落語「しじみ売り」の舞台を歩く

  
 

 古今亭志ん生の噺、「しじみ売り」によると。
 

  茅場町の魚屋和泉屋の親方次郎吉は裏では義賊のネズミ小僧。暮れの三っ日間博打で300両すっかり負けてしまった。雪の中、新橋汐留の船宿伊豆屋に船で送ってもらいたく立ち寄る。船頭と女将相手に雪見酒を飲んでいると、そこに十になったぐらいの素足にわらじ履きの小僧が「お〜ぃ、しじみよ〜」と売りにくる。
次郎吉は全部買い求め前の汐留川に放してやる。

 話を聞いてやると、母親と二十三になる患った姉さんがいる。姉はもと新橋の金春新道紀伊国屋の”小春”という売れっ子芸者であった。三田の紙問屋の若旦那”庄之助”といい仲になったが、通いすぎて庄之助は勘当された。小春が家に置いて面倒を見たが人気が無くなり、庄之助と姉は旅芸者になって箱根にいた。そのとき、庄之助がかけ碁ですってんてんに巻き上げられて、姉まで人質に取られるところ、隣の部屋から二十四、五の苦み走った男が現れ同じ江戸の者だからと掛け金100両を立て替え救い、ちょぼいちでいかさま師から金を奪い取り、50両を二人の路銀にと与える。その小判で宿の支払いをするが、金蔵やぶりの小判であったため、捕らえられ伝馬町に送られた。姉は心労が重なり病の床についたままになってしまった。そのため私がしじみを売っています。

 次郎吉はその男が自分であったことを悟り、小僧に5両の金を持たせ、姉さんに悪いことばかりは続かないと言い伝えよと言いふくめ、折りを持たせて返す。「お〜ぃ、しじみよ〜」と空荷で雪の中を行く小僧を見やりながら、情けがあだになったことを知り、子分を自首させて庄之助を牢から出した。勘当が許され小春と夫婦になって、小僧と母親を引き取り仲良く暮らした。
 天保義賊の内、ネズミ小僧次郎吉人情話、雪の朝のしじみ売りの一席でした。
 

 桂小南もこの噺をやっているが、ネズミ小僧では無く、大店のご主人として描かれている。内容は同じ設定です。


1.ネズミ小僧
 
志ん生は、人を助けた本当の義賊で、困った人から盗まず、大名から盗ってきた。500両盗むと、200両は困った人に、この200両は自分で使う分、残りの100両は税務署?のように、使い分けたという。
 しかし、彼は義賊でもなんでもなかった、と言うのが今や通説です。
 残された罪状記録を見ると、ネズミ小僧こと無宿の次郎吉は芝居の中村座で木戸番をしていた貞治郎のせがれで、建具職人に弟子奉公をしたり、鳶の人足をしているうちに小遣い銭が欲しくなり、盗みを働く様になった。金銭の保管も戸締まりも用心深い町屋に比べ、武家屋敷は外回りこそ厳重に戸締まりしているけれど、塀を乗り越えてしまえば案外手薄だというので、もっぱら大名や旗本の屋敷の奥をねらった。鳶で鍛えた軽快な身のこなしが、ここで役に立っ ていた。
 諸説有るが、忍び入った回数は100回以上、盗んだ金は3000両あまり。そのほとんどを酒食遊興と博打に使い果たした。一度捕らえられ入れ墨の上、追放になったが入れ墨を消して、10年におよんで盗みを続けた。
 逮捕後、小塚原の刑場で獄門となった。南千住の回向院に胴体の墓があり、両国回向院に立派な墓(首塚)が有る。没年37歳、諸説あるが、墓には天保二年八月十八日 俗名中村次良吉(次郎吉の郎と良が違う) 「教覚速善居士」と彫られている。この墓石を削ってお守りにすると賭け事に勝てるという。その為、奥の本当の墓石の前に、 削られて角のまるくなった、削っても良い墓石と削るための小石が 置いてある。
 その年、講談「鼠小僧次郎吉略来」で、もう義賊的な話になっていた。また、歌舞伎にも義賊として取り上げられ、人気になった。
 

