落語「熊の皮」の舞台を歩く
   

 

 柳家喜多八の噺、「熊の皮」(くまのかわ)
 

 

 八百屋の亭主が疲れて帰ってきた。完売してきたというのに、家にも入いれず水を汲まされ、お米を研がされ、それをへっついの上に乗せた。それでは終わらず、女房の下着を洗濯して、お稲荷さんの鳥居に干してきた。
 横町の医者から、祝い事があったからと、赤飯が届けられていた。

 お礼に行かなければいけないので、女房が丁寧に口上を教えてくれた。「承りますれば、お祝い事がありましたそうで、おめでとう存じます。お門多のところを、手前どもまで赤飯をちょうだいしまして、ありがとう存じます。女房がくれぐれもよろしく申しておりました」。重ねて「おまえさんはおめでたいから、決して最後の一言を忘れるんじゃないよ」と、強く言われた。友達に「甚兵衛さんは尻に敷かれている」と言われたが、それは褒められていると思ったら、女房の言いなりにされていると言うことだと、最近分かった。あの女房だって昔は優しかったんだが、有る時「おい!」と言われて「はい」と答えた時から、立場が変わったんだな。
 医者は表じゃ無くて、裏から廻るんだっけ。「ごめんくださいまし」。

 書生が出てきて対応してくれた。奥に通され先生にお礼を述べた。先ずはしどろもどろであったが、最後の言葉がまだ出なかった。
 先生は「わしはな、甚兵衛さん、お前の正直なところが好きだ。この長屋でいちばん好きなのは、甚兵衛さん、お前さんだよ」と言って、甚兵衛さんに「そうですか、あっしは先生のことあんまり好きじゃありません」と返され「どうしてだい」、「だって、藪医者なんだもの」。
 お赤飯はブラブラ病だったお嬢さんが治ったのでお祝いにもらった物のお裾分け。その上、熊の皮をもらったと見せてくれた。「可哀相に。鉄砲で撃たれちゃったんですか。これは何に使うのですか」、「お尻に敷くんです。熊の皮の敷物です」、「尻に敷く? 女房が『よろしく』と言ってました」。

 



1.医者
 江戸の人々は病気になると、まず、神社仏閣に願掛けしたが、それでも治らない時は、身近にある売薬や民間薬に頼った。しかし重くなると近くの医者に掛かり、往診を頼んだ。医者は医師とも呼ばれ「くすし」とも読まれた。

 江戸時代の医者は一般的には徒弟制度で、世襲制であったが、誰でもなれた。 しかし、医師免許も教習もなければ資格もなかった。なる資格は”自分が医者だ”という、自覚だけであった。医者になると、姓を名乗り、小刀を腰に差す事が許された。
 日本に医師免許規則が出来たのは、明治16年(1883)になってからで、治療法も東洋医学から西洋医学へと変わっていきました。
 江戸時代の医者は市中で開業している町医者のほか、各藩のお抱え医者、幕府の御典医まで居て、種類、身分、業態は様々であった。医者は大きく分けて、徒歩(かち)医者と駕籠(かご)医者とがあった。つまり、歩いてくる医者と駕籠に乗ってくる医者であった。例えば文化文政(1804~1829)の頃、徒歩医者が薬1服(1日分)30文とすると、駕籠医者は車賃を含めて薬1服80~100文と高価であった。この頃、職人の手間が400文であった。高くても往診に来てくれと言う、名医であったら、別に食事代も付けたりした。
 医者は当然ご用聞きが出来ず、患者が来るまで待たなくてはいけない。幇間のように金持ちの旦那にべったり付いていた医者もあります。落語の中にはこのクラスの医者がゴマンといます。店(おたな)で病人が出ると、「あの医者はいけません、本当の医者に診せないと殺されてしまう」、と言う物騒な医者も居ます。また、”ヤブ医者”ならまだしも、ヤブにもならない”タケノコ医者”ではもっと困ったものです。落語「夏の医者」にも出てくる医者は、忙しくないので、患者が居ない時は畑仕事をしています。薬は葛根湯しか出さない”葛根湯医者”や、何でも手遅れにしてしまう”手遅れ医者”は落語界では大手を振って歩いています。

