落語「夢金」の舞台を歩く

  
 

 古今亭志ん朝の噺、「夢金」(ゆめきん)によると。
 

  雪の晩、浅草の船宿に一癖有りそうな武家の兄と姿造りイイ妹連れが深川まで屋根船を頼みに来た。夢の中でも「金欲し〜い・・。200両ぉ〜、100両ぉ〜でもいい〜、」と言うぐらい欲張りの船頭”熊蔵”が一人だけなので、主人も断ったが、酒手を弾むからと仮病も引っ込め船を出した。大川に出て雪の中、船を進めるがいつまで経っても酒手が出ない。中を覗くと男は女を飽きずに覗き込んでいるので、酒手を弾めば陸(おか)に上がってやるのにな〜と、思っていたが相変わらず酒手は出ない。船を揺すると中に入れとの言葉、酒手が出ると思い 中に入ると、欲張りを見込んで金儲けを勧められる。
 女は妹ではなく花川戸で会った娘。男を追って家出した娘で、男の居場所を知っているからと誘い出してきた。金を持っているので殺し金を奪って、駄賃を2両くれるという。武士が泳ぎが出来ないと分かると、人殺ししてまで金は欲しくないし、2両とはしみったれているので嫌だと、震えながら交渉。山分けにしよう、と相談が決まった。船の中で殺す訳にはいかないので、中洲に降ろしてそこで殺す事に決まった。浪人をまず中洲にあげといて、とっさに船を大川に引き戻し、「もー少しで、上げ潮になって背が立たないぞ〜。侍が”ともらい”と名前が変わって、土左衛門侍め〜。ばかぁ〜!」と、悪態を付きながら船をまなべの河岸に着けて、色々聞くと本町のお嬢さんと分かった。
 家に連れて行くと、大騒ぎの最中。お礼は後日伺うが、まずは身祝いと酒手を差し出す。どうせ殺しを手伝っても、その後で斬り殺されてしまうのが関の山と、断りつつ受け取ったが、失礼な奴でその場で包みを破いて中を見ると、50両が二包み。「100両だ! ありがてぇ」両手でわぁ!と握りしめると、あまりの痛さで目が覚めた。元の船宿で夢を見ていた。どうしてそんなに痛いのか考えてみたら、奴さん金と間違え、自分の急所を思いっ切り握りしめていた。”強欲は無欲に似たり”と言うお話でした。

 


 下ネタのオチですが、ここまで噺をしないと題名が浮かんできません。先代金馬は『身祝いの酒手を受け取り、100両と100両を両手に持って、「200両ぉ〜」、「こら、静かにしないかぃ」、「ああ、夢だ」。』と品良く落としていますがこれでは題名が分かりませんので、志ん朝の噺を取りました。

 

1.初夢のベストは「一富士、二鷹、三なすび」
 
金運の夢はベストにありませんが、ここでは強欲が起こす喜悲劇の物語です。話の中で殺しを手伝へと言われるが、「人まで殺して金は欲しくない。ただただ金が欲しいだけだ」と震えながら答える。従わなければ殺すと脅されて、初めて「死ぬのと、金が入るのとでは考えさせてくれ・・・。では手伝うが幾らくれる。」、流石に金には一本筋金が通っています。
 円生がマクラで、『欲深い男に「100万円上げるが、その代わり殴って殴って殺すがどうだ。」と持ちかけた。男は「痛いんでしょうね・・・。それでは、50万円でイイから下さい」と、欲のない事を言う。「その代わり、半殺しにしてください」』と、欲から離れられない強欲話をしていた。
もひとつ、『凍った道路に、10円金貨が落ちていたが氷の中。何か溶かす工夫はないものかと考えたら、小便を掛ければ取れるだろうと、おしっこをしたら着物の前が冷たくなって、夢から覚めた。おかげで寝小便をしてしまった』。

 

2.浅草の船宿
 
浪人風の武士と品がいい娘が訪ねた船宿。お芝居見物の後と偽って入ってきますが、芝居見物は”猿若町”です。台東区・浅草寺の東側”花川戸(町)”の北側が浅草6丁目、ここが江戸時代の芝居町・猿若町です。ここから歩いて花川戸に入り吾妻橋に出ます。後で浪人風の武士が打ち明けるのには、花川戸で娘を拾ったと言っていますので、場所的にはつじつまが合っています。吾妻橋とその下流駒形橋の川沿いには船宿が沢山有った。ここから北に上ると山谷堀を抜けて吉原ですし、南に下れば両国、 新大橋、深川方向です。

