落語「大山詣り」の舞台を歩く
   

 

 三笑亭夢楽の噺、「大山詣り(おおやままいり)」によると。
 

 現在、登山はスポーツやレジャーですが、当時は神信心で登っていた。講中があって富士山なら富士講、大山なら大山講が組織されていて、その講のリーダーが先達さんと言われ、山案内をした。
 当日は七つ立ち(午前4時)で、先達さんの家に集まった。「決め式を守ってくださいよ。腹を立てたやつは二分(1両の1/2)払い、暴れたやつは坊主だから。」と言う事で出発した。

 この決め式が効いたのか、道中間違いなくお山も済ませて、神奈川宿は大米屋さんという宿に入った。仲間の講から酒の差入れがあったので、先達さんが足して5升の酒を仲間に振る舞った。先達さんは若い者だけにしてあげるからと、早々に隣の旅籠に行ってしまった。
 酒が入った熊さんが、湯船に乱暴に入ってきた。熊が放った屁が仲間の鼻先で破裂した。それを吸い込んでしまったので、喧嘩が始まった。「俺は腹を立てたから、二分払うが、熊は暴れたので坊主にする」と息巻いたが、若者頭に止められた。しかし、酔っているので収まらない。熊を探すと酒と風呂で酔いが回って大の字になって酔いつぶれていた。
 仲間二人で熊の頭を坊主にしてしまった。

 翌朝は早立ち、お膳を一つごまかして、熊を置いて出掛けてしまった。
 女中さんに起こされ、始めて坊主になってしまった、自分を認めたが後の祭り。通し駕籠を雇って一足お先に江戸へ戻ってきた。

 熊の女房に、山に行った連中のおかみさん全員集めさせた。
 「今年のお山は素晴らしかった。帰り道、金沢八景に回って舟に乗る事になった。気が進まなかったが『残る』とも言えずに舟に乗った。船頭が『天気がおかしいので、またの日になさい』と言ったが、江戸っ子だからと舟を出した。烏帽子岩を回るときは解らなかったが、その先にポツリと雲が湧いて、見る見るうちに真っ暗になってしまった。ポツリポツリと雨が降ってきたが、間もなく前後も、雨も海も解らないくらいの雨になった。『キャ−キャ〜』言っていると、 突風も加わって、舟がひっくり返ってしまった。
 間もなくして気が付くと誰一人知るものが居ない。『船が沈んで浜に打ち上げられたのはアンタ一人だ』と言われたときは、海に飛び込んで死んでしまおうと思った。しかし『お前さんが死んだら、誰がこの事を知らせるんだ』と言われて、ハズカシながら江戸に戻ってきた。この先、いくら待ってもアンタ達のご亭主は帰っては来ませんよ」。
 若いおかみさん達は「ワァーワー」泣き出した。「みなさん、熊さんをなんて呼んでるんだい。ほら熊、千三つの熊、チャラ熊と呼ばれてるんだよ。ウソに決まっているだろう。」、「先達さんのおかみさん、そう呼ばれているが『生き死に』の冗談は言わない。皆さんの菩提を弔うために坊主になった。」と言って、頭の手ぬぐいを取って坊主頭を見せた。「見栄坊の熊さんが坊主になったのだから本当だろう。」と先達さんのおかみさんが泣き出したのでたまりません。井戸に飛び込もうとする者まで出たので「そんなに菩提を弔いたいのなら坊主になったら良い。」と騙して、全員丸坊主にしてしまった。
 百万遍の大きな数珠を回しながら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 話変わって、神奈川を出た一行。川崎、早昼。大森が八つ。日イッパイに品川に入ろうという、のんびりした旅です。品川八つ山下の茶屋に腰掛けて、迎えを待っている一行であったが、だれも顔を見せない。おかしいので、考えてみると「川崎宿で追い抜いていった駕籠が温気が激しいのにタレを降ろしていた。あれはきっと熊が乗っていたのではないだろうか。」、「それでは迎えは来ないだろう。」と言う事で、江戸に向かって歩き出した。
 長屋に着いてみると、線香の匂いがして、鉦の音がした。熊の家には尼さんが沢山集まっていた。「あの尼さんはお前のところのかみさんにソックリだ。」、「そんな馬鹿な事があるか。あっ!あれは俺のかみさんだよ。先達さんのかみさんもいるよ。あ〜、長屋中のかみさんが居るよ。お〜〜ぃ、みんな来いよ〜」。

