落語「生きている小平次」の舞台を歩く 六代目三遊亭円生の噺、「生きている小平次」(いきている_こへいじ。「小幡小平次」)によると。
1.小幡小平次について
「怪談小幡小平次」歌川国貞(三代豊国)画 「怪談小幡小平次」河竹黙阿弥作の歌舞伎から、 江戸時代後期を代表する考証学者の山崎美成が文政3年 (1820) 6月から天保8年 (1837) 2月まで書き続け考証随筆『海録』には、難解な語句をはじめ当時著者が見聞きしたさまざまな巷説奇聞1700件が記されており、著者はその一つ一つに詳細な考証を加えている。それによると、この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名も”こはだ 小平次”だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという。 またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている。 小平次は江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻ったという。創作上の人物だが、モデルとなった役者が実在したことが知られている。
右図;「小幡小平次」豊国画 小平次、尾上松助
Googleマップより、画面の右隅に見える下記説明板がある朝積沼跡
郡山市の建てた説明板によると朝積沼跡は
芭蕉らは5月1日の早朝、日和田を経て「安積山」へ向かいます。そして安積沼では、夕暮れまで花かつみを尋ね歩いたと書き残されています。
■那古(なこ);千葉県館山市那古。千葉県は房総半島の南端館山市にある町で、館山湾に面しています。街の中には那古の名が被された、市立那古小学校、那古寺、那古海岸、那古海水浴場等があり、街を北に抜けたところには、JR内房線の那古船形駅があります。
■木更津(きさらず);千葉県の房総半島中央に位置し、東京湾を望む地。
木更津市から見える富士山。「木更津港の夕景」 大岩重利氏撮影。手前の橋は東京湾をまたぐ川崎−木更津間の高速道路アクアライン。 木更津市のホームページより。
■木挽町(こびきちょう);中央区銀座二丁目から八丁目までの、昭和通り西側の町。南北に細長く、一丁目から七丁目まで有った。
■谷中(やなか);台東区北西部の谷中地区。谷中は「寺町」と呼ばれるように、寺院が集中している。上野戦争で罹災したものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なく、旧来の町並み・建造物が残されている。
舞台の谷中を歩く
谷中の寺に逃げ込んだ太九郎とおちか、何処にその寺が有るのか、キョロキョロ探し回っても分かりません。
谷中霊園に行きます。広大な敷地が霊園になっていて、お寺さんは北側に有る天王寺を含めて2〜3有るぐらいです。意外とここはお寺さん密度が一番少ないと思われる所です。谷中霊園の中央を縦断する道路は桜並木になっていて、緑の葉を茂らせていますが、春先には満開の桜を満喫することが出来ます。友人に連れて行ってもらったことがありますが、確かに綺麗ですが、墓石の横でイッパイ楽しむには根性が要ります。やはり、公園や水辺の桜を愛でながら一杯やりたいものです。特に夜桜も沢山の人手がありますが、小平次と一緒に、また毒婦・高橋おでん等とご一緒はしたく有りません。
霊園の中程に交番(天王寺駐在所。台東区谷中7-9)があって、都内で唯一のご家族が一緒に住んでいる駐在所なのです。お父さんの警察官が出掛けているときは、声を掛けると奥から奥さんが出てきて、親切に対応してくれます。何で霊園のど真ん中に有るのかは分かりませんが、夜は幽霊が帰り道を聞きに来るのでしょうか。この駐在所には、この先に有った五重塔の炎上写真が壁に飾られています。その写真を観るだけでも価値があります。その写真は焼け跡にも飾られていますが、雨染みが付いて観にくい写真(下)になっています。
左から、往年の五重塔、中、炎上する五重塔、右、無残な鎮火後の五重塔。焼け跡に飾られた写真より
交番北側の天王寺五重塔跡を見ると、以外と基部は小さいのが分かります。一時再建の話しが有ったのですが、その後どうなったのでしょうか。実測図面が残っていて再建には支障が無いと言いますが、先ずは、先立つものが無いと・・・。
霊園縦断道路の突き当たりに天王寺があります。大屋根も無く平屋造りの清楚な本堂を構え、清掃の行き届いた境内は心が安まります。ここで、江戸時代の富興行が開かれていたなんて、チョット想像が出来ません。深窓育ちの乙女が裏で博打をやっているような雰囲気です。この裏にはJR日暮里(にっぽり)駅が有って、その駅前に出ます。谷中霊園の北の敷地に沿った道を左(西)に行くと道が無くなり階段になっています。この階段を夕やけだんだんと言います。その先に有名な商店街、谷中ぎんざの入口が見え、奥に商店街は続いています。
夕やけだんだんから見下ろす、谷中ぎんざ。谷中ぎんざといってもここは荒川区西日暮里です。
この夕やけだんだんから左に曲がり、三崎坂に戻ります。坂を下って行くと右側に全生庵が現れます。落語協会が圓朝まつりとして真夏にここでイベントを開いていましたが、そのイベントも立ち消えになってしまいました。
三崎坂に出て下ると、大円寺が右側に出てきます。笠森お仙と鈴木春信の碑には、
本堂は向拝が二つあり、一つはご本尊を祀り、もう一つは瘡守(かさもり)稲荷を祀っている。瘡守(かさもり)稲荷を笠森(かさもり)稲荷と誤記したという。で、ここには笠森稲荷は無かったと言うことは、美人のお仙さんも居なかったことになる。谷中には3ヶ所の笠森稲荷(?)が有って、もう一ヶ所の功徳林寺(台東区谷中七丁目6)にあるお稲荷さん(下写真)もお寺さん側で完全否定しているので、あとは谷中墓地内にあった稲荷だと言われますが、その稲荷がありません。居所不明で、いまだお仙さんがお盆に帰ってくる所が無くて困っていると言います。
三崎坂に出て、坂を下ります。下りきった所に藍染川が流れていて藍染(合染)橋、又の名を枇杷橋が架かっていたと言います。その小さな交差点には川は暗渠になって、橋も無く、クネクネしたヘビ道が昔を彷彿させます。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
歌舞伎座(中央区銀座四丁目12)
木挽町山村座跡(港区銀座6丁目14番 銀座東武ホテルの位置)
谷中霊園(台東区谷中七丁目の大部分)
天王寺五重塔跡(台東区谷中七丁目9・谷中霊園中央)
天王寺(台東区谷中七丁目14)
全生庵(台東区谷中五丁目4)
大円寺(台東区谷中三丁目1)
三崎坂(谷中、谷中霊園から団子坂に下る坂)
藍染川跡(台東区と文京区の区境を流れた川に架かる橋) 2014年9月記 |
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