落語「おかめ団子」の舞台を歩く
   

 

  古今亭志ん生の噺、「おかめ団子」(おかめだんご)によると。

 

 江戸時代飯倉片町におかめ団子という団子屋さんが有った。この店の一人娘にお亀さんという絶世の美女がいた。唐土の楊貴妃はなんのその普賢菩薩の再来か、今朝御前お昼御前は今済んだ、と言うほどの美女。この看板娘が帳場に座っているので、お客は切れなかった。

 この日は風が強くて客足が途絶えがちになっていた。その為、早仕舞になった。そこに汚い手ぬぐいをほっかむりした肌の白い優しい男が店先に立った。盲縞の筒袖に浅葱のネギのかっれ葉のような股引をはいて、素足にワラジ履きの大根(だいこ)屋が団子を所望したが早仕舞で売れないと追い返した。それを聞いた旦那が大根屋を呼び戻し自ら団子を作って渡した。「寝たきりになった母親におかめ団子を買って帰ると、とっても喜ぶのです」、「それは親孝行で良い。そうですか中目黒にお住まいですか」。
 敷紙を出して、店が仕舞い(終わり)なので売り上げを、その上に開けた。今日は13貫ばかりですが、普段は3倍ほど有と言われ、ジッと見つめる大根屋であった。

 家に帰った大根屋は母親に団子を勧めて、硬い布団に寝かせておいて悪いと身体をさすっている内に、子供のように寝入ってしまった。大根の稼ぎでは布団は買えない、あの団子屋の13貫があれば・・・。何を思ったか、ほっかむりをして、風が吹く町に出て行った。

 おかめ団子の裏に駆け出して来た。泥棒の仕方も分からないし、お月さんも見ている。庭の切り戸が風で煽られているので、中に入って植え込みの中にしゃがんで、どこから入ったら良いのか考えていた。その時、縁側の雨戸がスッーと開いて、一人娘のお亀さんが、文金高島田も崩れ緋縮緬のしごきを胸高に締めて、庭をボーッと見ていた。意を決したようにパタパタと庭に下りて松の枝にしごきを掛けて首をその中に・・・。ビックリして正直大根屋は止めに入って、「誰か来ないか。誰か〜」と、大声で怒鳴った。店の中では泥棒が入ったと思って店の者みんなを起こし、主人が縁側に出てみるとお亀さんが一大事。泥棒では無いからと店の者には見せず、部屋に戻した。
 翌日婚礼を控えて気が進まない話なのでこの有様。よく見ると助けた男は大根屋と分かり、「どうして、ここに?」、「通りかかったもんで」、「ここは家の庭だよ」。大根屋は正直に長患いの母親のこと、布団を買ってやりたいが、自分の稼ぎでは出来ないこと。それで、団子屋さんにさっきの売り上げ13貫の泥棒に来たと全部白状した。
 「人の物を盗んで布団を買ってもおっ母さんは喜ばない。それより、礼はちゃんとするよ」と、手文庫から5両を差し出した。「そんな大金。13貫で良いんです」、「多くてもイイだろ」。
 「ところで、頼みがあるんだが、お前さん家の養子にならないかい。帰っておっ母さんに相談しな。そして、おっ母さんを引き取って店の裏の隠居所に入ったら良い。話をして、明日の昼前に来なさい。お亀と3人でお昼を食べに行こう」。お亀に聞いても異存は無いという。5両持たせて帰した。

 男っぷりも良いし、正直者だから養子に入ってくれれば、3人共助かる。奥様は「もう、私たちも安泰に暮らせると思うよ」、「どうして我々を楽にしてくれると思う」、
「解るじゃ無いですか、大根屋さんだから、香々(孝行)でしょう」。

 



  この噺の主人公の名前は多助とも太助とも言われますが、この志ん生の音源では固有名詞は出て来ず、終わりまで大根屋で通しています。わたしの概略でもその様に大根屋で通しています。