 「さ〜ぁ、みなさん、死んで間もないから、亡者が入口当たりで騒いでいますから、しっかりお念仏を唱えてくださいよ。」、「あら、いやだ。家の人だわ。」、「誰がこんな事を。熊のやろうか。お前は決め式で坊主になったのだろう。」
 「ワラジを履いている内は旅の最中だ。腹を立てたら二分ずつ出しな。」、「う〜ぅ。話が出来ね〜。先達さ〜ぁん、来てくださいよ」。
 「バカだねぇ〜、家の婆さんまでが坊主になっちゃって・・・。こんな目出度い事はありませんよ。」、「とんでもない。二分を取られた上に、どこが目出度いんだ」。
 「お山は無事済んで、家に帰れば、くりくり坊主。みなさんお怪我(毛が)無くてお幸せ」。

(写真;1994・32号「落語」東西全落語家名鑑より)

 


1.大山 阿夫利神社 (おおやま・あふりじんじゃ。神奈川県伊勢原市大山355)
 大山は神奈川県丹沢山塊のひとつ標高1253mの山頂に本社がある、大山阿夫利神社 。神社創立は、今から2200余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代であると伝えられています。それは古い事、なにせキリストが生まれる以前の事ですから。
 古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を大福山と呼ばれています。  
 天平勝宝4年(752年)に良辯(りょうべん)大僧正が入山してようやく不動堂建立以来の時運到来、神仏習合の機が熟し、堂塔僧坊を建て、霊石の由縁をもって石尊大権現と称し、雨降山大山寺と号しました。摂社には、古くから大天狗・小天狗が祀られていると言われていました。 大山阿夫利神社公式ホームページ http://www.afuri.or.jp/

 高尾山だけではなくここにも天狗がいたんです。
 雨降山と言うだけあって、年がら年中山頂は雲の中にあります。 

  一般に参拝するのは標高700m程の阿夫利下社までで、旧暦6月27日から7月17日まで(07年は8/9-8/29)が祭礼で、奥の院石尊大権現の参詣が許される。この時期に行楽をかねて参詣するのが、江戸の年中行事となった。

図版;北斎「相州大山ろうべんの滝」(下に写真有り)

雨降山(あぶりさん)太山寺
 本尊は不動明王、俗にお不動さん。文永11年(1264年)に願行上人が鋳造。明治初期の廃仏により阿夫利神社と別れて、ケーブルカーの途中駅不動前の所にあります。
 雨降山太山寺公式ホームページ http://www.oyamadera.jp/

 慶長10年正月、東照宮の命に依て不学不律の僧は下山させられた。下山させられた修験者や僧が「御師(先導師)」と呼ばれるようになり、彼らが大山詣での勧誘、講中の結成のため関八州を廻り、参詣時には宿泊場所を提供し、大山登拝の先達を勤めた。彼らのこのような活動により、大山講・お花講・天狗講といった講中が各地に広がり、宝暦年間(1751〜64)には年間2〜30万人もの人達が大山へ訪れた。この災い転じて福となしたものです。
  現在「不動詣り」といえば成田山新勝寺のほうが有名ですが、江戸時代はもっぱら大山不動のことを指し、高幡不動・成田不動と共に関東の三大不動の一つとされました。


