落語「目黒のさんま」の舞台を歩く 

 

 金原亭馬生による「目黒のさんま」によると、

 御大名も初代は英雄武人であったが、代を重ねるに従ってその必要はなくなった。子供がそのまま大人になったようなタイプが理想とされた。
 大名行列でも江戸市中では「したにぃ〜、下に」とは声が掛からなかった。そんなことしてたら、都市の活動が滞ってしまいます。そこで「よろ〜、寄ろう」と声が掛かり、土下座をせずに脇に避けてれば良かった。「誰だい。そうか○○様か。道理で素晴らしいんだ」。また「今度は何処のお姫様だい。綺麗だな〜。ああいうの買いたいなぁ」。「お前なんか何でも買いたがるが、淫売でも買え」。その様な悪い言葉は姫の耳にも届いた。周りの者に聞いたが答えられず「下々の下品な言葉で『休め。休息いたせ』の意味でございます」と逃げた。国元から老家老が挨拶に来た。挨拶終わって労いの言葉をかけた「ご苦労であった。次に下がって淫売でも買え」。

 大名は贅沢していたかというと、質素な食べ物で、冷めたものしか食べられなかった。ある味の分かる大名が「今日の菜は昨日より劣るがどうしたのか」、「昨日は三河島産ですが、本日は庭園で採れたものです」、「なぜ、三河島のものが良いのだ」、「それは下肥を使っているからです」、「下肥を掛けると旨くなるのか。くるしゅうない、これへ掛けて参れ」と茶碗を差し出した。

 お付きの金也は「天気もいいし、武芸錬成のため遠乗りなどいかがでしょうか。下屋敷から近い目黒など、谷あり川あり、紅葉も綺麗です」、「あい分かった。遠乗りに出かけるぞ。支度をいたせ」。で、お殿様一人馬で駆け出した。驚いたのは家来。そんな事は思いも寄らなかったので、慌てて後を追った。お殿様、気分良く走っていたが、乗り慣れない鞍の上、目黒に着いた頃、飛び降りてしまった。そこに家来達が到着した。馬にもう乗りたくないので駆け足であの松まで駆け比べだと走り始めたが、抜こうとすると「無礼である!」と叱責を受け、殿様一位でゴールイン。

 「空腹を覚えた、弁当を出せ」、それには家来一同ビックリした。突然の事で持ち合わせは当然なかった。それより驚いたのが殿様本人で、一気に全身に空腹感が充満してしまった。主従そろって松の根方に腰を下ろし、ぼ〜っと秋の空を眺めていた。その時、近くの農家で秋刀魚を焼く匂いが、殿様の鼻に入った。「金也、この匂いは何だ」、「秋刀魚というゲス魚でございます。殿様が召し上がるような魚ではございません」、「黙れ、戦場で食するものがないときには何とする」。はは〜〜、と言う事でそのワガママを持って、農夫から秋刀魚と炊きたてのご飯を譲り受けてきた。鯛と違って真っ黒に焼けた長き魚、欠けた皿に大根おろし、じゅ〜〜と音をあげる醤油。いぶかしそうに食べ始めたが、旬のものだから不味い訳はないし、その上運動の後の空腹に青空の下だから、「これは美味である!」代わりを持てと言う事でお代わりをして、身も心も満腹した。戻ったら城でも食べたいと言うが、この一件責任問題になるのでご内聞にと、釘を差されてしまった。

