落語「大蔵次官」の舞台を歩く
   

 

 九代目 桂文治の噺、「大蔵次官」(おおくらじかん)によると。
 

 自分がその主人公になったように噺はじめる。どこでどんな吉運が待ち受けているか分からない。

 掛け持ちで新宿の末広亭が9時半。8時頃、須田町で都電を待っていると、万世橋方向から来た車がカーブを曲がり損なって転覆。運転手(運天死)は死んだが、車の中から十九ぐらいの女性が助けを求めていた。ガラスを破って助け出し、出血していたが背負って神田駅前の外科に担ぎ込んだ。

 新宿で仕事があったので帰ろうとすると、住所を聞かれたので、台東区稲荷町の高安留吉、お時間ですからの、お後がよろしいようでの、落語家で桂文治と自己紹介をした。1週間もすると女性も癒えて退院し、お礼がしたいからと使いの者が尋ねてきた。高利貸しの使いと勘違いして居留守を使ったが、麹町からお礼に来た事が分かり同道する。
 主人と会ったが、お嬢さんがそんなに優しい人なら、婿に欲しいという。私は落語家だけれどもそれでも良いのかと念押しすると、それでも良いという。
 こんな立派な家だが、借金だらけで、一緒になったとたん越後鉄道の収賄で捕まる事はないですよね。お嬢さんも喜んで赤坂のホテルニューオータニで式を挙げた。

 お父様は大蔵大臣だった。落語家の息子ではしょうがないので、大蔵省の課長級にポストを探した。その時、大蔵次官が失態をしたので、辞職させ家の倅を次官にさせようとした。
 お前は次官(時間)で交代したらいいだろう。
 


1.新宿末広亭
新宿末広亭

 新宿末広亭。http://www.suehirotei.com/ (新宿区新宿3−6)東京四席亭の一つで、終戦直後1946年に建てられた最古参の木造で、畳席が残る寄席。一番寄席らしい雰囲気を残す唯一の落語・演芸の場。

須田町(すだちょう。千代田区神田須田町);留さんは新宿行きの都電を待っているとき、自動車事故を目撃したところ。靖国通りと中央通の交差点。そこに過日都電が交差していて、賑わっていた。東西に両国・新宿間の12番系統の都電があった。南に神田、日本橋、銀座方面へ、北に万世橋、上野方面の都電が走っていた。

 「須田町派出所」 明治後期 江戸東京たてもの園 万世橋の際に建っていた交番。2014.10追記

 円生の「江戸散歩」によると、
 東京一の盛り場 須田町の所に電車の停留所が有りました。あすこがね、昔は東京一番の盛り場でした。と云って、みなさん信用しないかも知れません。本当なんです。(中略)
 須田町交差点の人てえのはなかった。電車が停まってもうぞろぞろ人でいっぱいでした。もちろん交通巡査がいましたがねえ、その時分に。まだ信号ができちゃいませんでしたが、ここところは交通整理しなきゃいけないだけ人が通ったんです。あと何処へ行ったって、銀座に行ったって何処へ行ったって、そんな事はないんですよ。須田町だけはまァひどい人通りでした。 (2011.9.加筆)

万世橋(まんせいばし);上記須田町の北側に神田川が流れ、それを渡す橋が万世橋です。その北詰の交差点が万世橋交差点。都電区間須田町から一駅。この北側一帯が秋葉原電気街です。
 落語「反対俥」で神田方向から、須田町、万世橋と通過した交差点。

 与太郎さんでも知っている万世。他の噺で与太郎さんが伯父さんにどやしつけられています。
「この馬鹿ッ。おまいぐれいの馬鹿は少ゥしばかりの馬鹿じゃァねえな、えゝ? 馬鹿は慢性だな」。
これに応えて「あはァ、その次は須田町だ」 。
慢性と万世の違いが分かって、受け答えするなんて、与太さんは相当なキレ者です。

神田駅前(かんだえきまえ);お嬢さんを外科病院に担ぎ込んだところ。JR(当時・国鉄)神田駅前。上記須田町の南側で、都電で次の停留所。

台東区稲荷町(いなりちょう);留さん文治が住んでいたところ。JR上野駅前から東(浅草方向)に都電で一駅目の街。現在地下鉄銀座線でも上野から一駅目の駅です。先代正蔵(林家彦六、1895年5月16日 - 1982年1月29日)が住んでいたので有名。その為、正蔵は「稲荷町の師匠」と呼ばれていた。その長屋に文治の弟子翁家さん馬(1941年4月27日- 2008年12月19日)も隣に住んでいた。

