落語「牛ほめ」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円窓の噺、「牛ほめ」(うしほめ)によると。
 

 与太郎さんがお父さんに呼ばれて、小石川の佐兵衛・伯父さんの所に家見舞いに行くように言いつかった。
 家の褒め方の文句を教わった。
 店を始めたので、店から入らず脇の格子戸から声を掛けて、声が掛かったら入って部屋で同じように丁寧に挨拶するように。「先日はおとっつぁんがご馳走になり、ありがとう存じます。」と言うんだ。
与太さん「先日はおとっつぁんがご馳走になり、ご愁傷様です。」噛み合わないが教わると、
「伯父さん、この度は結構なご普請なさいました」、「伯父さんこの度は結構なご主人亡くされました」。
「家は総体檜造りでございます」、「家は総体屁の気造りでございます」。
「天井は薩摩のウズラ木目でございますな」、「天井は薩摩芋のウズラ豆でございます」。
「畳は備後の五分縁でございますな」、「畳は貧乏でボロボロでございます」。
「左右の壁は砂ずりでございますな」、「佐兵衛のかかぁはひきずりでございます」。
庭を観て「庭は総体ミカゲ造りでございますな」、「庭は総体見かけ倒しでございます」。
 それから台所に行って褒めるのだが、大工が拙い仕事をしたから柱の上の方に節穴がある。隠す方法が分かっていたがお前に言わせようと黙って帰ってきた。
「この穴について心配はいりませんよ。秋葉様の火伏せの御札を張ってご覧なさい、穴が隠れて火の用心になります。そうするとお小遣いがもらえるよ」、「もっと空いてないかい」。
 「ついでに牛を褒めてあげな」、「牛は総体檜造りで・・・」、「牛の褒め方は、天角地眼一黒鹿頭耳小歯違という。書いておいたから覚えて行きな」。

 佐兵衛伯父さんの所で、丁寧に挨拶した。
 「先だってはおとっつぁんが殴り込みをして、ご馳走してあげたそうでありがとう」、「いえいえ」。覚えてこなかったので紙を読む事になった。「こっち向いたら家に火を着けちゃうぞ」。
 「家は総体檜造りでございます」、「お前にそんな事が分かるのか」。
 「天井は薩摩のウズラ木目、畳は備後の五分縁で・・・、佐兵衛のかかぁはひきずりだ」、「ひきずりとはなんだ」、「違った。左右の壁は砂ずりでございます。お庭は総体ミカゲ造りでございます」、「お前、まだ庭は観ていないじゃないか」。

 じゃ〜台所に連れて行け。・・・大っきな台所だ。あったあった節穴が」、「お前にも分かるか。大工が拙い仕事をしてな。何とかならないかな、この節穴」、「自分の腹から出たように言うからビックリするな。この穴は心配いらないよ。秋葉様の火伏せの御札を張ってご覧なさい、穴が隠れて火の用心になります。」、「よし、良い考えだ」、「言葉だけではなく、態度で示せ」、「分かった。後で小遣いやるよ」。

 次は牛を褒めるから、台所に連れてこい」。「牛は裏の小屋にいるから案内するよ」、「この牛褒めるから後ろを向け。天角地眼一黒?これなんて読む?いえ、何でもない。・・・何とかの何とかだ」、「誰かに教わってきたのだろうが伯父さんは嬉しいよ」、「あれ、この牛、馬糞したよ」、「まあまあ許せ」、「伯父さん、この牛の穴について心配はいらないよ」、「心配なんかしてないよ」、
秋葉様の火伏せの御札を張ってご覧なさい、穴が隠れて屁の用心になります」。



1.秋葉神社
 日本全国に点在する神社です。神社本庁傘下だけで約400社ある。 神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん。浜松市天竜区春野町)で現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源としています。