 お城に帰ってからも秋刀魚が頭から離れ無くなってしまった。秋刀魚に恋いこがれて、目黒に行きたいとまで思ったが、金也にご内聞に。

 御親類にお客様として呼ばれる事があった。
  この時、料理の中から好きなもの一点作らせていただきますからとの申し出があった。当然「秋刀魚」とリクエスト。聞いた方は解せなかった、殿様がゲス魚の秋刀魚を知っている訳がない。再度聞くと「黒き長やかな魚である」とのことで、日本橋まで早馬を使って買い出してきた。
 秋刀魚は焼き魚にすれば旨いのは分かっていたが、身体にさわったら大変と、蒸し器に入れ脂抜きをした。その上、小骨は骨抜きにし、バサバサの秋刀魚をこのまま出せず、お吸い物にして出した。
 殿様、真っ黒に焼けた秋刀魚がチュッポチュッポといって出てくるだろうと思ったら、お椀が出てきた。「即答を許す。これは秋刀魚か?」、「秋刀魚でございます」。蓋を取ってみると、かすかに秋刀魚の匂いがする。「秋刀魚である。久しかったのう。そなたも堅固で何よりである。・・・ん? これ、この秋刀魚いず方より仕入れた」、「日本橋は魚河岸より仕入れました」、
「それはいかん。秋刀魚は目黒に限る」。

 


1.舞台となった茶屋が有ったという場所。
 目黒区三田2−12近辺に茶屋坂が有り、その中程に「茶屋坂と爺々が茶屋」跡の説明板が、目黒区教育委員会の説明文で立てられている。
 坂道は細く曲がりくねっており、20%の急坂で自転車の人も必ず降りて押し上げている程です。回りは高級住宅地でマンションや大使館、旧家等が建ち並び、静かな雰囲気を醸しています。

”茶屋坂と爺々が茶屋”の説明板(目黒区三田2−12−14)より
 茶屋坂は江戸時代に江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良い所であった。
 この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。
 家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれて広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時には立ち寄って銀一枚を与えるのが例であったという。また十代将軍家治が立ち寄ったときには団子と田楽を作って差し上げたと古文書にも書き残されている。
 こんな事から「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。
  平成3年3月  目黒区教育委員会

右の版画;広重画の名所江戸百景より ”爺々が茶屋
下図;「千代の崎」江戸名所図会  行人坂の北側に有る松平主殿侯の別荘の後ろ、中目黒の方に少し下ったところなり。”初槍の崎”と呼ばれていたが、後に”千代の崎”と改められる。(江戸名所図会から要約) 現在の爺々が茶屋あたりに付合します。


 

2.噺の虚と実
 
六代目円生が「歴史の事実と、話の内容は必ずしも一致しない」と言っていますが、その通り。話は面白く人を引きつけるように脚色されているので当たり前のことなのです。この”爺々が茶屋”も古文書によれば団子や田楽を30数回出しているが、秋刀魚の記述は残念ながらどこにも無い。しかし、区教育委員会によれば新鮮な秋刀魚は陸路運ばれたのではなく、水路目黒川を使い品川から船で運ばれ、昭和の初め頃まで、水路は利用されていた、とのことです。
 しかし、落語の中では目黒と言っていますが、茶屋ではなく一軒の農家です。

  
 北斎「冨獄三十六景」より下目黒 現在の下目黒、目黒不動や大円寺がありJR目黒駅辺りからの眺め

 目黒区にはJRの駅は一つもなく、舞台の目黒区三田(JR田町駅前の三田とは同名だが違う町)は品川区のJR目黒駅(上大崎)とは隣町で接している。ここには有名な権の助坂や行人坂が微妙に共有しているし、景色も広重画の名所江戸百景に出てくるほど素晴らしい所だった。目黒駅前、こちらが「目黒の秋刀魚」を出した本家かも知れない。と言うので、今年(平成12年)も9月15日に商店会主催で「目黒のさんま祭り」が宮古産秋刀魚4000匹を用意して行われる。  
  対する”茶屋坂”の目黒区も今年から区民祭りに格上げされて、気仙沼から7000匹の秋刀魚を用意して9月23日に行われる。これだけ一時に焼かれたら落語「さんま火事」の現代版になるかも知れない。

 落語「さんま火事」=常日頃からの恨みを晴らすため、裏の長屋の連中が質屋の裏に集まり、気をそろえて何十匹という秋刀魚を一度に焼いて、かし(河岸)だ〜、かしだ〜と怒鳴ると、かじ(火事)だ〜、かじだ〜と勘違いをしてドタバタになる・・・噺。
 

