落語「生きている小平次」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「生きている小平次」(いきている_こへいじ。「小幡小平次」)によると。

 

 江戸木挽町の山村座から奥州路に旅興行に出ましたが、その中に小役者の小幡小平次(こはだ こへいじ)と囃子方の那古太九郎(なこ たくろう)がいた。二人は幼なじみで仲が良かった。旅興行も終盤になり、江戸に帰れると座員も気が緩んで和やかな雰囲気になっていた。二人は朝積沼(あさかぬま)に釣りに出掛け、鮒を狙ったが小物ばかり、岸につないであった小舟を借りて沼の奥に場所を変えたら大物が来はじめた。
 江戸に帰りたがる小平次が、太九郎の女房おちかに心底惚れているから、譲って欲しいと切り出した。幼なじみだから、世間にその噂が広がっても黙っているのは、自分も苦しくなる。4年越しの付き合いだから見逃して、小平次にくれてくれ、と頼んだが太九郎は頭っから断った。おちかを取り合う二人だが、死にものぐるいでおちかを奪うと言えば、「自分が死んでしまったらどうする」、との太九郎の話が終わらないうちに、船にあった竹竿で小平次を滅多打ちにして沼に放り込んだ。小平次は間もなく浮かんできて、船縁につかまったが、竿先で小平次を沼の底に沈めて、頃合いを見て竿を抜いたが、もう浮かんでは来なかった。

 一足先に小平次が太九郎の家に帰っていた。小平次は傷口から血は滴り着物はグツグツ、おちかさんには太九郎は死んでもう帰っては来ない、それは自分が殺したからだと言い、一緒に逃げようと誘った。「役人に捕まって刑を受けるか、おちかさんと楽しい日を過ごすために二人で逃げようか、どちらを選ぶ」。その言葉におちかさんは二階に上がって旅支度を始めた。

 そこに太九郎が旅から帰ってきた。「おちか」と声を掛けたが何の返事も無い。そこに小平次を見つけた。「俺は執念で何回も生き返るからな」、「判った。おちかはお前にやる。あの舟から突き落とすときの形相は凄かった。俺はもう良い。どこにでも連れて行ってくれ」、二階から降りてきたおちかは二人を見て「どうしたの。死んではいないじゃないか。小平次さん、ウソを付いたんだね」、「おちかさん、太九郎は連れて行ってもイイと言ったから、一緒に行こう」と手を引いたが「ホントに良いのかい。太九郎どん」。太九郎は我慢がならず道中差しを抜いて小平次をひと突きにした。そして、おちかの言う通り、喉にトドメを刺した。本当に幼なじみを殺してしまったと泣き崩れてしまう太九郎。

 清純な女だと思っていたが、残忍で奥深い欲と男をもてあそぶ女だと判った、と言うより変わっていた。今は谷中の寺の小屋を借りて隠れ住んでいる二人。町に戻って様子をうかがったが、押し入れに死体を放り込んだので、今頃大騒ぎしていると思ったら、極普段道りで変わったところは見受けられないという。谷中の夜は寂しい。
 足音を忍ばせて誰かが小屋の前を通って行った。外を見てきたが異常は無かった。どうも様子が変なので、「早々に引き払い故郷の那古に行くが、おちかは江戸っ子だからここに残るか」と言った、「どんなことがあっても、どこまでも付いて行くからね」、「分かった。一緒に行こう」、「ビックリしたわ。こんなにもドキドキしている。ね。触って。ね、ギュウッと抱いて安心させて」。蚊帳の中の二人は暗くなった行灯に二人の世界を感じていた。

