落語「小判一両」の舞台を歩く
宇野信夫作
■称福寺(しょうふくじ)裏の弐兵衛店(にへいだな);浪人が住んでいる長屋は称福寺(台東区今戸二丁目5)の裏に有った。今戸八幡から北に200m位の地。弐兵衛店とは、長屋の大家の名前を取って、その地を示した。
■鳥越(とりごえ);鳥越神社(台東区鳥越二丁目4)から派生した俗称。現在は正式地名に格上げされた。千貫御輿や夜祭りで有名。
■越後高田(えちごたかだ);新潟県の南西部、上越市南部の地。旧高田市。もと榊原氏15万石の城下町。北部の春日山城は中世上杉氏の本拠地。冬季は雪深く、日本におけるスキー発祥の地。
■今戸橋(いまどばし);浅草寺の東北に位置し、山谷堀の河口(隅田川に合流)に架かる橋。橋の北側は今戸町と言われ、南側には待乳山聖天(まつちやま_しょうでん)の小山が有ります。余談ですが、この堀の左側の道を土手(土手道、日本堤)と言い、八丁先(土手八丁)に吉原遊廓が有りました。その為、橋のたもとには船宿がひしめき活況を呈していました。
対岸の向島から眺める待乳山と今戸橋。待乳山聖天蔵。明治初期。今戸橋が架かる山谷堀が見える。慶養寺、今戸八幡はこの橋の右側にあります。
江戸高名会亭尽「今戸橋の図」広重画 国立国会図書館蔵 左側に今戸橋が描かれ、その奥に待乳山聖天が見える。料亭「玉庄」の奥に高木が見えるあたりに慶養寺があった。下記写真に対応する現在の写真を載せておきます。
■慶養寺(けいようじ);安七が侍に呼び止められた地。八幡を出て南に、今戸橋を渡る手前の右側に大きなお寺があって、その寺を慶養寺と言ったが、現在は狭くなって現存。
■麻布古川町(あざぶ ふるかわちょう);小森孫一の縁者が住んでいる所で、落語「小言幸兵衛」で歩いた地。江戸の方向で言う真反対の地(港区南麻布一丁目)で、草深い地だと言うことを表しています。
2.宇野信夫と小判一両
茶屋で女将相手に、安七は、かかあもあり(左)、子供もありました(右)。「三遊亭円生写真集」
宇野信夫は江戸期の奉行・根岸鎮衛著「耳嚢」(みみぶくろ。江戸時代の出来事書きとめ帳)巻之二にある話を元に書き下ろしたといわれます。 この噺は、TBS「早起き名人会」で昭和37年(1962)4月29日スタジオ録音されたものです。
左から、凧屋「凧を返せ」。料亭で「人情がない!」。遺書を読む。「そちのしたことは間違ってはいない」。
3.言葉
■ザルに味噌漉し;笊(ざる)、竹の薄片などで編んで円くくぼんだ形に造った器。水切りの容器などに使う。
■賭場(とば);博打をやるところ。
■浪人者(ろうにんもの);主家を去り封禄を失った武士。
■二度の主取り;別の主家に奉公すること。
■でくのぼう;人をののしるときに使う語。木偶(でく)とは、木彫りの人形や操り人形を言う。「血も涙も無いでくのぼうだ」等と使う。
■手習い指南所(てならいしなんじょ);江戸中期になると人口だけではなく識字率も世界一で、全国平均での識字率は40%〜50%程度と推定されています。武家の子弟は、官学のほか民間の私塾でも学び、国学、漢学、洋学、医学などさまざまな塾が開設されていた。幕府正学とは別に、私学では、独自の教育内容が採られていた。また、商家の小僧は勿論、庶民の子供達も寺子屋へ通わない者は希だった。浪人や下級幕臣がアルバイトで師匠を務める寺子屋の数が、幕末江戸市中で一千ヶ所に達するほどだった。ここでは読み書き、そろばん、かけ算や九九など教えた。また、女子は踊り、唄いなど芸能の手習いも盛んであった。
■割腹(かっぷく);腹を切って死ぬこと。切腹。
■仇(かたき);恨みのある相手。あだ。
■形見(かたみ);死んだ人または別れた人を思い出す種となる遺品。安七は1両小判を父親からもらった。
隅田川の両岸にある隅田公園、今回は西岸の浅草側を北に向かって歩きます。浅草の出発地点は吾妻橋で、ここから眺める対岸の景色はアサヒビールのゴールドのビルと、黒いビアホールの上に乗った金色のディスプレーが目を引きます。決してうんちを模したディスプレーだとは言いません。その遠景に東京SkyTreeが大きく頭を出していますから、カメラや携帯電話でそのショットを皆さん狙っています。隅田川には水上バス乗り場がありますし、東武電車の終着(始発)駅・浅草駅が目の前です。表通りから行ってもいいのですが、今回は隅田公園の中を進みましょう。車の心配も信号も無く、花も眺めながらの、お散歩コースです。
稲荷神社では油揚を奉納しますが、ここ聖天では大根をお供えします。大根は人間の迷いや怒りの毒を表すといい、大根を供えることでその毒を洗い流し清めてくれるといいます。本来は夫婦和合で大根の先が二股に分かれているものを一対にして納めるものです。ここの提灯にも家紋(寺紋)として、絡み合った大根を使っています。公園側の駐車場から本堂に上がるには長い階段がありますが、現在は通行禁止になっています。その代償としてケーブルカーが下から上まで、無料で上下しています。子供たちは大満足。
この待乳山の北側は山谷堀に接しています。この山谷堀は吉原遊郭につながっていて、左(南)側の土手道を単に土手と呼び、吉原まで土手八丁と言われました。山谷堀の河口は隅田川に接し、その最下流に架かった橋が今戸橋で、ここには多くの船宿がありました。吉原に行く遊客が船でここまで来て、土手(日本堤)を歩いたのです。そのため大いに町は栄えました。その賑やかさが、今回の落語の舞台になっています。
待乳山→今戸橋→慶養寺とは一本の道でつながった町名は変わっても隣同士です。慶養寺は江戸切り絵図で見ると山谷堀に接して大きな境内を持っていましたが、現在は周りを削られこじんまりとしたお寺さんになってしまいました。それでも山門の両側には仁王が構えてお寺を守護しています。その隣が本竜寺、その先が今戸八幡と呼ばれていた今戸神社があります。
今戸神社は八幡の応神天皇を祀り、伊弉諾尊(イザナギノミコト)伊弉冉尊(イザナミノミコト)夫婦の神をも祀り、夫婦円満、縁結びの神として、雄雌の招き猫を飾り良縁を授けてくれると言うことで、若い人たちがひっきりなしに訪れます。え?私はもう関係ないって。そんなこと言うとホントに遊んであげないから。
称福寺裏の弐兵衛店(だな)という長屋に住む小森孫一という浪人者の住まいを見に行きます。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。 2013年3月記 |
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