落語「元禄女太陽伝」の舞台を歩く
   

 

 春風亭小朝の噺、金子成人作「元禄女太陽伝」(げんろく_おんなたいようでん)によると。
 

 名前をお熊、上州高崎の在、5人兄弟の末っ子、家が貧乏なで口減らしの為、高崎の宿に奉公に出されていた。江戸からの風聞によれば、吉原と言う所があって、おもしろおかしく暮らせて、着るもの食べるものに不自由しないと聞き取った。お熊さん転職を考え、どうしても吉原に行きたくなった。当時は直接行けないので、女衒(ぜげん)に頼んだが、女衒も手を引きたいようなお熊さんだった。炊事洗濯何でも出来るし、その間にお女郎さんをやらせてくれればいい、その上給金無しで良いとの提示で渋々吉原へ。

 吉原の伏見一丁目栄澄楼の主人が喜んで引き取った。左右が繋がった眉を真ん中で分断、名前を小春と付けて見世に出て2年。頃は元禄の15年12月。

  3人の男が大門に向かって歩いていた。若侍が「男に生まれているので、これ以上男にならなくても良い」と、気が進まないのを2人が説き伏せて、これも討ち入りの稽古だという。「本所松坂町にも頑強な門があり、ここ吉原でも大門を入らなくてはならない。対する女性を組臥して初めて男でござる」、何か丸め込まれたようだ。侍では困るので、幼少松之丞(まつのじょう)様と言われたので、下谷車坂町の松吉という町人になって登楼する事になった。
 小春に声が掛かり、「若くて、いい男で、侍ではなさそうだし、女は初めて」だという。二つ返事で部屋に行くと、いい男が待っていた。松吉だと紹介された「松っぁんと言えば松の廊下、そこでの刃傷事件、その結果仇討ちはあるだろうと話していたが、無いところをみると諦めたんだろうね。」ムキになって否定する松っぁん。「あんた、初めてなんだってね。大丈夫よ」、「かたじけない」。この言葉で侍だとばれてしまった。が、目出度く同衾。
 この松っぁんは、大石内蔵助(くらのすけ)の息子主税(ちから)であった。

 翌朝、「また来てね」、「もうこられないのです」、「なんか気になる事があった。この眉でしょう。朝になると繋がっている事があるの」、「そんな事ではなく、西方にまいります」、「縁起の悪い事言わないで。そう、夜の事で心配しているの、大丈夫よ、ちゃんと男にしてあげたから」。

 それから、2日後、世話をしてくれた女衒が、いざこざからドスで刺されて亡くなった。吉原の遊女は門外に出られないが、小春は別格。自分の意志で吉原に来たのだし、たとえ戻らなくても良いという待遇だったので、世話をしてくれた恩人だった女衒の通夜に出た。
 翌朝は一面の雪。吉原に帰ろうと永代橋にさしかかると、大勢の人だかり。赤穂浪士の討ち入りだと分かった。その中に松っぁんを見付けてエリの文字を読んだ「赤穂浪士、大石主税(しゅぜい)、ム?、税務署の人だったんだ」、「主税は”ちから”と読むんだよ。大石内蔵助の息子主税だよ」。大声で声を掛けた「松っぁん、敵討ちが出来て良かったね。こないだの晩も良かったよ。また来てね」。顔を紅らめて通る主税であった。

 とって返して、吉原の瓦版屋に飛び込み早刷を江戸中に配った。『大石内蔵助の息子主税を男にしたのは、伏見一丁目栄澄楼の小春です』、もらった江戸っ子連中は我先に小春の元に押し寄せた。運良く逢えた客は「えぇ、お前が小春?触らなくても良い。でもお前は運が良い女だな。まるで鬼の首を取ったみたいだな」、「いいえ、取ったのは吉良の首」。


右図;豊国画「江戸名所 百人美女」 永代橋にいた美女ですが、まさか小春さんではないでしょうね。


 金子成人(かねこ なりと、1949年1月15日 - )「元禄女太陽伝」作者。脚本家。長崎県出身。長崎県立佐世保南高等学校卒業。倉本聰に師事し、1972年『おはよう』(TBS)でデビュー。第16回向田邦子賞(1997年度)受賞。 この落語は新作の噺になりますが、小朝が粋にまとめて堪能させてくれます。