1.おかめ団子
 鶏鳴旧跡志(けいめいきゅうせきし)文化13年(1816)によれば、
 麻布飯倉に水野家の浪人諏訪治郎太夫と云ふもの爰(ここ)に借宅してゐたりしが生来釣を好み秋に至れば品川の沖を家として日を暮らす。或る日小さき亀一つを釣る。其亀常の亀と異り尾先髪筋の如くふつさりとして青く如何にも小さき耳を生じたり。治郎太夫、大いに喜び持ち帰りて之を飼ふ。聞及びし人々来り見ること布を引くが如し。治郎太夫の妻は金川(神奈川)の百姓の娘とて志堅く賢き者なれば、親里より米を取り寄せ団子を製して之を売る。亀を見物に来し人々茶店に休んで団子を買ふ。夫れより流行して亀団子といふ。治郎太夫この団子に利を得て、女房の親里金川の在に空地を求め朝暮の煙細からず暮らして今に在り。
 その後、治郎太夫が跡へ近所の町人入り替わりて団子を製す。此の女頬高く鼻低き女なれば、世の人亀団子を改めて”お”を付けて、おかめ団子と呼びぬ。宝暦(1751-1763)のことなり、今は三河屋平八とて益々繁盛せり。治郎太夫より何代目か知らず。

 飯倉片町・家持 三河屋平八について
 平八先祖忠左衛門儀は、三州(三河国)出生にて寛文(1661〜)の頃より当町に住居仕り、団子商い相始め、寛保3年(1744)中、九十三歳にて病死仕り、男子これなく娘かめへ平八と申すもの婿養子に致し、右かめ儀もっぱら見世働き、ことのほか団子流行致し、おかめ団子と高名に相なり、当平八まで五代、団子商い相続き候。
文政10年(1828)9月 飯倉町 名主・兵庫の地誌御調書上帳による記述。この項、港区立港郷土資料館調べ
 この養子平八さんが、大根屋であった? おかめ顔のおかめさんの養子に入った? 
右写真;浅草・鷲(おおとり)神社で催されるお酉様の熊手。この中央に飾られるのがお多福(おかめ)。

 この鶏鳴旧跡志の後を麻布区史は、
 「斯程(かほど)の団子屋も七度強盗に見舞われたのがケチのつきはじめで、とうとう明治に入って間もなくつぶれてしまった」としています。

 麻布区史、昭和16年(1941)によると、
 飯倉片町にあって江戸時代には更科(蕎麦の名店)と並び称される程有名であつたが、維新後なくなってしまった。尤も同名の店が明治15年から同41年迄あったが、これは昔の店とは何等関係もない。
 おかめ団子は一盆の値、並は12文、上等16文であつたが、大抵の者はその何れかで満腹したと云ふ。間口三間、奥行十一間の総二階は常に人を以て溢れ、傍の上杉駿河守、岩瀬内記などの武家屋敷の石垣には何本も薪雑棒(まきざっぽう)を突込んで馬方が持馬を繋いでゐたと云ふ。

 おかめ団子は黄粉をまぶした団子で、一皿16文と記録にありますが、これは蕎麦の値段と同じで、1個でお腹が満腹するものです。現在の串に刺されている団子兄弟とは違います。

 値段の安い物を列挙したなかにも出てきます。
 親仁橋(元吉原に行く道に架かる)の角に、なん八といふ飯屋あり、なんでも一品8文なるを以て、なん八といふ、二十四孔の銭を擲てば、一度の食を得る、その廉なるを以て、繁昌する事ならぶかたなし。
 四谷御門外に、太田屋といふ蕎麦店あり、味ひ美ならずといへども、盛りの大なること、外々の三ッばかり寄せたるがごとし、世に馬方そばといふ、大食の人も一膳にて足るべし。
 鎌倉河岸豊島屋居酒店(白酒で有名)の田楽は、今の豆腐一ッだけありて、価2文、酒も外々の2合よりも多し、爛したるを湯桶に入れて出す。又、所々に三分亭といふ料理屋多く出来たり、坐敷廻り奇麗にして、器物も麁末なるを用ゐず、何品にても3分(銀三分=さんぷん=sanpun・百円余)づゝ、中々にうまく喰はす、刺身、焼肴、煮肴、椀もり、其外あり、外々に比すれば、極めて廉なる物なり。
 飯倉片町のおかめ団子、一盆16文、味ひも可なりにて、大きさ牡丹餅ほどあり、一盆にて一度の食にあつべし
。浅草黒船町(厩橋西詰め)に喜八団子、是また下直なり、併おかめ団子には及ばす。
(四壁菴茂蔦『わすれのこり』明治17年)