2.ちょぼいち(樗蒲一)
 サイコロ賭博の一種類で、中でも有名なものが、「丁半」「チンチロリン」この「ちょぼいち」。
 「ちょぼいち」とは中国から渡来したサイコロ賭博の元祖といわれるものです。ちょぼとはサイコロの別称でサイコロ1個を使って勝負するところからこの名がついたと言われます。
ルールはまず胴(親)を取る者が壺笊(単に壺、壺皿)を伏せ、張り手(子、賭ける人)は傍らの一から六まで数字が書いてある紙の上に任意の金額を賭ける。その目が出れば胴元から賭金の4倍をもらい、はずれれば全額没収される。胴は普通回り胴といって順番にとるが、主催者が明らかな場合はその人が続けることがある。
 落語の中に、この”ちょぼいち”が登場する噺があります。この話以外にも「看板のピン」「狸賽」があります。


3.金春新道(こんぱるじんみち。銀座八丁目6・7・8)
 
江戸時代には幕府直属の能役者として、宅地や家禄を支給されていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、金春屋敷の拝領は寛永4年(1627)であった。
 金春家は四座の内、もっとも伝統古く、室町時代以来栄え、慶長12年(1607)には、観世大夫とともに江戸で能を演じた。金春家の屋敷は、寛永の江戸庄図に「金春七郎」と記し、現在の銀座八丁目6・7・8番全体を占めていたように図示されている。
 この屋敷は、後に麹町善国寺谷(千代田区麹町三・四丁目)に移ったが、金春の名は、この付近の芸者屋街の名称として残った。
(中央区教育委員会プレートより)

  今、銀座の飲屋街は新橋寄りのこの7〜8丁目に多い(銀座は8丁目まで、隣が新橋)。一つのビルに10〜20の店が入り、そのようなビルが隣同士にずらりと並んでいる。さも激戦であろう。 夜に車で迷い込んだら身動きが取れなくなって、脱出にかなりの時間がかかってしまう、その位凄い賑わいです。しかし、サラリーマンが自腹でちょくちょく飲みに来るには少〜し、敷居が高い。


4.
汐留(しおどめ)
 
汐留川は今は埋め立てられて高架の高速道路になっている。川(現;高速道路)を下ると、土橋から東に新橋、昭和通りにある蓬莱(ほうらい)橋(旧名汐留橋)、浜離宮の所で築地川と接してすぐ離れて、浜離宮の南を回って隅田川に合流した。
 汐留川を挟んで浜離宮の西側、広大な汐留貨物操車場跡地(明治5年に東海道線が開通した時の始発駅はここであった)は大きな三つの武家屋敷であったが、その北側に小さな町があった。今は汐留貨物操車場跡地に吸収されてしまったが、汐留新町と三角屋敷の二つで、その北側に汐留橋が架かっていた。ここには船宿が幾つか有って繁盛していた。噺の舞台もここであろう。
 

5.伝馬町
 
若旦那”庄之助”がほおり込まれた牢獄は落語「時そば」の中で説明していますが、ここで 再掲載すると、

 
 日本橋石町(こくちょう、中央区日本橋小伝馬町1−5、十思公園内)
 寛永3年(1626)に新設された、江戸で最初の「時の鐘」鐘撞堂。水天宮通りの小伝馬町交差点を通り過ぎて、最初の路地を左に曲がり、すぐ右側に十思公園がある。この一角に新しく作られた現代的な二階建ての鐘撞堂が目に入る。その中(上階)に当時の鐘がつり下がっている。
  ここは元、伝馬町牢屋敷跡で、この公園と隣の元、十思小学校(現在は廃校になり区の十思スクェアになっている)及び南側にある身延別院、安楽寺、瑞法寺がその敷地であった。この三寺院はここで処刑された刑死者の鎮魂とこの土地の平安のため、明治になって建立されたもの。
 この牢屋敷は慶長年間(1596〜1615)にこの地に開かれ、200数十年間続き、明治8年(1875)5月に廃止された。 敷地は広大で2千6百坪(約8600m2)で、その回りに堀を巡らしその南西部に表門があった。獄舎は揚座敷、揚屋、大牢及び女牢に分かれていた。明暦3年(1657)には130人の囚人を収容していた。安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が投獄され、ここで処刑されている。
 吉田松陰は第7話藁人形」で千住宿を歩いたときに出てくる、千住回向院に埋葬されています。
 ここで処刑される者の命を哀れみ、その当日には時間を遅らせて鐘が撞かれたという。鐘の音を受刑者はどのように聞いていたのであろうか。
 鐘突男は”辻源七”と決まっていて、代々この辻源七が撞いた。俗に辻鐘と呼ばれた。
 


