落語「中村仲蔵」の舞台を歩く
 

  
 三遊亭円生の噺、「中村仲蔵」によると。 
 

 出し物「仮名手本忠臣蔵」という狂言が決まり、座頭と立作者が当時は役を決めたようで、立作者の金井三笑は芸の上でのけんかから仲蔵に五段目の斧定九郎一役だけといういじわるをふった。
 当時の、この役は相中の役で、名題になった者がやるような役ではなく、こしらえも、縞の平袖というどてらで、これへ丸ごけの帯をしめて、山刀を差してわらじがけ、山岡頭巾をかぶって、のそのそ出てこようという、どう見ても山賊のこしらえ。

 こしらえをあれこれ考えてみたがどうしても工夫がつかない。この上は神仏の御利益にすがるよりしかたがない。柳島の妙見様(右図 広重画 クリックすると大きくなります。11.02追加)に日参し、八日目の帰り道、法恩寺橋までくると、雨が降り出したので蕎麦屋へ。食いたくもない蕎麦をあつらえて、工夫をあれこれ考えている。と、「ゆるせッ」年頃三十四、五。月代(さかやき)を伸ばした浪人風の、背の高い、色の抜けるように白い、黒羽二重のひきときという、あわせの裏をとったもの、茶献上の帯、茶の鼻緒の雪駄を腰へはさんで、尻をはしょり、ろ色の大小落とし差しにして入ってきた。破れた蛇の目の傘をぽーんとそこへ放り出す。月代をぐっと手で押さえると、たらたらっとしずくが流れようという。濡れた着物の袂をこう..しづくを切っている浪人。「うんッ、これだ!いいこしらえだなァ。あァ、斧定九郎..九太夫という重役の倅だから、なるほどこれでなくちゃいけない。いいこしらえだなァ...あの着物がこう、体へまといついてるところなんぞどうも、なんともいえないな、どうも、いい、いい...」。その浪人からいろいろナリについて聞き出し、妙見様に感謝のお礼参りに戻った。

 さあ、これからすぐに仕度にかかります、古着屋へ行きまして黒羽二重。もう羊羹色になっておりまして、丸い鷹の羽のぶっ違いという、これは拝領の着物が古くなったという心持ちで...。それから茶献上の帯を締めていたが、どうも舞台ではこれでは映えないから、白献上にして、ろ色の大小だったが、これも朱鞘の方が色彩的に引き立つというので...雪駄を腰にはさんでいたが、山崎街道へ出る山賊が雪駄をはさんでいるなんてのはおかしい。これは福草履に替えます。それからカツラは熊の毛で張ります。元来、月代というものは、後ろへ向けて張るべきもんで、ところが今度は逆に前の方に張りましたのは、水を含ましておいて上から押さえると、たらたらッと顔へ、しずくが流れるという。それがために工夫をして前の方に張る。こうして、なりはすっかり出来上がる。
 女房”お岸”にも失敗したときは、上方に行くと話し、それでも快く了承してもらう。

 初日、大序が開きまして、四段目の切腹あたりからそろそろ仕度にかかります、顔をこう..こしらえている。手と足、胸..全身へこう真っ白く白粉を塗ったんで見ている者がびっくりして、「おやおや、今日の定九郎はすこしおかしいな。いつも顔なぞは赤黒く塗って出るんだが、今日は真っ白だ。芸気違いがまたなにかやるのかな」とだまって見てる。カツラをつけて、衣裳やなにかは抱えまして、そのままとんとんとんと湯殿へおります。ここですっかり衣裳をつけて、ここだなというところを見計らって、頭から手桶で五、六杯ざッと水を浴び、揚幕の裏へ。