 ここは木更津の海岸、波が砕けていた。「歩くのはくたびれたので、もう少し休んでいこう」と動けないおちか。気がせく太九郎にせかされる、くたびれ果てたおちか。役人が追いかけてくると思うと気がせく。
 「おちか。昨日宿場の前を小平次が歩いていた。それを言うとお前が驚くから言わなかったが・・・」、「知らなかった。似た奴だったんじゃないの」、「間違いない。奴は生きている。ああいう奴はヘビのように不死身なんだな。殺しても死なないんだ。行灯の影から俺たちを見ていた」、「もし、生きていたら、殺していないので逃げる必要は無いでしょ」、「俺はアイツの青白い顔を見るのが恐いんだ。行くぞ」、「ダメだよ。力が抜けて。身体に気が入らないのだよ。気が入るようにギュッと抱いておくれよ。ダメなの」、「・・・、今、お前と俺の間に誰か居るような気がするんだ」、「抱いてくれないの。気のせいだよ。私はずっとここに座っているよ。役人も小平次もなんにも恐くない」。
 「俺の前に誰か居る。おちか、俺の手を握ってくれ。冷てえ手だな。これはお前の手か」、「温かい手じゃないか。なんで、手を振り払うの」、「恐いんだ。お前は残れ。小平次はお前には悪さはしない。俺も一人になって国に帰れば何もないだろう」、「あんたは弱虫になったね〜ぇ」、「そうだ、意気地が無くなった」。
 「私を真っ暗なところに置いて行くなんて・・・。貴方はだあれ。立っていないで、何か言ったらどうなの。こちらに顔を見せてご覧。あッ!小平次。小平次さん、私は何にも悪い事はしていませんよ。悪い事はみんな太九郎がやったんだ。お前さんは私の人ではないか。あ、今笑ったね。許してくれるんだね。そんなに引っ張らないでよ。貴方の手は冷たいね。疲れているからそんなに速く歩かないで。どこ行くの。何だか腰の辺が冷たいね。小平次さんどこなの。わ〜ぁ、波が来た。小平次さ〜ん。・・・」。波の音だけが夜空に響くのみであった。 

 

絵;「百物語」より小幡小平次 北斎画 蚊帳の外から覗く幽霊小平次。





 林家正蔵(彦六)もこの噺を手掛けていますが、この噺の続きになるような落語「二つ面」(彦六)という噺も演っています。この噺は彦六自作で昭和38年に芸術祭奨励賞を受賞している。

 初席の四日目の事、怪談噺を得意とする噺家の柳亭西柳が高座を済ませ、弟子の佐太郎と近頃の客について話ながら夜道を帰っていると、追いはぎが突然「金を出せ」と声をかけてきた。
 佐太郎は驚いて、今日の割(出演料)を盗られてはなるまいと逃げて行ってしまった。
  残された西柳は、追いはぎも年明けの初仕事ということで、あぶれては縁起が悪いので、何か差し上げたいと、羽織と財布の中の銭を渡そうとします。 ところが、追いはぎはギャーと言う声を上げて逃げて行ってしまった。

  師匠という声がするので見ると、西柳が売り物にしている怪談噺の主人公小幡小平次の幽霊がいます。 丁寧に挨拶をし、深川の寄席に師匠の噺を聞きに来たという。
  松島町(日本橋)に部屋があるので来るように誘われ、肩につかまり目をつむると一瞬にして到着した。
  この家は恨みのあった太九郎の子孫のもので、恨みを遂げると、今度はその子孫の守り神になると言います。
コハダの入った寿司をご馳走になった。小平次は、怪談話で最近の客は笑うが、それは強がってのこと。 師匠の面の作りはいいが、一つだから客が笑う。後ろにも面があれば客はギョッとする、二つ面にすれば笑わないと伝授された。

  幽霊と別れた後、二つ面については忘れていたが、秋口になって、風邪を引いたのが長引き、その間、弟子の佐太郎が寄席で怪談噺をやっています。
  それを知った西柳は二代目柳亭左龍の名を継ぐように勧め、小平次の幽霊から教わった二つ面について伝授します。
  その後、佐太郎は師匠の好物の寿司を買いに出かけます。
その時、師匠の前に再び小平次の幽霊が現れ、守り神として箔がつき、極楽へ行くことになり当分会えないので来たと言います。そして、極楽に行った幽霊が娑婆に残した寿命が積もり積もって三百年あるので師匠にやると言って消えてしまいます。
その後に、佐太郎が帰って来て、小平次の幽霊との会話を話すと、
「へえ〜、師匠結構で」、 「何が結構なことがあるものか。怪談噺をやるより、ほか能のない人間で、おまけにひどい貧乏人が三百年も生きたら世間の人が笑うだろう」、
「笑う?ああ、笑う人には二つ面をお見せなさい」。

 