  舞台の金春から汐留川を歩く
 

金春湯  銀座八丁目新橋寄りの博品館の裏側の南北に走る道が、金春通り。この西側に、金春屋敷があった。金春通りの入り口ビルの壁面に「金春屋敷跡」の説明版が取り付けられている。 日中に来ているので夜のざわめきは無いし、新橋芸者の名は残っているが、無論芸者屋等は無い(と思う)し、芸者を見かけたこともない。金春通りは飲屋街で夜賑わっているが、銭湯の”金春湯”(右写真。2010年2月追加)も有り、”金春小路”も有る。
 昔の汐留川、今の高架の高速道路に沿って下ると、中央通り別名銀座通りに架かる「新橋」。ここは落語「黄金餅」で通った所です。
 またまた沿って下ると、昭和通りに架かる橋、蓬莱(ほうらい)橋(旧名;汐留橋)に出る。ここに明治の初めまで船宿が10軒ちょっと有った。雪の激しく降る日の朝に、ここの船宿伊豆屋で舞台の幕が上がる。出かけた日は北風の強い日であったが、青空の下雪はなかった。それでもコートの襟を立てても顔がこわばるのを感じた。それ以上の寒さの中、しじみ売りの小僧は汚い手ぬぐいで頬被りして着古した木綿の着物、素足にわらじ、真っ赤なしもやけだらけの手で、売り歩いていた。風を切る売り声が実感として伝わってくる。買ってもらったしじみを流 し、「しじみも喜んでいました」と報告するのも、ここ汐留橋の川原。今は川も風情も全くない。
 またまた下ると、浜離宮入り口の橋の所で左から来た築地川と合流。X字形にすぐ別れて浜離宮に沿って南下し、隅田川に合流する。築地川は浜離宮の北面に沿ってそこの隅田川に合流している。浜離宮に面した、言い方を変えると堀の様な部分が現存する川の一部です。

 両国に回って、諸宗山回向院(墨田区両国2−8−10)。ここは回向をするお寺さん、何をと言えば江戸最大の火事、振り袖火事(明暦の大火(明暦3年、1657) 1月)の焼死者を回向するために建てられた、お寺さんです。振り袖火事については落語「くしゃみ講釈」の中で詳しく記述しています。
 回向院に鼠小僧の大きな墓があります。次回の落語「猫定」で書きますが猫塚もこの墓の隣にあります。鼠小僧の墓の一部を削ってお守りにするとギャンブル運にツクと言われています。私も削って来れば良かった。何時も弱いのはそのせいだったのか。  

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

金春新道(中央区銀座八丁目7番と8番に挟まれた通り)
銀座八丁目中央(銀座)通りの1本西側の通り。
ここに芸者町があり金春芸者と言われた。
金春碑 煉瓦街の遺構碑(中央区銀座八丁目7博品館裏)
明治5〜10年にかけて作られ、丸の内とここ銀座に煉瓦街があった。碑の煉瓦は銀座八丁目8、旧・金春屋敷地内から発掘されたもので、記念にこの地に記念碑として保存された。
2010年2月追加
汐留(しおどめ)
元々東海道線の始発駅新橋があった所。広大な操車場跡地を再開発して40〜50階建てのマンションやビルが造られている。 この写真の高速道路の先が旧汐留橋で、正面ビルが再開発中のビルです。このほかにも沢山のビルが建設中です。
浜離宮の西側を外堀の様に流れる汐留川 
浜離宮西と南にかろうじて残った汐留川。流れると書いたが、汐の干満で水が入れ替わっている。その為、ゴミが浮いてヘドロの臭いもする。こんなところにしじみを放したら、鍋で死ぬ方が余程ましだと愚痴られるでしょう。
築地川
浜離宮の北側を隅田川に接する外堀の様な川。
ボート置き場(マリン)になっている。右側が浜離宮庭園。
ネズミ小僧墓
両国回向院に有る墓。立派な墓で手前にはドーム付きのお賽銭箱まである。
この墓石を削って持っていると賭け事のお守りになると言われ、墓石が削られて無くなってしまうので、正規の墓の前に削っても良い墓石が建っている。そこにはご丁寧に、削るための小石が置いてあった。
その後のネズミ小僧の墓
手前の白い墓が削ってイイものですが、ご覧のように文字も判読できず、丸くなってしまいました。
2007年8月撮影追記

                                                       2002年2月記

次のページへ    落語のホームページへ戻る

 

 

広告 [PR]  再就職支援 冷え対策 わけあり商品 無料レンタルサーバー