春風亭小朝の噺、金子成人作「元禄女太陽伝」(げんろく_おんなたいようでん)によると。
金子成人(かねこ なりと、1949年1月15日 - )「元禄女太陽伝」作者。脚本家。長崎県出身。長崎県立佐世保南高等学校卒業。倉本聰に師事し、1972年『おはよう』(TBS)でデビュー。第16回向田邦子賞(1997年度)受賞。 この落語は新作の噺になりますが、小朝が粋にまとめて堪能させてくれます。
1.吉原
まずは、落語「五人廻し」の胸のすく、志ん朝の啖呵から・・・吉原の状況を。
実録のホンのさわりは、
周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅2間(3.6m)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿いの日本堤のみと、外界から隔絶されていた。城郭も遊廓も堀を巡らして同じ造りなのでこの様に呼ばれた。遊女には花魁(おいらん)・新造(しんぞ)・禿(かむろ)などの身分があり、見世にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大見世)から、路地裏にある小見世までの序列があった。大見世は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなかったという。遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなって、文化の発信地となった。吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもないが、文化・流行の発信地という側面も持っていた。遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあった。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や、十八大通などと呼ばれた札差(蔵前の両替金貸し)たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。
「北廓月の夜桜」香蝶楼国貞画 吉原大門を表から見た図。中央の桜並木の通りが仲之町。入って直ぐ左が伏見町。通りに見える建物は見世ではなく、引き手茶屋です。
■伏見(ふしみ)町一丁目;伏見町は小さくて丁名はありません。大門を入って直ぐ左に入る路地があります。その道に面した所が伏見町。大見世は無く格が落ちる小見世ばかりが並んでいた。
■栄澄楼(えいずみろう);これも架空の妓楼ですから深く詮索しません。大石主税(ちから)の最初で最後の登楼を何でこんな小見世で過ごさせたのでしょうね。私だったら連れて行った2人のセンスを疑います。
■大門(おおもん);吉原に入る唯一の出入り口にあった門。江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には鉄門が築かれたが、明治44年(1911)の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去された。
■遊女は門外に出られない;大門の脇には会所があって、遊女の脱走を警戒していた。見世で発行する通行手形を持っていれば、お熊こと小春のように例外扱いが出来た。
江戸時代・元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件については、加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不満とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(1703年1月30日、実際は明け方であったから15日)の本所・吉良邸への討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した。そのため、その後の浪士たちは幕命により切腹し、泉岳寺に葬られた。
詳しくはウィキペディア (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E5.90.89.E8.89.AF.E5.AE.B6.E5.B1.8B.E6.95.B7.E6.9B.BF.E3.81.88 にあります。
■大石内蔵助(おおいしくらのすけ);大石良雄。享年44歳。万治2年(1659)、大石良昭の長男として生まれる。幼名は松之丞。
延宝元年(1673)9月6日、父良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。またこの年に元服して喜内(きない)と称するようになる。延宝5年(1677)1月26日、良雄が19歳のおりに祖父良欽が死去し、その遺領1,500石と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぐ。また赤穂藩の家老見習いになり、大叔父の良重の後見を受けた。延宝7年(1679)、21歳のときに正式な筆頭家老となる。天和3年(1683)5月18日には良雄の後見をしていた良重も世を去り、独立した。
しかし平時における良雄は凡庸な家老だったようで、「昼行燈」と渾名されていたことは有名である。貞享4年(1686)には豊岡藩京極家筆頭家老、石束毎公の18歳の娘りくと結婚。元禄元年(1688)、彼女との間に長男松之丞(後の主税良金)が誕生。さらに元禄3年(1690)には長女くう、元禄4年(1691)には次男吉之進(吉千代とも)が生まれている。
右図;良雄をクリックすると大きくなります。
「大石良雄切腹の図」部分 熊本藩の江戸屋敷においての切腹状況図。
■大石主税良金;大石良金(おおいし_よしかね)主税(ちから)、元禄元年(1688) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日)は、赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進、大石大三郎。また妹に大石くうと大石るりがいる。左絵図;「大石力弥」豊国画
右写真;有名なベアト撮影「東京・高輪 薩摩藩邸」(1860年代)。幕末の薩摩屋敷だと言われますが間違いで、現実は「島原藩下屋敷」(現・慶應義塾大学)で、右手坂上は伊予国松山藩の中屋敷(現・イタリア大使館)、中央の坂は「綱坂」と呼ばれる急坂で現在の三田2丁目辺り。この坂上のイタリア大使館が良金終焉の地、三田中屋敷です。
■吉良義央(きら よしなか) 1641〜1702 官名「上野介」(こうずけのすけ)。徳川幕府の高家筆頭。領地三河国幡豆郡(はずのこおり。愛知県一色町(いっしきちょう)、吉良町(きらちょう)、幡豆町(はずちょう)を含む)。忠臣蔵の敵役で憎まれ役。吉良上野介と呼ばれることが多い。
3.言葉
■瓦版屋(かわらばんや);古くは大阪夏の陣の報道、近くは明治中期まで、新聞にとって替わられてしまうまで様々形態を変えつつも庶民の身近なメディアとして存在したのが瓦版であったとされる。実際に土を固めた版を用いた摺りものもあるが、この種の摺りもののほとんどは木版によるものであった。しかし、浮世絵や書物の版木のように精緻なものでなく、一見粘土板を用いたと思われるような粗悪なものであることが瓦版と称される摺りものに共通していることといえよう。
■本所松坂町(ほんじょ_まつざかちょう);赤穂浪士の討ち入り先、吉良邸があった地。現在の墨田区両国2〜3丁目の内。吉良邸跡(墨田区両国3−13 本所松坂町公園)が残っています。
■永代橋(えいたいばし);両国橋、新大橋、に続いて隅田川の最下流に架かった3番目の橋(千住大橋は含まず)。南には佃島から富士山、北には筑波山まで眺望できた、景色が美しい橋として名が高かった。
「現・永代橋の架橋工事」 大正15年11月の施工風景、現在の溶接ではなく、あらかじめ作ったパーツをリベットで止める方法で組み立てている様子です。鳶職の動きのよさと現場で図面を見ている監督らしき人の服装からこの時代の風情が見受け
られます。
■上州高崎(じょうしゅう_たかさき);現在の群馬県高崎市。江戸から出て中山道の要衝、諏訪に抜ける中山道と越後に抜ける街道の分岐点として賑わった。
この屋敷の西隣にある両国回向院で態勢を整えるために集合する事になっていましたが、山門を開けてもらえず、やむなく、その西にある両国橋東詰めに集合します。ここで死者が無かった事と義央の首を取った事を祝い、勝ち鬨を上げながら橋を渡ろうとすると、幕府管理の橋のため渡る事が許されず、雪道の中、南に下り一の橋を渡り新大橋を右手に見ながら、永代橋にさしかかります。現在もこの道は現存していて、体験する事が出来ます。
永代橋際でたまたまちくま味噌店の上棟式があり祝っている所にこの一行が招き入れられました。店主が俳友の大高源吾との付き合いがあり、招待されて粥や甘酒を振る舞われました。その後、永代橋を渡って泉岳寺に向かいます。街道筋には、この偉業を知った大勢の江戸っ子が祝福を送ったと言います。
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2010年12月記 |
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