1.小幡小平次について
 小幡小平次(こはだ こへいじ)は二代目市川團十郎(元禄元年10月11日(1688)〜 宝暦8年9月24日(1758))の時代の江戸の役者だったが、芸が未熟なためになかなか役がつかなかった。ようやく小平次が得たのは、顔が幽霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまいということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出始めた。
 小平次にはお塚という妻がいたが、鼓打ちの安達左九郎という男と密通していた。奥州安積郡への旅興行に出た小平次は、左九郎から釣りに誘われるがままに一緒に安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とされて命を落としてしまう。左九郎は、これで邪魔者が消えたとばかり喜んで江戸のお塚のもとへ行くと、そこにはなんと自分が殺したはずの小平次がおり、床に臥せっていた。小平次は死んだ後に幽霊となって江戸へ舞い戻ったのだ。驚きおののく左九郎のもとに、その後も次々に怪異が起きる。左九郎はこれらすべては小平次の亡霊の仕業だと恐れつつ、ついには発狂して死んでしまう。お塚もまた非業の死を遂げた。

 「怪談小幡小平次」歌川国貞(三代豊国)画  「怪談小幡小平次」河竹黙阿弥作の歌舞伎から、
 妻と情人から殺される小平次。中央、小平次・二代目嵐璃珏(りかく)。左下、現西坊主塔六・三代目浅尾奥山。左上、小平次の幽霊・二代目嵐璃珏(二役)。右、安達左九郎。その右、小平次女房お塚。 寛永6年、河原崎座にて上演。江戸東京博物館蔵

 江戸時代後期を代表する考証学者の山崎美成が文政3年 (1820) 6月から天保8年 (1837) 2月まで書き続け考証随筆『海録』には、難解な語句をはじめ当時著者が見聞きしたさまざまな巷説奇聞1700件が記されており、著者はその一つ一つに詳細な考証を加えている。それによると、この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名も”こはだ 小平次”だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという。 またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている。

 小平次は江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻ったという。創作上の人物だが、モデルとなった役者が実在したことが知られている。

右図;「小幡小平次」豊国画  小平次、尾上松助  

 

2.安積沼(あさかぬま)
 「みちのく安積沼」とは、現在の福島県郡山市日和田町一帯に、かつては「海」とも呼ばれたほど広がっていた沼のこと。
 しかし、現在は窪地になった田んぼは見受けられますが、芭蕉が訪れる80年ほど前の慶長6年(1601年)頃、周囲が300mほどの沼が存在していたことが「前田慶治郎道中日記」に書かれ、さらに250年ほどさかのぼる1350年頃、安積沼は、東西の長さが片平町の安積山麓から日和田まで7kmほどもある巨大な沼だったともいわれる。

 Googleマップより、画面の右隅に見える下記説明板がある朝積沼跡

 郡山市の建てた説明板によると朝積沼跡は
「元禄2年5月1日(1689年6月17日)松尾芭蕉と曾良は、「奥の細道」紀行でここ朝積沼跡を訪れ「花かつみ(ノハナショウブ?)」を訪ね歩いている。中世の朝積沼は広々とした湖のようであったが、芭蕉が訪れた頃は昔時の姿を失っており、曾良日記には次のように記されている。『アサカノ沼左の方谷也。みな田に成、沼も少し残る、この辺り山より水出る故、いづれの谷にも田有り、いにしへ皆沼ならんと思う也』。朝積沼には、現在も大蛇にまつわる物語が伝えられている」 平成元年3月。

 芭蕉らは5月1日の早朝、日和田を経て「安積山」へ向かいます。そして安積沼では、夕暮れまで花かつみを尋ね歩いたと書き残されています。
 「等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮(ひわだ)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみ〜〜」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。」と、奥の細道に書き残しています。

那古(なこ);千葉県館山市那古。千葉県は房総半島の南端館山市にある町で、館山湾に面しています。街の中には那古の名が被された、市立那古小学校、那古寺、那古海岸、那古海水浴場等があり、街を北に抜けたところには、JR内房線の那古船形駅があります。
江戸から逃げ出した二人(3人?)は木更津を抜けて、館山まで向かうことになった、太九郎の生地。

木更津(きさらず);千葉県の房総半島中央に位置し、東京湾を望む地。

 

 木更津市から見える富士山。「木更津港の夕景」 大岩重利氏撮影。手前の橋は東京湾をまたぐ川崎−木更津間の高速道路アクアライン。 木更津市のホームページより。

木挽町(こびきちょう);中央区銀座二丁目から八丁目までの、昭和通り西側の町。南北に細長く、一丁目から七丁目まで有った。
 木挽町五丁目(現・銀座6丁目)に山村座(現・港区銀座6丁目14番 銀座東武ホテルの位置)が創設されたのは、寛永19年(1642)であったという。 この座は、正徳4年(1714)、例の奥女中絵島と歌舞伎俳優生島新丘郎の密会事件で断絶となったが、それまでは堺町の中村座、葺屋町の市村座、それに木挽町の森田座とともに江戸四座といわれた大劇場であった。