 

2.大根屋と大根
  大根屋のなりは、「汚い手ぬぐいをほっかむりした肌の白い優しい男が店先に立った。盲縞の筒袖に浅葱のネギのかっれ葉のような股引をはいて、素足にワラジ履き」 といいますから、当時の大根売りの典型的なスタイルです。近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。 売り声は「デェイコ、デェイコ」と呼びます。
右図;棒手振の大根屋 「江戸職人歌合」 国立国会図書館蔵

 大根は、江戸近郊では、練馬及び大蔵大根が秋大根(8、9月に蒔き10〜12月収穫)、亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5〜7月収穫)、板橋の清水大根が夏大根(5〜7月に蒔き7〜9月収穫) として有名でした。大根屋の在所の目黒は、どちらかといえば筍(たけのこ)の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。江戸の冬は北風が強く吹き、大火はこの時期に起きています。
 江戸の大根の産地は、亀戸大根に練馬大根です。亀戸大根は亀戸天神のある旧亀戸村が原産地で、葉ごとつけ込む浅漬け用の大根として、また辛みを生かして、摺り下ろして調味料的な使い方をします。どちらも、宅地化が進んで絶滅の危機に瀕しています。

 江戸の大根は練馬大根にトドメを刺すでしょう。起源としての代表的な伝承は「五代将軍綱吉が、まだ右馬之頭(うまのかみ)のとき、重い脚気を患い、占いによると城の西、馬の字の付く所で療養すれば治る、と出たので練馬に家を建て療養をした。しかし、退屈なので尾張国から大根の種を取り寄せ栽培したところ見事な大根が出来た」。それが起源だと区史ではいいます。
 また、練馬大根は家康が江戸に入る前から作られていたとも言い、練馬で百姓又六が作り始めたとの伝承があります。

上写真;八百屋の店先、深川江戸資料館 右;野菜売りの棒手振り。
 どちらの大根も練馬大根。首のところが細く、胴の中程が太く、先端が細い。辛みの強い大根だが、沢庵漬けにすると最適な大根です。今は辛みのない青首大根に取って代わられてしまった。

 練馬大根は沢庵禅師が考案したと言われる沢庵漬けの材料として、無くてはならない野菜となった。右写真;沢庵漬けのために干される大根。沢庵漬けは、切りそろえて食卓に出すと「香々(江戸言葉で、こうこ)」と言われ、丁寧に「お香々」とも言われる。
 落語「長屋の花見」で黄色のたくわんを、玉子焼きに見立てて持って行く。また白い大根は月形に切って蒲鉾。大根は万能です。
 大根はどんな料理にもあい、大根そのものでは身体に当たらないので、へぼ役者のことを何をやっても当たらないので大根役者という。

 

3.麻布飯倉片町(いいくらかたまち)
 飯倉片町は現在の港区六本木五丁目、東京タワーと六本木交差点の中程。赤坂永坂に下る入り口にある町。
 文政10年(1828)の地誌御調書上帳によると、
飯倉の南側の片側だけに町があったので、飯倉片町と言われた。お城より方角坤(ひつじさる。南西)の方、およそ28町(約3km)ほど、古いことは火事で焼けて委細分からないと記され、総坪数は1321坪。隣家は、東側、常火消し・牧野順三郎お屋敷。西側、御寄合・有馬他吉郎お屋敷、同じく、小普請御医師・岡仁庵。南側、大田原飛騨守御上屋敷、牧野順三郎御屋敷。北側、上杉駿河守様御上屋敷となっています。町内総戸数64軒の内、家持11軒、家守14軒、地借4軒、店借35軒、他に自身番屋1軒があった。
 上記に出てくる、岩瀬内規は江戸幕府の旗本のうち、非職の者で寄合と言った。禄高1千700石で飯倉片町の近所に560坪の屋敷が有ったが、幕末の切り絵図(地図)では居所不明です。
この項、港区立港郷土資料館調べ。 

