落語「今戸の狐」の舞台を歩く
古今亭志ん朝の噺、「今戸の狐」(いまどのきつね)によると。
江戸の中橋に名人初代三笑亭可楽が住んでいた。その門下に若い二つ目の良助がいた。寄席の上がりだけでは生活が出来ない上に、通い弟子なので暮らしに困りはてていた。師匠は厳しく内職を禁じていたので、芸人の見栄もあるために、我慢をしていた。
良助は橋場に住み、向かいの背負(しょ)い小間物屋善吉の女房おサイさんは、千住の女郎上がりの女だが、出身にも似ず働き者で近所の評判もよく、千住(せんじゅ=コツ)の妻(サイ)と愛称されていた。
コツのサイさんは今戸焼の狐の彩色(さいしき)の内職をやっていた。教えを請うと親切に教えてくれた。良助も器用だったので直ぐ習得して、雨戸を閉めて人目を避け、引き窓からの明かりを頼りに狐を作った。朝
、師匠の家へ行って用をたして帰り、夕方寄席へ出かけるまでの間、せっせと内職をした。
当時、可楽は飛ぶ鳥を落とす勢いで人気が出ていた。可楽が出ると周りの寄席の客足が途絶えるほどであった。寄席がはねると弟子が売り上げをもって中橋の可楽の家まで持って帰り、各出演者に小分けするのが仕事の一つであった。それが何軒も掛け持ち出演しているので、小銭の配分に手間が掛かった。誰それさんいくらとの声で、前座が「はい」チャリチャリンと分けていった。この音が夜更けて来ると響いた。
ある夜、雨宿りで軒先に立ち寄ったやくざが、この銭の音を聞きつけた。この音をサイコロの狐をご開帳とにらんで、翌朝可楽の家に乗り込んだ。可楽に対し、素人が博打を打つとは不届きだが、見逃してやるから口止め料を出せとゆする。可楽は私は博打が大嫌いで、それは何かのお間違いでしょう、弟子にも厳禁している、とんだお門違いだ、帰ってくれと、奥へ入ってしまう。
怒ったやくざは、狐ができていることはさぐってあるのだと、内弟子にすごむ。
三つ賽博打の狐のことを、焼き物の狐と勘違いした内弟子は、それなら橋場でこしらえていると、良助の住まいを教える。「だったら少しはこさえてくれるな」、「勿論ですとも」。「夕方まで待つか」、「いえ、朝からやっています」。
やくざに訪ねてこられた良助は、大慌わてで人形や道具を隠して迎え入れ、その慌てぶりにヤクザは賭場が開かれているのを確信する。狐などできていないと否定するが、内弟子に聞いてきたといわれて、やむなく肯定する。
「やはり狐(三つ賽博打)ができている(賭場が開かれている)」と安心するやくざ。
「それだったら、時々寄るから、少しこさえてくれ(金の無心をする)」、「少しでは困るんです。(注文は)多い方がいいので」
と良助、「それは有り難てぇ〜」。
「で、出来はどうだい」、「最近やっと顔が揃うようになりました」、「そうかい、顔が揃う(上客の顔ぶれが揃う)ようになれば後は楽だ」。
「(博打の規模が)大きいのか」、「え・・・、
(狐の)大きいのも小さいのもあります」。
「金張り銀張り(の狐)が有ります」、「え〜、それは(高額の賭けで)豪儀だ」。
「今、静かだが(賭場が)出来ているのか」、「出来てます」、「どこで」、「戸棚の中に」
、「??」。
「ちょっと見せてもらおうか。ぶち壊す(賭場を荒らす)ようなことはしないから」、「壊されたら困ります」。
「お見せします。こちらが大きいの。こちらが小さいのです。これが金張りでこちらが銀張りです」、「なんだこれは」、「だから狐です」、「馬鹿野郎、狐は分かっていらぁ。泥の狐を探しにこんな所まで来たんじゃねぇや。俺の言っているのは骨(こつ)の采(さい)だ」。
「千住(コツ)の妻(サイ)はお向かいのおかみさんでございます」。
1.初代三笑亭可楽(
安永6年(1777)〜天保4年(1833)、享年56歳)
寛政10年(1798。天保10年と九代目が言っていますが間違い)稲荷町・下谷神社境内で初めて木戸銭を取って寄席を開いた。その席では三題噺を多くやった。
