落語「猫定」の舞台を歩く
 

  
 六代目三遊亭円生の噺、「猫定」によると。
 

 八丁堀玉子屋新道 の魚屋定吉は本業が博打打ち。朝湯の帰り三河屋で酒を飲んでいたが、悪さをして困るという黒猫を殺されるところをもらって帰る。猫と一人話をしながら丁半博打を話して聞かせる。「壺の中が分かるなら教えてみな」と試すと、「にゃご」と一回鳴くと”半”、「にゃご、にゃご」と二回鳴くと”長”、の目が出ている。猫も恩を感じて教えてくれるのだと思い、賭場に行くときはいつも 黒猫”クマ”を懐に入れて行く。当然いつも勝つ様になって、羽振りも良くなり回りも兄ぃとか親分と呼ぶ様になったが、あだ名を猫好きの定吉で「猫定」と呼ぶ様になった。

 ある時江戸をふた月ばかり離れなくてはいけなくなり、女房に猫を託して旅に出る。”旅の留守家にもゴマの灰が付き”で、若い男を連れ込んで女房”お滝”は楽しんでいた。旅から戻った定吉はある日、愛宕下の藪加藤へ猫を連れて遊びに出かける。留守宅では女房が男を引き入れ、亭主を殺して一緒になろうとそそのかす。その晩は猫が鳴かないので早めに切り上げ、雨の中愛宕下から新橋に抜けて近道をしようと真っ暗な采女が原を抜けるとき、小用を足していたら、後ろから竹槍で有無を言わさず刺され、鯵切り包丁でとどめを刺され殺されてしまう。その時胸元から黒いものが飛び出した。雨は激しさを増してきた。
 留守宅で女房は事のいきさつを心配していたが、引き窓が開いて黒いものが落ちてきた。「ぎゃ〜」と悲鳴を上げた。その声を聞いた長屋の者が台所で死んでいる女房を発見。朝には定吉の死を知らされる。采女が原に見に行くと隣に間男が首を食いちぎられ死んでいた。定吉の死骸を引き取って、女房と二人のお通夜をする。
 長屋の連中が居眠りを始めると、棺の蓋が開いて、二人の死骸がすさまじい形相で立ち上がった。恐れをなしてみんな逃げ出したが、あんまの三味(しゃみ)の市だけは見えないので平然と線香を上げている。そこに長屋住まいの浪人が帰ってきて、事の様子をうかがい棺の向こうの壁を刀で突くと「ぎゃ〜」。隣の空き部屋を覗くと黒猫が息絶えていた。手には間男の喉元を持っていたので、主人のあだを討った忠義な猫だと評判になった。御上から25両の褒美が出て、両国回向院に猫塚を建てた。猫塚の由来という一席。

 



1.猫塚
 
諸宗山回向院(墨田区両国2−8−10)の中に有ります。前回の「しじみ売り」の中で出てきた、ネズミ小僧次郎吉の墓の右側に小さい三つの墓(塚)が縦に並んでいます。石の表面に彫られた文字がはげ落ちて判読は出来ず、どこにも猫塚の表記はありませんが、これが猫塚です。過去には「価善畜子」と彫られていたという。塚の台座に「木?由之助」とだけ読めます。
 寺の言い伝えによると、「文化年間、日本橋に住んでいた時田半治郎が貧乏で困っている時に、飼い猫が小判をくわえて来た。以来、時田家の家運は隆盛に向かい、これを徳とした時田家の者が猫の死後に建てたのがこの猫塚」、と言われ 、落語の舞台と異なっています。

回向院に猫塚が出来た由来がここにあります http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai4/nagai4-94.html
「江戸の醜聞愚行」永井義男氏ホームページです。
 万一リンクが切れた時はこちら。 10年5月追記
 

2.丁半博打
 
2個の賽子を振ってその表に出た目の合計が”丁”(偶数)か”半”(奇数)かを当てるもの。私はやったことがないので、三田村鳶魚(えんぎょ)著「江戸生活事典」から引用すると、

   八王子の六斎市での賭場の風景。野天博打である。三間盆といって、畳を三間(三枚長く)つなぎ、二枚ずつ合わせてカスガイを打ったものの正面に賽と壺皿(壺)を持った者が立て膝をしている。張る人は両側にいるので、畳の境目ところに子分の目の利いた者が一人ずつ検分 している。壺皿は目籠の底を深くした様なもので、紙で張って渋が引いてある。賽は1寸(3.3cm)角もある、鹿の角製の大きなもので、これを二つ打ち込んで壺皿をポンと伏せる。丁方、半方は(置く場所が)決まっているので、丁の人は彼方、半の人は此方に分かれる。丁方も半方も札や銀貨をどんどん張るが、丁方に張ったのが100両有れば、半方に張ったのも100両でなくてはいけない。それを金へ手をつけないで勘定して、両方が合わなければ、何とかして同じようにする。大勢いるので、造作なく平均することができる。

 映画では、壷振りは藤純子の緋牡丹お竜がつとめます。片肌脱いでなおかつ立て膝をして、壺を操っています。小気味の良さと色気に圧倒されます。「姓は矢野、名は竜子、人呼んで緋牡丹のお竜と発します」という純子さんの甲高い仁義が聞こえてきます。

