落語「反魂香」の舞台を歩く


 

 八代目三笑亭可楽の噺、「反魂香」によると。 
 

 夜中に一つカネをたたいて回向をしている、長屋の坊主の所に、八五郎が夜、手水にも行けないと掛け合いに来た。 坊主は名を道哲と言い元・島田重三郎と言う浪人であった。吉原の三浦屋の高尾大夫と末は夫婦にとお互い惚れあっていた。ところが、伊達公が横から見初めて大金を積んで身請けしてしまった。だが、高尾は重三郎に操を立てて決して生きてはいないと言う。その時取り交わした、魂を返す”反魂香”で、回向をしてと言い残した。これを焚くと高尾が出てくると言う。
では見せて、と八五郎が言うので、火鉢のなかに香をくべると高尾の幽霊が出てきた。香の切れ目がえにしの切れ目、無駄に使うなと言う。
八五郎は亡くなった女房のために、この香を分けてくれと言うが、私と高尾だけのための物だから、貴方には役に立たないからと断られる。
 

  そのまま夜中に、香を買おうと生薬屋を起こしてみたが、何という香だか忘れてしまった。いろいろ吟味して、見つけたのは越中富山の反魂丹。これを三百買って帰ってきた。家の火を熾し直し反魂丹をくべながら女房”お梅”のことをあれこれ考えていた。出てこないので、足して足して全部をくべたが出ない。煙でむせていると、 表から 「ちょっと、八つぁん」。煙の中からではなく、堂々と表から来たぞ。「ちょっと、八つぁん」、恥ずかしいと見えて裏に回ったな。「そちゃ、女房お梅じゃないか」、「いえ、裏のおさきだけれども、さっきからきな臭いのはお前の所じゃないの」。
 


1.反魂香返魂香
 中国、漢の武帝が李夫人の死後、香を焚いてその面影を見たという故事による。焚けば死人の魂を呼び返してその姿を煙の中に現すことができるという想像上の香。武帝の依頼により方術士が精製した香で、西海聚窟州にある楓に似た香木反魂樹の木の根を煮た汁を漆のように練り固めたものという。(小学館・国語事典より)
 現代の反魂香として、ビデオがあります。これをセットして見れば、たちどころに当時の情景、人に夜でも昼でも出会えます。写真やカセットの音などでも家庭では簡単に過去を見る事が出来ます。でも、ワンツウマンで言葉の返事はしてくれませんがね。後、数十年したら、それも出来るかも知れませんよ。
 

2.反魂丹返魂丹
 
越中富山の反魂丹と言われ、
木香(もっこう)、陳皮(ちんぴ)、大黄(だいおう)、黄連(おうれん)、熊胆などをもって製した懐中丸薬。霍乱(かくらん=暑気あたり)・傷・食傷・腹痛などに効くという。元禄頃から富山の薬売りが全国に広め、江戸では芝・田町の堺屋長兵衛が売出し、一手に販売した。「田町の反魂丹」として名高い。
 

3.道哲
 
道哲も高尾大夫も実在の人物です。道哲は因州鳥取の浪人島田重三郎 と言い、ある晩友人に誘われて吉原に始めて足を踏み入れたが、そこで出会った高尾にぞっこん惚れて、高尾も重三郎に惚れて、二人は末は夫婦にと誓い合った。しかし、伊達公に横取りされてその上、殺されてしまった。その回向をする為、出家して名を道哲と改め、吉原遊女の投げ込み寺西方寺に住みついて、高尾の菩提を弔らった。それが巷では噂になり、吉原通いの遊客からは土手の道哲と呼ばれる様になった。
 

4.隅田川”三つ又(俣)”
 高尾大夫は夫婦約束した島田重三郎に操をたてて応じなかった。為に、隅田川三ツ又(永代橋上流)で裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨てた場所です。
 
現在の隅田川、今の清洲橋が架かっている辺りで、中央区日本橋中洲(町)にあたります。この三つ又辺りは洲(す)になっていて後年埋め立てられて地面になって現在の日本橋中洲 (町)になりました。今の、首都高速と箱崎下は川で、隅田川から別れて三つ又になっていた。ここの地を掘り起こすと今でも赤土が出てきます。これは高尾の血だと言われています。(ウソウソ、ジョーク)

図版;名所江戸百景より「みつまたわかれの淵」 広重画 
三角と言われる州があり、富士山の下に永代橋が見える。


5.吉原の太夫

 
吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、享保(1716〜)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなった。
 太夫というのは、豪商、大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。 文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴、太鼓、木琴?の楽器が出来て、踊りが舞えて、歌が唄えて、和歌、俳諧が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできた? (志ん生説)と言う万能選手です。 高尾太夫については落語「紺屋高尾」にあります。