1.吉原

 「新吉原江戸町二丁目丁子屋之図」清長図 大見世の調理場を描いていますが、大忙しのようです。この様な所で小春さんは、おさんどんの手伝いもしていたのでしょうか。いえいえ、栄澄楼は小見世ですから、こんな立派な調理場はありません。

 まずは、落語「五人廻し」の胸のすく、志ん朝の啖呵から・・・吉原の状況を。
 「そもそも吉原というものはな、庄司甚内というお節介野郎が江戸に遊廓がないといけないと公儀へ願って出て元和三年に初めて許されて吉原というものが出来たんだ。はじめっからここにあったんじゃねえんだゾ。初めは、日本橋葺屋町二丁四方に有ったんだ。その時分には江戸町一丁目、二丁目、それに京町一丁目、二丁目、角町だ。五丁町だったんだ。こっちに移ってきてからは、そこに揚屋、伏見に堺に仲之町が加わったが昔を偲んで五丁町と言うんだ。はばかりながら、この俺は吉原に大見世が何軒あって、中見世が何軒あって、小見世が何軒あって、女郎の数が何人で、どこの女郎がどこから住み替えをしてきていつ年期(ねん)が明けて、だれが真夫(まぶ)に取られているか分かっていらぁ〜。横丁の芸者が何人いて、誰がどういう切っ掛けで芸者になったのか、どんな芸が得意なのか、そんな事も知ってるヨ。
 雨が振らぁ〜、雨が。どこん所と、どこん所に水溜まりが出来るか知ってるゾ。テメエなんぞ水っ溜まりに足を突っ込むだろう、はばかりながら俺なんぞ目をつぶっていても水っ溜まりに足をへえれずに歩けるんダ。水道尻にしてある犬の糞だって黒がしたものか、ブチがしたものか、白がしたものかハジから匂いを嗅ぎ分けるというおぁ兄さんダ。べらぼうメ。まごまごしやぁがると頭から塩つけてかじっちゃうぞ、こん畜生。」
(女郎の来ない客が、強がりを言って若い衆にクダをまいています)

 実録のホンのさわりは、
 幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられ移転。直後、明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北廓(ほっかく)」の異名もある。

 周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅2間(3.6m)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿いの日本堤のみと、外界から隔絶されていた。城郭も遊廓も堀を巡らして同じ造りなのでこの様に呼ばれた。遊女には花魁(おいらん)・新造(しんぞ)・禿(かむろ)などの身分があり、見世にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大見世)から、路地裏にある小見世までの序列があった。大見世は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなかったという。遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなって、文化の発信地となった。吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもないが、文化・流行の発信地という側面も持っていた。遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあった。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や、十八大通などと呼ばれた札差(蔵前の両替金貸し)たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。
  ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典より加筆訂正
 吉原遊廓については、何冊もの資料が出ています。で、概略をウィキペディアからとりました。また、より詳しい記述は写真も含め http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E9%81%8A%E5%BB%93 ここにもあります。

 「北廓月の夜桜」香蝶楼国貞画 吉原大門を表から見た図。中央の桜並木の通りが仲之町。入って直ぐ左が伏見町。通りに見える建物は見世ではなく、引き手茶屋です。

伏見(ふしみ)町一丁目;伏見町は小さくて丁名はありません。大門を入って直ぐ左に入る路地があります。その道に面した所が伏見町。大見世は無く格が落ちる小見世ばかりが並んでいた。

栄澄楼(えいずみろう);これも架空の妓楼ですから深く詮索しません。大石主税(ちから)の最初で最後の登楼を何でこんな小見世で過ごさせたのでしょうね。私だったら連れて行った2人のセンスを疑います。

大門(おおもん);吉原に入る唯一の出入り口にあった門。江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には鉄門が築かれたが、明治44年(1911)の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去された。

