落語「縁切り榎木」の舞台を歩く
   

 

 春風亭正朝の噺、「縁切り榎木(えんきりえのき)」によると。
 

 若旦那が徳さんの所に相談に来た。親がお前の好きな人と結婚しろと言う。
 芳町の芸者小春は器量が良い上に芸が立って頭が良い。もう一人は本所横網町の資産家のお嬢さんお久さんで本所小町と言われた娘さん。どちらも同じくらい大好きで、どちらが良いか迷っているので、アドバイスを求めてやって来た。
 徳さんが言うには「人の心を試すのはいけないが、『店を継ぐには、奉公に出なければいけない。2〜3年は掛かるだろうからその間は逢う事ができない。その間に素敵な人が出来たら一緒になっても良い。そのことで苦情は言わないから』と言って、相手の出方をみて選びなさい」。 と、
 他に手だてがないので、試す事にした。

 芳町の小春の所に来て、2〜3年逢えないと言うと、「2〜3年逢えないのなら、なぜ、待てと言ってくれないのですか。あっ、結婚するのですね。別れろと言うんでしょ。知っていますよ、本所横網町のお嬢さんではありませんか」。「違うよ。そんな事はないよ」。「私は若旦那一筋なんですよ。芸者がダメなんですか。それだったら、芸者を辞めて機織りにでもなって、その日を待ちます」。あまりにもの熱烈な言葉にタジタジになって横網町に向かった。

 お久さんにも同じ事を言うと、「私が嫌いになったんでしょ。心に決めていたので2年でも3年でも待ちます。・・・本当は別に好きな人が出来たのでしょ。言って嫌われるのがやだったので言わなかったが、芳町に小春という芸者さんが居ると聞いています。その方と一緒になるのですね」。お久の言葉にもタジタジになって、慌てて退散した。

 徳さんの所に戻って、いきさつを話し、どちらも私にぞっこんで見分けがつかない。とノロケるように愚痴った。
 迷っていると、徳さん「それだったら、”縁切り榎木”を飲ませればいい」と言う。が、どちらに飲ませるかが分からないので悩んでいる。では、両方に飲ませて最後まで効きが薄い方を選ぶのはどうでしょう。
 と言う事で、縁切り榎木がある板橋にやってきた。

 縁切り榎木の前で、茶店のお婆さんに削ってきて貰うように頼んでいると、一台の俥がやって来て、そこから芳町の小春が降りたった。続いて二台の俥が止まって、横網のお久さんと婆やが降りてきた。
 どうして二人の女性がここに来たのだろうかと、若旦那が考えていると「そうか、二人とも相手の女性に飲ませて、私との縁を切らせようとするんだな」と分かった。 愛おしさがつのった。
 そこまで私の事を想ってくれているのなら、一生涯二人とも面倒を見ようと決心が付いた。
 二人を呼び寄せて、「相手の女性に榎木を飲ませようとしたんだろ」と言うと、
 二人は声を揃えて、「いいえ、若旦那に飲ませようと・・・」。

 


1.「縁切り榎木」の噺について
 
この噺は名人三遊亭圓朝の原作。最近は演じる落語家が少ない噺の一つです。私のライブラリーにもこの1話だけしかありません。しかし、正朝は歯切れ良く明るい二人の娘さんを演じきっています。
 思い違いの悲しいまでの結末ですが、これなら思い違いのままで幸せに暮らせたのに。「知らぬは仏なり」と。

落語「阿武松」でも、ここ板橋の縁切り榎木を歩いています。


2.縁切榎
(えんきりえのき。板橋区登録文化財)
 江戸時代には、この場所の道を挟んだ向かい側に旗本近藤登之助の抱え屋敷がありました。その垣根の際には榎(えのき)と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃から縁切り榎木と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなる事を恐れ、その下を通らなかったと言います。
 板橋宿中宿の名主であった飯田侃(かん)家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)下向の際には五十宮(いそのみや)などの姫君下向の例にならい、榎を避ける為の迂回路が作られました。そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る1kmの道のりです。
 なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆う事と命じた触書の内容が伝わったものと考えられ、実際は筵で覆った下を通った事はなかった。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮をそぎ取り煎じ、密かに飲ませるとその願いが成就されるとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めた。
また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれている。
板橋区教育委員会、平成18年3月の説明版より。

