落語「小猿七之助」の舞台を歩く
 

  
 立川談志の噺、講釈ネタの「小猿七之助」。いつもと違いしっとりと演じている。その噺によると、


 すばしっこいので、小猿と呼ばれた「七之助」と、浅草広小路”滝之屋”の芸者「お滝」が禁じられた、船頭と芸者だけの二人だけで乗る”二人船”に乗って浅草に向かう。鉄砲洲の稲荷河岸から永代橋まで差し掛かると橋の上から身投げの男。
 二人の乗った屋根船に助けられ、事情を聞くと、新川新堀、酒問屋”鹿島屋”の「幸吉」で、浮いた話ではなく、集金の30両を渡し船の中の博打ですってしまい主人に申し訳ないので、飛び込んだと言う。30両が有れば死ななくても済むので、船頭の俺には出来ないが、お滝姉さんなら何とかならないかと聞くと、あれとこれを始末すればその位は何とか出来るとの話。死ななくてもイイので、お礼を言う。
 話の続きを聞くとイカサマ博打で取られ、少しでも返して貰おうとむしゃぶりつくと、殴られ、血を出し、その時の相手の片袖を握りしめ飛び込んだと言う。そのイカサマ師に仕返しをして、倍の60両を取ってきてやると、男気な七之助に励まされる。相手のイカサマ師の名を聞くと、深川相川町の網打ちの「七蔵」と言う。
 安心した幸吉は立ち上がると船縁から流れの速い大川に不意に落ちた。お滝が不振な様子を示しているが、遠くで「ひぃ〜」という断末魔。こんな夜は早く帰ろうと、船を出すが、永代橋を逆に戻り佃の鼻を回り 汐入の中に船を止める。雨が降って来るし、回りは真っ暗で他の船も見えない。匕首を持った七之助がお滝の命を貰うという。
 実は七蔵とは七之助の実の親。幸吉にしゃべられると、どうなるか判らない。だから親の為、幸吉を突き落としたと言う。又それを見ていたお滝さんもその口から秘密がばれるとマズイので、死んで貰うと船の中へ。「いいよ、惚れた男に殺されるのなら、本望だ」、「そんな鎌倉時代じみたことを言っても、俺の切っ先は鈍らない」、「待っておくれよ、殺すのなら、本当のことを聞いてから殺っておくれよ」、「俺は確実に殺る」、「私が禁じられている二人船で来たこの気持ちが分からないかい」、「・・」、「それに・・あれもあった、これもあった」と せっせつと口説く。必死で。
夜、二人だけの船の中・・、黙って聞く七之助。
 小猿七之助の抜き読みでした。(完) 
 


 
写真をクリックすると全判が見られます 。

小猿七之助とお熊」 亀戸豊国筆  近くのスナックに飾ってあった浮世絵がこれです。何でこんな所に(失礼)有るんだろう? 不思議でつい、声をかけてしまいました。開店祝いで贈られたものだそうです。主人は何の絵か分からずいましたが、説明をし納得してもらいました。そのお陰で写真を撮らせていただきました。昼のランチは旨かった。


1.
この噺の出典
 
談志が噂に聞いた名人神田伯龍のレコードに聴き惚れ、その魅力にとりつかれ、演り始めた噺なので、このネタは彼しか演らない。また、ひとり会のような身内(談志教のフアン)が集まっている時に演じられた。私も実際には聞いていないので、初めてCDから聞いて、起こしている。落語のようにオチは無い。
 

2.三千両
 
談志はこの噺のマクラで3千両の話をしている。江戸で1日に落ちる金が、葭町の遊郭に1千両、日本橋の魚河岸に1千両、人形町の芝居に1千両、合わせて3千両が落ちた。この他に旧暦5月28日から9月28日まで、夏の夕涼みとして「両国の広小路」に1千両が落ちた。夜店や小屋が立ち、今のイベント会場のように賑わい、屋形船が出るわ、また花火が上がり、江戸っ子を楽しませた。
 

3.永代橋(えいたいばし)
 当時、隅田川(別名;大川)最下流に架かる橋で、隅田川4番目の橋(千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋)で、元禄11年(1698)五代将軍綱吉が50才を迎えた記念として架けられた。長さ120間余の長さがあり、今の橋より北側(上流)に木造の橋が架かっていた。浅草・吾妻橋(東橋)はその後架けられ、明治までこの状態で続いた。
 約100年後、文化4年(1807)8月19日深川八幡の大祭の日に、人の重みで橋が落ち、大災害になった。奉行所の発表で440人が死んだが、実際には1500人を越えていたと言われる。落語「永代橋」はこの事故を舞台に作られた。後日詳しく書きます。