遊女は門外に出られない;大門の脇には会所があって、遊女の脱走を警戒していた。見世で発行する通行手形を持っていれば、お熊こと小春のように例外扱いが出来た。


2.忠臣蔵

 
吉良邸からの引き上げの図」部分 吉良邸跡の掲示板より

 江戸時代・元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件については、加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不満とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(1703年1月30日、実際は明け方であったから15日)の本所・吉良邸への討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した。そのため、その後の浪士たちは幕命により切腹し、泉岳寺に葬られた。
 この一連の事件の題材をとってできた物語の、総称として”忠臣蔵”と使われる。この名称は本事件を題材とした人形浄瑠璃と歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびそこから派生したさまざまな作品群の総称です。

詳しくはウィキペディア (Wikipedia)  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E5.90.89.E8.89.AF.E5.AE.B6.E5.B1.8B.E6.95.B7.E6.9B.BF.E3.81.88 にあります。

大石内蔵助(おおいしくらのすけ);大石良雄。享年44歳。万治2年(1659)、大石良昭の長男として生まれる。幼名は松之丞。 延宝元年(1673)9月6日、父良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。またこの年に元服して喜内(きない)と称するようになる。延宝5年(1677)1月26日、良雄が19歳のおりに祖父良欽が死去し、その遺領1,500石と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぐ。また赤穂藩の家老見習いになり、大叔父の良重の後見を受けた。延宝7年(1679)、21歳のときに正式な筆頭家老となる。天和3年(1683)5月18日には良雄の後見をしていた良重も世を去り、独立した。 しかし平時における良雄は凡庸な家老だったようで、「昼行燈」と渾名されていたことは有名である。貞享4年(1686)には豊岡藩京極家筆頭家老、石束毎公の18歳の娘りくと結婚。元禄元年(1688)、彼女との間に長男松之丞(後の主税良金)が誕生。さらに元禄3年(1690)には長女くう、元禄4年(1691)には次男吉之進(吉千代とも)が生まれている。 右図;良雄をクリックすると大きくなります。

 「大石良雄切腹の図」部分 熊本藩の江戸屋敷においての切腹状況図。

大石主税良金;大石良金(おおいし_よしかね)主税(ちから)、元禄元年(1688) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日)は、赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進、大石大三郎。また妹に大石くうと大石るりがいる。左絵図;「大石力弥」豊国画
 元禄14年(1701)3月14日、松の廊下事件時は、良金は数え年で14歳であり、元服前だった。享年十六。最年少の浪士だった。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。家老になっていたら、父以上の能力があったといわれた。
 15日未明、47名の赤穂浪士は本所松坂町・吉良義央の屋敷へ討ち入り、良金は裏門隊の大将を務めた。半刻(はんとき=1時間)の激闘の末に浪士たちは吉良を討ち取り、本懐を果たした。赤穂浪士一行は泉岳寺へ引き上げ浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。
 良金と堀部武庸(堀部安兵衛、享年34)、大高忠雄(俳人の大高源五、享年32)ら10名と共に松平定直(久松松平家・伊予松山藩)屋敷*へ預けられた。翌元禄16年(1703年)2月4日、公儀により赤穂浪士へ切腹が命じられ、良金は同家お預けの10人のうち最初に切腹を仰せ付かった。松平家家臣波賀朝栄の介錯で切腹。切腹当日は将として最期まで扱われ、若年にも関わらず堂々として余裕ある態度に、検視役人が泣いたという逸話がある。父親良雄とは別々の場所で切腹した事になります。
 当時としては大柄であり、身長は五尺七寸(172cm前後)あったという。身長145cm程度が平均身長といわれた時代なので、弁慶さながらの大男に見られたそうで原元辰の堀部武庸宛書簡に「主税、年ぱいよりひね申し候」というくだりがある。若いが、早くからしっかり者であった。
 * 伊予松山藩邸;松平久松隠岐守定直三田中屋敷。港区三田二丁目、慶應義塾大学北側のイタリア大使館を含む地。