 この地は江戸時代、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。 もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没していた。現在も町名に狸穴(まみあな)と有るくらいですからかなり寂しいところ。その狸穴にロシア大使館があります。現在は住居表示で変わってロシア大使館は麻布台になりましたが、その西側には小さくなった麻布狸穴町が有ります。
 飯倉片町おかめ団子は、志ん生の噺でおなじみの「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場しています。

中目黒(なかめぐろ);大根屋さんの住まいがあるところ、目黒区中目黒。東急東横線の中目黒駅は北側の上目黒にあり、中目黒には駅はありません。何だか話がこんがらがりそうです。落語「目黒のさんま」の舞台が近くにあります。
 江戸の名産と言えば目黒のタケノコです。大根屋さんが住まっている所は大根の産地・練馬とは大違い。近所の野菜市場から仕入れて、売り歩いていたのでしょうか。ここから麻布方向は上り坂が多く、棒手振りには辛いところです。

 江戸野菜の主な産地
 きゅうり=馬込半白胡瓜(東京都大田区)。なす=砂村茄子(江東区)、蔓細千成(多摩地域)、寺島茄子(墨田区)、駒込なす(駒込)。かぶ=東京長蕪(滝野川蕪)(北区)、品川カブ(品川区)、金町小蕪(葛飾区)。にんじん=砂村三寸人参(江東区)、滝野川人参(北区)。うど=東京独活(もやし独活)(多摩地域)。タケノコ=目黒の筍(目黒区)。ごぼう=滝野川牛蒡(北区)。うり=鳴子瓜(新宿区)、東京大越瓜(中野区)。かぼちゃ=淀橋南瓜(内藤南瓜)(新宿区)、居留木橋南瓜(品川区)、砂村カボチャ(江東区)。だいこん=亀戸大根(江東区)、練馬大根(練馬区)、大蔵大根(世田谷区)。しょうが=谷中生姜(台東区)。長ねぎ=千住葱(足立区)、砂村葱(江東区)。菜っ葉=小松菜(江戸川区)、三河島菜(荒川区)、のらぼう菜(多摩地域,埼玉県比企郡(小川町))。唐辛子=内藤とうがらし(新宿区)。ハス=蓮根(江戸川区)。その他、書き切れないほど有りますが省略。
 山の手では根物野菜、下町では葉物野菜が適していて、多く作られた。

 

3.言葉
盲縞(めくらじま);経・緯ともに紺染にした綿糸で織った木綿平織物。紺無地に染めた綿布。足袋表・法被(はっぴ)などに用いる。紺無地で縞が無い織物。

唐土の楊貴妃はなんのその普賢菩薩の再来か;美人を現す時の常套句。
唐土(もろこし)=昔、日本で中国を呼んだ称。
楊貴妃(ようきひ)=唐の玄宗の妃。名は玉環。才色すぐれ歌舞音曲に通じて、玄宗の寵をもっぱらにし、楊氏一族も顕要の地位を占めた。安史の乱で、馬嵬(バカイ)駅の仏堂で殺された。(719〜756)。
普賢菩薩(ふげんぼさつ)=(右図)仏の理法・修行の面を象徴する菩薩。文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍で、白象に乗って仏の右側に侍す。一切菩薩の上首として常に仏の教化・済度を助けるともいう。

今朝御前(けさごぜん); 袈裟御前のもじり。遠藤武者盛遠(もりとお)が袈裟御前に懸想して、袈裟は夫、渡辺亘を殺してくれと、夫の部屋で寝ていると、盛遠は忍んで殺し首を持ち帰ろうとする、男の頭にしてはと不審に思い首へ手をやるとご飯粒。 「さては今朝のごぜんであったか」。
 広辞苑では、袈裟御前を平安末期の女性。母は衣川。源渡の妻。容姿端麗、遠藤盛遠(文覚)に懸想され、夫にかわって殺されたと「源平盛衰記」などに伝える。また文覚(もんがく)は、平安末期〜鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠。もと北面の武士。誤って袈裟御前を殺して出家し、熊野で苦行したという。後に高雄山神護寺を再興。東寺大修理を主導したほか、源頼朝の挙兵を助勢。幕府開創後その帰依を受けたが、頼朝没後佐渡・対馬に流罪。(1139〜1203)