没後可楽の墓が行方不明になっていたが、文筆家の集まり「ゆうゆう会」の小島貞二氏が平成2年、潮江院にその墓を見つけた。その年、可楽祭りが4月2日に行われた。平成4年現九代目が可楽襲名以後4月第一土曜日に「可楽まつり」を毎年行い既に十数回行われています。最近は桜の時期でもあり、埋め立てられた山谷堀公園の桜の下で本物の蒲鉾と卵焼きで宴を開いています。
十一代徳川家斉公の御前で「そばの殿様」をやったことが記録に残っています。
その当時100万都市江戸では大小300軒の寄席があったと言い、下谷(台東区下谷地区)でも13軒有った。その寄席の創始者であり、プロの出現です。
<東京落語会(08年6月放送)・九代目可楽「ちりとてちん」のマクラで初代可楽について>
写真;今村恒美画伯画・初代可楽像。昭和58年潮江院で墓が見つかり、関係者が集まって10月1日、百五十年遠忌が営まれた。その時配られた記念品のひとつ。
初代三笑亭可楽(安永6年(1777年、逆算) -
天保4年(1833年1月21日))は、落語家。通称、京屋又三郎。
最も古い職業落語家(噺家)の一人とされる。生まれは江戸・馬喰町で、櫛職人から噺家になった人物。寛政10年(1798年)7月に、山生亭花楽と名乗って3人のアマチュアの噺家と共に江戸の下谷稲荷社で寄席を開いた。同年同月、岡本万作によってもう一軒の寄席が開かれており、この2軒が日本最初の寄席と考えられている。
一度は職人に戻ったが、諦めきれずに同年9月には越ヶ谷で興行を起こし、これが成功する。10月には三笑亭可楽に改名した。その後は東両国に定席を確保し、何度か咄の会を開いて三題咄や謎解きを行って客との交流を深めると同時に、線香が一分(約
3mm)灰になるまでの短い間に落し咄を即席で考える「一分線香即席咄」を披露していた。
弟子(門下)は「可楽十哲」と呼ばれそれぞれ初代朝寝房夢羅久、初代林屋正蔵、初代三遊亭圓生、初代船遊亭扇橋など門弟数十人が確認されており、現在に繋がる一流の諸派の祖を輩出している。
出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
■曹洞禅宗潮江院(ちょうこういん);東京都台東区今戸1丁目6番7号
本堂の真裏に初代可楽の墓があり、
「三笑亭安誉可楽信士 天保四巳年三月八日」と墓に彫られています。『ウィキペディア(Wikipedia)』の命日は違っていることになります。
「人混みをのがれて見れば花しずか(噺し塚)」の辞世の句が残っています。
■乾坤坊良斎;志ん朝がマクラで言っているように、乾坤坊良斎(けんこんぼうりょうさい)の弟子二代目管(かん)良助(良輔とも)の実話、また良斎自身の実話と、二つの説があります。良斎は貸本屋の息子に生まれ、万延元年(1860)
8月13日没。行年92歳。延命院に葬る。演者としては凡庸だったので後に軍書読みに宗旨を変え、名もそれらしく変えて乾坤坊良斎と名乗ったが、講釈師としても振るわなかった。
しかし、作者としてはすこぶる秀逸で『白子屋政談(髪結い新三)』
、『佃の白浪(小猿七之助)』、『お富与三郎』など、人情噺・世話講談の傑作を多く残した。
この噺も彼の作です。
出典;「本朝話人伝」 野村無名庵著 中央公論新社より要約
■真言宗延命院;(台東区元浅草4−5)乾坤坊良斎の墓があります。
■落語家の階級;見習い、前座、二つ目、真打と階級が上がっていきます。
真打になると師匠と呼ばれ、寄席でトリがとれます。しかし成り立ての師匠では「師匠、そこの下駄取って」などと軽く扱われるのは致し方がないでしょう。各協会の方針で昇進の基準は違いますので、それで協会を飛び出した流派があるくらいです。上方では肩書きは関係なく実力のある落語家が活躍し、この制度はありません。