3.秋刀魚
 
秋刀魚の水揚げ本場は関東では千葉県の銚子。銚子が本場物で、それ以外から入ってくるのを「場違いもの」と言い、場違いな事を言ったり、やったりする事の語源になっています。今回はその本場物の秋刀魚を本場物の日本橋魚市場で手に入れたのですが、お殿様にすれば場違いものに成ってしまったのです。

■付録、現代版目黒の秋刀魚 
 日本食が好きで、中でも焼き鳥が大好きだったアメリカ大統領のジミーカーター氏。国賓として訪日している時、日本側では接待に気を遣い、一流の料亭に招待したりした。が、お忍びで食べた焼き鳥の感想をマスコミに聞かれ、「そうだね、新橋のガード下の焼き鳥の方がおいしいね。」と言ったのは有名。

サンマ(秋刀魚)江戸では明和(1764−72)のころまでは甘塩のサンマはあまり売られなかった。安永(1772−81)になると「安くて長きはさんまなり」という壁書があるくらい流行してきた。下々の者が食べたのだが、寛政(1789−1801)になると中流階層以上にも好む者が出てきた。『サンマがでるとアンマが引込む」といわれるほど健康に良いたべものとされるようになる。千島列島から九州・朝鮮・北米に生息する。秋、産卵のために千葉県や相模灘の沿岸にくる。太平洋岸では千葉県以北が主な漁場である。相模灘以南に回遊するものは産卵後であるから、おいしくない。尾ビレの黄色いのは脂の乗りが良いといわれ、また魚体に鱗のたくさんついているほど鮮度が良い。日本海のサンマは実りの秋がきても脂がなくてまずい。江戸時代、エビスコサンマといってエビス講(陰暦10月20日)神棚に供えたが、現在の11月25日のころで、そのころ房総近海にきたサンマは最もおいしかった。サンマの名は、体が狭長であるところからサマナ(狭身魚)の音便である、という説もある。サンマのサンは、たくさんという意で、マは、まとまるとか、うまいという意である。秋の味覚の代表とされる魚であるから、うまさたくさん、とほめたのであろう。サンマを秋刀魚と書いたのは、秋の月夜にサンマをとったとき、魚体が刀のように美しく見えたということである。
「たべもの語源辞典」清水桂一編 東京堂出版より



 舞台の茶屋坂と爺々が茶屋を歩く

 山手通り目黒警察署の脇の道を北に入ると、目黒川が流れ、モダンな中里橋を渡るが、右手には大きな白い煙突が空を突き刺している巨大な目黒清掃工場で、それを過ぎた当たりから道は徐々に上り坂になってくる。まもなくバス停”茶屋坂”、近いぞ〜と言う予感を感じながら、右に曲がるとそこは静かな住宅地、路地2本目の坂道が”茶屋坂”。左手向こうがしに白木の柱が建っている。”茶屋坂”の場所表示と由来が書かれている。左に曲がり急坂を昇ると路は左に大きく曲がるその角に、”茶屋坂と爺々が茶屋”の説明板が立つ(目黒区三田2−12−14)。路なりに昇って行くと突き当たり、右に折れるが、その正面フェンスに広重画の名所江戸百景より”爺々が茶屋”の浮世絵が写真パネルと説明文付きで掲示されている。曲がった後、まっすぐ行くとJR山手線に出る。その向こう側が、今話題のスポット”ガーデンプレイス”になる。ここは元恵比寿ビールの発祥の地で、今はサッポロビールの本社があり、三越、東京都写真美術館、ショッピングモール、ウエスティンホテル等があり、連日賑わっています。

 少し横道にそれたので、今来た路を戻り、”茶屋坂”の標識を通り越しそのまま坂を下ると、左手に区の小さい公園が表れる(三田2−15)。ここに大きな石碑が建ち、その碑は「茶屋坂の清水碑」と言い、説明板を要約すると、「爺々が茶屋」は三代家光、八代吉宗が鷹狩りのおり、背後にそびえる富士山の絶景を楽しみながら、湧き出る清水で点てた茶で喉を潤したといわれています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺(ここから、約2キロメートル弱の位置にある)詣でのおりにも利用したと伝えられる。終戦後も清水は守られたが、現在は開発が進み渇き、昭和21年6月建立の碑だけが残った。その碑を住宅地の中から20m位離れた現在の公園に移設され、元の清水は場所の特定が出来なくなってしまった。