  図版;「江戸と東京 風俗野史」 伊藤晴雨著 国書刊行会より

由来; 縁切り榎(えのき)の由来はいろいろあるが、その一つ、”榎”と”槻”とが並んで立っていたので、続けて言うと、エンツキ(縁尽き)になり、縁が切れるという俗信が生まれた。もう一つは、享保年間に江戸で一代で豪商になった、油商伊藤身禄が富士の北側の道を開き、そこで入滅するため、ここで家族と縁を切って旅立ったので、縁切り榎と言うようになったと言う。どちらにしろ、縁が切れると言うことで、この榎の下を嫁入りや婿入り行列が通ると不縁になるとされ、行列はここを避けて通ったといわれる。
 文久元年(1861)、孝明天皇の妹、和宮が十四代将軍家茂に降嫁した時は、その榎の下を迂回したと言われる。和宮の結婚生活は5年に満たず、将軍の死で未亡人になった。そして、もと婚約者の有栖川宮はやがて東征大総督として江戸へ、薄幸の和宮は榎の下を通ったせいであろうか。他の宮家の婚礼の行列も、この榎の下を迂回したと言われる。
 この信仰は逆に、離婚を願う女性達をひきつけ、この榎に願掛けし、その木の皮を削って煎じて呑ませると、離婚されると信じられた。離婚の自由を持たない女達が、この榎の彼方に、自由な世界を夢見たのであろう。
  「板橋へ三行半(みくだりはん)の礼参り」という川柳がある。
落語・阿武松より

類似実話;根岸鎮衛著『耳袋』に拠った。
 中山道の最初の宿場である板橋宿のはずれに、「縁切榎」と呼ばれる榎の木があった。この榎の皮をはいで煎じ、別れたい相手に飲ませると、男女の縁が切れるという俗信があった。
 寛政のころ、本郷に流行っている医師がいた。医師は女房がありながら、下女と情を通じていた。女房はふたりの仲には気づかぬふりをしていたが、しだいに下女が増長する。しかも、下女に執着するあまり、医師は仕事もおろそかにするようになった。心配した女房は、医師の弟子のひとりに相談した。 「このままでは、家は潰れてしまう。どうにかならないか」。弟子も心を痛めたが、自分が医師を諌めるわけにもいかない。困ったものだと思いながらも、どうすることもできなかった。
 たまたま、弟子は縁切榎のことを小耳にはんだ。さっそく、医師の女房に告げる。 「榎の皮を煎じて飲ませると、縁が切れるそうでございます」 「では、こっそり皮をはいで、持ってきておくれ」。弟子はひそかに板橋宿に出向き、縁切榎の皮をはいで戻った。皮をこすり潰して粉にした。
 翌日の朝食には、医師の好物のあつものが用意された。女房はこのあつものに、粉をふりそそいだ。たまたま、奉公人のひとりがこれを目撃した。毒殺を疑い、そっと医師に告げた。朝食の膳についても、医師はあつものには手をつけない。女房が勧めた。 「あつものは好物ではございませんか。なぜ、召し上がらないのですか」、ますます医師は疑いを強め、 「食いたくない」と、まったく手をつけようとしない。 「まさか、毒でもはいっているというのでしょうか」 「食いたくないものは、食いたくないのじゃ」、医師がことばを荒げる。
 ここにいたり、女房は疑いを晴らすため、 「では、あたしがいただきましょう」と、医師の目の前であつものを食べて見せた。その後、いろんな事情が重なり、医師と女房は離縁することになった。
 まさに縁切榎の功徳であろうと、人々は噂した。