2.「大山道」について
 
太山道と言われる道は関東近辺に沢山あります。それだけ大山信仰が盛んだった証拠で、まるで世界の道はローマに通ずると言われるように、関東の全ての道が大山につながっています。
 江戸(東京)中心から最短街道は厚木大山街道(246号線)、別名矢倉沢街道と言います。青山通り、玉川通りから、多摩川を渡り厚木大山街道と名を変えて、町田、座間、厚木、伊勢原を通って大山の麓につながります。今は麓から登山はせずにケーブルカーが山腹まで運んでくれます。
 江戸からのもう一方の行き方は東海道を下って横浜(神奈川宿)の先、戸塚から右に折れて長後街道から厚木の南を抜けて伊勢原に出るコースもありました。
 矢倉沢街道と東海道との中間を並行して走る中原街道で進み前記長後街道で右折する方法もありました。
  また、八王子から南下する方法と、それより都内よりの府中から南下する方法もあります。これは中山道の板橋から富士街道を通り田無を抜けて、府中に入り、町田で矢倉沢街道に合流します。

 その為、関東各地に「大山道」の道路標識の石柱が建っています。

 通常、江戸からの参拝は、厚木大山街道を通り2〜3日目の晩に大山に到着。先導師宿で1泊、翌早朝参拝して、帰りは伊勢原・田村を経て東海道へ出て、翌日に藤沢へ泊まり精進落とし、江ノ島や鎌倉を見物した。金沢八景は舟での見物となるのでもう少し贅沢な遊びになった。 この噺では藤沢ではなく神奈川宿(横浜)でも1泊します。
 現在も大山詣りは盛んで、夏の参拝期間になると、東京をはじめ関東周辺から多くの講中がお詣りにやってくる。山麓には数十軒の宿坊があり、講中が到着すると先導師が祈祷や道案内をし、宿を提供してくれる。
 
参拝というのは表向きで、本来は男たちの羽目を外しての楽しみであった。だから(?)女人禁制とし男だけの大山講になっています。
 「不動から上は金玉ばかりなり」となり、
 「こはい者なし藤沢へ出ると買ひ」となった。
 一人江戸に置いて行かれるなんて心外で、酒癖が悪いのを棚に上げて、どうしても同行したかった熊さんだった。 
上図;広重・東海道五十三次細見図絵「程ヶ谷・戸塚へ二り九丁」。 図をクリックすると大きくなります。

「程ヶ谷・戸塚へ二り九丁」の絵の中にある2m以上ある木製の奉納太刀。江戸東京博物館蔵 08年11月追記

■大山講御神酒枠(付け箱);大山詣でに用いられた道具で、奉納する酒や大山でいただいた神水を入れるもの。天保3年(1832)に山田村(現・都筑区北山田町)の大山講中によって作られた。バックは講中の掛け札。宿の入り口に下げておいた。
横浜市歴史博物館より。08年11月追記

写真をクリックすると大きくなります。

 

  下図に主な大山道を上げておきます。大田区立郷土博物館資料より

           
練馬区北町1−38北町
児童公園内
江戸東京博物館蔵 複製
246号三軒茶屋交差点
 
左;神奈川県藤沢市下土棚1757-1
長後街道・いすゞ自動車前の旧道(大写真あり)
右;長後街道・厚木市下津古久785天宗寺入口

 迂回路の練馬区だけでも合計5基の道標があります(練馬区教育委員会)。都内全域でしたら十基以上の道標があるのでしょう。

 

四ッ谷不動(大山道標)
東海道と大山道が交差する四ッ谷辻に建てられた道標。道標の上には不動尊の像、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」と刻まれています。延宝4年(1676)江戸・横山町の講中が建てたもの。左・東海道、右・大山道。この辻には茶屋が出て賑わった。大山まで約20km。
1号線(東海道)歩道には旧街道の面影を残した松並木があります。

旧東海道松並木 四ッ谷不動 藤沢IC近く

写真をクリックすると大きな写真になります。

■神奈川宿(神奈川県横浜市神奈川区神奈川町と青木町)
 
