落語「悋気の火の玉」の舞台を歩く

  
 

 黒門町の師匠、八代目桂文楽の噺、「悋気(りんき)の火の玉」によると。
 

 花川戸に橘屋さんという鼻緒問屋があった。ご主人が堅い人で女遊びをしたことが無いという。ある時、寄合の後無理に誘われ吉原で遊んだ。こんな楽しいことが有ったのかと、今度は自分から通い始めた。でも、そこは商人、何か金がかからなくて遊べる工夫はないかと考え、親許身請けして根岸の里に妾宅を構える。
 旦那様は最初本宅に20日、妾宅に10日お休みになった。本妻にこの事が分かり冷たくされ、何を言っても「フン!」と邪険にされるので、本宅に10日妾宅に20日と、逆になってしまう。そのうち帰らない月まで出てきた。
 本妻は悋気に耐えきれず、あの女が居るからだと、藁人形に5寸釘で”カチーン”と杉の木に打ち付けた。それを聞いた根岸のお妾さんは「5寸釘で私を呪い殺すだと、それならこちらは6寸釘で」と、藁人形をカチ〜ンと打ち付けた。それを聞いた本宅では許さない、「生意気だね!7寸釘を買っておいで」。7寸釘でカチ〜ンと呪った。それを聞いたご妾宅では「悔しいね!」と8寸釘でカチ〜ン。それを聞いた本宅では・・・。きりのないことで、 「人を祈らば穴二つ」の例え通り、ご本妻の一心が通じたものか、お妾さんがころっと亡くなった。同じ日にお妾さんの祈りが通じたものか本妻さんも亡くなった。こうなるとつまらないのは旦那さんで、葬儀を二つ出した。
 初七日も済んだ頃、橘屋さんの蔵の脇から陰火が根岸に向かって飛んでいった。と、根岸から陰火がふあふあ〜と飛んで、大音寺前で火の玉どうしが「カチーン」とぶつかる大騒動になった。
 この一件がご主人の耳に入り、ご住持にお願いしたがお経ぐらいでは受け付けず、ご主人が一緒に行くことになる。「二人の火の玉に優しく語り聞かせ、心落ち着いたところで、有り難いお経を上げれば静まるだろう」と、大音寺前へ。
 夜も更けると、根岸のご妾宅から陰火がふあふあ〜と二人の前に飛んできた。話を語り聞かせて居ると、ご主人、たばこが飲みたくなるが火が無いので、お妾さんの火の玉を近くに呼んで、たばこを 付けて一服味わう。その内、本宅から上がった陰火が唸りを上げてものすごく、飛んできた。呼び止めるとぴたりと止まった。話し始めたが、また火が欲しくなり「こちらにおいで」とキセルを出すと、火の玉が”ツー”っとそれて、
「私のじゃ、美味くないでしょ、フン!」。
 



1.悋気
 
「悋気は女の慎むところ、疝気(せんき)は男の苦しむところ」 。女性はジェラシー、すなわち嫉妬で苦しんだが、男は疝気で苦しんだ。疝気? 私も未だ罹ったことがないので実感がありません。辞書を引いてください。
 落語ではこの”悋気”を題材にしたものが多くあります。人間の性として逃げて通れないからでしょう。  
 疝気の噺では、落語「疝気の虫」が有名です。 この噺によると疝気の虫はソバが大好き、そして七味が大敵。有る男が疝気で苦しんでいた。奥様にたくさんソバを食べさせその臭いを亭主の口の中にはきかけると、疝気の虫が臭いにつられて口まで上がってきて、奥様の口の中に飛び移ってしまう。疝気の虫は喜んでソバにありつくが、奥様が七味を飲んだので、さー大変。男だけに有る別荘に逃げ込もうとしたが・・・、無い!。 談志が楽しそうに演っていた。

〈広辞苑〉を引くと、せん‐き【疝気】 漢方で腰腹部の疼痛の総称。特に大小腸・生殖器などの下腹部内臓の病気で、発作的に劇痛を来し反復する状態。あたはら。しらたみ。疝病。 
ここでは、男性器を言います。だから書きたくなかったのに。
 

2.親(おやもと)身請(みう)
 
身請けは遊女や芸妓を年の途中で金を払って足を洗わせることで、普通は 馴染みがスポンサーになって金を出す。この場合の身請けは親がすること。または親に成り代わって身請けすること。
 