江戸の醜聞愚行』 永井義男 より  

 

3.芳町と横網
■芳
(よし)(現在は中央区日本橋人形町1丁目の3丁目の一部)
 浅草の北側にある遊郭吉原は新吉原と呼ばれていました。その理由は明暦3年(1657)1月、江戸の中心地、日本橋の東側、日本橋新和泉町、高砂町、住吉町、難波町を合わせて吉原と呼ばれていた所から移転した為です。元吉原に対して新吉原と呼ばれ、その後”新”が取れて吉原と呼ばれました。移転費用も幕府から補助を受けての強制であったが、移転1ヶ月も経たない 同月に明暦大火(振り袖火事)が発災し、元吉原は全焼したが、新吉原は火災から逃れられた。

 話戻って、元吉原はなくなったが、色気漂う街として復活した。その町名が芳町と呼ばれ、昭和の町名変更まで使われました。ここに芸者小春が住んでいました。
 近くには落語・宮戸川で有名な「小舟町」。落語・百川天災の舞台、三光新道の「三光稲荷」。落語・宿屋の富の「椙森(すぎのもり)稲荷」、「水天宮」。落語・百川死神の「日本橋」などがあります。落語寄席の殿堂であった、「人形町末広」もこの近くにありました。

■本所横網(よこあみ)(墨田区横網)
 この街はお相撲の街としても有名で、両国駅の北隣に国技館もあります。ですから、横綱(よこづな)と読み違えないでください。
 ざっと隅田川東岸のJR両国駅と蔵前通りに挟まれた街で、この一角には先程の「国技館」、「江戸東京博物館」、「東京都慰霊堂」 (横網町公園)、「旧安田庭園」、学校、病院などの施設があります。

写真左:現地に立っている横網町地図。写真右:昨秋の旧安田庭園の紅葉。どちらもクリックすると大きくなります。

 

4.イモリの黒焼き
 
縁切り榎木の樹皮と逆なのがこのイモリの黒焼きです。イモリの黒焼は惚れ薬として江戸時代から売られていた。この粉末を相手の頭の上から掛けると、自分に好意を寄せてくれるようになるとか、湯に溶かして飲ませると良いとか言われた媚薬です。
 ほかには、イモリ酒(イモリを酒につけたもの)があります。 これも、相手に飲ませると、相手を引き付ける効き目があると考えられていました。

 落語に”イモリの黒焼”の噺があります。
 ある若者に好きな娘が出来た。片想いなので、どうしても自分の方に心を向けたいと願っていたが叶わなかった。先輩に聞くと、それに効く良い薬があるという。それはイモリの黒焼。早速捕まえてきて黒焼きにして試したが一向に効き目が現れなかった。先輩の所に行って、効かないと言って、その黒焼きを見せると、「これでは効かないよ。これはヤモリだ!」。

 総元祖黒焼
 「とにかく古い黒門町であって、以前は黒焼屋が軒を並べていた。今の人はイモリの黒焼きというものを知らないだろうが、催春剤よりもっと高尚な作用を及ぼす薬である。つまり想う相手に、 その薬を使うと、先方もこっちを恋愛してくれることになっている。それも相手に黒焼きを服用させる必要もなく、相手の気付かぬうちに、その頭上にふりかけさえすればいいそうである。この頃流行のフリカケの一種らしいが、恋愛という精神的食欲を誘うのだろう。そんな黒焼を、大きな看板を出して黒門町で売ってたのである。少なくとも、十軒ぐらい黒焼屋があって、どこも元祖を名乗っていたが、今度、電車の窓から覗いて見ると、たった一軒、総元祖という黒焼屋が残ってるだけだった。
『獅子文六「ちんちん電車」』より   *電車とは、今は無き路面電車の都電の事です。