 ■伊達(仙台、萬治)高尾  伊達騒動事件の元となった、吉原大見世の三浦屋専用名の高尾太夫で、墓には二代目と記されているが異説もあり正確には判っていない。 萬治高尾とあるのは、過去帳から万治3年(1660)12月25日に亡くなっているので、こう呼ばれています。仙台藩主伊達綱宗(つなむね、1711没)は、高尾太夫を7800両で身請け (彼女の体重と同じだけ金を積んだとも。現在で言う5〜7億円でトレード)したが、太夫は夫婦約束した男、島田重三郎に操をたてて応じなかった。為に、隅田川三 ツ又で裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨てた。
 しかし、一説によると高尾太夫は身請けされたのちに仙台の仏眼寺(ぶつげんじ)に葬られたとも言われる。 また、別の話では頭部だけが宝永年間(1708)永代橋の近くに流れ着いて、手厚く葬られ”高尾稲荷”になったとも言われる。
 落語「反魂香」はこの事件を元に描かれました。でも、虚実入り交じっていますので、どれが真実やら。

 実説では万治3年8月25日三代仙台藩主伊達綱宗(つなむね)が隠居、長子綱村(つなむら)家督を継ぎ、伊達宗勝(むねかつ)・田村宗良(むねよし)を後見とする。(寛政重修諸家譜より)
 伊達騒動の発端は仙台藩主伊達綱宗の放蕩にあります。その張本人が吊し切りの前に21歳で強制隠居させられています。
 二代目高尾のお墓は豊島区西巣鴨の西方寺に有りますが、もう一ヶ所、吉原の目の前、春慶院(台東区東浅草2−14)にもあります。右写真。没年や墓誌がないので子細は分かりません。
写真と文、09年6月加筆

 東京近郊にお住まいの方は今でも、いつでも高尾に会えますよ。東京駅からJR中央線に乗り・・・、八王子の先 <もうお分かりの方がいますね>、そうです終点で降ります。そこが「高尾駅」です。あれ?!高尾が居ない?その替わり、もっと大きな高尾山が有ります。
 


  舞台の吉原先を歩く

 
 高尾大夫と道哲の墓がある西方寺(さいほうじ=豊島区西巣鴨4−8-43)は浅草から震災後この地に移転してきました。都電新庚申塚を降り白山通りに面した淑徳学園 巣鴨高校(元・朝日中学校)の手前、 似た名前の「西方院」の角を入ると隣(奥)に有ります。 二人の墓も、投げ込み寺の時の遊女の墓も当時のまま今に残っています。

 震災前の西方寺の場所は浅草寺の北側、猿若三座があった所の北側、山谷堀に面してその土手下に有りました。今は山谷堀は埋め立てられて川状の山谷堀公園になっていますが、その雰囲気を想像する事は出来ます。山谷堀と言っても意外と狭かったのが判ります。その両側に土手道がありますし、当時はお寺と畑ばかりだったのでしょうが、今はビルばかりです。当時西方寺の隣にあった「遍照院」(浅草6−37−12)は現存しています。

 

地図

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写真

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「伊達(仙台)高尾」(村上豊画、文藝春秋〈日本の笑い〉より)
道哲和尚に惚れられた高尾太夫。色っぽい高尾だこと、毎晩カネを突きたくなりますです。ハイ。

お隣の八っつぁん
火事と間違えられるほどの、ケムにまかれています。八っつぁんとおさきさんの場です。

(村上豊画、文藝春秋〈日本の笑い〉より)

 

浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4−8)
道哲和尚、高尾太夫の墓
 

土手の道哲(浅草6−36)
西方寺は関東大震災までこの地に有った。47話「なめる」で紹介した猿若町の北側です。吉原に行く為の山谷堀の吉野橋手前の土手下に有り、道行く遊客は土手下の西方寺を見下ろしながら、通って行った。
今、山谷堀は埋め立てられて、山谷堀公園と名を変えましたが、川の位置がそっくり緑道風の公園になっています。クリックした写真は山谷堀公園越しに見た、在りし日の西方寺辺りです。

隅田川”三つ又”
清洲橋の西詰め(写真右側)が日本橋中洲です。地名でも判る様に江戸期には中洲になっていて下流に向かって二股に別れていました。で、俗に三つ又と言われました。今は埋め立てられて、そこに清洲橋が架かっています。
撮影場所は清洲橋が一番綺麗に見えると言われる所で、錦絵にも描かれている万年橋(江東区常盤1、小名木川に架かる橋)からです。橋詰めには俳人松尾芭蕉の”芭蕉稲荷”と芭蕉公園が有ります。

高尾稲荷(中央区日本橋箱崎町10)
三つ又で高尾が殺された後、頭部だけが永代橋の西詰、日本橋川が隅田川に合流する所に架かる豊海(とよみ)橋北側に打ち上げられた。ここは徳川家の船手組持場で宝永年間(1718)元旦、下役の神谷喜平次が発見、手厚く埋葬した。
 そのころ稲荷信仰が盛んであったので、これと結びついて”高尾稲荷”となった。この稲荷は日本中でも珍しく、頭蓋骨という御神体が祀られている。豊海橋の北側には漂着の説明板と、100m先のIBMビルの西側に稲荷が有ります。

春慶院(台東区東浅草2−14)
改装中の本堂右側から墓所に入る門の手前左側にあります。説明板によると、「この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われた二代目高尾太夫だと言われる。細部にまで意匠をこらした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一部が欠けている。右面に遺詠『寒風にもろくもくつる紅葉かな』」とあります。
正面に「転誉妙身信女」とあり、西方寺と同じ戒名です。09年6月加筆

                                                        2002年6月記

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