 料金に公定相場はないので、自分で勝手に付けられましたが、名医ならば患者が門前市をなしますが、ヤブであれば、玄関に蜘蛛の巣が張ってしまうでしょう。で、自然と相場のような値段が付いてきます。またヤブは自然淘汰されていきます。ですから、無能な者が医者だと言っても長続きはしませんでした。
 江戸の医者で最高の医療費を取ったのは、慶安3年(1650)堀田加賀守を治療した幕府の医官狩野玄竹(げんちく)であった。その金、幕府から千両、堀田家から千両、合わせて二千両であった、と言われている。
 落語「死神」から孫引き

 身分の高い医者は普通、頭を剃って僧形をしていた。
 「薬屋に毛の生えた奴頭剃り」 江戸川柳

 

2.日本橋按針町(にほんばしあんじんちょう)
 赤飯で有名処と言えば、弁松総本店。ここは日本橋本町2-4、嘉永3年創業で折り詰め弁当専門店、江戸の味を伝える弁当を作り続けています。現在移転して、元の地、中央区日本橋室町1-10(按針町)。この地が創業当時の店跡なのです。前の店より狭くなったのですが、工場を深川に作り、家運は益々隆盛に。この地は三浦按針が住んでいたので、按針町と呼ばれた。

日本初の折詰料理専門店

 時に文化7年(1810)、越後生まれの樋口与一という男が日本橋の魚河岸に「樋口屋」という食事処を開きました。盛りのよさが評判で繁盛していましたが、時間のない魚河岸の人たちは、せっかく食事が出てきても全部食べ切る前に席を立たねばなりませんでした。
そこで、残った料理を経木(きょうぎ)や竹の皮に包んでお持ち帰りいただいたところ大好評で、持ち帰り用を所望するお客様が増えていきました。これが、弁松の折詰弁当の始まりなのです。
 二代目竹次郎の時代には、最初から竹皮で包んだ弁当を販売するようになり、三代目松次郎のとき、食事処から日本で最初の折詰料理専門店に変わりました。

日本橋魚河岸で使われたアンカー 魚河岸時代のはっぴ(復元) 
  • 左:日本橋魚河岸で使われたアンカー
  • 中:魚河岸時代のはっぴ(復元)
  • 右:弁松の赤飯

弁松になった日

 三代目樋口松次郎の時代、店も弁当販売が主流となり、「弁当屋の松次郎」略して「弁松」と呼ばれるようになりました。そして、食事処を店じまいし、折詰料理専門店「弁松」を創業しました。嘉永3年(1850)のことでした。
徳川御三家の家令が人力車に乗って注文に来たり、日本橋から埼玉まで大八車で弁当を届けたという記録もあります。
 以来、約160年間お江戸日本橋で弁当を作り続けています。老舗が多い日本橋では、まだまだ若造なお店ですが、弁当に込められた江戸の文化を伝える店として、これからもお客様をよろこばせていきたいと考えています。

三代目樋口松次郎 桶盛の料理(明治時代) 
  • 左:三代目樋口松次郎
  • 右:桶盛の料理(明治時代)

弁松のホームページより http://www.benmatsu.com/history/ 

 

3.出典
 江戸前噺鰻(えどまえはなしうなぎ)文化5年刊、十返舎一九作・二世春町画、国立国会図書館蔵
「頬摺り(ほおずり)」
 「おかみさん、どなた様もご機嫌よふござりますか。大きにご無沙汰いたしました。ヲヤ、お坊さん、とんだご成人でござります。サアちつと、おぢいにだっこしな。ヲ、よいお子だ」と抱きとりて、頬づりをしながら、「イヤ、ほんに妻(さい)も、よろしくと申しました」。
 赤ん坊の柔肌に頬ずりして、女房の肌の感触を思いだし、女房からの挨拶を伝えた。この落語の熊の皮はここから派生した。

 「熊の皮見て女房の義理を言い」宝暦13年 江戸川柳

 もう一話「熊の皮」、
 「この間、熊の皮の敷皮をもとめました」と見せれば、「これは良い皮でござる。どれどれ」と撫でてみて、「さて良い心持ちでござる」。(婦人の下腹部の毛をほのめかせる)
江戸笑話集「鯛の味噌津」より、熊の皮。