 上の説明にもあるように、茶店は通常景色の良いところで、水の恵まれたところに作られるのが当たり前で、私の推理では目黒区の”爺々が茶屋”の説明板が立つ所に茶屋が有ったのではなく、この公園そばの清水の湧き出る場所に茶屋は有ったと思われるのが自然でしょう。区の説明板より100m程下った所ではないかと思われます。

2003年9月、サンマまつり、本家はどっち−−品川区「目黒駅前」Vs目黒区「区民まつり」
 「サンマは目黒に限る」のオチで知られる落語「目黒のさんま」にちなんだ目黒区と品川区の二つの「目黒のさんま祭り」が、今年も開かれた。商店街や地域活性化のため、ともに96年に始まり、計約6万人が訪れる名物行事に成長した。サンマや付け合わせの材料提供地などさまざまな要素が対照的なため、「目黒のサンマはどちらに限る?」と毎年話題を呼んでいる。

 今年(03年)は、9月14日にJR目黒駅前の品川区「目黒駅前商店街振興組合」主催の「目黒のさんま祭り」が、9月21日には目黒区民まつりの一環の「目黒のさんま祭」が同区目黒1、田道(でんどう)広場公園で行われ、ともに焼いたサンマが無料でふるまわれた。

 品川区の「祭り」は、上大崎の誕生八幡神社を中心とした目黒通り沿いで行われる。同振興組合が、急速にビル化された街並みに昔ながらの温かみを取り戻したいと始めた。98年から岩手県宮古市がサンマを、徳島県神山町がスダチを無料で提供。00年からは栃木県黒磯市の青年団が大根おろし用大根を提供している。今年もサンマ5000匹、スダチ1万個と大根が贈られる。

 一方、目黒区の「祭」は、宮城県気仙沼市の市民有志が町おこし企画として同区に提案し、同区「田道地区住民会議」の協力で始まった。毎年気仙沼市市民有志から5000匹のサンマ、大分県からカボスが提供される。焼きサンマ配布は、午前10時から整理券が配布される。毎年午後2時ごろまでにはなくなるという。
【毎日新聞 窪田千代】 2003年追記

 2010年9月19日、田道広場公園で行われた「さんま祭り」。2010年9月追加。

 2013年9月18日に行われた、2ヶ所の内目黒駅前の「目黒さんま祭り」です。今年はさんまの水揚げが無く、開催直前まで関係者一同ヤキモキしていましたが、船を北海道沖まで出して、水揚げしてきた初物です。そうだ、まだ一匹も食べていません。旨いんだろうな〜。2013.10追加


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。1999−2000年頃撮影、取材

茶屋坂銘板
目黒区三田2−10に建つ「目黒のさんま」の舞台になる坂道
茶屋坂を上から見下ろす。
横断歩道の左側に上の銘板が建つ。
後ろ左側に”茶屋坂と爺々が茶屋”の説明板が有る。
急坂を汗をかきかき人が登ってくる。
坂の向こうに清掃工場の建物が見えるが、当時は富士山が良く見えたであろう。
それから曲がって少し登った場所。
突き当たりの左に、”茶屋坂と爺々が茶屋”の説明板がある。
つづら折りの急坂で当時も一休みしたくなる所であった。
登り切ったところにある説明板。
広重画の名所江戸百景より ”爺々が茶屋”の浮世絵が写真パネルと説明文付きで掲示されている。
小さな小さな区立公園にある「茶屋坂の清水碑」が有る。
これだけの為に有るような可愛い公園。
つい最近までこの清水が湧いていたのかと思うと、これからの子供達に残せなかった無念さと、江戸時代がそこに今まであった事を感慨深く思う。
その公園にあるタイル絵。
「将軍鷹狩りの図」
これもその公園にあったタイル絵。
「秋刀魚を思い浮かべる図」

                                                初版:1999−2000年頃記
                                                全面改訂版:2009年6月記

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