 右写真;有名なベアト撮影「東京・高輪 薩摩藩邸」(1860年代)。幕末の薩摩屋敷だと言われますが間違いで、現実は「島原藩下屋敷」(現・慶應義塾大学)で、右手坂上は伊予国松山藩の中屋敷(現・イタリア大使館)、中央の坂は「綱坂」と呼ばれる急坂で現在の三田2丁目辺り。この坂上のイタリア大使館が良金終焉の地、三田中屋敷です。
写真をクリックすると大きくなります。

吉良義央(きら よしなか) 1641〜1702 官名「上野介」(こうずけのすけ)。徳川幕府の高家筆頭。領地三河国幡豆郡(はずのこおり。愛知県一色町(いっしきちょう)、吉良町(きらちょう)、幡豆町(はずちょう)を含む)。忠臣蔵の敵役で憎まれ役。吉良上野介と呼ばれることが多い。
 義央の読みは従来「よしなか」とされていたが、愛知県吉良町の華蔵寺に収められる古文書の花押などから、現在では「よしひさ」と考えられている。
 右写真;吉良義央像。松坂町公園の写真より、華蔵寺の御影堂(みえいどう)に祀られている木像。

 

3.言葉
女衒(ぜげん);女衒は吉原に限った商売ではないが、天保期(1830-1843)に吉原へ遊女を売った女衒は山谷田町(遊郭外)に15軒ほどあった。その中でも三八という者が経営する近江屋は規模が大きな女衒屋だった。
 地方の女衒を山女衒と称す。山女衒の多くは近江屋に属し、誘拐した女児を近江屋へ担ぎ込んだという。山女衒は城下町、宿場町、在郷を物色して歩くのを常としたが、吉原の遊女屋主人から注文を受けることもあり、この時には名古屋、新潟の地へ買出しに向かった。東日本を代表する城下町と湊町であるから、将来性のある女児がいる確率は高い。買出すというのはその土地の女衒から買うことを指し、娘を売らなければ生きていけないような貧窮な家を見付け出し、そこの娘を買ってくるわけではない。
 確かに娘を遊女へ身売りしなければ借金を返せず、一家心中しなければならないという例もあった。吉原へ遊女を供給するのは女衒である。遊女屋主人自ら探し歩くことはなかった。ならば女衒は高く売れる娘を探す。効率よく探し出すには人口の多い土地に限る。運ぶにあたっては小さいほうがいい。どうしたって女児誘拐に向かわざるを得ない。吉原の切見世には年季の明ける歳以上の女郎たちが多くいた。小さい頃に誘拐された者に帰る場所などあるわけがない。身売りする家庭環境にあった娘たちより、もっと悲惨である。
 親の借金から身売りした、例えば百姓の娘などは街道筋の飯盛女になったのではないかと思う。吉原にはこの種の娘はいたとしても少ない部類だったであろう。
 さて、時には遊女屋主人が希望するような女児が近江屋にいる場合もあった。この場合は田舎臭さを抜き江戸風につくった上で、女児をともなって吉原へ見せに行き、値段の交渉をした。女衒屋のほうもこれはと思った女児は寄宿させ、女衒の女房が磨きをかけて垢抜けさせ、女衒の養女として売ることも多かった。
 従って、遊女屋主人と売買契約書(女衒が証文を親元から差し入れさせる形をとる)を交わす際には、女衒が親元となったのである。
「江戸と座敷鷹」 http://sito.ehoh.net/yosiwara4.html より

自分から進んで吉原に;天保期(1830-1843)末に出雲少将の侍妾だったお光という女のことである。出雲少将とは出雲松江18万7千石・九代藩主松平斉斎(なりより)を指す。文政5年(1822)に家督相続し、従四位上権少将。嘉永6年(1853)に遊芸人を招くなど頽廃的であったことから隠居させられている。
 お光は町火消ま組の頭の友蔵という者の娘で、容色芸事とも優れていたという。お光は斉斎が隠居すると、自ら好んで吉原に入り、京町一丁目の岡本屋長兵衛の見世から「思へば」という名で遊女に出た。一時評判となった。だが、お光は最上級の呼出しとはならずに止めたという。
 吉原で呼出しとなれるのは禿(かむろ)の経験者のみと決まっていた。幕末であっても吉原は決まりを崩さなかったのだ。下級遊女の裾野は広がったが、最上級は生え抜きとの制度は崩れなかった。
「江戸と座敷鷹」 
http://sito.ehoh.net/yosiwara5.html より。