猿若三座(台東区浅草6丁目の一部)
 
猿若町はその昔、丹波国(京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保12年(1841)徳川幕府は天保改革の一環として、この屋敷を公収しその跡地に境町、葦屋(あしや)町、木挽町(いずれも中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は天保13年から14年にかけて当地に移り 、芝居小屋猿若町が出来た。猿若町1丁目は中村座及び薩摩座、2丁目には市村座および結城座、3丁目には河原崎座(のちの守田座)が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座が世に言う猿若三座です。この移転を勧めたのは、”遠山の金さん”こと北町奉行の遠山左衛門尉景元です。江戸のはずれに移転させたのですが、近くに吉原があって益々盛況になって一大繁華街に成長しました。 (落語、第47話「なめる」より)

 男が頼んだ船は”屋根船”。屋根船とは、屋根のある小型の船で、屋形船より小さく、一人か二人で漕ぐ屋根付きの船。夏はすだれ、冬は障子で囲って、川遊びなどに用いた。別名、日除け船とも言った。
 左図は北斎描く、両国橋と川面です(部分)。手前の小さな屋根付きの船が屋根船で、その奥が屋形船です。屋形船は屋根の上にも船頭が3人乗って竿を使っています。屋根船は一人の船頭が操っています。落語「小猿七之助」の時のお滝さんと七之助が乗っていたのもこの船です。

 酒手(さかて)、長屋の物知りに聞いたところ、「お酒を飲む手だから、差しつ差されつ、相手からお酒をいただけます。よって、もらい手。もらうもの。になった」。 と言っていますが、私は信じていません。本気にしないでネ〜 (^_-)
 それでは広辞苑から、1.酒の代金。さかしろ。さかだい。 2.人夫・車夫などに与える心づけの金銭。「―をはずむ」。ここでは「お酒でも飲んでください」という心づもりで出す”心付け”です。 英語で a tip.(チップ)。 分かってる?  すいません m(_ _)m

 

3.中洲(なかす)
 
現在の中央区日本橋中洲(町)です。隅田川に掛かった清洲橋の西詰めがここです。当時はアシに覆われた洲で上げ汐になると隠れてしまうものでした。江戸切り絵図(地図)を見るとアシが生えた島状の洲が描かれています。ここに上陸して殺せば、死骸は潮に流され完全犯罪になるところだったかも知れません。船頭の機転で娘は一命を取り留めました。
 しかし、武士は流され名前が変わって”土左衛門”になった。流されて髑髏(しゃれこうべ)だけ、永代橋の西詰、日本橋川が隅田川に合流する所に架かる豊海(とよみ)橋北側に打ち上げられた。その時、高尾の首と誤解され、高尾稲荷(中央区日本橋箱崎町10) のご神体になってしまった??(^_-)

 落語 第49話「反魂香」・三又から引用しますと、
 高尾大夫は夫婦約束した島田重三郎に操をたてて応じなかった。為に、隅田川三ツ又(永代橋上流)で裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨てた場所です。
 
現在の隅田川、今の清洲橋が架かっている辺りで、中央区日本橋中洲にあたります。この三つ又辺りは洲(す)になっていて後年埋め立てられて地面になって現在の日本橋中洲(町)になりました。今の、首都高速と箱崎下は川で、隅田川から別れて三つ又になっていた。ここの地を掘り起こすと今でも赤土が出てきます。これは高尾の血だと言われています。(ウソウソ、ジョーク)

 写真は今の清洲橋で、隅田川の下流を見ています。右側、中央区日本橋中洲(町)です。ここが埋め立てられた中洲の後で、三又と言われた所ですが、ごらんのようにマンションが建ち並んでいます。

 

 4.まなべ(間部)河岸 (中央区東日本橋1丁目10 日本橋中学校が有る辺り)と本町
 当時、両国橋の少し下流に、薬研堀(やげんぼり)と言う堀が隅田川に繋がっていました。その川口の所がまなべ河岸です。ここに船をもやって娘の本町のお店(たな)に連れて行ったのでしょう。本町は今でもこの区に有りますが、少し範囲が違います。江戸時代は日本橋の北側、東西に長い町でした。河岸から距離1kmちょっとです。