 五段目ですから、松の吊り枝、浅葱幕という。ここへ勘平と千崎弥五郎と二人が出て台詞があり、さらば、さらばと双方へ....という竹本で左右へ別れます。チョーンという祈がしらで、浅葱幕をぱらッと振りおとす。野遠見というやつで正面に稲むら、掛け稲がありまして、下手の方に松の立木が 五,六本という、山崎街道のこしらえで・・。
 竹本が済み、下座の弾き流しで与市兵衛が出て行きます。七三のところでちょっと台詞をいってこれからまた竹本になって本舞台にかかって行く。ちゃりッと揚幕があく。桶の中へ水が汲んであって破れた蛇の目の傘がつっこんである。これを取り出して、半開きにして、タッ、タッ、タッ、タッと花道へ駆け出して行く...。客は、弁当幕と言ってろくすっぽ舞台なぞ見ないのだが、いつもの通り、どてらの姿なんだろうと思ってひょいっと見ると、上の方が暗くて、下の方が真っ白で...それはいいが、駆け出して行くと、ぽたぽた水がたれるんで、これには見物も驚いた。はて、いつもとはまるで様子が違うな、と見ている。と、中央へかかろうとしている与市兵衛をぽーんと、定九郎が一つ突きます。くるっと回りながら下手の方へくる。上手へかけ抜けまして、ぱちっと傘を開いてこれを肩へ担いで、そこへ立って初めて顔を見せて、カラーンと見得になる。
  ここで、「栄屋!」「ご趣向!」てなことで見物が褒めてくれるだろう・・・と、思った。だが、なんとも言わない。いけなかったのかというとそうではなく、あまりにも良すぎたんで、客は「ううーん」とうなるだけで、ざわめきになった。
 仲蔵はここで失敗をしたと思った。なら、上方に逃げる最後の舞台、お客がどう思おうが、最後まで自分の為にしっかり演じてやろうと思った。逆にここで所作に力みが無くなった。

 これから与市兵衛とのやりとりがありまして、とど、段びらを抜いて向こうを殺し、左足をぽーんと踏み出し、裾のところへ刀をそえまして、すうーっと吹きあげの見得になる。所作の名人といわれた人で、いやその形のいいこと、ここでまた見物が、「ううーん」。
 月代をぐうっと手で押さえると、しずくがたらたらっと流れる。見物がまた、「ううーん」。
 刀は鞘へおさめる。これから財布を口にくわえていたやつ、首へ引っかけて裾から袂からこうしずくを切り、たらっと財布をたらし、その中へ手を入れて金勘定をする。足へたかる蚊を足で払い、顔のところへくるやつを振りながら蚊を払う...その仕種がまたいちいちいいというので、見物がそのたびに 、「ううーん」。
 十分に金勘定をして、「五十両ォ〜」財布をぐるぐるっと巻いて、これを懐へ入れる。与市兵衛の死骸は足で転がす。竹本になり、「死骸をすぐに谷底へ、はね込み蹴込み泥まぶれ、はねは我が身にかかるとも、知らず立ったる向こうより...。」これから早笛という鳴物になり、落ちている傘を取って、ぽーんと片手開きにして、かついで、花道にかかる、ひょいっと向こうを見る。猪が来たという思い入れで、あわてて後へさがってくる。傘をたたんで、ぽんとそこへ放り出す。大小を抜いて、掛け稲、稲むらへ割って入る...。
 で、この間にあとで使う財布ととりかえる。今度は長ァく紐のついたもの、そうしないと勘平の芝居がやりにくいというわけで...。紅の入った卵の殻を口へふくんで、二度目に出るというわけで...

 ここへ猪が出てくる。ほうぼう荒ばれまわった末に、上手の方へこれが引っ込んで行く。
 ツツン、ツンツン、ツンツン...と弾かしておいて、後ろ向きに稲むらから出る。そのまま立ち上がって猪の行手を見送る。「あわやと見送る定九郎が、せぼねにかけてどっさりと...」という時に、道の悪いところで滑ったという思い入れで、片膝をつく、「あばらへ抜ける二つ玉ッ..」 だァ〜んッ、と鉄砲の音。大小をそこへ放り出して、だァっとそこへ転がる。
 チリチリチリ、チチチ...チ、チ、チ、チ、チ...チチチーン。(口三味線)
正面を向いて起き上がった時は、胸から腹へべっとり血がついて、右足を踏み出して口の中の卵をぐっと食い切る...だらだらっと血が流れ出して右のモモのところへかかる。これから股をひろげて、ぐうーっと苦しみになる。
 ところが、それまではこういう演出をした者は一人もない。これは仲蔵が考えて、初めて血を吐いて死ぬところを見せたわけで...いや今度は見物がまるで割れっ返るように、「うわァー」。(仲蔵、よくも笑う客だ。と心の中でムッとなる)