 例外中の例外ですから、この様に記録が残るのでしょう。

瓦版屋(かわらばんや);古くは大阪夏の陣の報道、近くは明治中期まで、新聞にとって替わられてしまうまで様々形態を変えつつも庶民の身近なメディアとして存在したのが瓦版であったとされる。実際に土を固めた版を用いた摺りものもあるが、この種の摺りもののほとんどは木版によるものであった。しかし、浮世絵や書物の版木のように精緻なものでなく、一見粘土板を用いたと思われるような粗悪なものであることが瓦版と称される摺りものに共通していることといえよう。
 板行は、草双紙・壱枚絵を扱う草双紙屋がおこなったのであろうが、どのくらいの数が作られたか、その値段はいくらだったのか、どういうルートで販売されたのか等々がまだまだ分かっていません。
 瓦版は読売とも言われ、江戸で盛んになったのは文政12年(1825)佐久間町の火事以降だと言われます。元禄15年(1702)より後になります。しかし、引き札(広告・ちらし)は元和3年(1683)には今の三越が開店セールの一部として大量に発行しています。この頃には引き札は一般的になっていたのでしょう。
 小春が撒いたというのは瓦版ではなく引き札だったのでしょう。
右図;「読売」、当世下手談義より。幕府の規制が厳しく、顔を隠す為笠を深く被っています。
 

 
4.下谷車坂町
下谷車坂町(したや_くるまざかちょう);吉原で主税は松吉という偽名で住んでいたと言う地。現在の台東区東上野七丁目上野駅の東側の地。当時、上野の山に登る為の坂、車坂の登り口にあたった。

本所松坂町(ほんじょ_まつざかちょう);赤穂浪士の討ち入り先、吉良邸があった地。現在の墨田区両国2〜3丁目の内。吉良邸跡(墨田区両国3−13 本所松坂町公園)が残っています。
 詳しくは落語「淀五郎」を参照。

永代橋(えいたいばし);両国橋、新大橋、に続いて隅田川の最下流に架かった3番目の橋(千住大橋は含まず)。南には佃島から富士山、北には筑波山まで眺望できた、景色が美しい橋として名が高かった。
 赤穂浪士が討ち入り後、両国橋を渡る手はずになっていたが、幕府直轄の橋だった為渡れず、本所から隅田川沿いに南下して、永代橋を渡った。この時、四十七士の一人俳人大高源吾は乳熊(ちくま)屋味噌店・店主竹口作兵衛とは其角の門人であった。たまたまこの日は乳熊屋味噌店の上棟式に当たり、店に招き入れ、甘酒や粥を振る舞い、労をねぎらった。大高源吾は看板を書き残したと言われる。

 「現・永代橋の架橋工事」 大正15年11月の施工風景、現在の溶接ではなく、あらかじめ作ったパーツをリベットで止める方法で組み立てている様子です。鳶職の動きのよさと現場で図面を見ている監督らしき人の服装からこの時代の風情が見受け られます。
 ちくま味噌ホームページより http://www.chikuma-tokyo.co.jp/index.html 写真右側に当時のちくま味噌が見えます。

上州高崎(じょうしゅう_たかさき);現在の群馬県高崎市。江戸から出て中山道の要衝、諏訪に抜ける中山道と越後に抜ける街道の分岐点として賑わった。

 



 舞台の両国を歩く


 元禄15年12月14日深夜、47名の赤穂浪士は本所松坂町・吉良義央の屋敷へ討ち入りし・・・、まるで講談の出だしのセリフです。その吉良邸跡に立っています。吉良義央の上屋敷跡8400m
のほんの一部98mですが、有志や区の努力で、当時の面影を残しています。外壁の海鼠壁(なまこかべ)は高家の格式の高さを表していますし、内部にも稲荷や首洗いに井戸が作られています。説明の絵画や資料が多く展示されて見る者を飽きさせません。