神奈川宿は江戸日本橋から三番目の宿駅で、日本橋からは七里ほどの距離。中世以来の湊として栄えた神奈川湊(袖ヶ浦)のそばにあり、水陸交通の要衝として役割を果たしていました。現在の台町あたりはかつて袖ヶ浦を見おろす景勝地で、本牧や房総を眺望することができましたが、今は海も埋め立てられて眺望は良くありません。横浜開港に関わった宿場であり、開港後に宿内にある寺院が諸外国の領事館にあてられました。当時の神奈川宿は、東海道に沿って町並みが続き、宿の中心を流れる瀧の川(現在の滝野川)を境に神奈川町(東側)と青木町(西側)とに分かれていました。神奈川町には将軍の宿泊施設である御殿(神奈川御殿)が置かれ、東海道有数の宿場として栄えました。
 この地名が県の名前や区の名前のもとです。またここが、近代都市横浜の母体でもありました。しかし、関東大震災と第二次世界大戦とによって、歴史的遺産の多くを失いました。そのため地元の人でさえ、東海道がどこを通り、宿場町の様子がどのようであったかを知る人は少なくなりました。現在、宿場町当時のものをほとんど失ってはいますが、台町や洲崎大神などに、当時の面影を見つけることができます。

図版;広重「東海道五十三次の内・神奈川」 穏やかな東京湾の際に神奈川宿があり、客引きが旅人の手を引いています。 図版をクリックすると大きな図版になります。神奈川宿については落語「宿屋の仇討ち」に詳しい。

旅籠・大米や;右図神奈川宿ですが、右下に神奈川町の街道に面したところに「大米や」と明記されています。ここに泊まって熊さんを丸坊主にしてしまったのです。
 落語ってすごいですよね。講談と違って歴史的にも地理的にも正しい内容になっています。

図;「細見神奈川絵図」天保15年(1844)横浜開港資料館蔵  2013.9.追記

品川八つ山下(東京都港区と品川区の区境辺りの第一京浜国道)
 神奈川宿の次は川崎宿(落語「蜘蛛駕籠」で歩いたところ)です。その次が品川宿。海が見えて風光明媚な所でした。この宿を抜けたところに八つ山が有って、よしず張りの茶店が並んで、小腹の足しに休んでいったところです。江戸から出るときも、帰ってきたときも、ここで迎えの者と落ち合ったり、別れたりした所で、今は近くに品川駅が有ります。
 このあたりは武蔵野台地の突端にあたる丘陵で、海岸に突き出た洲が八つあったところから八ッ山と呼ぱれた。この道はもと三間道路と呼ばれ、道幅は三間で、あたりには人家も少なく、夜はさびしい通りであったといいます。八つ山は削られて今はなく、東海道線をまたぐ八つ山橋に名を止めています。 隣に御殿山があって桜の名所でしたが、これも削られ山も桜も無くなってしまいました。

図版;国芳「大山詣で高輪の図」 名古屋市博物館蔵  左に東京湾を眺める高輪の茶屋。 八つ山から江戸に向かうとここ高輪があり、東海道の送り迎えの場所であった。図版をクリックすると大きな図版になります。
 

3.金沢八景
1.称 名 晩 鐘  (しょうみょうのばんしょう) 称名寺の鐘の音が洩れてくるように聞こえる夕暮れの情景
2.小 泉 夜 雨 (こずみのやう) 大川上流の南岸から、手子明神付近の雨の情景
3.洲 崎 晴 嵐 (すさきのせいらん) 洲崎の松並木が風にゆれ、音を立てている様子
4.乙 艫 帰 帆 (おっとものきはん) 乙艫の海岸に漁を終えて帰ってくる帆かけ舟の景色
5.瀬 戸 秋 月 (せとのしゅうげつ) 瀬戸橋付近から見た仲秋の名月
6.平 潟 落 雁  (ひらかたのらくがん) 遠く海の彼方には雁が列をなしておちていく平潟湾
7.野 島 夕 照 (のじまのせきしょう) 海をへだてて房総を望む景勝地野島の漁村の夕なぎ
8.内 川 暮 雪 (うちかわのぼせつ) 内川、瀬ケ崎方面の夕暮れの雪景色

