吉原田んぼの太郎稲荷
読者の菅沼和男さんからメールで、新しい情報をいただきました。以下そのメールの一部を
紹介します。(平成13年9月)
はじめまして。毎回楽しく拝見しております。
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私からの返信
菅沼さん こんばんは
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ということで、取材に出かけてきました。
吉原田んぼの太郎稲荷、
太郎稲荷の参道 幟が沢山あがっています。多くの参拝者に愛されているのでしょう。
太郎稲荷の社 参道の突き当たりに有ります。
この日、30分ほど居ましたが誰も参拝客は来ませんでした。今は”閑”の時、お参りに行けば
大きなご利益が有るかもしれません。願を掛けるなら今の内。
「太郎稲荷」の大流行の終焉について 菅沼 和男氏調べ
大名屋敷内の鎮守への参詣行動はほかにもいろいろ見られたようですが、「太郎稲荷」
のそれは江戸最大の流行で、背景には、享和年間の麻疹(ハシカ)の流行があったよう
です。
そして明治元年に衰退をみせるまでは、何回も流行り廃れを繰り返したとのことです。
その様子を『増訂武江年表U』より拾って見ましたので以下にご紹介します。
(慶応3年<1867>9月)同月の頃より、浅草田圃立花侯下屋敷鎮守、太郎稲荷へ
参詣群集する事始まれり、(中略)此の辺新堀と唱えし溝の両側へ、茶店、食舗等立
てつらね、桜の稚木を栽へ並ぶ事一町程なり、石の鳥居、石灯籠、桃灯、幟幕等、
夥しく奉納し,日々参詣して新符を乞受け、霊験を仰ぐ人多かりしが、翌年四月の
頃よりして次第に絶えたり。
(明治元年<1868>)
去年より俄かに諸人群をなして、春は殊に賑ひけるが、世上
の忽屑によりてか、四月の頃よりして謁祠の輩次第に減じければ、いまだ造作なか
ばなりし商店も、皆空しく廃家となれり。
とあります。このように桜の木がそれほど大きくはないとしても、約100メートル強に
わたって植えられていたということですから、大変な賑わいだったわけです。そしてこれ
より10年程して廃れてしまった太郎稲荷を小林清親が版画にして後世に残してくれたこ
とになります。
なお、その昔、「太郎稲荷」を題材とした歌舞伎が上演されたとの記録もあるそうです。
以上 菅沼和男氏調べ (ありがとうございます)
小林清親「浅草田圃太朗稲荷」の浮世絵版画、台東区中央図書館にて。
古山恵一郎氏「近代都市の暗がり」に上記版画のカラー版があります。当時の時代背景
をよく考察されています。
皆様の情報によって益々、面白くなってきました。ありがとうございます。
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