秋葉神社其の壱.台東区松が谷三丁目10−7。当初の名は鎮火社といった。明治2年(1869)暮れの大火を受け、明治天皇の勅命により翌明治3年(1870)に現在のJR秋葉原駅構内(東京都千代田区神田花岡町)の地に、火の神・火産霊大神(ほむすびのみこと)、水の神・水波能売神(みずはのめのみこと)、土の神・埴山毘売神(はにやまひめのみこと)の三柱を皇居内紅葉山より祀神として勧請したのが始まりである。
 江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はない(東京府が秋葉大権現を勧請したとする史料もあるが、当時の社会情勢からみても明らかに誤伝である)。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除地(空地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。
 鎮火社はいつしか秋葉社となり、明治21年(1888)日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が現在の上野駅から秋葉原駅まで延長され、秋葉の原の土地が払い下げられたのに伴って現在地松が谷に移転した。その後昭和5年(1930)に秋葉神社と改名された。 跡地の駅を、下町訛りを知らない(敢えて無視したとも考えられる)官吏たちが「あきはばら」と名付けたことが、今日世界的に知られる電気街「秋葉原」の名の由来です。

秋葉神社御由緒及びウィキペディアより 上;台東区・秋葉様の御札(7.5cmX12.5cm)

 秋葉神社其の二.墨田区向島四丁目9−13。正応2年(1289)五百崎(いおさき)の千代世(ちよせ)の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神が祀られていたという。江戸時代の初め、善財という霊僧が秋葉大神の神影を刻んで社殿に納めたとされる。
 元禄年間(1688〜1704)、葉栄(ようえい)という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上州沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになった。また、別当として千葉山満願寺を建立した。
 以来、鎮火・産業・縁結びの霊験により、庶民から大名まで広く信仰を集めた。享保2年(1717)には神祇管領(じんぎかんりょう)より正一位の宣旨を受けている。
 明治初めの神仏分離により、秋葉神社と称し、別当の満願寺は廃寺となった。大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲の被害を受け、現在の社殿は昭和41年(1966)に再建されたものです。
 

向島・秋葉神社御由緒より 右;向島・秋葉様の御札(7.5cmX26cm)

 

2.神田(かんだ)
 叔父さんの元・住まいがあった所で、東京都千代田区内の一地区。東京23区、中央に皇居がある千代田区の北側一帯の地。東京下町の江戸っ子が誇りにした地。江戸三大祭りの神田祭があります。

小石川(こいしかわ)与太郎さんが牛ほめに行った所で、東京都文京区の西側地区。上記神田の北側の地で、もと東京市15区のひとつ。文教・住宅地区。江戸時代以来の植物園(もと薬園)・小石川後楽園(水戸家上屋敷跡)・伝通院(でんづういん)などがある。礫川とも書く。

 小石川で超高級な家を普請する事は家道楽からすればおかしくありませんが、東京の中心地、江戸でも中心地であったここで、牛を飼うなんてとてもとても・・・。 

 

3.褒め方
家は総体檜(ひのき)造り;ヒノキ科の常緑高木。日本特産種。高さ30〜40m。材は帯黄白色、緻密で光沢・芳香があり、諸材中最も用途が広く、建築材として最良。柱から板からすべて檜を使っている家屋ということ。神社ウズラ杢仏閣は木造と言えば檜造りです。現在檜風呂を作るだけでも大変なのに・・・。

天井は薩摩のウズラ木目;「薩摩」というのは「屋久杉」を別名「薩摩杉」といったもの。針葉樹である屋久杉(樹齢千年以上の杉)や赤松の古木によく現れる、うずらの羽の模様に似ている木目が美しい天井板。希少性があって高価。
右写真;屋久杉のウズラ杢の天井板。銘木店にて