 この屋敷の西隣にある両国回向院で態勢を整えるために集合する事になっていましたが、山門を開けてもらえず、やむなく、その西にある両国橋東詰めに集合します。ここで死者が無かった事と義央の首を取った事を祝い、勝ち鬨を上げながら橋を渡ろうとすると、幕府管理の橋のため渡る事が許されず、雪道の中、南に下り一の橋を渡り新大橋を右手に見ながら、永代橋にさしかかります。現在もこの道は現存していて、体験する事が出来ます。

 永代橋際でたまたまちくま味噌店の上棟式があり祝っている所にこの一行が招き入れられました。店主が俳友の大高源吾との付き合いがあり、招待されて粥や甘酒を振る舞われました。その後、永代橋を渡って泉岳寺に向かいます。街道筋には、この偉業を知った大勢の江戸っ子が祝福を送ったと言います。
 当時の永代橋は現・永代橋から数十m手前の上流に架かっていますが、当時の木橋はこのちくま味噌店があった所に架かっていました。当時の永代橋は戦略上真っ直ぐな道は作らず、渡ると直ぐにT字形にぶつかっていました。その地にちくま味噌店があったのです。現在も冬の時期限定で甘酒が売り出されます。
 この説明はちくま味噌・竹口敬三社長の、ご協力を得たものです。ありがとうございました。
 小春さんとはこの辺りですれ違ったのでしょう。歴史的舞台に立ち会った事になります。


地図

   地図をクリックすると大きな地図になります。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

下谷車坂町(台東区上野七丁目、JR上野駅東側)
 江戸時代は当然上野駅はなく、駅から西側は上野の山で寛永寺の寺領でした。上野の山に上る急な坂道が車坂で、その下の町が車坂町です。ここは下谷ですから、下谷車坂町と呼ばれていました。
 写真左側が上野駅、右側が上野七丁目の街並みです。

吉良邸跡(墨田区両国三丁目13−9)
 え? こんな小さい屋敷が吉良邸? いえいえ、カメラの後ろの一画も含めて吉良邸跡です。民家が建ち始めその跡が分からなくなると言うので、後世のため有志がこの土地を買い取り、昭和25年から区が公園として管理しています。中には復元された「首洗いの井戸」や「稲荷」があり、資料が塀一面に飾られています。

回向院ネズミ小僧墓(墨田区両国2−9回向院内)
 この回向院で義士達が集合して体勢を立て直して泉岳寺に向かう予定でしたが、開門されず、やむを得ず両国橋東詰めに集合した。
 写真は回向院境内にある有名なお墓の一つで、ネズミ小僧の墓です。この墓石を削って持っていると、勝負運が付くと言われ、削りに来る人が今でも絶えません。

勝海舟生誕の地(墨田区両国四丁目25両国公園)
 吉良邸跡の東隣には両国小学校があり、芥川龍之介が学んだ地だと言います。またその東隣は幕末の幕臣で江戸を無血開城した立て役者のひとり勝海舟が生まれ育った地です。現在は両国公園として開放され石碑が建ています。

永代橋(えいたいばし)
 橋の左岸、水面が光っている所にある黒いビルの、奥の大きな白いビルがちくまビルです。
 乳熊屋の初代作兵衛は風流の道を嗜み宝井其角に師事し、赤穂浪士の一人大高源吾とは俳諧の友であった。本懐を遂げ引上の途上、永代橋に差し掛かったとき彼等一行を店に入れ、上棟の日でもあったので甘酒・粥を振る舞って労をねぎらった。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残して行った。これが大評判となり江戸の名所の一つになった。

吉原見返り柳(台東区千束四丁目10ガソリンスタンド前)
 遊廓吉原への入口に立つ柳です。写真右側の道が吉原入口の大門に繋がる衣紋坂です。S字形に曲がっていて、直接外から吉原が覗けないようになっています。

伏見町(台東区千束四丁目11。吉原大門をくぐって最初の路地を左)
 吉原の中でも狭い路地を入るとそこは・・・、当然道幅に比例した見世しか無かったことでしょう。現在も、住宅があるとか風俗店があるとか、色づけのはっきりしない雑多な街になっています。

                                                 2010年12月記

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