男女の立場を逆にした噺も残っています。
 座敷に松茸が吊してある。よその女房、客に来て、かの松茸をにぎって見て、「ホンニ、内でもよろしくと申しました」。 (御笑酒宴・松茸)

 ま、この噺はいくらでもえげつなく出来ますが、喜多八はそこを避けて、品良く(?)逃げています。同じ噺をプライベートのお座敷などに呼ばれ、演じられたらどうなるでしょう。
 ・・・甚兵衛さん、感心して毛をなでまわしている間に、ひょいと弾痕の穴に二本の指が入った。 「あっ、先生、女房がよろしく、申しておりました」。

 

4.言葉
■熊の皮の敷物
(くまのかわのしきもの);熊一頭のなめし
皮。それを平らに伸ばして敷物としたもの。右図。

赤飯(せきはん);小豆(アズキ)またはささげを煮汁とともに糯米(モチゴメ)にまぜて蒸籠(セイロウ)で蒸した強飯(コワメシ)。おこわ。赤の御飯。多く祝事に用いる。
上記、弁松の赤飯を参照。

口上(こうじょう);言葉で言うこと。口頭で伝えること。また、その内容。口のきき方。弁舌。
 与太郎さんだったら、口移しで女房に教えてもらうのですが、与太郎さん「口移しなんて、昼間っから恥ずかしい」。(何が・・・)

八百屋(やおや);葉菜類、根菜類や漬け物などを売る店。青物屋。この噺の主人公は棒手振りの八百屋さん。

水を汲まされ;江戸時代は共同の水道井戸があって、そこから水を汲んで、家の台所の瓶に水を汲み込んだ。

へっつい;かまど。

 


 

 舞台の日本橋を歩く

 

 落語「子別れ」にも出てくる江戸の弁当屋の老舗。大工の熊五郎、ドブに落ちそうになるのを掴んで止めると、背中の煮物から汁が出て下帯に溜まって気持ちが悪い「このまま死んで焼かれたら照り焼きになっちゃう」。背中に七つ、袖に五つ、懐に三つ貰って来た、これが七五三の振り分けだという。
 大店(おおだな)のお嬢さんの完治祝ですから、そこら辺の折り詰め弁当を頼むようなことはしないでしょう。やはり一流所から誂えたのでしょう。その弁当屋は「弁松」。お赤飯から折り詰め弁当までまで、各種有ります。

 江戸から明治の初めまでは商標登録という制度はありませんから、江戸でも同名の店が乱立して、どちらが本家本元か分からなくなっています。例えば、麻布永坂の高名「更級蕎麦」はのれん分けしたのでもない、同名の店が近所に出来て、裁判になりましたが泣き別れに終わっています。また、札幌ラーメンなら地元名称ですから、肩書きとして使えますが、「じゃんがらラーメン」も北九州の一般名詞と言うことで、同名のラーメン屋が後から複数出てきています。でも書体まで同じなのはどうでしょうか。化粧雑貨屋では有名な大岡政談ものになっている、本郷の「かねやす」はひらがなで、芝の兼康は漢字で表記し、区別したと言います。どの二番店も、創業店のブランド力を使って、柳の下の二匹目のドジョウを狙っています。
 この弁松の件も、二番目の店「辨松」(右上写真)が銀座に有って、歌舞伎座に弁当を下ろして繁盛しています。日本橋の弁松の事は一切口に出しませんので、お客さんが混乱してしまい、待ち合わせに両方で別々に待っていたり、追加注文を別に出してしまったり、今でも混乱は続いています。

 弁松は江戸時代の地に戻ってきて、営業を続けています。この地は、大正時代まで江戸東京の胃袋、魚河岸が有ったところです。
 江戸時代からの日本橋の老舗が相談の上、店のシャッターに江戸浮世絵の世界を描き込んでいます。この弁松さんは市川團十郎演ずるところの弁慶を、芸大の学生に描いてもらいました。逆に言えばシャッターに江戸の絵がある店舗は江戸時代からの老舗です。
 右写真;割烹「とよだ」(日本橋室町一丁目12)


 ここの地にある弁松は旧町名が按針町と言った。按針町とは町名として不思議な名称ですが、人の名前から来ています。その名の経緯を紐解くと、

  