畳は備後の五分縁(べり);広島産の備後表を使い、縁(へり)は通常は1寸(3p)幅のところを風雅に1.5p幅に仕立てている高級畳。右下写真

壁は砂ずり;川砂を混ぜたしっくいで塗ってある壁。砂壁。茶室など洒落た和室の壁に用いる。

庭は総体御影造り;御影石を多用した庭造り。
庭は総体水陰造り;みかげ【水陰】=「みずかげ」に同じで、水辺。また、水辺の物陰を模した庭造り。さてどちらでしょうか。

牛の褒め方;「天角地眼一黒鹿頭耳小歯違」(てんかく、ちがん、いっこく、ろくとう、じしょう、はちごう) 。後半は一石六斗二升八合の語呂合わせ。角(つの)は天に向かい、眼は地をにらみ、混ざりけのない黒一色で、頭が鹿のよう、耳が小さくて、歯が互い違いになっている牛。

 伯父さんの家はどれもこれも、ふんだんに金を掛けた超高級造りの家屋敷です。ですから、節穴が空いた柱を使うなど信じられません。ご主人・佐兵衛さんが怒り落胆するのも無理はありません。

「天角地眼一石六斗二升八合」に似た話があります。
 立派な老僧から「大麦小麦二升五合」という有り難いお経を教わったお婆さん。常に唱えていたら奇跡が起こり歯の痛みや目のかすみが取れて、それを知った近隣の人達が病気を治してもらっていました。ところがある時、物知りのお坊さんが言う事には「『大麦小麦二升五合』ではなく、これは金剛経にある『応無所住而生其心』(おうむしょじゅうにしょうごしん)である。『大麦小麦二升五合』は間違いである。」と告げたのです。それ以後奇跡は起こらなくなりました。祈りはその人の心にあるもので、字面にあるものではないのです。
 変な屁理屈よりも真心から出ている与太郎さんの言葉の方が良いのかも知れません。

 

4.言葉
(ふし);節には2種類あって、生(いき)節と死に節。生節は回りの木の組織から分離していず、板(柱)から分離していません。死に節は節その物が完全に死んでいて、本体から脱落してしまいます。この噺では節は死に節で、節の部分が脱落して穴が空いてしまったのでしょう。

引きずり;遊女が裾を長く引きずっていた事から、『だらしない女』を非難したことば。きれいな着物を着ているだけで、はたらかない女を悪く言うことば。

普請;家を建てたり、直したりすること。

ご愁傷様;うれえいたむこと。嘆き悲しむこと。葬儀などの時に使う常套句。


 舞台の小石川を歩く

  明治の小石川区は現在本郷区と一緒になって文京区と名前が変わっています。JR水道橋東口を降りて神田川を渡るとそこが水道橋交差点、今渡った所が水道橋です。右側には都立工芸高校の彫刻が動いています。左側は後楽園ゆうえんちです。絶叫を聞きながら進み地下鉄のガードを潜ります。そうなんです、ここらは丘陵地がせまった谷あいの地ですから、地下から飛び出してきた地下鉄は上空をガードで飛び越して行きます。その先の交差点「春日町」は春日局の墓が右に上がったところにあるためですが、今回は左に曲がります。左側には豪勢な文京区役所があり、その先の富坂下交差点を右に曲がります。

 この道が江戸時代に千川(小石川)と呼ばれていた川の跡の道で千川通りと言います。この道の左右が小石川と現在呼ばれる所で、一丁目から五丁目まであります。道に沿っていくと大塚駅に出る道ですが、1kmチョットで共同印刷がある植物園前(旧・白山御殿前)という過去に豪勢な名前だった交差点に出ます。この交差点を右に入ると現在東京大学が管理している小石川植物園で、ここが五代将軍徳川綱吉の別邸があったところです。そこに薬園が作られ八代将軍徳川吉宗の時、全てが薬園になって、その地が診療所(療養所)になって貧しい人達を治療したところです。
 植物園前交差点の左に上がる広い坂が、江戸時代この辺りに松平播磨守の上屋敷があったことから、播磨坂と呼ばれています。 中央分離帯が公園になっていて桜が綺麗な所として文京区では推しています。桜の時期には「文京区桜まつり」が行われます。この坂を上がった所が、春日通りの小石川五丁目交差点。