 今から300年程前元禄7年に明の心越禅師が能見堂(今の能見台)からの風景が故郷中国の瀟湘(しょうしょう)八景にそっくりと絶賛。景色を八編の詩に詠ったのが金沢八景のはじまりといわれています。
 同じ頃歌人の京極兵庫高門が金沢八景のうたを詠み、八景の名はひろがりました。
 その昔、絵師、巨勢金岡が能見堂からの景色を写生しようとしましたがあまりの美しさに持っていた筆を投げ捨てたという伝説があるほどの景勝地であった。しかし、安藤(歌川)広重は風景画を最上級の味わいでしっかりと描きました。

  広重が描いた金沢八景の版画が、横浜市金沢区のホームページ
http://www.yokohama-kanazawakanko.com/course/hakkei/index.html にあります。

 

4.両国水垢離(みずごり)
 江戸時代、庶民が旅行することは自由ではなかったが、信仰のためであるなら比較的寛大であった。そこで、伊勢参りや富士参り、大山参りなどが通行手形を受ける口実となった。こうして、大山詣りは江戸で大流行し、江戸中期の宝暦年間(1751〜63)にはもっとも隆盛となった。
 江戸から大山詣りに行くことを、江戸では「山立ち」という。半纏または白の行衣に鉢巻を締め、梵天(幣束)と一丈余の木太刀を押し立て、先達が吹く法螺貝に合わせて「お山は晴天、六根清浄」「懺悔(ざんげ)懺悔、六根清浄」と掛け念仏を唱えながら先達を先頭に出発した。
 山立ちの前の洗垢離は江戸の名物のひとつといわれ、『江戸砂子』は「浅草にて十七目こりをとりて、石尊禅定するなり。乳のかぎり水にひたし、ざんげざんげ、六根罪障、おしめにはつだいこんからどうじ、大山大聖不動明王、石尊大権現、大天狗、小天狗という文を唱えて、もも度水をかづくなり」と記しており、垢離場で契りをしてから出立したものである。また垢離場では大太刀を担いで渡るのが慣習でした。
 この垢離場は両国橋の際、竪川との間にあって隅田川の水で身を清めた。今の墨田区両国1−2の川端で、当時の両国橋は今の橋より下流に架かっていましたので、東に橋を渡って 土手を右に降りた辺りです。 隅田川は白魚が棲んでいたほど綺麗な時代です。

 図版;(上)北斎、「両国納涼」部分。両国橋を渡る雑踏の中に大太刀を掲げて水垢離に行く人が見えます。
(下)国芳描く両国の花火。花火見物を楽しむ屋形船と、それに売り舟が商売をしています。画面右側で大太刀を掲げ水垢離をしているグループがいます。
図版をクリックすると、どちらも大きな図版になります。

数珠と鉦
 

 帰ってきたらカミさん連中が数珠を回していたという、大きな数珠。その時叩いていた鉦と撞木。
横浜市歴史博物館より。08年11月追記。

 


  舞台の大山まで訪ね歩く

 関東各地から何十本もの大山道が通じていた。江戸からは途中で一泊し、翌日は宿坊に泊り、早朝に起きで参拝をして早々と下山する。帰路は同じ道を帰るが、途中藤沢 ・神奈川などで精進落としと称して宴をはるのが楽しみでもあった。またそれが目的でもあった。当時、旅として約1週間程かかりました。
  その道を旧道を走りながら走破したら、次のようになりました。
  日本橋−【厚木街道】−厚木、56km の距離があった。またここから、大山まで11km、往路67km。早立ちしないと到底歩ける距離ではありません。昔の人は健脚なのが解ります。先に言っておきますが、帰りは大山−伊勢原−【長後街道】−戸田−長後−戸塚で【東海道】に合流−神奈川−日本橋  復路75km。その途中で大山への道標を見つけて撮影していますが、見落としたものも何ヶ所かあります。もし、近くに道標があったら写真を送って下さいますかm(_ _)m。ここに、掲載させていただきます。
 車で走っても一日がかりですから、当時の行楽としては大変な事であり、また楽しみであったのでしょう。