  

 「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「木挽町芝居」 一の橋(木挽橋)から木挽町五丁目方向を鳥瞰しています。山村座は画面の中央にあります。現在この川も橋もありません。

■谷中(やなか);台東区北西部の谷中地区。谷中は「寺町」と呼ばれるように、寺院が集中している。上野戦争で罹災したものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なく、旧来の町並み・建造物が残されている。
 江戸時代、上野に寛永寺が建てられると谷中にもその子院が次々と建てられる。また、幕府の政策により慶安年間(1648 - 1651年)に神田付近から多くの寺院が移転し、明暦の大火(1657年)の後に焼失した寺院が移転してくる。寺の増加に伴い参詣客も増えると徐々に町屋も形成され、江戸の庶民の行楽地として発展する。
 谷中生姜の発祥の地であり古今亭志ん生がここに住んでいた。

 


 舞台の谷中を歩く

 

 谷中の寺に逃げ込んだ太九郎とおちか、何処にその寺が有るのか、キョロキョロ探し回っても分かりません。
それもそのはず、ここはお寺さんの集団疎開地。江戸の振り袖火事を始め、何回もあった大火でここに引っ越してきたお寺、関東大震災で避難してきたお寺、仲間内の隣に新築したお寺、どちらにしても行くとこ行くとこお寺だらけです。

 谷中霊園に行きます。広大な敷地が霊園になっていて、お寺さんは北側に有る天王寺を含めて2〜3有るぐらいです。意外とここはお寺さん密度が一番少ないと思われる所です。谷中霊園の中央を縦断する道路は桜並木になっていて、緑の葉を茂らせていますが、春先には満開の桜を満喫することが出来ます。友人に連れて行ってもらったことがありますが、確かに綺麗ですが、墓石の横でイッパイ楽しむには根性が要ります。やはり、公園や水辺の桜を愛でながら一杯やりたいものです。特に夜桜も沢山の人手がありますが、小平次と一緒に、また毒婦・高橋おでん等とご一緒はしたく有りません。

 霊園の中程に交番(天王寺駐在所。台東区谷中7-9)があって、都内で唯一のご家族が一緒に住んでいる駐在所なのです。お父さんの警察官が出掛けているときは、声を掛けると奥から奥さんが出てきて、親切に対応してくれます。何で霊園のど真ん中に有るのかは分かりませんが、夜は幽霊が帰り道を聞きに来るのでしょうか。この駐在所には、この先に有った五重塔の炎上写真が壁に飾られています。その写真を観るだけでも価値があります。その写真は焼け跡にも飾られていますが、雨染みが付いて観にくい写真(下)になっています。

 左から、往年の五重塔、中、炎上する五重塔、右、無残な鎮火後の五重塔。焼け跡に飾られた写真より

 交番北側の天王寺五重塔跡を見ると、以外と基部は小さいのが分かります。一時再建の話しが有ったのですが、その後どうなったのでしょうか。実測図面が残っていて再建には支障が無いと言いますが、先ずは、先立つものが無いと・・・。

 霊園縦断道路の突き当たりに天王寺があります。大屋根も無く平屋造りの清楚な本堂を構え、清掃の行き届いた境内は心が安まります。ここで、江戸時代の富興行が開かれていたなんて、チョット想像が出来ません。深窓育ちの乙女が裏で博打をやっているような雰囲気です。この裏にはJR日暮里(にっぽり)駅が有って、その駅前に出ます。谷中霊園の北の敷地に沿った道を左(西)に行くと道が無くなり階段になっています。この階段を夕やけだんだんと言います。その先に有名な商店街、谷中ぎんざの入口が見え、奥に商店街は続いています。

 夕やけだんだんから見下ろす、谷中ぎんざ。谷中ぎんざといってもここは荒川区西日暮里です。

 この夕やけだんだんから左に曲がり、三崎坂に戻ります。坂を下って行くと右側に全生庵が現れます。落語協会が圓朝まつりとして真夏にここでイベントを開いていましたが、そのイベントも立ち消えになってしまいました。
本堂の奥の墓地には山岡鉄舟の大きな墓が有り、その手前には三遊亭圓朝の墓が有ります。その墓の中に三遊亭円生の墓も作られています。