麹町(こうじまち);大蔵大臣の屋敷があったところ。千代田区麹町。皇居半蔵門からJR四谷駅までの新宿通り左右の細長い街。落語「ちきり伊勢屋」、「厩火事」で歩いたところ。

赤坂のホテルニューオータニ;東京都千代田区紀尾井町(赤坂から見える隣町)の旧伏見宮邸跡地。 着工は昭和38年(1963)年4月1日、竣工は1964年8月31日、9月1日開業。同年10月10日の東京オリンピックに間に合わせた。地上17階延べ床面積84,411m²、客室数1085室という巨大ホテル。また、17階という当時最高層のビルディングであるため、後に超高層ビルの基本となる柔構造理論で初めて設計、建設された。
 シンボルともいえる最上階の回転ラウンジは直径が45mあり東洋一と謳われた。その回転機構にはかつて大和 (戦艦)の主砲塔を回転させた技術が応用され、スムーズに1時間に1回転した。
 10年後、地上40階塔屋3階地下1階 延床面積88,600m² 、高さ144.5mという超高層ホテルが、別館のホテルニューオータニ・ガーデンタワー として同地に開業。
 また、地上30階地下3階、延床面積74,434m² 、高さ134.7mの、賃貸オフィスなどの入るホテルニューオータニ・ガーデンコートがオープン。東京三大ホテルの一つ。当然、結婚披露宴も盛大に出来ます。


2.都電
都電 都営(路面)電車の略。最盛期には41系統が存在し、総延長は213kmに及んだが、自動車の増加による運行の困難と交通局の経営悪化によって昭和42年(1967)から昭和47年(1972)にかけて181kmの区間が廃止され、都営バスや地下鉄に転換された。現在は三ノ輪−早稲田の荒川線だけになってしまった。 排気ガスも出さないエコな乗り物として見直され始めています。
 写真;荒川線、王子・飛鳥山脇を通過する都電。クリックすると大きくなります。

  須田町または万世橋を発着する都電は、
 1系統  品川駅前 - 三田 - 新橋 - 須田町 -万世橋−上野駅前
 10系統  渋谷駅前 - 三宅坂 - 半蔵門 - 九段上 - 小川町 - 須田町
 12系統  新宿駅前 - 四谷見附 - 市ヶ谷見附 - 九段上 -小川町 - 須田町−両国二丁目 - 両国駅前
 13系統  新宿駅前 - 四谷三光町 - 飯田橋 -万世橋− 秋葉原駅東口 - 水天宮前
 19系統  王子駅前 - 飛鳥山 - 駒込駅前 - 向丘二丁目 - 外神田二丁目 - 万世橋 - 須田町 - 日本橋
 20系統  江戸川橋 -護国寺前 - 千石一丁目 - 上野公園 - 万世橋須田町
 24系統  柳島 - 本所吾妻橋 - 浅草−上野駅前 -万世橋須田町
 25系統  西荒川 - 錦糸堀 - 両国二丁目 - 須田町− 小川町 -日比谷公園
 29系統  葛西橋 - 境川 - 水神森 - 錦糸堀 - 両国二丁目 - 須田町
 30系統  寺島二丁目 - 本所吾妻橋 - 上野駅前 -万世橋− 須田町
 40系統  神明町車庫前 - 上野公園 -万世橋 須田町 - 銀座七丁目

 意外と多いのが分かります。当時国鉄より運賃が安く、最寄りの場所に細かく停車したので便利でした。


3.高安留吉(たかやす とめきち)
 落語家・九代目桂文治の本名。(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日。享年85)落語協会所属。定紋は結三柏。出囃子は八代目桂文楽と同じ『野崎』。通称「留さん文治」(襲名までは単に「留さん」)と呼ばれた。周囲の薦めにより前名翁家さん馬から九代目桂文治襲名時、本人は「さん馬」=「産婆」のクスグリが使えなくなることと、襲名に多額の資金が必要な事から嫌がったという。彼は落語界屈指のケチとして有名だった。
 稲荷町(現・台東区東上野5−1)の長屋に住み、三代目柳家小さん門下だった八代目林家正蔵(彦六)とは兄弟分で部屋も隣り同士と懇意な間柄であった。なお彦六は一時、文治の最初の師匠四代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。 得意ネタは、本人を地でゆくような「片棒」、初代柳家蝠丸(十代目桂文治の実父)作の「大蔵次官」(この噺)、「口入屋」、「小言幸兵衛」、「好きと怖い」、「俳優の命日」、「岸さん」、「不動坊」、「歌劇の穴」、「宇治大納言」など。昭和47年(1972年)3月友人彦六、六代目三遊亭圓生と共に落語協会顧問就任、落語界最長老として活躍。