 按針町(あんじんちょう);ウィリアム・アダムス(英: William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易商。日本名の三浦按針(みうら あんじん)としても知られる。
 アダムスの江戸屋敷があった地区は按針町と呼ばれた。同地(日本橋室町1-10-8)には、「三浦按針屋敷跡の碑」(上左;碑が建つ街並み。中;史蹟 三浦按針屋敷跡碑。右;ウイリアム・アダムス)が建つ。その前の道を「按針通り」と言います。前方には三越が見えます。(右写真)

 オランダ東印度会社東洋派遣隊による5隻の船に分乗して航海したが、拿捕、難破や疫病に苦しめられ、1隻残ったリーフデ号の航海士であった英人ウイリアム・アダムスは、慶長5年(1600)暴風のため大分県の佐志生(さしう。臼杵市佐志生黒島)に漂着した。のち、江戸に送られ家康の通商顧問になり、日英貿易の発展に貢献した。江戸でお雪さんと結婚し、彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。後年息子が所領と名前を引き継いだ。伊豆伊東で造船に成功し、家康は250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ。神奈川県横須賀市逸見。隣に按針塚駅(京急)がある)に采地も与えた。
 家康に信頼された按針だが、家康が亡くなり、二代徳川秀忠は鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、三代徳川家光らに警戒されながら、1620年(元和6年)5月16日に長崎・平戸で没した。55歳(57歳とも)であった。

 オランダ船「デ・リーフデ号」像
 この難破船にウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていた。また、ヤン・ヨーステンも乗船していて、同じように江戸に送られ、幕府の御用を勤めた。
 右写真;東京駅前丸ビル側面に飾られているリーフデ号。
 その解説文によると、
 本彫刻は昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたものである。 本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着したが、同船の乗組員であったオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に顧問として仕え、わが国ではその名も八重洲として知られ将軍よりこの地域に住居を与えられていた。

 では、もう一人の船員、八重洲の地名の由来となったヤン・ヨーステンとは、
 ヤン・ヨーステン(?~1623、オランダ人・日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと。その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
  日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。また、慶長14年(1609)、長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。 下記説明板より。

 

 東京駅八重洲地下街「外堀地下一番通り」壁面にあるヤン・ヨーステンの胸像と説明板。

 彼については、八重洲通りと中央通りとの交差点「通り三丁目」中央分離帯にも有ります。

 

 1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。(ここにある説明板より)
 彼の江戸屋敷は現在の和田倉門-日比谷間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすかし)と呼ばれて、明治まで続いた(右写真)。現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。「熊は死して皮を残し、ヤン・ヨーステンは地名を残す」。
 ヤン・ヨーステン像 : オランダ人 L.P.ブラート作 

 

地図


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写真


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福徳神社(中央区日本橋室町二丁目4)
 三越の角から東に入ったところにあります。日本橋は再開発中でコレド室町が完成し、その裏にありますが、この地も仮の住まいで、この奥に立派な社と社務所が建設されています。日本橋の旧魚河岸は隣町です。

弁松(中央区日本橋室町一丁目10。元・按針町)
 元按針町のど真ん中、写真の真ん中の建物が、弁松総本店です。

弁松
 奥様と店内。先代の奥様には店の歴史、町の文化、弁当の話、経木のお弁当箱等々忙しい中、時間を割いて教えていただきました。有り難いことです。息子さんが八代目を継いでいます。え?八代目って、あの名人の文楽さんと同じだ。

弁松
 
シャッターの弁慶の絵。わざわざ閉店でも無いのにシャッターを下ろして、絵を見せていただきました。市川團十郎演ずるところの弁慶を描いたものです。

三越(中央区日本橋室町一丁目4)
 日本橋の上から見た中央通り。左が三越。右の黒いビルから右が旧魚河岸跡です。ここから路地で二つ三つ先が按針町です。

コレド日本橋(中央区日本橋一丁目4)
 三越側から南に日本橋を渡ると日本橋交差点。ここに素晴らしいビルが建っていますが、東急百貨店があった跡です。その前は有名な白木屋デパートがありました。

高島屋(中央区日本橋二丁目4)
 もう一つ日本橋には有名なデパートがあって、その名を高島屋と言います。大阪の姉妹店と良く似た外装です。この先が東京駅に通じる八重洲通りで、その交差点にヤン・ヨーステンの記念碑があります。

                                                           2014年6月記

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