 「夕闇迫る永代橋」 橋の先方高層マンション群は佃島の手前石川島の様子。09.08.追加
 

4.新川新堀
◆「幸吉」の”鹿島屋”、新川新堀の場所は今の中央区新川一丁目。日本橋川と永代通りに挟まれた、永代橋の西詰めの町。17話「宮戸川」の舞台になっていた霊岸島。その東側(隅田川河畔)が新川、しかし今は新川の町名の中に霊岸島が吸収されてしまった。この新川新堀も新川に吸収された。酒問屋の多い所で、噺の中にも酒問屋の鹿島屋と語られている。

浅草広小路は、”滝之屋”の芸者「お滝」の住まい。今の隅田川に架かる吾妻橋西詰めの所から浅草寺雷門前の道、突き当たりの雷門一丁目交差点手前まで。
 永代橋から吾妻橋まで隅田川約4.3km、今の水上バス(観光船)で、約2〜30分。

深川相川町は七之助の生まれた所でもあり、親父七蔵の住まい。今の江東区永代一.二丁目川沿い辺りの小さな細長い町。永代橋東詰め先。

鉄砲洲は当時の本湊町、舟松町一・二丁目、十軒町、明石町の総称で、万治年間(1960)に埋め立てられた土地。今の中央区湊、明石町の隅田川沿いの一帯。湊1−5には鉄砲洲公園があり、湊1−6には鉄砲洲稲荷がある。日本全国から来る親船はここに錨を降ろし、小舟に移され日本橋、霊岸島、小網町や新堀に移された。ここはなかなか繁昌な要港であった。佃島の真西に当たり、当時はここから佃に渡し船が出ていた。

(つくだ=佃島)、将軍にも献上された、小魚を砂糖醤油で煮た佃煮はここで江戸時代から作られ、佃島の名から「佃煮」と呼ばれる様になった。その様にここは隅田川の河口に有った小島(石川島と佃島から出来ていた)で、渡し船で江戸の町と繋がっていた。この島の回りは洲が発達し浅瀬があり、船を止めるのにへんぴであり悪事には好都合な場所でもあった。今は埋め立てられて大きくなり、橋も架かり東京駅へ直ぐの便利な所になった、そのお陰で高層マンションが林立して当時を彷彿させるものは少ない。
 石川島は皆さんもご存じ、造船会社の石川島播磨重工業の社名の元になっている。ここに最近まで、造船所が有った。この跡地に、上記のマンション群が建ち並ぶ。
 佃島の住吉神社の大祭は立派なもので、江戸時代から庶民に親しまれた。落語「佃祭り」はここを舞台にしている。この噺も後日詳しく書きます。
 


  永代橋を歩く
 


「夜の永代橋」 江東区側から新川(町)をのぞむ。09.08.追加

 永代橋は当時隅田川の最下流に架かった橋であったが、今ではこの下流に大きな橋が3橋も架かっている。東京湾に架かる長大な吊り橋「レインボーブリッジ」は別にして、最下流は「勝鬨橋」。この橋は中央がハの字状に跳ね上がり、中央を大きな船が通過していた。今では開かずの平凡な橋になった。その上流は「佃大橋」、片側 3車線の文字通り大橋で、”佃の渡し”が有ったところに架けられた。この橋により都心と佃、月島が直結された。三番目の橋が中央大橋、センターの柱から幾本ものワイヤで吊られた優美な橋で、佃のマンション群から東京駅に直結した。この上流が舞台の永代橋。当時はこの鉄の橋より約150m上流に架かっていた。この橋は当然木製の橋であったが、船の通行を考え、水面から高い作りになっていたので、筑波山、秩父連山、富士山が一望に良く見えたので、人気があった。今では考えられない情景になった。只、佃とそのマンション群が一望され、都心を感じさせる。

 

地図

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写真

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 舞台は夜。何も見えない雨の夜。デジカメも負けてしまいました。ですから、今回の写真は真っ暗で、ありません。・・・それでは怒られるので、昼の写真を載せました。

永代橋(えいたいばし)
 
優美な男性的な橋で、人や車用の道路橋としては最初に明治30年(1928)鉄橋として架けられたが、関東大震災で大破、昭和3年(1928)4月に現在の橋に生まれ替わった。
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深川相川(あいかわ)
 
永代橋から見る相川町。橋の東詰めにあり、河の土手に沿って湾曲した町だが、静かで落ち着いた町になっている。現在永代一.二丁目の川沿いの町。
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新川新堀(しんかわ・しんぼり)
 永代橋から見る新堀。橋の西詰めに当たり日本橋川との合流点の町であった。船便が利用しやすく、当時から酒問屋が多いところで有名。正面の梯子を倒したような珍しい橋が、日本橋川最下流に架かる豊海橋。
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(つくだ)
 
永代橋から見る佃島。マンション群と右手の中央大橋が印象的で、殺しが行われるような場所にはどこから見ても想像が出来ない。

                                                        2001年5月記

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