 落語「大蔵次官」(この噺)でのクスグリ
 ・「若い頃だけですよ、女性が男性に憧憬されたり、ベストを尽くされるのは。ましてや頭の毛がホワイトとなってごらんなさい。そして筋肉に緩みが生じてくるね。アクセントロジックのZ(ゼット)が迷宮に入ってごらんなさい、だぁれも構う者はないから」
 ・「顔面にホワイトのペンキを塗り」(十代目文治も使っていたクスグリ)


4.大蔵次官
 次官;国の行政をつかさどる府・省・庁等の国家機関においての官職で、長官に次ぐもの。各省および国務大臣を長とする各庁における大臣の補佐官。事務次官と政務次官とがある。
 これに対して、大臣を置かない機関(警察庁)や外局(法務省外局の公安調査庁、国土交通省外局の海上保安庁、経済産業省外局の中小企業庁など)では、次官ではなく次長と称する。

大蔵省;(Ministry of Finance)明治維新から2000年まで存在した日本の行政機関で、歳入歳出、租税、国債、造幣、銀行を扱う官庁とされた。特に戦後は、「省の中の省」、大蔵官僚は「官僚の中の官僚」と呼ばれた。
 2001年の中央省庁再編により大蔵省は分割され、財務省や金融庁(内閣府の外局)にその業務は引き継がれている。財務省は依然予算配分等に影響力は残すものの、予算編成権は建前上経済財政諮問会議に移され、又、金融行政は内閣府金融庁の管轄となった。
 大蔵省のトップを大蔵大臣と言った。大臣の中でもトップクラスの大臣です。現在は財務大臣。

越後鉄道;越後鉄道疑獄事件(えちごてつどうぎごくじけん)は、昭和2年(1929)に発覚した越後鉄道(現在のJR越後線)の国有化を巡る贈収賄疑惑事件のこと。 私鉄であった越後鉄道は1927年に国有化されたが、同年に5つの私鉄の免許交付や国有化を巡って贈収賄が発覚(五私鉄疑獄)したことから、その直後に行われた越後鉄道国有化についても疑惑が持たれた。
 1929年11月11日に当時の越後鉄道社長が逮捕されたのをきっかけに、当時の鉄道政務次官であった佐竹三吾(貴族院議員・元内閣法制局長官)が逮捕され、続いて当時の政友本党幹事長であった浜口内閣・文部大臣小橋一太にも収賄容疑がかかった。小橋は11月29日に文部大臣を辞任したが、12月18日に検事局に召喚された。
  翌1930年3月7日に小橋らは起訴され、同年12月20日の一審判決では小橋に懲役10ヶ月、佐竹に同8ヶ月の判決を受けた。だが、1931年8月10日の控訴審判決では小橋は無罪となり、佐竹らは有罪判決を受けた。無罪となった小橋は後に東京市長として復権する。


 
 舞台の須田町界隈を歩く

 JR秋葉原駅を電気街方向に降ります。出た表通りが中央通りで、この一帯が電気街と言われるところです。電気街と言われ続けてきましたが、最近はコスプレ姿の女の子がビラを持って客引きをしています。一度行ってみたい誘惑に駆られますが、一人ではその勇気も出ませんし、時間も作れません。行ってもタダの喫茶店なのですがね。また、オタクの街として一部の好事家には有名だったのが、今では電気街を圧倒し始めています。小学生の時に作った鉱石ラジオからの馴染みの街が、真空管アンプになって、ハイファイ装置がオーディオの時代に移り、また、アマチュア無線が平行してありました。その時代が過ぎて、パソコンの世界に突入、パソコンが主役顔をしていたら、大手の店も閉鎖され、いつの間にかオタクの街に色変わりしてしまいました。

 話戻って、中央通り左手に見える交差点が「万世橋交差点」です。ここに来れば世界中のCDが手に入ったものですが、今はあまり足が向きません。この噺の当時は都電が道路の中央を走り抜けていました。右(北)に行けば上野方面、左(南)に行けば、神田から日本橋に行けます。
 万世橋交差点の先(南)に架かる橋が万世橋で、神田川を渡しています。神田川は江戸時代の外堀で、人工的に作られ、ここから西側は台地を切り開いたため、お茶の水、水道橋と深い谷を作っています。
 万世橋を渡った右側はレンガ造りの高架が走る中央線で、始発駅があった万世橋駅跡です。その駅跡を利用した交通博物館がありましたが、鉄道博物館と名を変えて埼玉に移転しています。
 その中央線の高架をくぐり、落語「千両みかん」で来た「須田町交差点」に出ます。