 伊藤黒焼総本舗;千代田区外神田6丁目16−7にある、東京でただ一軒残った黒焼き屋。上野広小路中央通りから外神田に向かう右手は旧黒門町で、ここに老舗の黒焼屋があります。黒焼の種類は、「蝸牛(カタツムリ)」 、「馬歯(バシ)」、「地龍(ミミズ)」、「意守(イモリ)」、「寒鮒(カンブナ)」、「林檎」、「蝮(まむし)」等々50種類程販売。
 イモリの黒焼き見せて貰いました。グレー色をした粉末で無味無臭で、一日3回ティースプンすり切れ1杯を飲むと精力、体力増強剤として有効だそうです。ただし、振りかけて使う事はないそうです。

 

5.一里塚の「榎木」
 徳川三代将軍家光の寛永年間に、大老の土井利勝は旅人の便宜を図って、往還道に一里塚を設けた。これは街道の両側一里ごとに土を盛り、そこに松の木を植え、旅人の休憩と旅程を計る便宜にと植えたものであるが、松の木ばかりでは旅人が退屈であろうと利勝は考え、改めて将軍家光に意見を求めた。すると、家光は 、
「利勝の言うとおりだ。一里塚には、余の木を植えさせよ。」
と言った。ところが利勝は、”余の木”(ほかの木)を”榎(え)の木”と聞き誤ってしまい、一里塚に榎木を植えるようになった。今も一里塚といえば、決まって榎木が植えられているのは、その為です。
『雨窓閑話』より

同じような話で、「松」の話があります。
 今の皇居二重橋前の広大な芝生の緑地には松の木が植えられています。江戸城だった頃、ここに何の木を植えたらいいのかお伺いを立てたところ、「まつがいい」と言うご返事。当時江戸幕府は緊縮財政をしいていたので、将軍は「待つがいい」と返事をしたのが、受け手は「松が良い」と聞き違えたとも言われています。その誤解のお陰で、素敵な皇居前の風景を現出しています。

 


  舞台の縁切榎を訪ね歩く

 板橋が架かる旧中山道は商店街の一方通行の細い道です。JR板橋駅を北側に出ると交差する道が旧中山道です。左に進むとまもなく首都高速道路を道の上に乗せた中山道のバイパスに突き当たる、と言うか旧道を斜めに断ち切っています。バイパスを渡ってその先に板橋宿の横断看板が掛かっています。ここからが平尾宿で、進むと中宿になります。ここまでは賑やかな商店街で人も混み合っています。間もなく上宿に入り石神井川に架かる板橋が見えてきます。木製風の橋ですが、れっきとした近代的なコンクリートの橋です。橋の手前には「距 日本橋二里二十五町三十三間」「日本橋から十粁六百四十二米」の木製標柱が建っています。左側には並行してバイパスの中山道が走っています。橋を渡って人通りも閑散として、間もなく右手に交番、その先の小さな縁切榎交差点の右角に、榎が立つ小さな緑の一画が「縁切榎」と小さな祠です。

 境内はと言うより小さな空間に榎と榎大六天神が詰め込まれています。その榎大六天神の祠手前にコンクリート詰めされた初代(元祖)の榎が展示されています。また、おみくじも売っていてその名を「リセットみくじ」と言います。
 江戸切り絵図(地図)では縁切榎の表示はありませんが、街道の左手に「近藤石見守の抱え屋敷」と表示されています。絵図の左隅に表示されていますので、地図上でもここが江戸の市街の境界線です。
 この街道を上(のぼ)っていきます。街道の先は京都ですから上ると言い、京都に近い方を上宿と呼ばれています。すぐに環状7号線にぶつかって、旧道は途切れてしまいますが、人は信号に従って天井の低いトンネルを抜けるとそこは雪だった。ゴメン、冗談は別にして旧道はつながっていきます。環状7号線を左に曲がると並行していたバイパスに出ます。その下には都営三田線の板橋本町駅ですから、都心に戻れます。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 おみくじマップの掲示板より