 落語協会で大山参拝をしたときに、大真打をはじめ多くの落語家さんは頂上の大山神社を征服出来ずに、惨憺たる状況で下山したという。落語愛宕山に同伴した幇間ではありませんが、最初の元気はどこへやら、さんざんの大山詣りであった。ま、この実体験が噺の厚みにな るのでしょうが。

 現在も大山参りは盛んで、夏の参拝期間になると、東京をはじめ関東周辺から多くの講中がお参りにやってくる。山麓には数十軒の宿坊があり、講中が到着すると宿を提供して、先導師が祈祷や道案内をしくれる。
 大山の先導師宿は大山バス停を中心に街道沿いに張り付いています。今は都内からでも日帰りで充分参拝が出来ますし、遠足や校外学習で来る小学生がハイキング気分で楽しんでいます。
 ここ大山は、大山コマでも有名でお土産屋さんに、多くのコマが並んでいます。また、豆腐でも有名でケーブルカーの登り口前にも、山に上がった所の下社前の茶店にも豆腐を売る店が並んでいます。ま、名物ですから一口召し上がってください。

 えぇ? 私ですか?
  大山の頂上、大山阿夫利神社本社までは行っていません。見晴台まで行ったのが最高で、雲の中からは山腹が望めただけで、下界は見る事も出来ませんでいた。
 そうそう、豆腐とビールは旨かった。ほっと一息、人心地がつきました。

 

地図

     地図をクリックすると大きな地図になります。 

大山阿夫利神社公式ホームページ http://www.afuri.or.jp/ より

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

神奈川沖
北斎描く「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
あまりにも有名な”富士山と波”ですが、この場所が神奈川沖です。この海は東京湾ですので、外洋と違ってこんなに凄まじい波は立ちません。でも、台風や大しけの時は立つのでしょうね。こんな大きな波裏を見ながら進んだら、誰しも肝をつぶす事でしょう。金沢八景も同じ東京湾内です。

金沢八景
広重描く「金沢八景・野島の夕照(のじまのせきしょう)」
この穏やかな海が、一転して悪魔の海になったと、嘘をつく熊さんであった。

大山遠景(神奈川県厚木市戸田)
相模川に架かる戸沢橋。長後街道を渡しています。この橋上から望む霧にもやった大山です。

大山先導師宿
伊勢原からバス終点に掛けてと、ケーブルカー乗り場に掛けては先導師○○の宿という看板が並んでいます。麓の宿は先導師の宿です。

大山ろうべんの滝
本文中の北斎画「相州大山ろうべんの滝」の現在です。
天平勝宝4年(752年)に良辯(りょうべん)大僧正が入山、最初に水行を行ったところ。高さ1丈3尺(3m94cm)。
滝の上部鬼の面、いえいえ、龍の頭から水が流れ出しています。安い温泉宿のお風呂場みたいにライオンの口から湯が流れているのと似ています。
黒く見えるのが水に濡れて光っているからで、足元は水たまりになって、枯れ葉が堆積しています。北斎が観たような水量はなく、岩場を伝わって流れ落ちている湧き水程度の悲しさです。

大山ケーブルカー
大山の登り口に当たる「追分駅」を発車するケーブルカー。

大山阿夫利神社下社
ケーブルカーで登ったところにある大山阿夫利神社・下社です。

両国水垢離場(墨田区両国1)
ここは隅田川。左に両国橋、右に新大橋、正面首都高速道路。土手が切れたところが、竪川の河口。舟がいる辺りに水垢離場が有りました。

                                                       2006年7月記

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