 靖国通りと交差した交差点は都電の往来で賑わったところです。靖国通りを西に行けば九段の靖国神社から市ヶ谷、新宿に行けます。また東に行けば両国橋を渡って亀戸、千葉方向に行けます。
 須田町の西側には蕎麦屋やアンコウ鍋店などの老舗が残っています。須田町からこの辺り一帯が過日は青果市場があって賑わいを見せた街で、その名残に「万惣」の果物屋さんが交差点角に残っています。
 万世橋や秋葉原の電気街と違い集客力はないけれど、交通量は多い交通の要衝です。

 中央通りその先はJR「神田駅」で、ここ須田町から万世橋交差点と同じ都電の一駅です。留さんが、うら若きお嬢さんを病院に担ぎ込むには、丁度適当な距離でしょう。
 神田駅はサラリーマンの街ですから、飲食店、赤提灯が過当なくらいの競争をしています。また、金券ショップも多く、携帯電話の店、ビジネスホテルなど、仕事に欠かせない店が多くあります。
 神田駅を一回りしましたが、めぼしい病院は見つける事が出来ません、やはり自分で担いでいくよりも救急車の方が確実でしょう。

 そうそう、この神田、須田町、万世橋は落語「反対俥」、「黄金餅」で通過していた街なみです。

地図

  地図をクリックすると大きくなります。
 須田町交差点にあった案内図。右が北になっています。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

万世橋交差点

万世橋交差点(千代田区外神田1丁目、中央通りと外堀通りの交差点)
 万世橋と秋葉原駅のガードに挟まれた交差点です。秋葉原駅を中心に、この一帯はご存じ秋葉原電気街です。今は電気街と言うより「オタクの街・アキバ」と言われ、アニメやゲームを求め、観光客らもこれらのホビーショップを訪れ
ます。

万世橋

万世橋(外堀(神田川)に架かり中央通りを渡す)
 万世橋交差点から南の神田駅方向を見ています。橋を渡り中央線のガードをくぐり、須田町交差点に出ます。都電時代の一駅です。
 橋を渡った右側に交通博物館がありましたが、今は大宮に引っ越して鉄道博物館と名を変えています。

須田町交差点

須田町交差点(千代田区神田須田町、中央通りと靖国通りの交差点)
 須田町交差点です。ここから万世橋方向を見ています。写真中央から来た自動車がここで転覆したと言います。

神田駅

神田駅(千代田区鍛冶町)
 上記、須田町交差点から神田駅を見ています。ガード上に中央線の電車が到着です。その奥が日本橋で、高層ビルが三井タワービルです。

神田から須田町を見る

神田駅から須田町を見る
 神田駅から須田町を振り返って見ています。直ぐそこにあるのが分かります。当時都電で一駅の距離ですから。

稲荷町

稲荷町(台東区東上野5丁目)
 正蔵(彦六)と留さん文治が住んでいた長屋跡。長屋が切られて文治の家だけ残り、そこに後の翁家さん
馬が住んでいたが亡くなり奥様が住まわれています。その家の向こう側・駐車場になっているところが彦六の住まいがあったところです。

麹町

麹町(千代田区麹町1〜6丁目)
 皇居半蔵門から四谷駅までの新宿通り(甲州街道)の始まりになるところです(基点は日本橋)。その両側に位置する街で、回りには番町、紀尾井町、平河町に囲まれた政治経済の中心地です。5丁目から4丁目(皇居)方向を見ています。
 一歩中に入ると、歴史を感じさせる街が現れます。江戸時代麹が作られた地で、この様な町名になりました。

ホテルニューオータニ

ホテルニューオータニ(千代田区紀尾井町4)
 明治5年この地は紀伊家、尾張家、井伊家の頭文字を取って「紀尾井町」という町名になったところです。
 ホテルニューオータニがある地は近江彦根藩井伊家中屋敷があったところです。16代に渡って、石高35万石の譜代大名の筆頭で、大老職を任じられる名家であった。
 写真左が本館で最上階に回転ラウンジがある。右側が40階のガーデンタワーです。

                                                                  2010年3月記

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