 十分に苦しんで、右足を引いて下手へ向いて、あお向けにどーんっと倒れる。 客がまたわんわん、わんわんとどよめき、勘平が出てきても収まらない。勘平が殺してしまったかと、懐へ手をやる。金があったが下手の方に行きかけて、思い直して引っ返す。金包みを出して「天より我に与えし金。ちぇ〜ェかたじけなし〜ィ..」。
 竹本が「と、押しいただき..押しいただき..チンシャン、猪よりさきへ一散にィ、飛ぶ〜がァ..ごと..チリチリン...くぅ〜...」たたたたッと勘平が下手の方に、駆け出す。首にかかっている紐を引かれるから定九郎がぐうーっと起き上がる。その顔の恐いことといったら、子供なんぞはキャーといって泣き出すさわぎ。
 勘平がひょいっと気がついて、小刀を抜いてここでぷつっと財布の紐を切る。と猿返りをして、定九郎がドーンっと倒れる。同時にチョーン。
イイイ.チンチンチン、チョン、チョンチョンチョンチョンと幕。

 楽屋に戻っても誰も上手すぎて口を利いてくれず、失敗したと思い意気消沈して家に帰り着き、女房にしくじったと話し、上方に旅立つ。途中、芝居帰りのお客さんが仲蔵の演技を褒めているのに出くわして、一人でも判ってくれたかと思い、女房に知らせたくて我が家に戻る。そこに師匠の伝九郎から使いが来ていて、すぐに来てくれという。小言かと心に決めて出掛けると、意に反して、大変なお褒めの言葉。その上、宝物の脇差しをご褒美にいただく。
 「私はてっきり、やりそこなったかと思いました。いっそ、死ぬつもりでおりました」、
 「馬鹿な事を言うな。お前を仏に出来るか! ハハハ、役者の神様だ」。



 
この中村仲蔵が、名作仮名手本忠臣蔵の五段目で斧定九郎を工夫して現在の型にしたという実録談です。60分近い長演であった。正蔵も志ん生も演っているが、それぞれに味わいがあります。円生の噺は舞台が克明で、役者が舞台で動き回る様が目の前に見える様であった。
 (助六さんのホームページ、中村仲蔵を参考にしています)  
本文が長くてすいません。


1.中村仲蔵
 ”稲荷町”から”名題”になった稀代なる名優で屋号を栄屋、俳名を秀鶴。江戸時代に、中村仲蔵ほどの出世をしたものはなく、他に幕末になって市川小団次しかないという名優であった。寛政二年(1790)4月23日死去。享年55歳。墓は谷中霊園に有ります。



仮名手本忠臣蔵五段目
より斧定九郎


二代目仲蔵の斧定九郎


仲蔵の工藤 勝川春章画
東京国立博物館所蔵
 

初代仲蔵楽屋風景
春好画 2012.9追加

噺のマクラより
初代中村仲蔵_春章画 元文元年(1736)生まれ。幼名を万蔵という。
 六ツの年に志賀山流の家元中村伝次郎のもとで踊りの稽古をはじめることになる。
 十の年に中村伝九郎という人の弟子になりここで初代中村仲蔵という名前をもらい、これから中村座へ出勤をするようになる。
 十九の年に稲荷町から中通りになり「申し上げます」のせりふがつくようになる。四代目市川団十郎に目をかけられ成田屋の居候となる。
 四代目団十郎のせがれ高麗蔵(こまぞう、1741生)、後の五代目団十郎と息があい仲良しで両方芸熱心でまもなく相中になる。
 何をさせてもどこかこう一個所ぐらいは客に見せるところを考える、他の者がやれば、なんだ、あんなつまらねぇ役がと思うのを仲蔵がやると、どっかいいところを自分で工夫をするというわけで、だんだんいい役もつき見物の方でも「栄屋、栄屋!」とたいそう人気が出る。四代目団十郎の強力な後押しもあって、二十九の歳にめでたく名題昇進ということになります。