筒袖(つつそで);袂(タモト)がなくて全体を筒形に仕立てた袖。また、その着物。

浅葱(あさぎ);薄いネギの葉の色(右の色)。薄い藍色。うすあお。
ネギのかっれ葉のような=履き古されて色が抜けかかったような。

股引(ももひき);着物の下に履く、現在のズボン状の履き物。

13貫(13かん);銭の単位。江戸中期で1両=5貫、13貫だと2両と3貫。なお、1貫=1000文。
5両のお礼を出されて、「それでは多い」と言っているのは、約倍のお礼だから。

文金高島田(ぶんきんたかしまだ);女の髪の結い方のひとつ。島田髷の根を最も高くした、高尚・優美なもの。もと辰松島田。針打ち。文金島田。現在、結婚式など和装で着飾った時の髪型。

緋縮緬のしごき(ひじりめん−);緋色の縮緬で出来た、女の腰帯のひとつ。一幅の布を適当な長さに切り、しごいて用いる帯。抱え帯。
 もともとは、武家の女性や女児が家の中で着物の裾をお引きずりに着ていて、外出時に裾をたくし上げてひもで締めた腰紐がルーツです。それが抱え帯とよばれ、しごきの原型となりました。しごきは抱え帯と似ていますが、一枚の並幅(約36cm)の布を適当な長さにして、くけたりせずにそのまま用いる、やわらかいものです。しごきを使うのは、引きずりを着ているような良いとこの娘さんで、町方の娘さんは必要ではないのでしごきは使いません。現在ではしごきというと、花嫁衣裳や七五三で用いられる飾りの帯のことです。帯の下に巻いて、左の後ろ脇で蝶結びにして垂らします。

右図;「忍岡花見所」部分 歌麿画 左の女性が締め直しているのが『しごき』で、ホコリ除けの打ち掛けの上から締めています。お供の右側の女性は帯の下に同じように、垂らしてはいませんが巻いています。頭の白い物は外出時のホコリ除けのかぶり物。現在の花嫁の角隠しに変化しました。2014.08.追記

蓑亀(みのかめ);緑藻類の付着した石亀のことのことを蓑亀といいます。背中に蓑を羽織ったように見えることに由来し、日本では他に「緑毛亀」「緑藻亀」などと呼ばれる。中国や日本では長寿を象徴する縁起のよいものとして珍重され、古くからさまざまな文学作品や芸術作品に記述が見られる。浦島太郎に出てくる尻尾と言うよりスカートをはいたような亀。品川で釣ってきた亀団子屋の亀は小さな耳が有りますが、右絵図にはありません。
 写真;江戸切り絵図(地図)、「御曲輪内大名小路絵図」より御城内の鶴亀絵図より
 


 
 舞台の飯倉片町を歩く

 

 地下鉄の六本木駅で降ります。地上に出ると、東京でも片手の指の中に入る繁華街です。丸の内や神田のようにサラリーマンの群居しているビジネス街では無く、遊興の町六本木です。交差点から南に下れば、六本木ヒルズで、交差点を西に行けば、元防衛庁の跡地に建設された東京ミッドタウン、その南側には国立新美術館が有ります。まぁ〜てんこ盛りの街並みで、遊ぶに良し、勉学にも良し、流行の先端を探すのも良し、どんな要求にも対応出来る街並みです。

 その中でも、東に行けば江戸情緒が楽しめる、今回の飯倉片町です。その道が外苑東通りで、通りの正面に何時も東京タワーがあります。六本木五丁目が終わるところに首都高都心環状線が走る高架橋にネームプレートが張り付けられて「飯倉片町」交差点と入っています。右(南)側だけにその町名がありましたが、現在はその町名は無くなって、六本木五丁目と飯倉片町交差点を渡ると麻布台という町名に変わってしまいました。倉片町の名称は交差点名としてだけ残っています。
 過去の倉片町跡の西角に立つと白い事務用品屋さんが有ります。そこが今回のおかめ団子が有った地だと思っています。でも、完全な公式資料が無く港区でも特定が出来ず、泣いているのが現実です。