 別説;今の清洲橋通りの南側に並行して走る細長い公園(久松公園)があります。当時の運河を埋め立てたものです。この運河(川)は隅田川に接していて、その川口は三又すなわち中洲に繋がっていたのです。この川岸に江戸の後期、間部下総守の屋敷がありました。その門前がまなべ河岸と言われた。今の明治座(日本橋浜町2)を含む敷地がありました。ただ、絵図で見るとその川岸は浜町川岸と書かれています。その上流は浜町と記述されています。

 私はどちらかは良く分かりません。話の流れから薬研堀説を採ります。ご存じの方がおいででしたら、教えてください。

 


  舞台の隅田川を歩く
 

 雪の降るのを待っていましたが、3日昼から雪が降り始めました。雪の降る中、河畔を歩く事にしましたが、未だ積もり始めません。 写真には雪が写りませんがもやった雰囲気を感じ取っていただければ幸いです。
 大川(隅田川)に架かる橋は当時、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋の4橋です。今は増えて車と人が渡れる橋は吾妻橋から下って、駒形(こまがた)橋、厩(うまや)橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲(きよす)橋、隅田川大橋、永代橋、・・・となりました。
 噺の舞台、浅草の船宿は今、吾妻橋の西詰めに1軒有ります。”あみ清”はいつ頃から有るのか取材したかったのですが、正月の三が日はお休みのようです。残念。ここは浅草寺の前ですので、雷門の通りは車両通行止めになって初詣の人々で混雑しています。雪が降りしきる中、着物姿のお嬢さんがかわいそうです。変な浪人風の男に拐かされないかと心配ですが、今の女の子は大丈夫でしょう。

 日本橋中洲です。優美な姿の清洲橋の西詰め、ここが元中洲が有った所です。明治の始めに埋め立てられて今はマンションだらけの小さな町です。当時の風情はどこにもありませんが、中洲という地名と、小さな”慈愛地蔵尊”にその面影を見る事が出来ます。

 まなべ河岸は日本橋中学校が有る辺りですが、ここにも写真で見るように当時の面影はどこにもありません。薬研堀も埋め立てられて、その跡すらどこに有ったのか分かりません。雪の中鵜がへの字の編隊を組んで隅田川を上っていきます。まだ積もるほど降っていませんので、浮世絵のようには情景が白く有りません。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

浅草・船宿 (吾妻橋と駒形橋間の台東区側の西川岸)
雪が降りしきる浅草吾妻橋上から見た、船宿に繋がれている屋形船です。前方が駒形橋です。

中洲(中央区日本橋中洲)
江東区の小名木川に掛かる万年橋から眺めています。ここから見る清洲橋が一番綺麗に見えるところです(と、江東区の掲示板に書いてありました)。対岸が日本橋中洲です。ご覧のように江戸時代の風情はありません。マンション が林立する場所です。
 雪の中、頬被りしたお母さんが、2匹の犬にも同じように頬被りさせて犬の散歩をしていました。犬は嫌がる様子もなく、ご主人共々足早に駆け抜けていきました。

まなべ(間部)河岸 (中央区東日本橋1丁目10. 日本橋中学校が有る辺り)
両国橋上から見たまなべ河岸跡。左の写真、右側の建物が日本橋中学校です。この辺りに薬研堀が有ったが、今は埋め立てられて名前だけが残っています。
クリックした写真は両国橋上から見ています。

広重描く「東都八景・両国暮雪」 扇子絵から
雪の中、大川を上り下りする船や筏が描かれています。雪の噺の中と符合します。向こう岸が今の墨田区両国、手前が中央区東日本橋です。左が上流、浅草方向。右が下流、永代橋、深川方向です。手前右、傘を差して渡っている小さな橋が薬研堀に架かっていた元柳橋ですが、今は有りません。2隻の屋根船が雪を乗せて上下しています。

まなべ河岸から見た両国橋
写真奥が上流の浅草方向です。雪で画面がもやっていますが、未だ雪が積もっていないので、上記の浮世絵のようにはいきませんでした。

                                                        2003年1月記

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