3.根岸の里(台東区根岸)
  江戸の別荘地として有名で、ご隠居さんやこの噺の様なお妾さんが小粋な造りの家に生んでいた。吉原の大店の主人達もここに住まいや別荘を持っていて、看板娘が病気で倒れるとここで療養させたりした。そのぐらい閑静で自然の景観が良かった。今、JR「鶯谷」駅が有る。その駅名からも当時の雰囲気が伝わってくる。
  正岡子規も晩年この地で暮らしたが、「妻よりは妾の多し門涼み」と詠んでいる。
 落語「茶の湯」でデタラメな流儀でお茶を点てて来客者をあわてさすのも、みんなこの根岸の里です。
 根岸の師匠”と言われる前に亡くなった林家三平がここに住んでいた。当然そのご家族や”こぶ平”も今ここ根岸に住んでいます。

 文楽は噺の中で、お妾さんの住まいを「舟板塀に江市屋格子、庭を広く取った立派なご妾宅」と言い、お妾さん家には通常、婆やと犬の”ちん”がいた。この犬を抱いているとお妾さんが綺麗に見えた?
舟板塀=和船の廃材で作った塀。
江市屋(エイチヤ)格子=窓格子のひとつで、細かく三角に削った桟をわずかな透き間をおいて打ったもの。室内からは外が見えるが、外からは室内がほとんど見えない。元禄(1688〜1704)の頃、江戸の江市屋宗助という商家から起ったという格子。
 

4.花川戸(台東区花川戸)
  花川戸と言えば花川戸助六を思い起こさせる。花川戸公園(花川戸2−4−15)内に「助六歌碑」がある。高さ2.5m位幅30cm位の石碑。その脇の説明 (台東区教育委員会)によると、

碑面には
 「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
 歌碑は、明治12年(1879)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺下谷の仰願寺(現、清川1−4−6)に建立した。大正12年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の 子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶半治郎」、碑裏に「昭和33年秋再建 鳶花川戸樋田」と刻む。
 歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳3年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保3年(1832)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町)に墓が有る。

 ところで「助六」とは、実像ではない歌舞伎の中の彼を”粗筋”から見ると、
『花川戸の助六という侠客は、毎夜吉原でけんかを売って相手の刀を抜かしている。助六は実は曽我五郎で、源家の重宝「友切丸」を探すための行状だった。吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、全盛の花魁で、助六といい仲である。髭の意休は子分を引き連れ吉原に通い、権力と金を嵩にきて威張り、揚巻に言い寄ってくるが相手にされない。意休は助六を罵倒し、図に乗って自分の刀で香炉台を切った。助六はこの刀こそ「友切丸」と見届け、意休を討ち果たして刀を奪う。捕手に追われた助六は、天水桶の中に身を隠し、揚巻の助力で吉原から逃れた。』
 

5.大音寺(台東区竜泉1−21)
 都バス「竜泉停留所」の前に位置しています。普段は正面の赤い門が閉じていて中には入れません。大音寺さんの縁起もその為に分かりません。隣には大きなお寺の「佛光寺別院・西徳寺」が有ります。文楽は追いはぎが出る様な寂しい所、と言っていますが、国際通りに面して寂しいどころか、”大音”寺です。
 吉原の裏手にあったから、「煩悩の裏は菩提の大音寺」柳樽86編 良い舞台になっています。
 

6.「人を祈らば穴二つ」
 「人を
祈らば穴二つ」と文楽は言って ますが、 通常は「人を呪わば穴二つ」と使います。これは、他人を殺そうと呪えばその行いが自分にも降りかかり、結果、墓穴を二つ掘ることになる。と言う事。 <祈るにも、(相手や物事に)わざわいが起るように祈願する。のろう。(広辞苑)との意味がありますが。>
 この噺の概略をテープから起こしているが、略すにあたり私のイメージの言葉を当てはめるが、どうしてもスッキリいかず、改めて聞き直すと、文楽はドンピシャリの言葉を使ってい ます。「そー、その言葉以外無いよなー」と、感心してしまいます。それが、随所に出てくるのです。例えば「本宅に20日、妾宅 (しょうたく)に10日お休みになった」、私でしたら”泊まった”または”出かけた”と言いたいのですが、文楽の”お休みになった”とは真に上品で(何が!と、つっこまない)、代わりの言葉が見つからない。概略には文楽の言葉を大事にして、極力文楽の言葉をそのまま使った。
 最初の”祈らば”だけは文楽らしからぬ言葉使いで違和感があった。


7.原話

 怪談」;これは昔、吉原江戸町に上総屋某とて、富貴に暮らす人あり、ただ好色者にて、中近江屋の花魁花里を身請けして、箕輪(三ノ輪)に囲いおきける。上総屋の女房、ほのかに知りて嫉妬の心深く、「何とぞ花里を亡き者にせん」と祈りける。花里もこのこと知りて、・・・続きはこちら
2012.10.追記

