昔、江戸(えど)の浅草(あさくさ)の観音様(かんのんさま)のうら田んぼのま
ん中に、小さな古びたおいなりさんがありました。そのそばに、これまた、小さなさ
びれた茶店。おじいさんと、おばあさんの二人が細々とやっているという。
○ 「ばあさん。ちょいと出かけるぜ。」
● 「あらっ。おじいさん。どちらへ?」
○ 「べつに用足しじゃねえ。たいくつだから、ちょいと散歩だ。」
● 「そうですか…、じゃあ、おいなりさんへお参りしたら、どうです?」
○ 「いやだね。あのおいなりさんはご利益(やく)がねえから、お参りする人がねえん
だ。おかげで、この店で休む者だってありゃしねえ。」
● 「あたしは毎朝、お参りをしてますよ。」
○ 「ああ、わかった、わかった。じゃあ、ついでにお参りしてくるから。」
おじいさん、表へ出ました。あっちへぶらぶら、こっちへぶらぶら。そろそろ店へ
帰ろうと、近くの橋をわたろうとすると、
○ 「のぼりが落ちてるじゃねえか……。これはおいなりさんののぼりだ。子ども供たち
があそびで持ち出して、そのまんまなんだ。よし、とどけてやろう。」
○ 「{いなりのほこらの前へ来て}おいなりさん。のぼりが落ちておりましたので、お
とどけに参りました。お初(はつ)にお目にかかります。あたしは、この近くの茶店
のあるじでございます。これから、ちょいちょい来ますので。{かしわ手を打つ}」
○ 「{店へもどって}ばあさん。今、帰ったよ!」
● 「ああ、おじいさん。お帰りなさい。お参りしましたか。」
○ 「ああ、したとも。橋のたもとにのぼりが落ちてたもんで、とどけてやった」
● 「まあ、おじいさん。いいことをしましたね。」
○ 「そうかい。ご利益あるかね。」
● 「そりゃ、ありますよ。」
○ 「そいつは、ありがたいな。{外を見て}おや…? 雨がぽつぽつやってきたぞ、ば
あさん。」
● 「さっそくご利益ですよ。お参りしたからこそ、雨はおそくふりだしたんですよ。お
参りしなかったら、早めにふりだしたはずです。」
○ 「そうかい……。つまらねえご利益だな。おい、ばあさん。ぽつぽつどころじゃねえ
ぞ。ぼんをかえしたようなえらいふりになったぞ」
● 「ますますご利益ですよ。お参りしなかったら、おじいさんはずぶぬれで、かぜをひ
いて……、それをこじらして……、あの世に。」
○ 「ばかなことを言うなよ。ああ……。天気だって客は来ねえんだ。雨がふった日にゃ、
もうだめだ。今日はもう店をしめようや。」
客1「{急に、客が入ってきて}ごめんよ。休ましてもらうよ。」
○ 「はい…。{おくへ}ばあさん。閉めることはねえ。客が来たぞ。」
● 「おいなりさんのご利益ですよ。」
○ 「そうか。こいつは、ありがてえ。」
客1「雨がやむまで休ましてもらうぜ。茶を入れておくれ。」
○ 「はい、ただ今。」
客1「この雨にはびっくりしたな。急にきたからな。」
○ 「{お茶を運んできて}おまちどうさま。」
客1「ありがとうよ。{じっくりと飲んで}いい茶だ。{外を見て}おっ、雨はあがったよ
うだな。そろそろ、出かけるか。{おくに向かって}じいさん、いくらだ?」
○ 「ありがとう存じます。六文(ろくもん)、ちょうだいいたします。」
客1「ほいきた。茶代は、ここへ置くぜ。{外へ出ようとして}ああ、雨が上がったのはい
いんだが、道がぬかってるよ。買ったばかりのはき物をよごすのはしゃくにさわるし
な。はだしってえのは、かえってつるつるすべってすってんころり。着物までよごし
ちまうよ。こういうときは、わらじがあるといいんだがな。
{おくへ}じいさん。店にわらじは置いてねえのかい?」
○ 「ありがとうございます。一年前から売れ残ったのが一足、天じょうからぶる下がっ
ておりますんで。八文でございます。あいすいません、引っ張ってくださいまし。す
ぐにぬけるようになっておりますんで。」
客1「{わらじを引っぱって}ほいきた。はきよさそうだな、これは。」
