吉原田んぼの太郎稲荷
読者の菅沼和男さんからメールで、新しい情報をいただきました。以下そのメールの一部を紹介します。(平成13年9月)
| |
はじめまして。毎回楽しく拝見しております。
私も、落語に多少は興味がありまので、実際に紹介された舞台の何箇所かは歩いてみ
たことがあります。
特に「ぞろぞろ」の舞台になつた太郎稲荷は生まれ育った所に近く、2、3年前に出向
いてまいりました。
その時、調べた事柄について、ご参考までにお知らせします。
落語の中では,浅草田圃の真中といわれておりますが、切絵図等ではなかなか見当た
りません。
そこで図書館等でいろいろな地図を見たところ、「明治4年東京大絵図」(明治12年
2月19日御届)に
「太良イナリ」と称する稲荷が、浅草田圃の南西の隅にあることを知りました。そこは
「立花ヒタ」とありますから、
間違い無く、太朗稲荷だと思います。
さて、現在もその近くに太朗稲荷は存在しています。それは台東区立金龍小学校(西
浅草三丁目、私が6年間学んだ母校です)
の近くです。同小学校は三ノ輪方面に向かって合羽橋道具街通の東側に位置していま
すが、その反対側、つまり西側の細い路地
を入ると、稲荷特有の赤い幟が何本か立っているので、すぐお分りいただけると思い
ます。
旧町名では,光月町(こうげつちょう)と称したところです。
また、ある書物によると、太朗稲荷は興亡を何回か繰り返し、盛んなときは大変な人
で賑わったそうですね。
落語では参詣客も途絶えた寂しい時期であつたことを彷彿とさせてくれます。
また、このうらびれた稲荷の様子を描写した版画があることをご存知ですか。
最後の浮世絵師といわれ、光線画で名を馳せた小林清親が「浅草田圃太朗稲荷」として
浮世絵版画に残しております。
是非一度、最寄の図書館等でご覧いただくとともに、HPに取りこまれたらいかがで
しょうか。「ぞろぞろ」の舞台そのものです。
今後も頑張って、レポートをお続け下さい。
____________________________
菅沼 和男
|
私からの返信
| |
菅沼さん こんばんは
うれしいお便りありがとうございます。
「ぞろぞろ」の”太郎稲荷”
よくぞ教えてくれました。
台東区にある「一葉記念館」を訪れたとき
名作「たけくらべ」の中に、主人公が住まいの吉原脇から
この太郎稲荷に願掛け参りに行く記述があるのです。
明治20年代の話しです。
亀戸の記述と食い違いがあるので、おかしいとは思っていたのです。
これで菅沼さんのお陰で、謎が一つ解明できたことになります。
亀戸は江戸の末期に移したと言われていますので、たぶん分社でしょう。
旧・光月町はまさしく立花家の下屋敷が有った所で、屋敷稲荷です。
私の明治11年内務省製作の地図にも光月町の西隅に「太郎イナリ」と
小さく記述されていました。
小林清親画「浅草田圃太朗稲荷」の版画は知りませんでした。
太郎稲荷の帰り道に台東区図書館に寄って見ます。
これからも、何かありましたら、お教えのほどお願いします。
(本気で言っています)
本当に、落語って良いですよね。
---------------------------------
吟醸 <ginjo@mx4.ttcn.ne.jp>
URL <http://www2.ttcn.ne.jp/~ginjo/>
---------------------------------
|
ということで、取材に出かけてきました。
吉原田んぼの太郎稲荷、

太郎稲荷の参道 幟が沢山あがっています。多くの参拝者に愛されているのでしょう。

太郎稲荷の社 参道の突き当たりに有ります。
この日、30分ほど居ましたが誰も参拝客は来ませんでした。今は”閑”の時、お参りに行けば大きなご利益が有るかもしれません。願を掛けるなら今の内。
「太郎稲荷」の大流行の終焉について 菅沼 和男氏調べ
大名屋敷内の鎮守への参詣行動はほかにもいろいろ見られたようですが、「太郎稲荷」のそれは江戸最大の流行で、背景には、享和年間の麻疹(ハシカ)の流行があったようです。
そして明治元年に衰退をみせるまでは、何回も流行り廃れを繰り返したとのことです。
その様子を『増訂武江年表U』より拾って見ましたので以下にご紹介します。
(慶応3年<1867>9月)同月の頃より、浅草田圃立花侯下屋敷鎮守、太郎稲荷へ参詣群集する事始まれり、(中略)此の辺新堀と唱えし溝の両側へ、茶店、食舗等立てつらね、桜の稚木を栽へ並ぶ事一町程なり、石の鳥居、石灯籠、桃灯、幟幕等、夥しく奉納し,日々参詣して新符を乞受け、霊験を仰ぐ人多かりしが、翌年四月の頃よりして次第に絶えたり。
(明治元年<1868>) 去年より俄かに諸人群をなして、春は殊に賑ひけるが、世上の忽屑によりてか、四月の頃よりして謁祠の輩次第に減じければ、いまだ造作なかばなりし商店も、皆空しく廃家となれり。
とあります。このように桜の木がそれほど大きくはないとしても、約100メートル強にわたって植えられていたということですから、大変な賑わいだったわけです。そしてこれより10年程して廃れてしまった太郎稲荷を小林清親が版画にして後世に残してくれたことになります。
なお、その昔、「太郎稲荷」を題材とした歌舞伎が上演されたとの記録もあるそうです。
以上 菅沼和男氏調べ (ありがとうございます)
小林清親「浅草田圃太朗稲荷」の浮世絵版画、台東区中央図書館にて。

古山恵一郎氏「近代都市の暗がり」に上記版画のカラー版があります。当時の時代背景をよく考察されています。
http://www.geocities.com/deho1999/dh99/villamoderne.htm
皆様の情報によって益々、面白くなってきました。ありがとうございます。
<戻る>