■寄席;落語・講談・浄瑠璃・浪花節・手品・音曲など大衆演芸の興行場。寄席の経営者の事を席亭と呼びます。
東京では新宿・末広亭、上野・鈴本演芸場、淺草演芸ホール、池袋演芸場などがあります。
■通い弟子;
反対語、内弟子。通常弟子は内弟子で師匠の家で寝泊まりし、家事から師匠の身の回りの手伝い、カバン持ちまでします。犬の散歩から猫のひげ抜きまでします(^_-)。その合間に落語を覚え、また師匠から口伝で教わります。
給金はありませんが、衣食住全て師匠持ちですから生活の心配はありません。たまには小遣いも貰えたと言います。
最近では師匠も家が小さいので、内弟子は取らないという噺家も居ます。良助は師匠の家に通ってきたのです。
■割(わり);割制度。トリ(最後に出る演者。主任)の真打ちは、席亭が取った残りの上がりを寄席から持ち帰り、出演者の利率に入場者数を掛けて配分した。それを紙にくるんで、翌日楽屋にもっていき、「割です」と言って各自に渡した。売れっ子のトリの時は割が多くなるのは当然ですが、少ない時は「セコいですね」と言って陰口を言われた。それがいやさに借金して水増しした師匠もいた。トリは取りたいが借金はしたくはないので迷う時期があった。今は協会の事務所が全てしてくれるので、そのような気苦労はなくなったと、志ん朝は噺の中で語っています。志ん生の時代にはこの作業を横で見ていたという。
■金張り、銀張り;銭(ぜに)をかける博打は小博打で、小判・二分金などの金貨を賭けるのが金張り、一朱銀・二朱銀および丁銀・豆板銀などの銀貨を賭けるのが銀張りだという
。良助は素焼きの肌に金箔・銀箔を張り付ける細工の事を言っているのだが・・・。
2.今戸焼き

安藤広重画「隅田川八景 今戸夕照」 今戸で瓦を焼いているのが良く分かります。
今戸焼きは、素焼きの土器を今戸焼と総称したくらい盛んに製造されたもので、焙烙(ほうろく)、人形、灯心皿、瓦燈(かとう)、土風炉(どぶろ)、豚の蚊やり、七輪
、火鉢、猫あんか、植木鉢、招き猫、狸、稲荷の狐、鳩笛など高級品はないが素朴な味わいで人気が高い。瓦職人が余技で焼き始めたともいう。
不細工な顔形を今戸焼きの福助とか今戸焼きのお多福とか悪口にした。
名前を聞いても物の用途や型が浮かびませんよね。そこで広辞苑から、(書けば書くほど解らなくなってきますね)
焙烙=素焼きの平たい土鍋。火にかけて食品を炒ったり蒸し焼きにしたりするのに用いる。
灯心皿=明かり取り用の油皿。
瓦燈=照明器具のひとつ、右図・広辞苑から。
土風炉=土で焼かれた茶道用の風炉。
猫あんか=側面に数個の穴をあけた土製の上部が丸い囲いの中に、小火鉢を入れたあんか。蒲団の中に入れて足を暖める。ねこひばち。50年ほど前にはどの家庭にもありましたよね。
鳩笛=素焼きの鳩の形をした土焼の笛。尾端を吹いて音を出す。お土産品として売られています。
福助=背が低く頭が非常に大きい男性人形。ちょんまげを結いカミシモをつけて正座する幸福招来の縁起人形。文化元年(1804)頃から江戸で流行し始めた福の神の人形。実在の人物をモデルにしたと言われます。
 |
豚の蚊やり
この中に蚊取り線香を入れ枕元や蚊帳のそばに置いて蚊から守った。 |
 |
今戸焼きで江戸時代制作され近年出土した狐。
高さ6cm位 |
上記今戸焼きの写真;今戸神社にて撮影。
右図;「江戸じまん名物くらべ・今戸のやきもの」国芳画 狐や招き猫に彩色する骨のサイ(向かいの奥さん)。
「私、明治43年にこの土地で生まれて、今戸焼の仕事をするようになったには、父の仕事を手伝いだした14才ぐらいからでした。大正の初期ですから、もう今戸には、焼物に使う泥はなく、小梅(*)のあたりから掘っていました。今戸で焼物の泥が採れたのは、まずは江戸時代までじゃないですか。明治になって多少は採れたかもしれないが、それは瓦を焼いていたようで、今戸から橋場にかけて14、5軒あったと聞きました。私が覚えてから瓦を焼いたという形跡はもうありません。今戸焼のほうは、15、6軒やってまして、そのいずれもが、通りから少し入ったところに窯場をもってましたね。