左図;「東扇・初代中村仲蔵」 春章画 扇方に切り抜かれ扇として使われた。また、貼り混ぜ屏風として使われた原稿。
09.12.追加
 右図;「秀鶴夜雨」 清長画 12.10追加

扮装について;初代中村仲蔵はこの定九郎の人物設定そのものを変え、二枚目風の役にした。五段目の定九郎はもとはどてら姿のいかにも山賊らしい拵えだったのが、仲蔵は黒羽二重の着付け、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えにしたのである。そもそも定九郎は、勘当される前は家老の息子である。この仲蔵がはじめた拵えは大評判となり、以後ほかの役者もこの姿で演じ、定九郎は若手人気役者の役ともなった。また仲蔵自身も、門閥外だったにもかかわらず大きく出世する節目となる役であった。この仲蔵の創案した拵えは「仲蔵型」と呼ばれ、文楽にも逆輸入され演じられている。 ただし仲蔵はその扮装を大きく変えはしたものの、実際には原作の内容通りに演じたようである。
 『古今いろは評林』(天明5年〈1785年〉刊)には仲蔵の定九郎について、「仲蔵二度目あたりより黒羽二重の古き着物に成り、やぶれ傘さして出るなど仕はじめたり」とある。仲蔵がはじめて定九郎を演じたとき、今のような黒地の着物だったかどうか定かではなく、傘も持っていなかったらしいことが伺える。仲蔵は定九郎を生涯に八度演じたが、そのなかで回を重ねるごとに拵えなどを工夫し「仲蔵型」を作り上げたと見られ、それがのちの役者たちに受け継がれている。 

奥様の名前について
 私の耳では「お吉」と言っているように聞こえます(ーー;)。本当は「お岸」、東京訛りの典型円生ですから、口上筆記では間違えることが多々あります。落語の世界ではなく、実録の中村仲蔵奥様の実名は何と言われたのでしょかねぇ。福田典夫氏調べによると同じ音源でも「お岸」と聞き取れると言われます。ありがとうございます。

「手前味噌」によると初代中村仲蔵の奥様は「お岸」といわれました。
「手前味噌」より詳述

二つ玉;浄瑠璃の本文では「…あはやと見送る定九郎が、背骨をかけてどっさりと、あばらへ抜ける二つ玉」とあり、「玉」とは鉄砲の弾丸のことだが、この「二つ玉」の「二つ」が何を意味するかで解釈が分かれている。
 東京式では「二つ」とは回数のことだとして勘平は鉄砲を二発撃ち、二発目は花道に出て鉄砲を構え撃つ。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち「火薬が二倍使われている威力の強い玉」と解釈し一発しか撃たず、花道で撃つこともない。
 『浄瑠璃集』(『新潮日本古典集成』)の注では「二つ玉」について『調積集』を引き、それによれば弾丸と火薬を二発分、銃にこめて撃つことであるとしている。なお十三代目片岡仁左衛門は上方歌舞伎の役者だが、鉄砲を東京式に二発撃っている。「出てきて、一発撃ってきまると、きっぱりする」からだという。
2015.11追記

