文化十三年(1816)の晩春のことである。
神田川のほとりに、福島屋清右衛門という魚屋が住んでいた。女房は、おいくといった。
商売は繁盛していたが、商売道具や家財道具を鼠にかじられる被害に悩んでいた。そこで、猫を飼うことにした。
きじと名づけ、夫婦ともどもわが子のように可愛がり、毎日、ウナギやカツオブシを食べさせるほどだった。
女房のおいくは猫の背中をなでさすり、
「これ、きじや、おまえは畜類といえども、人のことばはわかるであろう。あたしらは鼠に困っている。一匹残らず、鼠を退治しておくれよ」
と、言い聞かせた。
きじは夫婦の願いがわかったのか、一匹、二匹と鼠を捕らえるようになった。
そうするうち、清右衛門は持病が急に悪化して、寝付いてしまった。魚屋商売もできない。
おいくは、きじに言い聞かせた。
「亭主が病気で商いもできず、もう、おまえにウナギもカツオブシも食べさせてあげることはできないよ。不憫だけど、どこへでも行くがいい」
きじは意味がわかったのか、小さくニャアと鳴いた。
まるで、名残を惜しむかのようだった。
その晩から、きじの姿が消えた。
おいくは、病床の亭主にいきさつを述べ、
「きじの行方が知れません」
と、告げた。
清右衛門もしみじみと言った。
「猫もちゃんとわかるものだな」
そのまま、数日が過ぎた。
ひょっこり、きじが戻ってきた。
よく見ると、口に小判を一枚くわえているではないか。
きじは夫婦の前に小判を置くと、まるで挨拶をするかのようにニャアと鳴き、しきりに尻尾を振った。
夫婦は驚いた。これは他人の金だとは思ったものの、貧窮していたことから、つい小判を両替して、そのうちの二朱を生活費に使ってしまった。
その夜、ふたたびきじの姿が消えた。
翌日、隣町の伊勢屋という商家にきじがはいりこみ、帳場に置いてあった小判一枚をくわえて逃げようとした。
それを見た奉公人が、
「この畜生め。きのうの小判も、この猫が盗んだに違いない」
と、叫んで追いかける。
ほかの奉公人も集まってきじをつかまえ、よってたかって殴り殺してしまった。
やがて、福島屋の猫が伊勢屋でぶち殺されたという噂が清右衛門の耳に届いた。
これで、きじが伊勢屋から小判を盗んできたことを知った清右衛門は、病を押して隣町を訪ねた。
番頭に面会するや、
「小判を盗もうとしたのは、あたくしどもの猫に違いございません。じつは、さきに猫が持ち出した小判のうち、二朱は使ってしまいました。病気が治って働けるようになりましたら、必ず二朱はお返しします」
と、使い残しの三分二朱を返却した。
あとで、番頭からいきさつを聞いた伊勢屋の主人は驚き、また感銘を受けた。
「さてさて、そのきじという猫は畜生といえども、可愛がってくれた夫婦の恩を感じ、夫婦が困っているのを見て恩返しをしたのであろう。非業の死を遂げたのは不憫である」
そして、あらためて番頭に命じて、きじが盗もうとした小判と、清右衛門が返却してきた三分二朱を持って福島屋に行き、伝えさせた。
「知らなかったとはいえ、そこもとの猫を殺してしまいました。なにぶんご了見ください。きょうはお詫びにまいりました。この一両はそこもとの見舞いでございます。ご持参いただいた三分二朱もお返ししますので、これで猫を弔ってやってください」
その後、両国の回向院に猫の墓が建立された。
(筆者曰く)
石塚豊介子編『街談文々集要』に拠った。
『藤岡屋日記』や『宮川舎漫筆』にも同工異曲の話が記載されている。
文化十三年の春というのは同じなのだが、『藤岡屋日記』では関係者は深川に住む時田喜三郎とその飼い猫、出入りの利兵衛という魚屋という設定になっている。
『宮川舎漫筆』では、両替町に住む時田喜三郎とその飼い猫、出入りの魚屋某となっている。
猫の恩返しというストーリーは同じながら、人名や地名が微妙に異なっている。
そもそも、ウナギやカツオブシを食べさせるほど可愛がっていたら、飽食した猫は鼠を追いかけるはずがないではないか。
これらのことからみても、実話ではあるまい。いわゆる「都市伝説」であろう。
江戸っ子たちは、
「おい、おめえ、猫の恩返しを知ってるか」
「なんだ、おめえ、猫が恩返しをしたのを知らねえのか」
などと、得意げにしゃべっていたのだ。
こうして、少しずつ人名や地名を変えながら、もっともらしく語り継がれたに違いない。
都市伝説には怪談や恐怖譚が多い。猫の恩返しは、心温まる都市伝説といえよう。