今戸焼きというのは、昔から大きなものはつくらなかったんです。結局、狭いところでのこしらえ物だからなんです。昔から、今と変わらぬこの大きさぐらいのところで、つくっていたんですよ。うちの場合も、前の隅田公園ができるので、こっち側へ移ったんです。この通りが広がって、それにひっかかった業者は、結局、小菅.四ツ木の方に引っ越しました。うちは戦後戻ってきたわけで、今1軒だけです。」
『古老が語る 台東区の明治.大正.昭和 白井孝一氏』 台東区ホームページより
著者吟醸注、小梅(こうめ);隅田川を挟んで対岸の向島あたりの古地名。
白井孝一氏;今戸で現在、今土焼きの窯元は白井孝一氏の息子さん一家(白井靖二郎さん、台東区今戸1-2-18)だけになってしまいました。店舗ではなく工場ですから、訪問はしないのが礼儀だと言われます(今戸神社宮司奥様談)。で、見学には行きません。ホントはね、手を休ませ、時間を取らせて、何も買わずに帰ってくるからです。
その様子は下記のところでご覧になれます。
「エコ花の自然素材でつくる木の家」2006年 02月 24日今戸焼きレポート http://ecohana.exblog.jp/933603/
「今戸焼招き猫」 http://www.tctv.ne.jp/imado-8/A33_1.htm
3.千住(せんじゅ)
千住宿は、大千住・千住本宿とも呼ばれる上宿(かみじゅく。北千住)と、小塚原町と中村町の下宿(しもじゅく。南千住)から成る。下宿から山谷までの草原が刑塚のあった小塚原で、「こづかっぱら」「こつかっぱら」と発音し
、骨(こつ)とも発音した。
鈴が森と並ぶ江戸の公開処刑場であった。落語「藁人形」で小塚原の跡に建った回向院を歩いています。
■今戸神社;(東京都台東区今戸1-5-22)は伊弉諾尊(イザナギノミコト)伊弉冉尊(イザナミノミコト)及び応神天皇を祭神とする。安産、縁結びの神様として崇拝されている。元の名を今戸八幡宮と言った。京都石清水八幡宮から分霊されたのだという。
招き猫の発祥の地だと言い、今戸焼き応援団長です。また、沖田総司の終焉の地として境内に碑が建っています。
■今戸;山谷堀に架かる一番下流の橋が今戸橋で北岸が今戸(町)になる。この辺りは瓦等を焼く窯屋が多い。天正年間に千葉氏の家臣が住み着いて瓦や土器を焼いたのが始まりだという。江戸名所絵図にも「都鳥ノ名所ナリ 此辺瓦ヤクナリ」と書かれている。千住大橋が出来るまでは、浅草御門から続く日光街道で「橋場の渡し」につなぐ重要な町であった。

「幕末の今戸橋」鹿鳴館秘蔵写真帖より 待乳山から覗く今戸橋と、そこを流れる山谷堀、その先に隅田川と対岸の向島が見えます。 2011.8.写真追加
■今戸橋;
山谷堀に架かる最下流の橋。ここから上流に向かって、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋の9橋が有った。今戸橋で船を下りて、山谷堀の土手を吉原まで歩きます。
■山谷堀;「堀」といえば山谷堀を指すぐらいに江戸時代には代表的な堀であった。北区の王子権現辺から流れる石神井川は田端、日暮里、根岸を経て今の荒川区と台東区の区境を形成し一般には音無川と呼ばれた。この水が三ノ輪から土手通りに落ちる辺りから山谷堀と呼ばれる。堀は今戸から三ノ輪まで続きこの土手(土手八丁)を日本堤という。
 「山谷堀」 大正5年(1915)5月 改修工事が終わった山谷堀 東京都下水道局資料より2009.9写真追加