「五段目」 右より二代目市川九蔵の斧定九郎、五代目澤村長十郎の早野勘平。嘉永2年7月、江戸中村座。国芳画。

五段目余話
 猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。ある大部屋役者が猪役に出ることになり、楽屋で待機していたらうっかり寝てしまった。夢うつつに「シシ、シシ」と叫ぶ声がするので、さあ大変出る場面を過ぎてしまったと大慌てで花道から舞台に向って走り出したらちょうど四段目、判官切腹の場面で猪が飛び出し芝居がめちゃくちゃになった。「諸士」と舞台で言った声が「シシ」(猪)に聞こえてしまったのである。
 ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕の係がお前にも「成田屋」や「中村屋」のように声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろうと思った。いよいよ本番、猪が花道から飛び出した。すると揚幕係がかけたのが「ももんじ屋ッ!」、場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。
 また昔はかなりいい加減なというか、おどけた事も許されていたらしい。十七代目中村勘三郎の話によれば、ある猪役の役者は本舞台に行くと、大道具の松の木に手をかけ「向うに見えるは芋畑、芋でも食ってくれべえかぁ」といって見得をしたという。
 与市兵衛、定九郎、勘平の三人は五段目と六段目で全員死ぬことになる。死ななかったのは、猟師の勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで江戸時代には、次のような川柳が詠まれている。
「五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり」
 与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、京都府長岡市友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない(『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊)。
2015.11追記
 

2.歌舞伎

 はじめは木挽(こびき)町から、葺屋(ふきや)町、堺町など今の中央区日本橋人形町周辺に有りましたが、天保13年(1842)から浅草猿若町(台東区浅草6辺り)に移って猿若三座となりました。落語は猿若に移る前の日本橋が舞台です。

写真左;江戸東京博物館、中村座復元より。 写真をクリックすると大きな写真になります。
右モノクロ図版;『中村座』、「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より

■役者の階級
下立役(稲荷町)中通り(ちゅうどおり)−相中(あいちゅう)−名題(なだい)
 下立役(稲荷町)は大部屋の楽屋で壁際、つまりお稲荷様が祀られている下辺りにしか、控えの場所が無かったので、こう言われた。稲荷町は台詞がない、中通りで初めて一言の台詞がついた。名題、落語家で言う”真打ち”、花魁で言う”板頭”です。しかし歌舞伎の世界では世襲制が守られているので、名題になるのは例外中の例外です。

■千両役者;現在の歌舞伎では、ひとつの公演ごとに配役が決まられるが、江戸時代の役者は1年ごとに興行主である座元と契約し、新たな座組での芝居を披露するのが11月の顔見世興行だった。顔見世興行から一年間のギャラが千両だったのでその様に言われたトップ役者。最初の千両役者は、上方で活躍し、女形芸を確立した初代芳沢あやめ。正徳年間(1711〜1716)のことだった。江戸では二代目市川団十郎が享保6年(1721)に千両役者に登りつめ、以後何人もの千両役者が出た。
 

3.柳島の妙見様(墨田区業平5−7−7)
 正式名称は日蓮宗柳島妙見山法性寺と言います。コロンブスがアメリカを発見した当時に開山したお寺で、震災や戦災で焼け出されるたびに再興されましたが、都の防災拠点を作る為立ち退きの話が出ました。しかし、地元の人達が柳島にあっての妙見様だと言う事で、火が隣に延焼しないようにと高層のビルを造ればと言う事で、9階建ての業平ハイツというマンションを建てて、その1階部分にお堂が入りました。はじめて見るとマンションで利殖をしているお寺さんの様に見えます。この策略で、今でも元の場所、柳島の妙見さんとして続いています。七つ星を紋印しにし、北斗七星を主神にしています。

 右図;名所江戸百景「柳しま」広重画  図をクリックすると大きくなります。
横十間川と北十間川が交わる所に架かる橋が柳島橋。その左に見える赤い塀に囲まれたのが妙見様。中央二階建ての店は料理屋「橋本」、大正12年の震災で倒壊。左方向が隅田川、遠景の山は筑波山で実際はもっと右側に有ります。 09.09図追加

 