○ 「ありがとうございます。お気をつけなすって。{おくへ}ばあさん。本当に今日は
みょうな日だな。あのぼろぼろのわらじが売れちまったんだから。」
{するとまた、客が来て}
客2「わらじ、あったらもらいてえんだが。」
○ 「わらじですか? あいすいません。今、売り切れてしまいまして。」
客2「弱ったなあ。{天じょうを見て}お? あるじゃないか」
○ 「えっ? あっ! ある……。一足、ぶる下がってる。一引く一は、なしだよ。それ
が、一引く一は、一、ということは……」
客2「なにぶつぶつ言ってんだい。売るのかい、売らないのかい?」
○ 「売ります。売ります。八文です。引っぱってくださいまし。ぬけるようになってま
すので。はい……、ありがとうございます。お気をつけなすって。」
{また、客が来て}
客3「わらじ、ねえかな!」
○ 「また、わらじですか……? もう、本当にありませんでっ」
客3「ねえのかい……。{天じょうを見て}何を言ってるんだ。あるじゃねえか」
○ 「は? ありますね……。気味が悪い……」
客3「いくらだい?」
○ 「八文でございます。引っぱってくださいまし。{おくへ}ばあさん。お前も見てろ。
ちゃんと、見てるんだぞ。客が八文を置いて……、わらじを引っぱって……、足ごし
らいをして……、出てったな……。な、もう、わらじはねえはずだろう、なっ。{天じ
ょうを見て}あっ!」
おどろくのは当然で、天じょううらから新しいわらじがぞろぞろ!
○ 「ばあさん……。見たか…。見たかっ。」
● 「見ました。おいなりさんのご利益ですよ。」
この「ぞろぞろわらじ」のひょうばんが、あっというまに、近郷近在(きんごうき
んざい)に知れわたりました。明くる日、店の戸を開けると、子どもからお年よりま
でが八文をにぎって、「ぞろぞろわらじ、おくれ!」ってんで、ずらあっという行列。
この行列が浅草から大阪まで……。まさかそれほどでもありませんが。
さて、この茶店の前に一けんのとこ屋がありました。ここの親方、毎日毎日、自分
のひげばかりぬいて、同じことばかり考えている。
□ 「この店も、客が来なくなったなあ……。{前の茶店を見ながら}それに引きかえ、
なんだい、あの茶店の人だかりは。今まで、こんなことはなかったぜ。どういうこと
だかきいてみよう」
親方は、じいさん、ばあさんから、「ぞろぞろわらじ」のことを聞かされて、おいな
りさんへすっ飛んできました。
□ 「{ポンポンとかしわ手を打って}おいなりさん、おいなりさん。初めまして。あっ
しは茶店の前のとこ屋でござんす。このところ、まるっきり客が来ませんで、こまっ
ております。店にあるだけのぜにを持ってきまして、さいせん箱に入れました。どう
か、とこ屋も茶店のわらじ同様、ぞろぞろはんじょういたしますように!{ポンポン
とかしわ手}」
親方、自分の店にもどってみると、
客4「親方、どこへ行ってたんだい!」
□ 「は…? {辺りを見回して}ここはおれの店だよなあ……。{客に向かって}失礼
ですが、あなた様はどちら様で……?」
客4「よせやい。おれは客だよ。」
□ 「客……? ああ……、おなつかしい……。{思わずだきつく}」
客4「おいおい、だきつくなよ」
□ 「ありがてえ! ご利益はてきめんだ。この客の頭が仕上がって帰ると、あとから新
しい客がぞろぞろっ。帰ると、ぞろぞろっ。ぞろぞろっ。」
客4「なに泣きながら、ぞろぞろ言ってんだよ。」
□ 「ついうれしいもんで泣いてしまいました。もっといをはじきますんで。」
客4「おっと、頭はいいんだ。おれはひげだけやってもらいてえんだが。」
□ 「かしこまりましたっ」
親方が、うでによりをかけて、客の顔をつうっとあたると、なんと、あとから、新
しい髭が、ゾロゾロ!
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