■橋場;今戸の北は橋場で「橋場の渡し」があり江戸名所絵図には「舟渡場 向島エ渡ル」と描かれている。文禄3年(1594)に千住大橋が架かるまでは、奥州
・日光街道はこの橋場の渡しを渡り、常陸国に出たのだった。江戸時代は、風光明媚な処で、根岸と並んで寮(別荘)が建てられ、文人墨客が多く住んだ処である。白髭橋西詰に、明治時代の政治家三条実美の別荘、対鴎荘跡が今も残る。
■下谷神社(したやじんじゃ);台東区東上野3−29。
天平2年(730)上野忍ヶ岡に創建。寛永寺建立のため山下に移り、延宝8年(1680)現在地に近い下谷に移転、その約百年後、寛政10年(1798)に江戸で初めて寄席興業が行われた。明治5年に下谷稲荷社から下谷神社に改名、関東大震災の時類焼し、土地区画整理に伴い、現在地に鎮座した。東京大空襲にも被災せず昭和6年当時の社殿が残されています。
境内には「寄席発祥之地」の石碑が建ちます。
「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」 子規
の碑が建ちます。
■中橋(なかばし);大師匠三笑亭可楽が住んでいた町。東京駅東口が八重洲口で、正面に突き当たるように接している大通りが八重洲通りで
それと交差する中央通りの通り三丁目交差点付近。落語「金明竹」でそのあたりの詳しい説明をしています。金明竹では中橋の加賀屋佐吉が店を構えていました。
4.サイコロ賭博
サイコロで行う博打に、一個でやる「ちょぼいち」、二個でやる「丁半」、三個でやる「チンチロリン」(狐)があります。この噺では「チンチロリン」が行われていたのと勘違いしたのでしょう。
■ちょぼいち(樗蒲一);ちょぼとはサイコロの別称でサイコロ1個を使って勝負するところからこの名がついたと言われます。第38話落語「しじみ売り」に細述。この話以外にも「看板のピン」「狸賽」があります。
■丁半博打;2個の賽子を振って出た目の合計が”丁”(偶数)か”半”(奇数)かを当てるもの。第39話落語「猫定」に細述。
”思うツボ”はサイコロ賭博で丁か半かの壺の中のサイコロの目を思い通りに的中させること。また、”はったり”も「さあ、張った、張った」という呼びかけの言葉からできたといわれる。
張った金をすぐ勘定できる者を盆が明るいと言い、逆にそれができない者を”盆暗野郎”と言った。今言われる”ボンクラ野郎”はこの賭場の盆からきている。
”ピンからキリ”も博打から来ていて、最上等のものから最下等のものまで。最初から最後までの意。
ピン=1、(pintaポルトガル語の点の意) 。カルタ・采の目などの1の数。最上のもの。
キリ=10。クルス(cruzポルトガル)の訛。十字架の意から転じて、十の意。または、それが最後で(キリのないこと)。(花札の桐=12月)から最後の札。
■チンチロリン(狐);参加者のうち1人が親に、残りが子になる。子は場に「コマ(駒)」(お金)を「張る」。親からサイコロを振っていき、親とそれぞれの子との勝敗が決まると勝ち負けに応じた配当が親と子の間でやりとりされる。
道具立てもさして必要としないうえ、胴元が固定しているのではなく親の権利が順番に回って来る「回り胴」のため、日本の伝統的サイコロ賭博である丁半のように賭場の開帳に暴力団が関与することもなく仲間内で遊ばれることが通常だと考えられる。日本で生まれた歴史の比較的浅い遊びと思われることが多いものの、民俗学での報告によれば中国伝来のもので、第二次世界大戦後に日本国内に広く普及した模様である。
チンチロリン出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
より
チンチロリンルール要約
6目の方眼を書き、上に1〜6までの目を書き入れる。子はサイコロの目が出そうな数字に掛ける。