  この張った金をすぐ勘定できる者を盆が明るいと言い、逆にそれができない者を”盆暗野郎”と言った。今言われる”ボンクラ野郎”はこの賭場の盆からきている。
 

3.采女(うねめ)が原(中央区銀座5−15辺り)

 「采女が原」江戸名所図会 11.05追加

 今は無いが元銀座東急ホテルがあった所が、采女が原。江戸時代、伊予今治藩主松平采女正定基の屋敷があった。享保9年(1724)屋敷は焼けて麹町に移転したが、享保12年に屋敷跡に馬場が出来て盛り場の様になった。しかし、夜は追いはぎが出るくらい寂しい所だった。後に明治から昭和の初めまで、当地を釆女町と呼称された。


4.
八丁堀玉子屋新道(中央区八丁堀 3−12.13に挟まれた道、京華スケアー辺り)
  主人公猫定が住んでいた所。京華小学校が廃校になりその建物を利用して、近隣の為の集会室などに利用されている京華スケアー。その建物が昭和のよき時代を醸していますが、町は近代化されビルラッシュです。
 

5.藪加藤(港区虎ノ門一丁目18〜20)
 円生は噺の中で、都電の虎ノ門停留所と巴町( =芝西久保巴町。都電も町名も今はありません)の丁度真ん中辺りと言っていますが間違いで、もう一つ東側の道、愛宕下通りに面していました。
 近江水口二万五千石、加藤越中守の上屋敷が有った。北側に藪小路という通りがあったので藪加藤と呼ばれ、その中間部屋で賭場が立った。
 右図;「薮小路」江戸名所図会  川の名前を櫻川 11.05追加


  舞台の采女橋と両国・回向院を歩く
 

 采女橋に行く 国立がんセンター北側(築地4丁目)、首都高”銀座”入り口の脇に架かった橋が采女橋。橋の下は元築地川で水の流れが今は首都高速道路になって車の流れになった。橋を渡った左側(南)に新橋演舞場、その間に小さな区立の公園があります。その名を、築地川采女橋公園と言います。中にハーブ園を持つ小さいながら洒落た公園です。この辺り一帯が 木挽町と言われ、その北側(橋を渡った右側)が采女町と明治の頃から呼ばれた。今は有りませんが、元銀座東急ホテルがあった所、ここが采女が原と呼称された所です。歓楽街銀座と言えここら辺りは少し離れていますので、大きなビルが多くビジネス街で、落語の舞台程ではありませんが夜も更けると静かな所になります。

 両国・回向院 今からおよそ340年前の明暦3年(1657)振り袖火事で江戸の市街の6割以上が焦土とかし、十万人以上の焼死者を出しました。身よりのない大半の人々の亡骸を集めて供養したのがこの寺の始まりです。正式名称を「諸宗山無縁寺回向院」と言います。その後、火災、風水災、震災等で横死した無縁仏を葬る習わしが生まれ、日本一の無縁寺へと発展した。また、この寺は出開帳でも有名で江戸での4分の1はここで開かれ166回を数えます。成田山(千葉)、善光寺(長野)等は有名です。また、江戸勧進相撲が境内で開かれ、明治43年国技館が出来るまで、興行の中心地であった。今も相撲協会が建てた「力塚」が有ります。
 境内には様々な動物の慰霊碑、供養塔が有ります。文化13年(1816)一番古い「猫塚」から始まり、「唐犬八之塚」、「膃肭臍供養塔」、この字読めますか?そうです、「オットセイ」です。それから、義大夫協会の「犬猫供養塔」、同じく邦楽器商組合からも同名の供養塔が建てられています。これは太鼓、三味線などの皮を使うためでしょう。等々まだまだありますが、動物特に”ペット”の埋葬、供養に力を入れています。行けば必ず花や線香を携えた人々に出会います。「家畜諸動物百万頭回向堂」がいっぱいになり、第二の回向堂が建てられました。 この日も寺務所に寄ると、涙をためたペットの遺族が相談に来ていました。
 南千住にも同名のお寺さんがありますが、そちらは小塚原処刑場の跡に建てられ、処刑者等の菩提を供養するために建てられたお寺さんです。区別するため両国回向院と呼んでいます。 (南千住・回向院については第7話「藁人形」の中で詳しく記述しています)

 

地図

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写真

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猫塚(両国回向院内)
ネズミ(小僧)の墓の隣にある猫塚。塚の上に猫の彫り物が有ったが、ネズミ小僧の墓と間違えられて、削られ丸くなってしまった。大きなネズミの隣に小さな猫が鎮座しておもしろい取り合わせになっています。

八丁堀玉子屋新道(中央区八丁堀3−17、京華スケアー辺り)
都会の中の一部になって、過去の状況は何もありません。

藪加藤(港区虎ノ門一丁目18〜20)
都内でも有数のオフィスビル街の一等地で、サラリーマンが行き交い、賭場に通う様な博打打ちはいない。

 

采女橋
下を流れるのが築地川であったが、今は首都高速道路になった。奥が下流で浜離宮に抜けた。右奥が新橋演舞場、左奥の大きな建物が国立がんセンター。カメラを構えている、右側が采女町が有った所。

猫塚のその後
鼠小僧の墓の隣にあって、それだけでも「猫と鼠」の取り合わせは可笑しいのに、間違われて猫塚を削られてしまいます。
新しい台座の上に屋根付きの家に入って、ホッとしている、猫塚です。
2007年8月撮影追記

                                                        2002年2月記

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