 春日通りを左に曲がり、伝通院前の交差点を左に入ると突き当たりに伝通院が現れます。只今山門を作る工事をしていますので、雑然としていますが落語「鈴振り」で訪れた時と同じような格式と大きさを感じます。伝通院の東側にはあか抜けした校舎の淑徳女学校があります。
 墓には徳川家のお大の方(家康公生母)、千姫(二代目秀忠長女)、亀松君(三代家光次男)、孝子(三代家光正室)、於奈津(家康公側室)が静かに眠っています。
 春日通りに戻って富坂を下れば、文京区役所前の富坂下交差点に戻ってきました。

 キョロキョロしてきましたが、現在ベコを飼えるような場所はどこにもありませんでした。

 これから後楽園のドームで野球を観戦しても良し、遊園地で遊んでも良し、クワハウスで疲れを癒しても良し、水戸家上屋敷跡の純和風庭園・小石川後楽園を散策されてもいいでしょう。
 

地図

 

 


 明細「新選東京全図」明治18年4月3日出版

 地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

秋葉神社(台東区松が谷3−10)
 明治の始め東京府内に火災が頻発し市民の難渋するのを心痛した英照皇太后(明治天皇御母)の心によって、明治天皇より太政官にご下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉還し東京府火災鎮護の神社として今の秋葉原に創建された。

秋葉神社(台東区松が谷3−10)
 
毎年11月6日(曜日は問わず)鎮火祭が行われ、火渡り神事が行われる。本堂の前に火が焚かれ炭になった上を素足で宮司を先頭に渡っていきます。その後、見物の人々が参加して火の中を渡ります。熱くないと言いますが。

秋葉神社の火渡り
 毎年11月6日に行われる鎮火祭・火渡り神事。この日は小雨がぱらつく中、大勢の参拝者を集めて行われた。クリックすると6枚の写真が見られます。
2011.11.6.追記

秋葉神社(墨田区向島4−9)
 正応2年(1289)千代世の森と呼ばれ千代世稲荷があった。江戸の始め善財がここに秋葉神像を刻み納めた。元禄の始め葉栄が社殿を築き、満願寺という別当を興した。

秋葉神社(墨田区向島4−9)
  享保2年(1717)正一位になり、明治の始め神仏分離令により満願寺を廃した。大正12年の震災、昭和20年の戦災により焼失。昭和41年現在の社殿が再建された。

播磨坂

小石川区(現・文京区小石川4−14前)
 播磨坂とよばれ、小石川の中程にある桜並木で有名な通り。
江戸時代この辺りは松平播磨守の上屋敷があり、千川(小石川)が流れる一帯には「播磨田圃」が広がっていた。播磨屋敷の東側小石川(現在埋められ道路)を渡った地が、白山御殿と呼ばれた五代将軍綱吉の別邸があった。そこに薬園が作られ八代将軍吉宗の時、全てが薬園になった。その地が診療所となって貧しい人達を治療した。山本周五郎「赤ひげ」の舞台です。今は、小石川植物園で、入園できます。

殿通院

小石川区(現・文京区小石川3−14)
 
伝通院。応永22年(1415)創建。慶長7年(1602)家康公の生母お大の方が亡くなりここを菩提寺と定めた。法名「傳通院殿」から、寺名を傳通院と呼ばれ徳川家の庇護のもと大伽藍が築かれた。
 また関東十八檀林(落語「鈴振り」)の一つでもありました。隣に淑徳女学校を持っています。

駿河台

神田区(現・千代田区神田)
 文京区本郷、外堀通りから、神田川(外堀)沿いに対岸の千代田区神田駿河町を見ています。
 神田地区の町名は頭に神田を被し、神田○○町と呼ばれるか、内神田、外神田、東神田、西神田と呼ばれています。

駿河台下

神田区(現・千代田区神田)
 神田駿河台下交差点。靖国通りと明治大学前の通りの交差点。神田神保町と神田小川町が接する地。右前方に書籍の三省堂が見えます。

                                                                  2010年4月記

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