 三崎坂に出て下ると、大円寺が右側に出てきます。笠森お仙と鈴木春信の碑には、
 お仙は、笠森稲荷神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正8年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰。
(台東区教育委員会)

 本堂は向拝が二つあり、一つはご本尊を祀り、もう一つは瘡守(かさもり)稲荷を祀っている。瘡守(かさもり)稲荷を笠森(かさもり)稲荷と誤記したという。で、ここには笠森稲荷は無かったと言うことは、美人のお仙さんも居なかったことになる。谷中には3ヶ所の笠森稲荷(?)が有って、もう一ヶ所の功徳林寺(台東区谷中七丁目6)にあるお稲荷さん(下写真)もお寺さん側で完全否定しているので、あとは谷中墓地内にあった稲荷だと言われますが、その稲荷がありません。居所不明で、いまだお仙さんがお盆に帰ってくる所が無くて困っていると言います。

 三崎坂に出て、坂を下ります。下りきった所に藍染川が流れていて藍染(合染)橋、又の名を枇杷橋が架かっていたと言います。その小さな交差点には川は暗渠になって、橋も無く、クネクネしたヘビ道が昔を彷彿させます。
抜けると、不忍通りの団子坂下交差点になり、通りの下には地下鉄が走り、千駄木の駅があります。 

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

 それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

歌舞伎座(中央区銀座四丁目12)
 歌舞伎座は東京都京橋区木挽町三丁目に創建された。木挽町というのはその名の通り、慶長11年(1606)に江戸城造営関係の鋸匠を住まわせたところで、万治元年(1659)に前面の海が埋め立てられ、同3年には森田座が創設されるなど、当時の歓楽の地であった。
 平成25年4月、第五期となる新歌舞伎座が新築され開場。

木挽町山村座跡(港区銀座6丁目14番 銀座東武ホテルの位置)
 木挽町五丁目に山村座が創設されたのは、寛永19年(1642)であったという。 この座は、正徳4年(1714)、例の奥女中絵島と歌舞伎俳優生島新丘郎の密会事件で断絶となったが、それまでは堺町の中村座、葺屋町の市村座、それに木挽町の森田座とともに江戸四座といわれた大劇場であった。

谷中霊園(台東区谷中七丁目の大部分)
 主として谷中天王寺の敷地等を東京府が引き継ぎ、明治7年9月1日谷中墓地として開設 したもの。その後、明治22年東京市に移管、昭和10年には谷中霊園と改め現在に至っている。中央園路の桜並木 とあいまって比較的静寂で、春には桜並木が美しく、多くの人出がある。 有名人の墓が多いので、地図片手の散策者が多い。

天王寺五重塔跡(台東区谷中七丁目9・谷中霊園中央)
 総欅造りで高さ11丈2尺8寸(34.18m)は関東で一番高い塔であった。天王寺の五重塔を明治41年(1908)に当時の東京市に寄贈されたもの。東京の名所のひとつで、谷中霊園のシンボルになっていた。
昭和32年(1957)7月6日早朝に、心中による放火で焼失した。現在は礎石が残るだけです。(都指定史跡)

天王寺(台東区谷中七丁目14)
 もと日蓮宗・長曜山感応寺尊重院と称し、道潅山の関小次郎長輝に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。
 現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のこと。
江戸時代、富の興行でも有名。

全生庵(台東区谷中五丁目4)
 山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅、明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。

大円寺(台東区谷中三丁目1)
 お仙は、笠森稲荷神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している。正面が二つあるので分かる。「鍵屋」はここには無かったといい、所在は分かっていない。

三崎坂(谷中、谷中霊園から団子坂に下る坂)
 この坂がある三崎町は三遊亭円朝の落語「怪談牡丹燈籠」の舞台にもなりました。近所の寺の僧で首を振り振り上り下りしたという説などから別名を首振り坂ともいいます。前記、全生庵、大円寺はこの坂に面しています。

藍染川跡(台東区と文京区の区境を流れた川に架かる橋)
 橋の名を枇杷橋(合染橋)といいます。北は染井から流れ出た川が、ここを通り不忍池に入った。川はクネクネとしているので、暗渠になった後もヘビ道と呼ばれています。ここで三崎坂は終わります。

                                                      2014年9月記

次のページへ    落語のホームページへ戻る

 

  

 

  

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送