親が3個のサイコロを同時にどんぶりに中に振り入れる。この時の音からチンチロリンと言われます。
勝敗は3個の内、一つでもその数が出れば別れ(勝ち負け無し)。二つ同じ目が出れば、3倍。三つなら4倍親が子に支払う。これにローカルルールが付いて複雑になってきます。
やった事がないので、志ん朝のこの噺から抜粋。
舞台の今戸を歩く
今戸神社は今戸焼きのと言うより今戸(町)の中心地に建つ神社で、今戸の街を再活性化しようと頑張っています。招き猫の発祥の地であり、そこから縁結びの神社として若い人たちが多く訪れています。宮司さんの奥様・市野恵子さん(右写真)は歳を十歳も勘違いさせる魅力を持っています。社務所には招き猫のひな壇と、今戸焼きのコレクションも飾られています。
『恋愛成就 ネコの縁結び』という本も出され「持っていきなさい」と言うぐらい淺草っ子で、ブログも書いています。一日20件近く更新しているヘビーユーザーです。
http://imado8.blog74.fc2.com/blog-date-20080725.html 「縁結び神社発
奥様日記」。携帯でUPしているのがまたスゴい。
昼にソバ屋に入り今戸神社に行く道順を聞き、今戸焼きの話をすると、「今戸神社ではそんな”どら焼き”売ってないよ」とご忠告。今戸と言うところは何でこんなに言葉がかみ合わないのでしょう。まだまだ、知名度低いですよ、市野恵子さん。
写真、全て今戸神社にて撮影。
神社で配られる今戸焼きのペアの招き猫。(左)
招き猫のおみくじに付いてくる猫ちゃん。
(右)
今戸焼きの干支の動物たちと鳩笛。(左)
今戸神社正面に立地し、今戸焼きをこの地で続けている最後の一軒、「白井さん」宅を訪れました。と言っても、声は掛けずに静かに表を通過するのみです。
今戸神社の境内南壁越しに三笑亭可楽の墓があります。潮江院本堂の真裏に初代可楽の墓があり、
「三笑亭安誉可楽信士 天保四巳年三月八日」と彫られています。台座には「三笑亭」と彫られていますので、小さな墓ですが直ぐ見つかるでしょう。
潮江院の前は山谷堀で今は埋め立てられて遊歩道というか細長い山谷堀公園になっていて、桜並木が続いています。この山谷堀は隅田川から船で遡上し今戸橋で下船し、山谷堀の土手道を歩いたものです。山谷堀を日本堤とも言い、土手道を通称土手と言います。吉原まで土手八丁です。
可楽が初めて寄席を開いたと言われる下谷神社がJR上野駅前から東へ数分の所にあります。淺草通りの下には東京で最 初に開通した地下鉄・銀座線が走っています。駅名にもなり、地名にもなった稲荷町の稲荷は下谷神社のことです。
神社は移転していますので、可楽が開いた寄席があったのはこの地ではなく、ここから上野駅方向に100mほど行ったところ、東上野三丁目交差点(右写真)、淺草通りの同じ南側です。今は道路が開かれ境内が分断され、その面影はどこにもありません。
このお宮さんは立地条件が良いのか御利益があるのか、多くの人が参拝に訪れています。真摯に柏手を打つ姿を見ると、こちらも頭が下がります。
境内にある下谷神社会館では若手落語家が落語会を開いています。座布団が全部出払う盛況です。
ここ下谷神社からさほど離れていない元浅草4−5にある寿命院には乾坤坊良斎の墓があります。下谷神社と違い、静かなたたずまいと誰ひとりお墓参りの人と会わないその対比は見事なものです。
お寺の奥様(?)にお伺いしました「ご住職が出かけていますので、詳しい位置などは分かりません」。しかし、乾坤坊良斎の墓が有るのは確かだと言います。
山谷堀公園に掲げられた、案内地図より。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
2008年10月記
次の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る
|