、本郷キャンパスの中心を占める一画はもと加賀藩上屋敷、そして病院は加賀前田家の支藩である大聖寺藩、富山藩の屋敷地であった。
本郷に設置された加賀藩江戸藩邸は17世紀初頭に下屋敷として発足し、その後、天和3年(1683)に上屋敷となった。なお中山道に沿って上方に上ると中屋敷(現在の文京区駒込=六義園の西)、下屋敷(現在の板橋区加賀=板橋宿の北側)があった。この屋敷には北陸の雄藩にふさわしい庭と建築群が建設された。
藩邸内部は心字池(三四郎池)を取り囲む育徳園と東側の馬場が中心を占め、その南西側に主要な建築が設けられた。西側はふたつの主要な門が中山道に向かって開かれていたが、南のものが「大御門」であり、その東側の広大な建築が藩主の公的私的な生活にかかわった御殿である。また北寄りの「御住居表御門」が赤門です。赤門は東京大学に現存する最も古い建築で、赤門の奥に広がるのは御守殿であって、藩主夫人の住宅である。また育徳園東側の馬場には享和2年(1802)に「梅の御殿」が建てられ、第十代藩主重教夫人(寿光院)、第十一代治修夫人(法梁院)が住んだ。
江戸切り絵図から「加賀屋敷」。中央に育徳園、その東に馬場があります。
■育徳園心字池(三四郎池);寛永3年(1626)前田家三代利常の時に、三代将軍家光訪問の内命を受け、殿舎、庭園の造成にかかり3年を要し完成させた。外様大名として誠意を示す必要があった。このとき完成した回遊式庭園が育徳園と呼ばれ、池を心字池といった。夏目漱石の名作『三四郎』は、ここを舞台としたため、「三四郎池」とその後呼ばれるようになった。
3.粗忽者
浅野内匠頭の家来・竹林忠七は殿様にすごく愛されていた。ある時、殿の月代(さかやき=頭部の髪の毛のない部分でチョンマゲを乗せる)を剃っているとき、柄が緩んできた。これでは殿の頭を切ってしまうと、咄嗟に柄を頭でとんとんと叩いた。激怒した殿様、注意をしていて、ふと平伏する忠七を見ると動かない。よくよく見ると寝ていた。
火急の使者に立って背中に魔除けの白矢を背負い、馬に乗って出掛けたが、途中で便意をもよおし、馬を下りて林の中に入った。背中の矢が邪魔になるので、近くの木に刺して用を足した。終わって、見ると矢が刺さっている「誰か拙者を狙っている者がいる」、周りを見ると馬が繋がれている「やはりそうだ。証拠もある」と、自分の用を足したものを見て言った。自分のした物を忘れてはいけません。
4.言葉
■普請(ふしん);建築・土木の工事。幕府では戦国時代〜江戸時代、大名・諸士・領民などに課した築城、寺社・宮殿の造営、家屋・河道の修理などの夫役(ブヤク)を普請役と言った。今回は赤井御門守の屋敷内ですから、そこで使われる職人衆の一人が、大工の留っこです。
■チョンマゲも直して;江戸っ子は髷(まげ)をセンターから少し横に曲げて乗せた。チョとずらすことで粋さを出した。武士はその逆で、型にはまったセンターに髷を置いた。
■エンマ;【閻魔】地獄に堕ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の主神、冥界の総司。地蔵菩薩の化身ともいう。像容は、冠・道服を着けて忿怒の相をなす。もとインドのヴェーダ神話に見える神で、最初の死者として天上の楽土に住して祖霊を支配し、後に下界を支配する死の神、地獄の王となった。地蔵信仰などと共に中国に伝わって道教と習合し、十王の一となる。焔摩。閻羅。閻魔王。閻魔大王。閻魔法王。
(右図)食い切り;釘抜きに似て、釘をはさむ部分が刃になっているもの。エンマはこの刃の部分が平になったもの。こんなので、いくらカカトみたいな硬い尻でも、挟まれたら切れてしまう。
東京大学本郷キャンパスにある赤門。加賀百万石の前田家の御守殿門で、徳川将軍の姫君を嫁にもらうと、この門が建てられた。建てられたが、気位の高い姫ですから、それを牛耳るのは大変なもので、気弱な殿様だったら負けてしまいます。嫁はやはり同じぐらいの考えを持った者どうしの方が上手く行きそうですが、戦国時代を含めて江戸時代も姻戚関係を結んでお互いの安泰を保証し合うのが常套手段です。現在の企業でも株を持ち合ったり、技術提携をしたりして、競争は敵対する相手だけとします。
部外者立入禁止の表示がありますが、赤門は日中開いていますので、何時でもここから出入りが出来ます。本郷通りに面したこの門は校舎を建てるため、明治36年(1903)本郷通りに向かって15m程移動して現在地に落ち着きました。昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定されています。
この門の前ではいつ行っても、記念撮影をしているグループに出会います。ま、東大の象徴のような門ですから。
奥に入って行くと、左手に鬱蒼とした木立があります。この一画が盆地のように低くなっていて、中心に回遊式の心字池があります。俗に三四郎池と呼ばれ、この方が通りは良いようです。ぐるりと池の周りの木漏れ日の落ちた散歩道を歩くと、滝があって池に流れ込んでいます。池の中には小島が有って、亀が甲羅干しをしていますし、池の中には錦鯉や大きな鯉が泳いでいます。島にはツツジが満開に咲き誇っています。
この庭園・育徳園は今でも自然のままで、亀などは歩いて来たのではないでしょうが、野鳥の宝石と言われる、カワセミが飛来し、鴨が羽を休めています。また、1mを越える青大将がノンビリと池の縁を散歩しています。江戸時代だったら、我々下々は近寄ることすら出来なかったのに、今は良い時代になったものです。
加賀屋敷の時代には、この育徳園の奥、東側には武士のグランド・馬場が有ったのですが、現在は学生のための小さなグランドになっています。
2013年5月記 |
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