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

板橋(板橋区本町)
旧中山道に掛かる板橋。石神井(しゃくじい)川に架かり、この橋名から町名になり、区の名前までになった橋です。この前後に板橋宿が栄え、写真の前方にある(見えないが)宿外れに「縁切り榎木」があります。

縁切り榎木(板橋区本町18)
上記の板橋から北西に進むと小さな交差点「縁切榎」の右手に現れてきます。江戸時代の榎はカメラマンが立っている側に立っていました。その初代榎は下記鳥居をくぐった右手に墓標のように建っています。

縁切り榎木、榎大六天神(板橋区本町18)
縁切榎の小さな境内です。奥に榎大六天神が祀られています。縁切りの願はここにお願いする事になります。手前の竹で幹を覆われているのが榎で、心ない参拝者に傷つけられないようにとの親心です。

縁切り榎木、古木(板橋区本町18)
旗本近藤登之助石見守の抱え屋敷にあった初代榎はコンクリートの中に埋め込まれてしまいました。

東京都 慰霊堂(墨田区横網2、横網公園内)
大正12年9月1日関東大震災が起こり、東京市だけで5万8千人が犠牲になりました。この震災の中でも最も被害が出たこの地に避難してきた住民の大半が火炎に巻かれて亡くなったのです。その遺骨だけで2〜3mを越す山になったと言われています。
再び惨禍がないことを祈願して、昭和5年に慰霊堂が竣工しました。以来毎年祭典法要が行われてきましたが、昭和19、20年の大空襲により10万人をこえる犠牲者を出す事になります。納骨堂を増築し、遺骨を奉安し、毎年法要が行われています。堂に入ると当時の惨状が大きな油絵や写真で展示されています。

国技館(墨田区横網1−3)
日本相撲協会 http://www.sumo.or.jp/kokugikan/index.html 
昭和60年(1985)1月、国技館の開館で、1万1千人が収容できる相撲のメッカで、相撲博物館も併設されています。
 吊り屋根と土俵は自動昇降で格納可能、相撲以外のイベントホールとしても使用できる。また、災害時のために館内に食料備蓄倉庫をもち、雨水を浄化する装置、自家発電機も完備している。関東大震災級の大地震に襲われても耐える耐震構造である。敷地内には、相撲診療所、相撲教習所なども併設されている。

江戸東京博物館(墨田区横網1−4)
公式ホームページ http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
江戸東京博物館は、失われつつある江戸東京の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史と文化を振り返ることによって未来の東京を考えるために設立された博物館です。
4本足の建物は大屋根の下が空間になっていて、屋根裏(?)が展示室になっています。

芳町(中央区日本橋人形町1&3)
写真は人形町交差点から江戸橋、日本橋方向を見ています。写真の左右の街が芳町でした。

昭和12年「日本橋」の地図

                                                  2006年2月記

 あとがき;編集後記ではありませんが、この表題で書くのは初めてです。この話「縁切り榎木」をまとめて9割方出来上がったところで、何を勘違いしたのかこのファイルを削除してしまいました。エクスプローラから削除した時は必ず「ゴミ箱」に残るのですが今回はアプリ ケーションから削除したのでゴミ箱にありません。フリーソフトに削除したものを復元するソフトがありまので、早速検索しましたが有りません。結果、有ったのですが上書きされていて、トカゲの尻尾しか有りません(ファイル名はあったのですが内容が全く復元できませんでした)。いつもは別の外部ハードディスクにバックアップを取っていますが、月に1回程度だったので、ここにもありません。振り出しから作成し直しです。この落語は没にしようかと1ヶ月ぐらい放置しましたが、取材も終わっていたので、気をとり直して完成させたのがこれです。何か書き残したような、活きのいい文章が無いと思われますが、ご勘弁下さい。
 ファイルの削除には重々お気を付け下さい。

 

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