4.法恩寺橋
 
墨田区石原4丁目と太平1丁目の間を流れる大横川に架かる蔵前橋通りの橋。 近くにある”法恩寺”からこの橋名が付いています。大横川は現在埋め立てられて大横川親水公園になっていますが、同名の橋が現存します。この近所には日本蕎麦屋は有りません。柳島の妙見さんと直線で1.3km程です。
 右写真:報恩寺橋通り(現在の蔵前通り)すみだ緑図書館蔵 通りの奥、家がきれた辺りに報恩橋の欄干が見えます。明治30年頃 図をクリックすると大きくなります。11年2月追加

 


  舞台の柳島の妙見様から、法恩寺橋、墓所を見て歩く
 

 柳島の妙見さんは京成押上駅を降り浅草通りを東に進むと、柳島橋のたもとに有ります。私が今まで歩いた中で一番お寺さんらしくないお寺さんです。しかし、中にはいるとその雰囲気は流石、名代のお寺さんです。ここの神様は七つ星の「北辰妙見大菩薩」。そのお使い姫は”白蛇”です。この白蛇にお目にかかれると”吉”だと言われ、参拝人は境内中見て回ったとの事です。最近まで二匹飼っていましたが、一匹は家出し行方知れずになり、残りの一匹は死んで剥製(下写真)になってしまいました。木に巻き付いた白蛇が今もあります。日当たりが悪くなって住みづらくなったようです。落語に関する「昔はなし 柳塚」や「桂家元 故六世文治之碑」が有ります。
 柳島橋を渡って川づたいに一方通行を南に行くと、有名な萩寺、その先には亀戸天神が有ります。帰りはJR錦糸町か亀戸に出れば楽しいでしょう。

 法恩寺橋は蔵前橋通りに架かった橋ですが、今では橋下の大横川が埋め立てられて親水公園になっています。ザリガニ釣りの親子や散歩する人、アゲハチョウに見とれる人、様々な楽しみ方をしています。付近は繁華街ではないので、蕎麦屋、食べ物屋さんやコンビニも有りません。今日は良い日なのでしょうか、雨も降らず、かんかん照りです。浪人風の男にも出会えませんでした。

 前回、「佐々木政談」の取材で訪れた谷中霊園に今回も行って来ました。この霊園はいつ行っても人出があります。花束を持った墓参の人より、メモや案内図を持って散策する人達が目立ちます。そーです、私もその一人です。今回は超有名人ですからお墓の場所も特定されていますので迷わずに行く事が出来ました。同じような形の高さ1.5m位の墓石が二基並んで建っています。向かって左が「中村家の墓」(昭和の建立)、右が「贈 大講義中邨仲蔵命之墓」(明治19年12月建立)です。中村が中邨になっていたので一度は通りすぎてしまいまた (~_~;) ハイ。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。   

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

柳島の妙見様(墨田区業平5−7−7)
妙見堂の正面はウイスキーのボトルを連想させるデザインで、入り口は自動ドアーの最新機構です。内部は伝統的なお堂で、昔からの歴史を感じさせます。
妙見様正面
「葛飾北斎辰政翁顕彰碑」が建つ正面入口です。多くの妙見さんを描いた北斎の記念碑です。
2013.1.追記
妙見様の白ヘビ
 このヘビを見ると縁起がイイと言われた白ヘビの剥製です。
 若奥様に聞くと「私が懐妊するときに、普通のヘビですが本堂前にいるのを見たことが有ります。まだ、何匹かいるのでは無いですか」。その御利益で身ごもったのでしょうか。数年前の楽しい話です。
2013.1.追記
法恩寺橋
墨田区石原4丁目と太平1丁目の間を流れる大横川に架かる蔵前橋通りの橋。川は整備されて公園となっています。趣のある親水公園です。 近くにある法恩寺(墨田区太平1−26)から、この名前がきています。
中村仲蔵の墓所(台東区谷中霊園、「甲1号11側」)
最近の墓石の表示は戒名で表されているのが多く、その前に立っていても分からず?のまま帰ってくる事があります。この様に実名(または芸名、通称)の方が第三者が訪れても墓参ができて、親切の様な気がします。

                                                         2002年5月記

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