 


  舞台の大音寺前を歩く
 

 浅草寺東側二天門を出て通りを渡ると、花川戸の街並みです。南は東武電車の終点浅草駅で、松屋デパートになっています。北は言問通りまでが花川戸で、中程に大きなビルの台東区民会館が有ります。 それを左手に見ながら街の中に入っていくと左側に”花川戸公園”があります。まず、「履物問屋街発祥碑」が公園の中程に建っています。この町は江戸時代から履物を商っている商店、加工場、部品屋さんが数多くあります。 落語「代書屋」の中に出てくる例の、”ヘリドメ”もここで作られたのでしょうか。現在も履物、特に革靴の生産販売が盛んです。続いて「助六歌碑」が有ります。
 話はそれますが、「姥(うば)ケ池」の由来と言う『一ツ家』の伝説が有ります。これは、昔、この地に若くて綺麗な娘とそのお婆さんが住んでいて、旅人を家に呼び入れては夜中に石 で頭を割って殺し、金品を奪っていました。999人 殺め、後一人と言う時にこれを見ていた隣の浅草寺の観音様が、旅人になって泊まった。老婆はいつもの様に殺したつもりが、朝になってみると愛する娘を殺していた。嘆き悲しんで、罪を報いて近くの池に身を投げてしまい、その池を「 姥ケ池」と言う様になったと言われます。この池がこの近くに有ったが明治24年に埋め立てられ、今はこの公園に復元されています。 まるで昔話の世界が今でもここに有るようです。

 浅草寺の西側、国際通りを北に進むと、右手に「鷲(おおとり)神社」が見えます。11月の酉の日には熊手が売られ、大変な人混みになり人の流れは入り口から奥に一方通行で押し出されてしまいます。出されたそこが 男の歓楽街”吉原”の入り口です。 「お酉様の日に行くとサービスが悪いぞ」、と友達が述懐してました。ここが”千束”。北隣が”竜泉”です。鷲神社の先、西徳寺交差点の先左側都バス「竜泉停留所」の前に大音寺があります。何の変哲もないごく普通のお寺さんです。 お寺さんの回りには今でも、かんざし、髪飾り、提灯、かるやき、お芝居用かつら、等を商うお店があります。浅草の繁華街から比べれば静かな所ですが、国際通りに面して交通量も多く、追いはぎが出る様な所ではありません。深夜空を見上げれば火の玉同士がぶつかり合ってたとは想像も出来ません。

 大音寺から真西に根岸があります。二丁目はお寺さんが多く静かな昔の面影を残しています。一丁目は”鶯谷駅”が有る所で、当然にぎやかですが、ここは反対に静かな所です。そのわけはHOTEL街でどちらを向いてもハートマークのHOTELです。昼間から出入りの多いのに驚きながら、悲しい思いをしながら独り身の探訪の旅は終わります。(^_^;

 

地図

  地図をクリックすると 火の玉がぶつかった大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

花川戸(台東区花川戸)
花川戸公園(花川戸2−4)に有る「履物問屋街発祥碑」。
この花川戸には昔から履物に関した問屋、小売店、製造工場が多く有りました。今でも多くの靴屋さんが有ります。
橘屋さんという鼻緒問屋があったのもこの土地です。 当時鼻緒はファションの先端だったので、この様な問屋がお妾さんを抱えられる程、盛業していたのでしょう。

根岸の里(台東区根岸) 
根岸にはJR鶯谷駅があります。名前からも分かる様に鶯が沢山生息していた所です。駅の向こう側には旧名谷中初音町が有ります。初音とは鶯が春さき最初に鳴き始める鳴き声の事です。そのぐらい静かな”東京の軽井沢”だったのでしょう。
子規の句に「雀より鶯多き根岸かな」。

大音寺(台東区竜泉1−21)
ここから根岸まではすぐですが、本宅の花川戸には倍以上の距離があります。奥様の火の玉の方が”唸りを上げて”飛ぶくらい早かったのか、悔しくてお妾さんより早く出たのでしょうか。 根岸と花川戸は地図を見れば一目瞭然、分かるのですが、直線の上に有るのではなく、寄り道した一点にあります。どうして、ここ大音寺でなくてはならないのでしょうか?また隣のお寺さんと比べても、目印にするには小さく、この上でぶつかるにはお互い息が合っていないと出来ない事なのですが。

                                                       2002年3月記

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