 この事務用品屋さんの脇を入ると永坂に下る道になります。ビル数で10軒も行かない間に急激に下る坂道に出くわします。そこが永坂で、下り口に永坂の標柱が建っています。下りきるともう一つの江戸からの名店、麻布永坂更級(さらしな)本店のお蕎麦屋さんがあります。永坂更級もう一軒近所の麻布十番に有って、そこと名称に関する訴訟沙汰が起こり、大岡政談ではありませんが両者痛み分けになっています。両店舗ともいつ行っても満席状態で賑わっていますが、新しい方が店が大きいので、売り上げも多いことでしょう。歴史の古い”本店”の角を首都高速の下をくぐり抜け東麻布に出ます。

 最初の道を左に入り、商店街からがらりと様相を変えた住宅地になります。その先に、狸穴公園が現れます。子供達が遊んでいる横でお母さん達が子供そっちのけで井戸端会議に熱中しています。公園を抜けると鼠坂という急坂に出合いますし、終わったところに左に曲がる坂があって、そこを植木坂と言いますが、私は真っ直ぐだらだら坂を上ります。住宅地のど真ん中に島崎藤村旧居跡の碑が出てきます。
 藤村は文学者としてアブラの乗りきった47〜65歳まで18年間倉片町33番地に居住していた。と碑に書き込まれています。「夜明け前」、地名を被した「倉だより」、童話集「ふるさとおさなものがたり」等があります。

 坂を上がりきったところが、外苑東通りです。通の向こう側は外務省公館だったり、郵政省の建物が有り、こちら側には、ロシア大使館が現れます。大使館との間の下り道が狸穴坂と言いますが、現在はタヌキもムジナもこんな騒がしい都心には住めないでしょう。騙されることも無く、この坂を下ると地図では先程の狸穴公園に行き着きます。
 警備が一段と厳しい大使館前を通って、坂道の倉交差点に出ます。まっすぐに行けば東京タワーの足元に出ますが、「黄金餅」の道筋では左に曲がった神谷町の方からやって来ます。貧乏弔いの葬列ですから、一目瞭然ですが、深夜の葬列ですれ違うことも無く今回の舞台を歩き通しました。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

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六本木交差点(港区六本木五丁目から)
 六本木交差点を見る。まだ昼過ぎだというのに、大勢の遊び人と、それを迎える店が大忙しで町は活気に満ちあふれています。

六本木交差点東(飯倉片町方向を見る)
 同じ所から、これから行く飯倉片町方向を見ています。道の先に東京タワーとその手前に首都高速道路が高架で横切る飯倉片町の交差点が見えます。

飯倉片町跡(港区六本木五丁目18)
 飯倉片町の一番手前の白いビル。ここにおかめ団子の店が有ったと私は判断しています。首都高速道路が高架で横切る飯倉片町の交差点と東京タワーが見えます。

永坂への道(おかめ団子の店右側の道)
 飯倉片町の一番手前の角を曲がると、永坂への道となります。「黄金餅」の道の言い立てを検証すると、左から来た葬列はここで左に曲がって麻布十番を通って、麻布絶口釜無村の木蓮寺に行くことになります。

永坂(港区六本木五丁目)
 永坂は十番に下る長い坂だから、この名が付いたと言われる。永いと言っても、山道のように永いわけでは無く、東京の台地から下ってくるだけですから、そんな大それた事は有りません。道の反対の町は麻布永坂町と言います。

更級本店(港区東麻布一丁目1)
 永坂を下って平坦になった新一の橋交差点のところに、江戸時代から続く蕎麦屋、麻布永坂更級本店が有ります。江戸時代の有名店が坂の上と坂の下で頑張っていたことになります。違うのは更級本店は今でも繁盛して営業が続いている事です。

狸穴坂(港区麻布狸穴町東部)
 ”まみ”とは雌タヌキかムササビまたはアナグマの類で、昔その穴が坂下に有ったという。この坂の東側には下記のロシア大使館の塀が続いています。

在日ロシア連邦大使館(港区麻布台二丁目1)
 今までは警戒の必要が全く無い平和な地域でしたが、この外周には警備の小屋や警察官が四六時中目を光らせています。気が小さいものですから、ここだけですが、聞いてしまいました「写真撮っても良いですか」。気持ち良くOKサインが出ました。この先、きつい坂を下ると飯倉の交差点に出ます。

                                                     2014年6月記

 

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